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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.07】「青森県産野菜」を世界へ発信する六次産業化のパイオニア/柏崎青果(青森県)社長の柏崎進一さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.07】「青森県産野菜」を世界へ発信する六次産業化のパイオニア/柏崎青果(青森県)社長の柏崎進一さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2017年12月11日公開

この土地である必然性から、すべては始まっている。
それ無しには続かないし、発展もない。

有限会社 柏崎青果(青森県おいらせ町)
代表取締役 柏崎 進一 Shinichi KASHIWAZAKI

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.07)
公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.07 )
 青森県おいらせ町に本社を構える有限会社柏崎青果(1991年設立、従業員82名、資本金6,000万円)は、「青森県産野菜」を世界へ発信する、六次産業化のパイオニアである。野菜主体の個人経営を規模拡大し、1991年に設立。1993年に加工部門を立ち上げ、規格外となる「すそもの」野菜の活用に取り組み、長芋、にんにく、ごぼうなど、野菜の生産から加工・流通・販売まで手掛ける。あおもり元気企業チャレンジ助成事業を活用し、安全・安心な農産物の提供と、生産・加工・流通の確立を目標に、2007年より青森県産にんにくを使用した高付加価値商品「熟成おいらせ黒にんにく」を製造・販売。県内の同一製造業者9社と連携し、協同組合青森県黒にんにく協会を設立。統一ロゴ「青森の黒にんにく」で拡販、2015年7月に地域団体商標を登録。青森の黒にんにくは世界20か国以上に輸出され、スペイン、デンマークなどの三ツ星レストランで多数採用されている。経済産業省中小企業庁「がんばる中小企業・小規模事業者300社」(2015年)認定、フード・アクション・ニッポン・アワード2015「インバウンド賞」等を受賞。そんなオンリーワン企業の柏崎青果がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の柏崎進一さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。


◆ はじめ本気で貧しかったがために皆、頑張った

 うちがオンリーワン企業かどうかはわからないんだ。ただ、私はずっと農家だった。私が小さかった頃、この地域(上北地域の海岸沿い)の農家は、特に貧しかった。まさに岩手の宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の一節、「寒サノ夏ハオロオロ歩キ」(やませの影響で、常に冷害の脅威に晒されている地域)だ。米を植えてもさっぱり穫れない、お金のない地域だった。十和田や津軽の方は田んぼが昔からたくさんあって「米千俵」と言われたけど、うちらで千俵なんてとんでもない話で、百俵、二百俵しかとれなかった。ここは痩地だったから、この辺りの農家は雑穀や大豆、菜種等を植えていた。夏以降じゃないと、ジャガイモが獲れなかったから、現金収入を得られるのは8月以降。すると、現金が足りない。だから、わずかな米を少し貯蔵して少しずつ売ったり、うちの父親も日雇いの仕事をしながら生活をしていた。そんな農家が全体的に多かった。

 うちらの世代は「それじゃあ駄目だ」と思った。そこで、私が農業高校(青森県三本木農業高等学校)を出て、栃木県で農業を勉強し、ここに帰ってきた時(約50年前)、何をやったかと言うと、以前より3ヶ月も早く現金収入を得られる農業形態をこの地域に導入した。具体的には、露地栽培しかなかったこの地域にマルチ栽培やトンネル栽培を導入することで、レタスや大根、ニンジン等の野菜が栽培でき、5月から現金収入を得ることができた。マルチやトンネルはわかる?ハウスとは違うよ。畑の土の表面をビニールフィルムで覆う素材を「マルチ」と言う。「トンネル」はハウスよりも小さいやつね。始めは少なかったけど収入が少しずつ入ってきて、生活が徐々に楽になった。この地域では画期的な農業の時代が到来した。

 ところが野菜を栽培し始めて、何が足りなかったかと言うと、畑ができていなかった。この辺りは一番軽い火山灰しか降ってこなかった火山灰土壌だから、例えば、リン酸を20kg撒いても2、3kgしか吸収されない痩地だった。ジャガイモや雑穀、豆類等は痩地でも栽培できたけど、それでは大した収入にならないから、野菜を始めたのに、畑ができていない。そこで畑を肥沃にするために、堆肥づくり運動やリン酸を入れる運動を色々行った。10年も20年もずっと土づくりをして、ようやく何をつくってもよい畑になった。皆で一生懸命投資して、厳しい自然環境を克服したがために、今では、青森県が東北一の農業生産額になった。特にこの辺りの上北農業は、稲作では飯を食えない地域が頑張った結果です。

 今では、青森県には日本一の野菜が3つもある。ひとつは長芋で、国内生産量の約35%を占め、北海道と同程度。いつも北海道と競争しているのさ。もうひとつがごぼうで、これも約35%。にんにくは70%でダントツの日本一だ。にんにくに関しては、2006年、2009年、2012年に90数億円だった年間販売額が、今では176億円になった。それは、地の利を活かした作物が根付いたのさ。つまり、黙って農作物ができるわけでない苦労した県が、這い上がって今、野菜の一大産地になっている。それがここ50年間の軌跡で一番大事なことだよ。それを抜きにして「うちが何した、これした」って言ったって、誰もわからない。はじめ本気で貧しかったがために皆、頑張ったのよ。だから、よいわけだ。

― 青森県が東北一の農業生産額を誇る、にんにく・長芋・ごぼうの一大産地になったのは、厳しい自然環境を克服した、長年に渡る先人達の苦労と膨大な努力の結果なのですね。

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青森県の主要生産物であるにんにく・長芋・ごぼうの取引先を日本はもとより世界各国へ拡大している。写真は米国輸出用の長芋の出荷準備のようす。米国で長芋は華僑社会を中心に薬膳料理の食材として需要が伸びているという。

 日本トップクラスの野菜が3つもあるって、すごいでしょう。それは、寒いところで育つ「根物」がちゃんと根付いたから。北海道も含めてね。にんにくなんて、その最たる例だよ。青森県の場合、かん水農業ではないから、人工的に水やりすることはほとんどない。かん水する施設すらない、ほぼ昔の自然栽培だ。にんにくの種は9月末から10月の始めにかけて植える。ちょうど今頃(10月末)、芽が出る。これから雪が降ると、まるで布団を被ったみたいに芽の上に雪が積もる。雪のおかげで、マイナス十何度という温度に直接さらされない。とんでもなく雪が深いわけでもなく、程よい雪があるがために、春先になると、その雪解け水を吸って、にんにく自身でぐんぐん伸びていくわけよ。雪も味方になる地の利がある。ここは日本で一番適している部分なの。長芋もそう。秋になれば収穫が始まるけど、すべてを収穫せず、半分あるいは3分の1くらいを残しておく。雪という自然の冷蔵庫があるから、春になって雪が解けてから、また同じものを掘るわけだ。ごぼうも同じ。これら3つの作物は、ちょうど自然を利用して成り立っている部分があるの。


◆ 規格外野菜を活用した商品はなぜ生まれたか

― そのような産地の中にいて、はじめは農家だったとのお話でしたが、どのような経緯で野菜の加工を始めたのですか?

 そんな産地の中にいて、うちらははじめ、農業生産と販売だけをやっていた。常に青森県は原料供給県だった。例えば、ごぼうの漬物なんて、以前は黄色いごぼうが主流だった。青森県から供給したごぼうが関東等で加工されて黄色いごぼうの漬物になり、それがまた青森県に帰ってきて(そのすべてが青森県産とは限らないけど)、うちらが食べていた。原料供給県に甘んじていたの。その商売の続きで加工が始まったのは、うちが原料を供給していた関東の加工会社から「原料の一部を加工してくれないか」と頼まれたのがきっかけだった。中古だったけど、機械まで持ってきてくれた。そんな感じで、はじめは農業生産だけだったのが、生産だけでなく原料を供給し、供給するうちに「一部加工してくれ」と頼まれて、というように段階的に始まったわけさ。

 加工を頼まれたのは野菜の「くず」だった。規格外野菜を使って加工してくださいと。けれども規格外野菜も、また規格をつくることで、使っていない方は余るじゃない。その余った部分をまた使っても、また使ってない方が余る。すると、一本まるまる売らない限りは、ずっーと、必ず余るわけだ。なぜ、こちらに加工の話が来たかというと、関東でゴミ処理が問題になって、こっちではまだ騒いでいない時期だったから、じゃあ長芋の中身だけ関東に持っていきましょうとなった。それで、とろろの原料の加工から始まったの。こっちで長芋の皮を完全に剥いた。けれども、3割も皮を剥かなければ、とろろ用に白くならない。長芋の約7割しか製品にできなかった。はじめ、長芋のゴミは気にならなかったのよ。けれども当時、夏が終われば、季節物のとろろはパタッと終わる。すると余るから捨てなきゃならない。加工すればするほど、捨てるものも多くなる。

 私は、一部は堆肥にもしたけど、ゴミをとりあえず捨てていったの。高い崖の上から、ダンプで毎回トン単位で捨てていた。ゴミを捨てるたびに、ゴミの裾が徐々に広がる様子を崖の上から眺めていた。ある時、ふと崖の下までゴミを見に行ったのさ。そしたら、すんごい量だった。こんなに捨ててたの?って話だよ。安いと言っても3割も捨てるんだよ?さっきも話したように、シーズンが終われば捨てるから、全部で年1,500トン加工したとしても、500トン近くも捨てたことになる。そこから「やっぱり、その次の加工もしないとダメだ。資源にしないといけない」と、始めた経緯があるの。だから今、皆で「6次産業化しよう」と騒いでいる。例えば、スコップ一杯とか50kg、100kgのゴミと言っても、大したことない。それが10トン、300トンとたくさんあれば、「これは資源にしなきゃ」と、ようやくプラスになってくるじゃない。それが原点なのよ。そうじゃないと続かないよ。

― 「こんなに捨てられてしまう野菜がたくさんある。これは何とかしなければいけない」という必然性がなければ始まらないし、継続もしないというのが、原点なのですね。

 にんにくの場合だって、そうよ。芽止め剤が使用できなくなったという経緯があった。以前は、にんにくを1年間流通させるために、芽を出させない薬剤を使って、農家の小屋でにんにくを保存していた。ある時、芽止め剤に発がん性物質が見つかり、生産中止になった。もう大騒ぎしたのよ、にんにくの保存どうしよう!って。それで慌てて、冷蔵庫管理しました。まだ古いにんにくが残っています。次、新しいにんにくができました。冷蔵庫に入れなきゃいけないけど、全部入らないです。じゃあ、どっちを選びますか?って、話よ。それで仕方なく、古いにんにくを捨てた。あの時、トラックいっぱいにびっしりと積んで、捨てた。本当に悔しかった。だから、「これは、なんとかしなきゃ駄目だぞ、加工しなきゃいけない」と思ったの。冷蔵庫を使えば必ず同じことになるのだから。今回はトラック1台だったけど、次は何台になるかわかんない。それで今の「にんにくチップ」や「黒にんにく」という加工品の世界に入っていった経緯がある。だから、うちの商品は全部、端材加工が主流。ここに一番あるものからすべて発想しているの。これが、私らが今までやってきたものの大体の流れ。


◆ 余計なものは入れず、素材のよさを引き出す「技」

 それから徐々に、注文が増えていったから、自分たちのつくる加工量は増えていった。うちの商品がそれなりによかったから。

― どのような点に、貴社商品の強みがあったのですか?

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柏崎青果代表取締役の柏崎進一さん。社長室には壁いっぱいに取材記事や賞状などが入った額が並んでいた。

 昔、東京の人は漂白した白いごぼうが好きだった。うちらもごぼうを白くしようと、色々試行錯誤したけど、どうしても白くできない。当時、真っ白なごぼうなら扱ってもらえたけど、黒いごぼうでは話にならなかった。そこで何回も関東の会社に白くする方法を聞きに行ったけど、誰も教えてくれない。もちろん秘密だから。何をやっても、うちのごぼうは白くならなかった。けれども、試行錯誤するうち、素洗いでそれなりになる方法がわかった。それが評価されると同時に、安全・安心が求められる時代に変化し、余計なものが入っていない乾燥品が評価されるようになった。ごぼうを漂白する方法を習得できなかったがために、逆に、それが今では、うちの乾燥品の強みになっている。だって、何もしないのだから。技だけでいい。だから、うちの方法には秘密があって秘密がないんだよ(笑)。うちのは素洗いで、ちょっとした工夫だけだから。

― それも必然性から独自の技が編み出されていったのですね。

 結果、そうなっていったのよ。やれば、なんとかなる。端材は必ず出るから、うちにある端材を使うことから始まってね。今あなたが(取材中に記者が)飲んでいるごぼう茶なんて、その最たるものだよ。ごぼうの皮は、これまで必ず捨てていた。だから、うちのごぼう茶ができた。ただ一本のごぼうを乾燥させただけでは、よい味は出ない。そこにまた工夫がある。泥臭さを感じない程度に、ごぼうの香りを出せるかどうかが、技になってくるわけですよ。

― 泥臭さを感じない、ごぼうの香りがして美味しいですね。

 この味、香り、甘さ、色を出すために、ごぼうの皮の部分や加工の仕方を変えてブレンドしている。ただ単にごぼうを乾燥しているわけではないわけ。ブレンドして香りがどうなるか、甘さがどうなるか、色がどうなるか、ずーっと研究してきた。それが、この味なの。ただの乾燥、焙煎じゃないんだよ。

 捨てていた皮に、栄養が一番あるんだよ。「皮の堺目に栄養があんだから、皮を捨てるんじゃない、丸かじりせい!」って、昔のお婆さんの知恵だ。年寄りの知恵を、活かしているだけ。それを加工しているのが、うちの商品なの。それが、今うちがずっとやっていることの基本。トラックいっぱいのゴミも資源に変えることで、それなりに利益が出てくる。最初の原料が安くても加工にちゃんとつながって、商品単価の数値も全体的に上がってくるじゃない。


◆ よいものは値上げをしても売れる

― 値段のつけ方については、どのようにお考えですか?

 単価設定を皆、間違っているの。私も最初、間違った。うちのスライスごぼう(乾燥品)は最初、一袋100円だった。今はいくらだと思う?200円だ。「柏崎さん、この値段じゃあ買いませんよ」。「いいよ、あんたさんには売らないから」。だって、合わないんだもの。計算間違いをしていたのだから。もともと、スライスごぼうができた経緯は、うちの若い社員が「生のささがきごぼうが欲しい」と注文を受けて、本当は10kgつくるところを100kgも誤って製造したのがきっかけだった。「社長、余りました」。「余ったんじゃない、余したんでねぇか。間違ってつくったのだから。さぁ、どうすっけ」となった。とりあえず乾燥させてみたら、おいしいものができたの。「じゃ、売りましょ」と、はじめ100円で売った。でも後から考えてみたら、100円では合わなかった。120円、150円と値上げして、「あんたのところ、いい値段つけるね」と言われながら、160円でも合わない。それで今は、200円になった。よいものは値上げをしても売れるの。そういう経緯があって、うちの商品がある。

 でも、そんなの当たり前だもの。値段が合わないものをやったって、社員が働けなくなるでしょう?「社長、なんでこんなに高くしたんですか?こんなに高くちゃ売れないよ」と、文句を言う社員には、「タダでもいいんだよ。あんたの給料もタダだから。皆さんの飯の種なんだから、ちゃんと高くして営業しなさいね」って説明する。それって大事なことでしょう?タダじゃあ本当は駄目なんだよ、生きていく糧なのだから。過ぎない程度に適正な値段をつけないと駄目なの。高過ぎれば誰にも売れないし、安過ぎてもうちが赤字になる。そうやって値段をつけていったら、割りと支持されるようになった。


◆ 「青森の黒にんにく」を世界へ。それは自分にも返ってくる。

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青森県産にんにくを独自製法で熟成させてつくる黒にんにく。にんにくを高温・高湿の室に入れ、約5週間熟成させると、にんにく特有のにおいや辛みが抜け、甘くてフルーティな黒にんにくに生まれ変わるという。

 弊社の黒にんにくは、海外の有名シェフが使い始めているの。結果的にはここでつくられたものが、すごいことになってくるわけよ。

― 青森県産にんにくを使用した高付加価値商品「黒にんにく」は、世界20か国以上に輸出され、スペイン、デンマークなどの三ツ星レストランで多数採用されるなど、大きな成功を収めたと伺っています。その成功のポイントとは何でしょうか?

 私は、しつこいからよ(笑)。飽きずに、ずっとやっている。黒にんにくだって、10年、自分が巡り合った最高のものを売っている。そのためには自分の時間をどんどん使う。そして青森県黒にんにく協会を立ち上げて「皆で宣伝しましょう」というスタイルをもってやれば、どこに行ってもうちに強みがある。それは「黒にんにくの普及」という大義があるから。

 黒にんにくは今、世界中の人たちが使い始めている。黒にんにくのキャッチコピー「1日1片、元気の素」を外国の人も覚えてきて英語で言うんですよ。(笑)。「青森の黒にんにくは六片種」というのがだんだん浸透して売れてきた。青森県産のにんにくは粒の大きな六片種で、九州や南の方のにんにくは粒の小さな八片種や十片種なの。その差をうちらが強調して「JAPANESE AOMORI Black Garlic」で売っている。

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青森県黒にんにく協会のポスター。写真左は英語版。

 「青森を売りましょう」、それは自分にも返ってくる。「柏崎の黒にんにく」と言っても、誰もわかんないじゃない。外国から見れば、青森県が日本のどこにあるかはわからなくても、「青森の黒にんにく」は宣伝になる。すべてがうちに来ないけど、それなりに返ってくる。自分だけを売っても仕方ないの。私は必ず展示会に2、3枚、協会のポスターを持参して、わざと貼って宣伝する。社名はポスターに入っていないでしょう?その中で、自分が生きていけるようにする。

 「青森の六片種の黒にんにくを皆で宣伝しましょう」というのが、青森県黒にんにく協会。皆で騒いで、風を起こそうよ。常に発信することで、あんたも取材に来てくれたし、今、テレビや新聞などのメディアの人がここに来るんだよ。さらに海外からも「黒にんにくをつくったから、味を見て欲しい」と来るんだから。ブラジルやオーストラリア、もちろん中国など、色々な国から来るよ。

 そうなっただけで、大したものでしょう?ここ10年、展示会に出たりするだけでなく、黒にんにくの世界サミット、2年連続で2回開催したんだよ。世界サミットにはアメリカやオーストラリア、イギリス、中国、台湾から参加があった。どうせ皆、一番大事なライバルなんだよ。組合員だって、青森県内だって、日本国内だって、世界だって皆、ライバルだ。だけども、裾野を広げるために、皆で騒ぐべきなんだ。

― 皆、黒にんにくの競合他社同士ですが、「一緒にやろう」となるものですか?

 本当は、腹立つんだよ(笑)。欲張りじゃない人は経営者をやっていない。皆、腹の中で「あわよくば」と思っているはずだ(笑)。当たり前じゃない。けれども裾野を広げることによって、自分もちゃんと生き延びるし、それなりの位置にいられるんじゃないの。極端な言い方をすれば、常にトップでなくても、いいじゃない。負けている時もあるかもしれないけど、交流して、よいものは真似して盗んでいけばいい。近づけるために研究するしか無い。負けてウジウジではない。皆一番大事なライバルだ。それでいいんだよ

 それで皆を巻き込み、公的機関も巻き込む。すると、研究者や料理研究家等、色々な人が携わってくる。けれどもしつこくやらない限り、そうはいかない。もちろん、黙って売れる商品もあるんだよ。けれども地道な商売だから、皆でやるしかない。だから、皆で騒ぐべき。それが今、私らの協会がやっていることだ。


◆ 青森県黒にんにく協会が目指すこと

― 青森県黒にんにく協会を立ち上げた理事長として、どのような点を心がけながら、組織運営をされていますか?

 青森県黒にんにく協会では、ここ10年間ずっと、月1回ずつ昼食会をやっているんだよ。皆ライバル同士だから、心の中ではあると思うよ(笑)。でも、けんかは一度もしていない。それは、目標設定をしているの。黒にんにくを普及させるために、何をするか。黒にんにく協会の場合、まず任意団体という形で仲間づくりをしました。次、黒にんにくの商標登録が欲しい。「地域団体商標を取るためにどうする?」と目標ができる。そのために色々な宣伝や資料集め等々をやらないといけない。申請には任意団体では駄目で、協同組合などの法人格が必要だ。金はかかるし決算つくるのも嫌だったから今までは任意団体だったけど、地域団体商標を取るために、協同組合つくる。それで、協同組合を設立し、申請に必要な資料づくりをやった。

 本当は当初、県南のこの辺りの企業6社だけで登録を考えていたの。けれども「せっかく『青森の黒にんにく』と言うなら、他にもつくっている人がいるよ」と言われてね。そこで大義を立てるように青森県全部を網羅し、結果的には9社で「青森の黒にんにく」の地域団体商標を登録した。色々なこと、した、した、した(笑)。ダンボール2箱以上、資料あったもん。でも普通は取得に2年半はかかるところが、1年でぽんと取れた。

 それで、商標登録しました。いや、すごいね。でも、だからどうなるの?地域団体商標を取ったからって、倍、売れるの?売れるわけ、ないじゃない。うちらの自己満足でしか無い。地域団体商標は、ひとつの過程に過ぎない。だから、これにおごることなく発信しよう、というのが、さっき話した「黒にんにくサミット」なのよ。全国で黒にんにくを生産する人達と交流するために、全国サミットを青森県で開こう。それなら、いつがいいか?ちょうど、うるう年があった去年(2016年)だよ。2月29日、「にんにく(2.29)」だ、この日にやろうぜ。それで国内サミットに約300人も来た。同時に「黒にんにく」の日を設定しよう。9月6日を「黒(9.6)い」記念日とし、この日に世界サミットを開催した。そしたら国内外から約500人も人が来てくれた(笑)。

 要するに、食べる人をたくさん増やしましょう、そのための理解者を増やしましょう、という単純な目的よ。皆で騒ぐことによって、黒にんにくの何かが常に動いている状態。そうでなければ一過性で終わるから。だからうちらは地域団体商標登録に始まり、国内サミットを開き、それが世界サミット開催にまでなっている。その前から、研究発表はやっていた。それがあったから、やれる。

 最終的には自分たちが儲かるために、頑張らないといけない。そのためには地域興ししかない。うちらが騒ぐことによって農家も儲かる。最初に話したように、青森県のにんにくの年間販売額が、90数億円から176億円になった。うちらだけがやったとは限らないけど、結果的に黒にんにくのブームを起こしているのだから、加工品がひとつ増えた。すると県の産業のプラスになるじゃない。それに全国から何百人という人が、黒にんにくのためにやって来たり、青森県に観光で来た人が黒にんにくを買って帰る。自分たちの商売のためにやっているのは確かだけど、結果的に、地域へ貢献したと言えるでしょう。加工している人だけが儲かるのではなく、農業生産者が一番先に儲かっているのだから、これを絶やすなと言っている。そのために生産の方も研究しましょう。その"ボールの投げ方"なの。そうしない限りは続かないわけ。

 私はよく言うの、「ベクトルはひとつだ」。何かを示さないと駄目なの。でも、一回示すだけで、大きな山を超えられるかい?という話になる。そこは"じわっ"とやるんだよ(笑)、組織だから。何百年続いているような組織と比べたら、うちらは10年といえども、まだ始まったばかりの組織だ。それを継続させるためには、どうするかだ。業界が古くなればなるほど喧嘩するんだよ。勝ったり負けたり、必ず腹立ってくるじゃない(笑)。でも、裾野を広げてしまうことで、何とかするんだ。

― 裾野の広げ方として、今後どのような展開をお考えですか?

 黒にんにくは今、健康食品として世界中で稼いでいるわけだ。さらに有名なレストランも黒にんにくを使いました。ここまでは、いい。けれども、この辺りの普通の食堂で使われるケースはまだ少ない。今の黒にんにくは健康食品であって、まだ食材としてではないから、食材までいけば裾尾はまだまだ広がる。だから、これからやらないといけないことは、高級レストランのメニューを中堅クラスのレストランへ展開し、最後は町の食堂や一般家庭のテーブルまで、食材としての黒にんにくを普及させなければいけない。そのためにうちらが騒がないといけないの。それが私ら協会の役目だと思う。

― パイ自体が広がれば、内で奪い合うよりも外へ売りに行こうと、自然となりますね。

 この地域の中だけで言えば、先に値段をつけた人より、後から入ってきた人が値段を下げてくるのだから、「この野郎!」って、ものも投げつけたくもなるじゃない(笑)。だけど、そうじゃない。内側でなく外側にボールを投げればいいのよ。そっちにパワーを使った方が、うまく行くと思う。そうでないと「皆のため」という大義を失うんだから。裾野が広がれば、同じ喧嘩でも大したことない、怪我が少ないからよ。変に内で競争しても、それで終わっちゃうじゃない。それでうちが0になって、相手が最高になるかと言うと、そうでもない。個々の戦いでしかないから、何も楽しくない。


◆ 常に何かしてみたいことがある

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新商品「青森県産黒ごぼう入り野菜だしスープ編」。開発商品は50種類を超え、現在も開発中という。

 ところで、この新商品の野菜スープを飲んでみて。野菜8種類(玉ねぎ、キャベツ、にんじん、大根、にんにく、ねぎ、ごぼう、セロリ)と、独自の製法特許技術で開発した「黒ごぼう」も少し入れている。少しでいいのよ。野菜を粉にし過ぎないで粒を残している。塩分は約0.4%で塩も減らしている。子育て中の人にとってもちょうどいい味だ。野菜の甘さが出過ぎるから、塩は0%にはできない。野菜ってすごく甘くて、乾燥させるとその甘さがはっきり出るから。どう?

― おいしいです。野菜の上品なだしの旨味と甘み、そして食感もシャキシャキしてますね。

 はじめは8種類の野菜でだしをつくったんだよ。でも料理をしない人には、なかなか飲まれないじゃない。それでコーヒー代わりにすぐ飲めるように、黒ごぼう入りの8種類の野菜スープにした。にんにくも入っているよ。うまいっしょ?セロリも一生懸命うちでつくったやつ入っているの。国産セロリの粉ってほとんどないから。玉ねぎも自分で植えてさ。もちろん買えるけど、やっぱり自分の味を出したいがために。それは農家だからできるわけ。すべて青森県産野菜でつくろうって。そこは、こだわるしかないじゃない。自分でつくれば全部青森県産だから。とんでもないクズを使って馬鹿なもの混ぜることは、うちはやらない。素材そのもので、できることしかしない。

 最後に味付けは、よそに頼む。それも、ちゃんとしたところに。ごぼうとなれば栃木県、味噌では富山県や静岡県、スープは九州で味付けしている。できれば青森県の中でやりたいけど、技術がない人と一緒にやっても合わないから。格好良くはないかもしれないけど、よいものをチョイスしてやった方がいいじゃない。

― 「こうしたい」という想いを、ものづくりを通じて、具現化し続けているのですね。

 常に何かしてみたいことがある。玉ねぎに関しては、50年前、高校時代に習ったことを、今ようやく販売できるようにまでなった。最後は販売までいかなければ駄目。今は、玉ねぎの皮まで加工しようとしている。玉ねぎの皮には「ケルセチン」という栄養が一番ある。それを使いながら、色々な商品を開発したい。他にも、色々な野菜を植えている。青汁の素になる大麦若葉も植えているし、桑の葉があれば桑の葉を使って、何かプロジェクトをやってみたい(笑)。次から次へと、アイディアが湧いて来る。「自分はこうしたいな」「こうすっか、ああすっか」って。

― 柏崎さんが一番楽しいと思う瞬間は、どんな時ですか?

 ものづくりをしている時が、一番楽しい。だって、どこかで必ずやっているもん(笑)。そのために布石も打つし、会社の台所で味見しながら色々試しているし。高校生の頃から、やっていることは、ずっと変わってないな(笑)。


社長が二十歳だった頃

― 次に、柏崎さんが、二十歳だった頃について、教えてください。


◆ 10代の頃からずっと同じことをやっている

 二十歳より前の話だけど、私、小学生の頃から田んぼの水入れ係だった。自分の小遣いを稼ぐためよ。中学生の時、「最低10年計画で、自分の農業の形をつくりたい。そのために高校に行かせてくれ」と親に頼んだ。高校に進学する人はまだ半分くらいの時代だったから、うちの親父なんか、高校に合格した後に「辞めろ」と言った。その分、労働力になるから。高校は農学校で、トマトなんかをつくって発表するプロジェクトとか、たくさんやっていた。何かをつくって発表したりすることは今と同じだよね。その歳を取った段階のことをやっているだけで、形はずっと変わっていない。だから、10代の頃とほぼ変わらないんだ(笑)。そして高校を出て、栃木の農家に足掛け3年通った。まるまる1年間、丁稚奉公で。農業のすべてをできたわけではなかったけど、やっぱりそれはすごく役に立った。

― 冒頭の栃木で学んだ農業をこの地に導入したお話とつながるのですね。

 栃木県の農家ではハウス栽培を学んだけど、私は、この地域における野菜のマルチ栽培やトンネル栽培の草分けなんだ。農協の人が皆、こぞって私の畑を見に来たんだよ。

― 小さな頃から今日の活動の"原型"があって、「自分の農業の形」をどんどん切り拓いていったのですね。

 ずっと同じパターン。うちには、これしかないから。だから、進歩してないんだ(笑)。今の商品開発だって、その時の遊びの部分だもの。ごぼう茶だって会社の台所でフライパンひとつから試作を始めて、一日ずっと熱中していたら、気づけば低温火傷になってさ(笑)。なんだかんだ言って、自分の打ち込めるものがあるって、おもしろいじゃない。

 二十歳の頃から、ずっとこういう組織運動をしてきたから、人脈だけはあるな。全国まで広がっているから、その中でよいものをやっていけばいいわけ。政治的な農民運動じゃない、ものづくり的な農民運動をしている。その最後のプロジェクトが、黒にんにくなわけだな。私は69歳だからね。100歳まではやれないわけだから、自分の体力の続く限りやれる最後のプロジェクトだと思う。そのためだったら、会社だって私が留守でも何とかまわるようにしておいて、そのために動いた方がいいじゃない。


◆ 日本のお婆さんの技術が世界を制する

 ただ、今は人手が足りない。商品をつくればつくるほど足りない。機械化はかなりしたよ。でもやっぱり最後は人が必要だ。うちは加工で手作業が多いからね。うちに70歳代は大勢いるんです。でも、5年10年後に、その人達がいなくなったらどうするよ?私だって今、69歳だけど、75歳になって一緒に稼ぎましょうという人、同年代で少なくなるじゃない。このまま若い人が来なかったら、あと10年経てば、3分の1の人が完全にいなくなるよ。生産の人も、加工の人も、営業の人も必要なんだ。営業だけいても、生産や加工がいなきゃ、どこかで行き詰まる。世の中だって、加工を含めて色々な生産活動をする人がいなくなったら、大学を出て頭だけで稼ぐ3分の1の層の人たちも必要なくなるわけよ。

 だけど、そうは言いながらも、この青森県がやった加工が海外に渡っているんだよ。切り干し大根もごぼうのささがきも、なんてことない乾燥品が。生ものは海外へ渡れないけど、加工物は渡れる。余計なことはしていない、無添加だから、ハラール認証とか、許可も何も必要ない。つまり、日本の昔のお婆さんの技術が、世界を制するんだよ。それが青森県にはまだまだたくさんある。

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柏崎青果のキャラクター「フデばあさん」。つい最近も香港に出張してきたばかりという。

 うちの商品キャラクターの「フデばあさん」は私の祖母で実在の人。フデばあさんは色々な局面で出て来る。海外にも出張しているんだよ。パッケージデザインも文章も自分の想いでつくる。高校時代も自分でデザインしたり文章を書いたりして、発表していたから。最近は少しずつデザイナーにも依頼しているけど、しばらく時間がかかる。その商品をつくった時の私の想いがあるから。それと、私は"グラデーション"と"斜め45度"が好きだから(笑)、パッケージには必ず入れている。

― ずっと、「こうしたい」という想いをどんどん形にしているのですね。

 だって、できたら、楽しいじゃない。それで、なるべくなら青森県全体のものを使いたい。柏崎青果で生産したのだけ、おいらせ町産だけ使いましょうとなれば、最後は、続かない。「皆のため」にやっている。だから、はじめから私は「裾野」を使います。すると、それが「皆のため」になるでしょう。「皆のため」の方が安定してものが入ってくる。ここにたくさんあるもの、「くず」を使って、「裾野」で、何とか勝負しようと思っている。そうやってA品と同じ単価まで押し上げる。そこが大事。私ら、ずっとそれだけだ。


我が社の環境自慢

― 続いて、改めて、貴社の環境自慢を教えてください。


◆ 原料が目の前にたくさんある産地の中にいる

 それはさっきも話した通り、日本一の野菜が3つもある青森県の産地の中にいることだ。だから原料の入手も楽だし、「青森県産」と限定しても楽だ。原料が目の前にたくさんあることをどう活かしていくかは、まだまだなんだ。あと、寒くて雪が降って大変な時期も、それもまた地の利だから。さっき言ったように、地の利も活かしている。


◆ 高速道路・空港・新幹線・港すべて30分圏内

 ここは交通の便もよい。高速道路のインターもすぐ近くにある。新幹線の駅まで15分、空港まで15分、港まで15分。30分圏内にすべての交通網があるのは全国でもなかなかないことだよ。たまたま仙台よりも便数が少ないだけで、いざとなれば、東京まで3時間あれば行けるから、東京で午前10時からの商談に十分間に合う。だから通勤圏にはならないけど商談圏には入る。地の利はここにもある。


◆ 自社配送網の充実

 荷物の配送網は、すべてできる。今日の昼に出れば、翌朝には東京の店に余裕で商品が並んでいる。大阪には東京経由で行く。そりゃあ25年以上もかけてつくった配送ルートだもの。それだけの配送網を充実させるのは、なかなか自社だけではできないでしょう。


◆ 海外まで行ける会社はなかなかない

 海外まで行ける会社なんか、なかなかないよ。英語できる社員も新しく採用した。私は月1週間も2週間も、商談で海外に行っている。海外出張のついでに、お客さんをまわる。「また行くよ」と言ったら必ずその人を訪ねるんだ。だんだん海外でも顔を覚えてくれる。海外、楽しいんだよ。展示会なんて最高だよ。試食会も、黒にんにくを試食用に切って配ることはせず、興味を持ってくれた人の前で、交流しながら説明するんだ。うちの社員も皆、頑張っているよ。だから県外でも海外でも、私が安心して行ける。会社が心配だったら、外に行けないじゃない。


若者へのメッセージ

―最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代にメッセージをお願いします。


◆ 諦めずに挑戦し続け、出逢いを求め続けること

 諦めず、できるまで何回も挑戦することが大事だ。一発でできるやつなんかいないんだよ。研究だって、10年かかって11年目にようやく花開くかもしれない。常に諦めないことと、出逢いを求めるしか無いんだ。諦めてしまえば次の出逢いは無い。私の場合、石橋を叩く前に、とりあえずやってみる。結果、また戻ってもいいんだ。あとは皆に能力があって活躍できる場があるから、それを早く見つけるしか無えな。最後はやっぱり出逢いなんだよ。人も作物も商品も含めて出逢えなければ、それ以上は進まない。よい出逢いも悪い出逢いも、結局は自分がその出逢いをどう活かすかだ。

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― 柏崎さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 農業と英語、やりたいことを両方叶えられる会社
/日山奈津実さん(入社2年目。青森県八戸市出身)

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海外の商談先とメールでやり取りする日山さん。

 大学生の時に所属していたサークルで、リンゴ農家の支援に携わって以来、農業の役に立ちたいとの想いがありました。また、大学では欧米文学を専攻しており、自分の好きな英語を将来活かしたいと思っていました。この会社は農産物を取り扱い、海外取引に携わる人材を募集していたので、私のやりたいことを両方叶えられると考え、入社しました。

 私は今、好きな英語を活かして、商品の輸出に関わる仕事をしています。海外の商談先とメールをやり取りする中で、当社が扱う野菜に関して、日本語でも、まだまだ知らないことがたくさんあると感じ、日々勉強中です。それを英語で伝えることはさらに難しいですが、野菜の奥深さを感じる毎日です。

 我が社の環境自慢は、社長が海外に積極展開していること。社長のスタンスはこれからの農業が目指すべき姿と共感しています。私の仕事はその海外展開を支える裏方の仕事ではありますが、海外とのやり取りをスムーズに運べた時、やりがいを感じます。黒にんにくをはじめとする当社の野菜の素晴らしさをお客様により伝えられるよう、もっと色々なことを勉強していきたいです。


産総研東北センター創立50周年記念シンポ開催「新技術創出で東北から世界へ」

産総研東北センター創立50周年記念シンポ開催「新技術創出で東北から世界へ」

2017年12月12日公開

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産業技術総合研究所東北センター創立50周年記念シンポジウムのようす=TKPガーデンシティ仙台

 産業技術総合研究所東北センターは、その前身となる東北工業技術試験所が仙台市苦竹の地に設立されてから今年で満50年を迎えるのを記念して、12月1日、シンポジウムをTKPガーデンシティ仙台で開いた。企業、大学の関係者ら約240人が参加した。中鉢良治産総研理事長は「これからもオール産総研で技術シーズを東北地域の企業へ『橋渡し』し、東北の地域産業の発展に向けた取り組みを進めたい」とあいさつした。

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進藤秀夫内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)による基調講演

 進藤秀夫内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)が日本の科学技術政策の動向をテーマに基調講演した。進藤氏は国の施策を紹介した上で、「施策の目的が破壊的なイノベーションにつながっているのか、国際市場を獲得して社会実装できているのか等、本当に成果を出せているのかという視点からの全体見直しが必要という問題意識がある」と語った。

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濱川聡産総研化学プロセス研究部門長による講演

 続いて、濱川聡産総研化学プロセス研究部門長が「産総研東北センターの研究の歴史と役割」と題して講演。現在の東北センターが看板に掲げる「化学ものづくり」技術が、東北工業技術試験所時代に始まった秋田県北鹿地方の新鉱床「黒鉱」の選鉱自動化から進化した流れと最新の技術事例等を紹介した。濱川氏は「産総研最大のミッションは、研究成果の事業化への『橋渡し』によるイノベーションの創出。東北の地の利を活かした新技術の創出により、東北から世界に向けてイノベーションを推進する」と意気込みを語った。その後、(株)宮城化成の小山昭彦社長が「産総研との連携による新素材EXVIEW(不燃透明プラスチック)の開発」、加美電子工業(株)の早坂宜晃専務取締役が「産学連携による革新的塗装システムの開発と事業化」、新東北化学工業(株)の佐藤徹雄会長が「呼吸性内装材商品化の原点は産総研」と題して、それぞれが産総研との連携の成果を語った。

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パネルディスカッション「東北地域産業の発展に向けた産総研への期待」のようす

 「東北地域産業の発展に向けた産総研への期待」と題したパネルディスカッションでは、松田宏雄産総研東北センター所長を進行役に、企業経営者や東北経済産業局、東北経済連合会など関係者7人が登壇し、今後の産総研活用の方策について議論した。大崎博之ソニー(株)仙台テクノロジーセンター代表は「大学と異なり学会発表が義務ではない産総研は、機密保持契約を結べば、優秀な人材の揃ったコストの安い、まるで"自社"のような研究所になる」と期待を寄せた。本郷武延(株)アスター社長は「我々ベンチャー企業には"保険"がない。社会的にインパクトのある新事業を創出しても、光が当たらないまま消えてしまった企業も多いのではないか。その点に注力した支援体制が必要だ。東北には自ら表に出たがらない人間が多い」と指摘した。

 産総研は、産業技術に関わる日本最大規模の公的研究機関。旧通商産業省工業技術院傘下の研究所が統合・再編されて2001年4月に誕生した。2千を超える研究者を抱え、全国10箇所に研究拠点がある。東北センターでは、「化学ものづくり」を看板に掲げ、環境にやさしく、省エネにつながる高機能な材料や化学プロセスを開発している。


主催者インタビュー

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◆東北の発展には"連携できる人"の育成が鍵
/中鉢良治産総研理事長

― 本日のシンポジウムを振り返って、一言お願いします。

 色々な面で「東北らしさ」が出たシンポジウムだった。東北人は他の地域と比べておとなしいという指摘もあった。また、全国比で東北地域の総生産等が低い水準にある統計データがあることも考えると、"イノベーションを起こす人"も然ることながら、"連携できる人"の育成が、東北のこれからの発展の鍵になると感じた。

― 『宮城の新聞』読者の中高生へメッセージをお願いします。

 引っ込み思案にならず、1mmでも2mmでもより広い視野を志して欲しい。1mmでも自分の活動範囲を広げると、見える景色が変わり展開も変わって、今自分が考えていることとは全く違う世界ができてくる。それは今感じている不安がキャンセルされるほど大きなインパクトを与えると思う。進歩の幅は気にせず、自分を少しでも拡張していくんだという気持ちを捨てずに進んでほしい。


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◆ 50年にわたる地域との信頼関係
/松田宏雄産総研東北センター所長

― 本日のシンポジウムを振り返って、一言お願いします。

 当所50周年記念シンポジウムに、予想以上に多くの方からご参加いただきありがたい。当所の認知度が低いのではないかと心配していたが、50年にわたり地域の皆様との信頼関係を諸先輩方が築いてきたことを感じた。

― 『宮城の新聞』読者の中高生へメッセージをお願いします。

 当所では、夏休みの時期に毎年一般公開を行っている。小学生の参加は多いが、中高生は少ない。夏休みの宿題でも、受験の相談や人生相談でもよいので、仙台市の苦竹にある当所まで気軽にお越しいただきたい。私どももお役に立ちたいと思って、いつでも待っている。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.08】秋田の地で磨かれた技術で、業務用納豆国内シェアNo.1/ヤマダフーズ(秋田県仙北郡美郷町)社長の山田伸祐さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.08】秋田の地で磨かれた技術で、業務用納豆国内シェアNo.1/ヤマダフーズ(秋田県仙北郡美郷町)社長の山田伸祐さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年01月29日公開

秋田の地で磨かれた技術で、業務用納豆国内シェアNo.1

株式会社ヤマダフーズ(秋田県仙北郡美郷町)
代表取締役 山田伸祐 Shinsuke Yamada

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.08)
 秋田県仙北郡美郷町に本社を構える「おはよう納豆」でおなじみの株式会社ヤマダフーズ(1954年創業、従業員数540人、資本金9,800万円)は、徹底した品質管理と独自技術による積極的な商品開発で、納豆を中心とした大豆加工食品を製造・販売する企業である。特にひきわり納豆の製造に優れた技術を持ち、その技術を応用した業務用納豆は、寿司・調理加工向けや宿泊・病院・介護施設向けに約6割のシェアを誇る。業界の中でいち早く納豆菌の研究を進め、大豆はアメリカ、カナダ等の農場で契約栽培したものを調達。東北をはじめ、関東・関西など全国に展開。1996年には茨城工場が完成し、首都圏への即日配送体制を整えた。2004年には横手市平鹿町に豆腐や豆乳、湯葉を製造する専用の新工場を竣工。2014年には納豆の日本一を決める「全国納豆鑑評会」の第19回大会において最優秀賞を受賞した。そんなオンリーワン企業であるヤマダフーズがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の山田伸祐さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。

◆ 業務用納豆で国内シェアNo.1

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業務用納豆(カップ納豆)

 当社は、納豆や豆腐、豆乳などの大豆加工食品を製造・販売しているメーカーで、おかげさまで2018年9月に創業64年を迎えます。納豆市場で国内4位、このうち業務用納豆においては国内シェア1位です。

― 「業務用納豆」とは何ですか?

 回転寿司チェーンやコンビニエンスストア等の納豆巻に使われている納豆や、ビジネスホテルの朝食バイキング等で出てくるカップ納豆を、業務用納豆と定義しています。納豆全体で約1,250億円と言われる国内市場のうち、業務用納豆市場は60~70億円というニッチマーケットでして、このうち当社の売上が占める割合は約6割です。ですから、「ヤマダフーズ」の名前をご存じない方は多いかもしれませんが、納豆巻を食べたことのある方ならば、当社の商品をお召し上がりになっている可能性が高いと思います。


◆ 秋田創業故に磨かれた技術

― なぜ貴社は業務用納豆で国内シェアNo.1になることができたのですか?

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納豆巻等に使用される業務用納豆

 従来、納豆巻で使用されている納豆は、丸粒の納豆を料理人の方が包丁で刻んで細かくしてから使用していたそうです。それを当社では、ひきわり状に加工することで、刻む手間を省ける商品を開発し販売しています。当社は秋田の地で創業したが故に、ひきわり納豆の加工技術を磨くことができたと考えています。

 秋田で昔から栽培されていた地場の大豆は、もともと粒が大きいものでした。今でいう大粒ですね。今は圧力釜があるので大粒でも柔らかく蒸せますが、昔はその大きさのままでは柔らかくすることができませんでした。そこで先人達が考えた知恵が、大きな豆を鍋などで炒ってゴリゴリと粗挽きする方法です。粗挽きすることで皮が剥がれ、豆が4分の1から6分の1程度の大きさに割れるので、昔の煮釜でも柔らかく煮ることができたと言われています。実際に、今でもその製法でひきわり納豆を作っている会社が県内にあります。

 当社ではより工業生産しやすいよう、炒る代わりに自社で乾燥した大豆を臼で割ることで、ひきわり納豆をつくっています。

 ひきわり納豆と粒納豆の消費量を比べると、日本全国で言えば、平均7%くらいの人しか、ひきわり納豆を食べていません。東京では約4%だけです。その一方、私の知る限り、ひきわり納豆を食べる割合が一番高いのが秋田県で、納豆消費量の約40%がひきわりです。ひきわり納豆を食べる文化が浸透している秋田の土地で創業して、お客様に育てていただいたことで、当社は独自の加工技術を磨くことができたと考えています。


◆ ひきわり納豆製造の独自技術

― 貴社独自の「ひきわり納豆の加工技術」とは、どのような技術ですか?

① ひきわり納豆専用の大豆を調達
 ひきわり納豆に適した大豆品種を選抜し、生産者の方々と播種前契約することで、安定調達しています。

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ひきわり用の丸粒大豆を割る装置

② 自社工場で大豆を乾燥させて挽き割る
 丸粒大豆を乾燥させて挽き割る作業を、当社では外部委託せず自社工場内で行っています。皮を剥いた後の大豆は酸化が進み品質が劣化しやすいため、割ってから3、4日で使い切る体制が必要です。それを当社ができる理由は、秋田県のひきわり納豆の消費量が多く在庫の回転が早いからです。

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ひきわり大豆連続蒸煮缶はヤマダフーズが業界初。1時間で40gの納豆5万個分のひきわり大豆を蒸煮できる。

③ ひきわり大豆を独自の「連続蒸煮缶」で蒸す
 ひきわり納豆は当社独自の「連続蒸煮缶」という釜で素早く蒸し上げるので、色味が明るく蒸し上がります。

④ ひきわり専用の納豆菌を自社開発
 ひきわりは豆を割る分、同じ大豆でも表面積が大きくなるため発酵が進みやすいのです。そこで、ゆっくりと発酵が進む納豆菌を自社開発して使用しています。

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出荷に向けて梱包される納豆。ここ美郷町本社・工場では、主に東北地方に販売する納豆を毎日約60万パック製造している。

⑤ ひきわり用に発酵プログラムをカスタマイズ
 納豆菌を煮豆に摂取させた後は温度管理をしながら増殖させ、大豆のタンパク質をうまみ成分であるグルタミン酸等に変えていきます。この発酵のプログラムも、ひきわり納豆用にカスタマイズしています。

⑥ タレもひきわり専用
 納豆のタレも、粒用とひきわり用で変えています。ひきわり納豆を召し上がってくださる方が東北エリアに多いこともあり、やや甘口に仕上げています。


◆ 積極的な商品開発で国内外へ販路を拡大

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ホイップクリームの絞り袋と同様の形状の袋に、次々と充填されていく業務用納豆

 以上のひきわり納豆の加工技術を、従来は市販用納豆で磨いてきましたが、その技術を応用し、業務用納豆の商品開発を行っています。現在は、塩味や醤油味などに味付けしたひきわり納豆を、ホイップクリームを絞るような袋に充填・密封して瞬間冷凍し、鮮度の高いままお客様に届けています。また、ビジネスホテルなどで出されるカップ納豆も、冷凍して全国流通しています。

 業務用納豆で、他社にほとんどない当社の商品が、小袋タイプの「スティック納豆」です。キムチ味やネギ醤油味などの味付きなので、味付けやかき混ぜる手間も要らず、御飯の上に絞り出してすぐ食べられます。パック納豆と比べてゴミも少ないですし、密封しているため、冷凍して長期間保管してもほぼ品質劣化しないことが特長です。消費期限も1年あるので冷凍物流に適しており、海外輸出も始まっています。


◆ 南極やオリンピック、甲子園にも納豆

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オリンピック日本代表選手団や地元野球部から、納豆の協賛に対する御礼の品々

 スティック納豆は冷凍して長期保存可能なので、南極越冬隊に持って行っていただいたこともあります。また、アテネオリンピックの日本代表選手団に食べたい日本食のアンケートを取ったところ、「納豆」と答えた方が多かったそうで、当社の納豆に白羽の矢が立ち、御礼のお皿をいただいたこともありました。

 2年前からは、地元の大曲工業高校野球部にも、納豆と豆乳を無償提供しています。そのきっかけは、野球部父母会の会長の方から「選手たちは授業後、お腹も空いているし体づくりのため、どんぶり飯を食べてから練習を始める」「練習後1時間以内に飲んでいる市販のプロテインが、年間6万円程度、各家庭の負担になっている」と聞いたことでした。「毎日ご飯だけでは飽きるでしょうから、当社の納豆には色々な味がありますし、プロテインの代わりに豆乳もありますので、提供しますよ」という話になったのです。協賛を始めて1年目で、大曲工業高校が甲子園に見事出場してくれまして、秋田のローカルテレビからは「納豆を食べて粘り勝ち」と取り上げていただきました(笑)。


◆ ボストンバッグに納豆を詰め、夜行列車で首都圏へ進出

― 首都圏から離れた秋田県に位置しているにも関わらず、業務用納豆で業界1位、納豆市場全体でも国内4位にまでなった背景についてはいかがですか?

 国内大手納豆メーカーは、大消費地である首都圏にあります。当社は地の利という意味ではやや不利な秋田県にありますが、当社が首都圏に進出した時期は意外と早いのです。

― どのようにして、秋田県から首都圏へ販路を広げていったのですか?

 当社の山田清繁会長(2013年8月まで社長)が「首都圏に販路を広げなければいけない」と思ったきっかけは、冬から春先にかけて、秋田県内での納豆の売上が大きく落ちこんでいたことでした。昭和40年頃は冬の農閑期に出稼ぎで首都圏に出る農家の方が大変多かったのです。

 ならば、その人達が集まる首都圏に納豆を売りに行こう。そう考えた会長はボストンバッグに納豆を詰めて、夜行列車で上京。当時、上野駅前に秋田県が運営していた上京者向けの安宿に泊まりながら、都内の色々なスーパーにひたすら飛び込み営業をかけたそうです。

 普通は秋田に近い仙台や盛岡から進出すると思うのですが、会長は最初から東京で取引先を開拓し、開拓後は秋田の工場から2台のトラックで納豆をピストン輸送したと聞いています。その足場を築くことができたおかげで、1996年には水戸納豆で有名な茨城県に、新工場を竣工し、首都圏への即日配送体制が整ったわけです。

― なぜ敢えて敵地に新工場を建設したのでしょうか?

 お客様もしくはバイヤーさんによっては「納豆といえば水戸でしょう」という先入観を持つ方が多く、勝負の土俵にすら上げてもらえない経験を首都圏での営業で多々経験したそうです。「品質では負けていないのに不本意だ。ならば水戸納豆のふんどしを借りて、品質では負けていないことを証明しよう」という強い思いが会長にあったようですね。

 ボストンバッグを持って秋田を出た頃から想いを温め、まず東京で売り先を開拓し、次に茨城に工場をつくり、その茨城工場も黒字化するまで7年もかかり、かなりの苦労がありました。茨城工場竣工当時、地元からの反発は激しいものがあったようですが、20年以上経った今では、茨城の方からも受け入れていただいていると感じています。


◆ 業界の中でいち早く納豆菌を開発

― 「業界の中でいち早く納豆菌の研究を進めた」ことについては、いかがですか?

 納豆の原料は大豆と水と納豆菌です。一般的には、仕入れた納豆菌で納豆を製造していますが、国内に納豆菌の販売業者は3社しかありません。納豆菌が他のメーカーさんと共通で、大豆も乾燥大豆であれば全国流通可能ですし、水だって全国各地に名水がある。となれば原料3つのうち差別化するなら納豆菌だ、ということで、当社では業界の中でもいち早く納豆菌の研究を進めてきました。

 納豆菌は、粒用とひきわり用だけでなく、旨味の強い納豆菌やにおいを抑えた納豆菌など、何十種類ものオリジナル納豆菌を開発・保有しており、色々な用途に合わせ使い分けることが可能になっています。

― ちなみに、納豆菌はどのようにして開発するのですか?

 納豆菌は「枯草菌」という分類に入り、もともと自然界のどこにでもいる菌です。ただ、どの菌でも納豆になるわけではありません。自然界から土壌や落ち葉等を採取し、色々な菌が混じっている中から、美味しい納豆をつくる菌を探し出すという地道な作業が必要です。その他に、ベースとなる菌に紫外線を照射して突然変異を起こし、その中から特徴ある菌を探し出す方法もあります。納豆菌の場合、時間をかければ必ずいいものが見つかるというわけでもないのが難しいところです。

 ちなみに、2014年2月に開催された全国納豆鑑評会で、最優秀賞(農林水産大臣賞)を受賞した「国産ふっくら大粒」で使用している菌は、世界自然遺産の白神山地から採取した納豆菌で(白神山地は立入禁止のため、もちろん許可をいただいて、県の方に同行いただき採集しました)、現在、当社の工場でメインに使用している菌です。非常に力強く、旨味の強い、また香りもよく粘りも強い、理想的な菌を見つけることができました。


◆ 全国納豆鑑評会で日本一の納豆を目指し「プロジェクトX」立ち上げ

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2014年、全国納豆鑑評会で日本一の納豆に輝いた「国産ふっくら大粒」

 「国産ふっくら大粒」の開発秘話についても、ぜひ話をさせてください。最優秀賞を受賞した2014年から遡ること3年前、全国納豆鑑評会で最優秀賞を受賞することを目指し、当社の山田会長が研究所の全社員と一緒にチーム「プロジェクトX」を立ち上げました。

 まずは第一ステップとして、日本全国から最優秀賞受賞歴のある納豆を買い集めました。当社には「美味しさを数値化する」という社内の考え方があります。具体的には、「旨味」「粘りの強さ」「匂い」「見た目」「固さ」の5つの指標で計測し、過去の受賞傾向を分析して目標を設定しました。

 次に第二ステップとして、その目標を実現するための原料を選別しました。第一の原料である水は変えようがないので、第二の原料である大豆を日本全国から買い集め、それぞれの品種で納豆を仕込んでみました。すると灯台下暗しで、蓋を開けてみたら秋田県産「リュウホウ」という大粒の品種が美味しいことがわかりました。大粒納豆といえば普通は北海道産が多いのですが、秋田県産大豆にスポットライトを当てたのです。

 そして第三の原料である納豆菌も探しました。先程お話した白神山地の納豆菌は、昔採集してストックしておいた納豆菌のひとつで、当時はまだ量産用には使っていませんでした。秋田県産リュウホウと白神山地産納豆菌の組み合わせで美味しい納豆ができることがわかりましたので、白神山地の納豆菌を使うことにしたのです。

 第三ステップは加工技術です。目標とする「旨味」「柔らかさ」「粘りの強さ」等を実現するために、大豆の処理時間や温度など、品質に影響する加工条件を煮詰めていきました。そして3年にわたる研究開発の末、当初設定した目標値に到達できる方法を見出すことができたのです。

 当社は長年「ひきわりのヤマダフーズ」と定評をいただいていましたが、このプロジェクトXの成果として最優秀賞を受賞でき、粒でも美味しい納豆をつくれることをお客様に知っていただくことができました。受賞後は反響が大きく、販路も広がりました。当初は秋田工場でのみ製造していた商品でしたが、現在では茨城工場でも製造するようになっています。


◆ 冷凍やフリーズドライの納豆で海外販路開拓

― 今後の展開については、どのようにお考えですか?

 今後、人口減少と高齢化の二つ要因で、一人あたりの食べる量は減り、納豆業界に限らず、国内の食品市場が縮小化していくことに、食品業界の誰もが危機感を抱いています。そこで、対策その1が「海外市場の開拓」です。当社も約2年前から海外の展示会に出展しています。納豆消費量が少ない外国だからこそ、冷凍やフリーズドライの納豆等を提案しています。

― 海外市場における納豆の需要は、どのような状況ですか?

 海外で納豆を食べる人は、まだ日本ほど多くはありません。納豆を食べる海外在留邦人の数に比例して各国の納豆消費量が増える傾向です。そんな中、韓国や中国で今、納豆ブームが起こっているそうです。そこで、韓国向けに小袋タイプ納豆の輸出を始めました。

― 在留邦人以外の、現地の韓国の方が納豆を食べるのですか?

 はい当社では現在、1袋約30gの小さなパックに充填して冷凍輸出しています。すると、商品の在庫の回転が日本より遅い韓国の飲食店でも、ロス無く商品を販売することができます。

 また、フリーズドライ納豆は乾燥させると粘りも香りもほぼなくなりますが、食べた時に口の中で粘りが戻ってくるという面白い素材です。当社のフリーズドライ納豆には、納豆せんべい等、他メーカーとのコラボ商品があります。海外の展示会で紹介すると、「チルド納豆は苦手だけど、これは美味しい。今までなかった風味だね」と好評です。

 他にも、海外の展示会に出展したことで、商売につながった事例が色々あります。例えば、台湾ではベジタリアンの方が多く、納豆のタレに入っている鰹節エキスが食べられないことがわかったため、台湾向け商品として、動物性原料を含まないタレを開発しました。また、米国では畜肉エキスやグルタミン酸ナトリウム(うま味調味料)を含む加工食品は敬遠される傾向が強まっているため、新規でタレを開発し輸出を始めています。


◆ 「ご飯にかけて食べる」以外の納豆の食べ方を提案

 国内食品市場の縮小化対抗策その2としては、日本国内で「納豆の食べ方」を増やす必要があると考えています。納豆の食べ方は、ご飯にかけて召し上がる方が多いのですが、お米の消費量は右肩下がりです。このままでは、お米の消費量減少に引きずられる形で、納豆の消費量も減少してしまいます。

 ご存知のように、パンや麺、パスタなどの形で食べられる小麦粉の消費量がお米の消費量を上回る状況が続いています。そこで、納豆をパスタやサラダ等と一緒に食べる提案を行っています。

 また、秋田の郷土食である「納豆汁」を普及啓蒙するため、首都圏で納豆や秋田の発酵食品をテーマにしたイベントを開いたり、イベントで接点ができた飲食店とのコラボレーションで納豆を使った新メニューを提供したりして、「納豆の食べ方」しいては「納豆の需要」を拡げる活動も進めています。

 また、少子高齢化社会の進展を踏まえ、約3年半前に栄養士の資格を持つ新卒の女性2名を採用し、納豆や豆腐等を使用した介護食や病院食のメニュー・レシピの提案も始めました。当社の商品を単に素材として提案するだけでなく、調理手順や所要時間はもちろん、原価計算から栄養成分、アレルゲン、料理写真等まで、従来は先方の栄養士や調理師の方が考えていた内容をメーカー側から情報提供する、つまり、サービスを付加価値として提供することを始めたのです。おかげさまで県内の学校給食等に当社の納豆や豆腐の採用事例が徐々に広がっています。県内でのケーススタディをもとに、今後、県外への提案に活かしたいと考えています。

 さらに、子育て中のお母さん方をターゲットにした商品も考えています。離乳食として、細かく刻んだ納豆が推奨されているそうで、もともと当社の商品「超・細か~い きざみ納豆」がお母さん方からのご支持をいただいていました。国産原料を求めるニーズを受けて、秋田県産大豆を使用した国産「超細か~い きざみ納豆」を2018年3月に発売予定です。さらに、離乳食用に小分けして冷凍しているお母さん方も多いそうなので、その手間を省けるように、一食分ずつ小分けした冷凍スティック納豆の販売も考えています。お母さん方からのご意見・ご要望を伺うために、今年度から食育イベントにも出展を始めました。

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ヤマダフーズマスコットキャラクター「なっちゃん」

 おかげさまで「おはよう納豆・ヤマダフーズ」は創業63年を迎え、秋田県内でのシェアは約7割ありますが、おはよう納豆が秋田県の会社だということを知らない若い方が増えています。昔は、同じ秋田のメーカーという親近感が買い物カゴに入れる選択基準のひとつでしたが、今は、認知度で言えば、大手の競合他社が勝っているのが現状です。そこで、地元企業ならではの接点を増やそうと、地元のプロスポーツやお祭りに協賛し、地元の方の目に触れる機会を増やしています。ちなみに、当社キャラクターの「なっちゃん」の着ぐるみも昨年度つくりました。ゆるキャラブームはもうとっくに過ぎていますが(笑)、イベント等で皆さんから好評でよかったです。

 このように、お客様への情報発信の仕方は、シニア世代、お母さん世代、小中高生世代、それぞれで取り組みを分けています。


社長が二十歳だった頃

◆ 「親に敷かれたレールに乗りたくない」と父親と"賭け"をする

― 次に、山田さんが二十歳だった頃について教えてください。

 幼い頃から「納豆屋の息子」と周囲から言われてきたので、いずれ自分が継ぐだろうとは思っていました。けれども高校生の頃まで、社長がどんな仕事をしているかは、まだ見えていませんでした。

 大学進学を考える高校生の時、思春期でしたので、親に敷かれたレールには乗りたくないと思いました。自分には自分のやりたいことがあったのです。そこで「もし自分が第一志望の大学に受かれば、自分のやりたいことをやらせてもらう。もし不合格になれば、親父の敷いたレールに乗って、秋田の納豆屋を継ぐ」という"賭け"を父としたのですが、残念ながら、私が負けてしまいました(笑)。

 結果的に、第一志望ではない大学に進学しました。けれども、工場の生産管理や会計等を学ぶ学科で、先進的な企業の事例などを聞くうち、徐々に経営に興味を持ち始めました。「人のモチベーションを如何に引き出すか、工場で肉体労働の負荷を軽減するために何をすべきか、物流の組み立てをどうすべきか等々。非常に多種多様な要素が会社の中にはあり、会社の経営とは非常に複雑でおもしろそうだ」と、おぼろげながら見えてきたのです。

 大学卒業後は、当時から原料の大豆を海外から輸入していたので、英語を話せた方がよいだろうということで、米国に3年間留学しました。帰国後は、大手食品メーカーで3年間営業部員としてお世話になりました。秋田に戻ってきたのが29歳の頃です。


◆ 世代交代にあたり、父親と意見を戦わせたことは有り難いことだった

― その後、秋田に戻ってからは、どのようなことをしたのですか?

 大学在学中は父と仕事の話をする機会は全くなく、仕事の話を始めたのは、私が秋田に戻ってから、会長が65歳の時でした。私は4人姉弟の4番目の長男で、父とは36歳も歳が離れています。その時に意識したのが、会長が元気なうちに、会長の経営方針や想い、経営者として必要な知識や人脈等の引き継ぎをしなければいけないということでした。それができるまでにあと何年残されているかわからない、不安な中で働き始めたのです。

 蓋を開けてみれば、おかげさまで会長も健康を保ってくれ、喧々諤々、意見を戦わせながら(笑)、ここまで来ることができました。私が2013年9月、社長に就任してから取り組んできたことは、実は、社長交代後に考え始めたことではなく、その前からずっとやりたいことを書き留めてきたファイルがあるのです。本当はすぐにでも始めたかったのですが、会長の理解がなかなか得られなかったことを自分が社長になってから始めている次第です。当時はストレスがかなりありましたが(笑)、今になれば、意見を戦わせる相手がいたことは、非常に有り難い話だったと思います。

 父から学べることは、現段階までのことです。これから、全社員と力を合わせて、働く社員にとって、当社を育てていただいた地域社会にとって、さらには当社の納豆や豆腐を召し上がってくださるお客様にとって、必要とされ愛される企業を、目指していきたいと考えています。


◆ 社員が働きやすい環境を整備するのが経営者の役割

― 具体的には、どのような取り組みをしていますか?

 社員が自身の力を発揮し、働きやすい環境を整備することが、経営者の役割と考えています。お恥ずかしながら過去には整備されていなかった、人事考課制度や給料制度等の見直しを私が社長に就任する前後から行っています。頑張った人がより報われる会社にするために、年齢や性別、役職に関わらず、能力や実績がある人は若手でも引き上げます。現に、(若手と言っても勤続20年ですが)40歳の社員を今年4月、工場長に抜擢しました。

 そもそも自ら成長しようという意欲がなければ人は成長しないと考え、社員の自己啓発を応援するために、資格手当制度も拡充しました。大型特殊免許など、会社の業務に必要な現在74種類の資格を対象に、受験料や交通費を1回目は全額、2回目は半額を会社が負担します。

 また、若手社員や女性社員、役職者等を対象とした社外研修にも、積極的に参加してもらっています。社内研修も、社外からコンサルタントの方にお越しいただき、3S(整理整頓清掃)活動を中心とした改善活動を若手社員中心に指導いただいています。もともと皆、やる気はあったのですが、起きている現実をどう分析してどう対処したらよいか、やり方がわからなかったようです。ものの見方や考え方をご指導いただき、若手がすくすく育ちつつあります。

 当社でも今、世代交代が始まっています。会長と私の交代もありましたが、これまで会長と一緒に30年以上、当社を引っ張ってきた役職者の方々の世代交代が目前に迫っています。その方々からバトンを受け取る若手社員を各部署で育てることが、目下の課題ですね。

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応接室に掲示されていた「Advance」

 当社には、「Advance」というものがありまして、そこに掲げている、「お客様の声に耳を傾け、一歩先を行く商品やサービスを開発します」「年齢、性別、役職に関係なく、新たなチャレンジをする社員を応援します」「夢と誇りと生きがいをもって社員が働ける職場環境をつくります」「お客様と地域社会に必要とされ、愛される企業を目指します」等は、経営者である私から社員に対する約束であり、また社員と共にこんな会社を目指しましょう、という行動指針でもあります。これらは、事業年度が変わる毎年9月1日に見直して更新し、社内にも掲示しながら、当社の信条を組織内外に浸透させたいと考えています。


我が社の環境自慢

―続けて、貴社の環境自慢を教えてください。


◆ 社員が生き生きと働ける環境を整備

 「目に見える環境」は、私が社長に就任した後も、ほとんど変わっていないと思います。けれども目には見えないですが、私は経営者として、先程もお話した通り、社員の皆さんが生き生きと働けるように環境を整えているつもりですし、これからも、先行している他社の事例を見習いながら、よりよい環境を整えていきたいと考えています。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代にメッセージをお願いします。

◆ 自分が本当にやりたいことは何か、自分と向き合ってほしい

 過去5年を見ても、時代の移り変わりは非常に早いと感じています。例えば、小学生が将来なりたい職業ランキングに突如表れた「YouTuber」のように、自分の能力を活かす仕事の形は今後ますます多様化していくでしょう。将来どんな仕事をするかを考えるにあたり、まわりの意見を聞くのもよいですが、自分が本当にやりたいことや、自分が何をした時に喜びを感じるか、ぜひ自分と向き合ってほしいと思います。自分のやりたいことをやる方が、自分の能力は2倍にも3倍にもなると思います。

 ただ、高校生の頃は、それがわからないのですよね。私も将来の進路を決める時に親父と"賭け"をした時、私がもう少し骨のある男なら、そこで土下座をして「浪人させてくれ」という選択をしたと思うのですが(笑)。

― ちなみに、当時、山田さんが「どうしてもやりたい」と思っていたことは、何だったのですか?

 きっと笑いますよ(笑)。宇宙飛行士です。何らかの形で宇宙に関わる仕事がしたい、と思っていました。高校生の時も「将来の夢は宇宙飛行士です」と自己紹介して大爆笑でした。きっと大多数の人にとって宇宙飛行士は小学生の頃に卒業する夢なのでしょうね。

― 今の立場から「宇宙に関わる」ことは狙っていないのですか?

 実は私、ヤマダフーズに入社した当初、納豆屋さんになっても宇宙に関わる仕事ができると思っていたのですよ。例えば、宇宙食とか。

― フリーズドライ納豆の宇宙食は、日本人宇宙飛行士からのニーズがありそうですよね。

 でしょう?でも私、それが非常に難しいことに最近気付いてしまったのです。宇宙船の中は無菌状態でなければいけないので、宇宙食も完全に殺菌してから持ち込むのです。ですから、納豆も納豆菌がいるうちは、宇宙に持っていけないのですよ。

― では、納豆菌のいない納豆を開発するしかない...、でも、そんなことは不可能ですよね?

 実は、当社の研究所で「納豆菌のいない納豆」を開発しています。それは宇宙向けでなく、国内のある用途に使えるだろうというニーズがあって、開発しているものです。あわよくば、それを宇宙に持っていきたいと、実は密かに考えているのですが(笑)。実用化したときに、宇宙へ行く日本人宇宙飛行士の方が納豆嫌いなら、泣けますけどね(笑)。

― 宇宙への夢を諦めず、粘り強く納豆の研究開発と普及啓蒙を進めていけば、納豆が宇宙に旅立つ日もそう遠くはなさそうですね。山田さん、本日はありがとうございました。

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社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 東京からUターン。仕事と育児の両立に理解が深い環境が自慢。
/商品企画開発室 永渕菜美子さん(34歳、入社3年目、秋田県大仙市出身)

 主に、当社の商品企画や商品開発、パッケージデザイン、それに付随する販売促進物の作成を行っています。もともと私は、東京の広告会社で10年ほど販売促進物のデザインの仕事をしており、東京で結婚もしました。そろそろ秋田にいる両親が心配になり、地元に戻りたいと思った時、ヤマダフーズの求人募集がありました。当社への入社を決めた理由は、前職のスキルを活かせる業務内容の募集であったこと。広告会社で残業が多い経験をしてきたので、食品メーカーの中でデザインをしたいと思ったのが一番の決め手でした。あとは給料のよさですね(笑)。入社後は、デザイン以外にも商品開発に携わることができ、新しい分野に挑戦できたことがいい経験です。

 妊娠から育児中の現在に至るまで、会社からは非常に手厚く対応いただいています。特に、出産後は時短勤務となり、子どもの急な体調不良で早退することも度々あるのですが、周囲の理解が深いおかげで、特に困ったこともなく、後ろめたさも感じずに、育児と仕事を両立できていることが一番大きいです。人事の方も積極的に相談に乗ってくれ、とてもよい環境だと感じます。他の部署にも子育て経験者の方が多いので、「おむつはいつ頃取れるのか」といった相談も気軽にできるのがいいですね。育児中は昇進しづらいと一般的には言われますが、理解ある職場環境の中で、さらに上を目指し、格好いいお母さんになりたいです。


◆ OJT(On-The-Job Training)で成長できる環境が自慢
/食品開発研究所 大阪朝美さん(23歳、入社2年目、秋田県美郷町出身)

 農学系の大学で学んだ知識を活かし、地元に戻って、農業や食品に関わる仕事がしたいと考え、当社に入社しました。

 私が配属された食品開発研究所では、商品開発をチーム制で進めています。私は入社1年目からチームで商品開発に携わってきました。すべてが初めてのことばかりで、わからないことや覚えることも多く苦労もしましたが、OJT(On-The-Job Training:実際の職務現場において業務を通して行う教育訓練のこと)で成長できる環境が整っていることが、我が社の自慢です。さらに、部署の垣根を超えて、仕事のみならずプライベートでも協力し合える関係性があるのもよいですね。来年は私も入社3年目になり、後輩も入ってくるので、私も先輩方から教えていただいたことを後輩たちに返していけるよう、頑張りたいです。


◆ 社員の意欲アップにつながる資格手当制度が自慢
/本社管理部人事労務課 細谷文乃さん(25歳、入社5年目、秋田県横手市出身)

 短大で学んだ情報系の知識を活かし、事務系の仕事で、地元に就職したいと思っていました。応募してご縁のあった当社に入社し、今年で5年目です。現在は人事労務課に配属され、主に新卒採用やインターンシップの受入れ、資格手当制度の運用、人事考課制度の評点集計などを担当しています。

 我が社の環境自慢は、私も担当している資格手当制度です。受験料のみならず、受験地が遠方の場合でも交通費を会社が全額負担してくれるので、自分だけでは手が出せない資格を受けやすい体制があることがよいと思います。まだ始まって数年しか経っていない新しい制度ですが、毎月色々な資格が新しく対象に加わっており、社員の意欲アップにつながっていると感じています。対象となる資格の中には秋田のご当地検定もあり、私もこの制度を活用して2級まで取得しました。工場見学で県外の方を案内した時、秋田のよさをアピールできたと思います。資格取得の他にも、色々な研修やセミナーに参加させてもらえることも自慢です。私も積極的に参加して色々なことを知り、幅広い仕事をできるよう、これからも頑張っていきたいです。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.09】高級腕時計ケースの「美しいものづくり」をベースに事業を多角化。最終目的は「いいものをつくる」こと。/林精器製造(福島県須賀川市)社長の林明博さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.09】高級腕時計ケースの「美しいものづくり」をベースに事業を多角化。最終目的は「いいものをつくる」こと。/林精器製造(福島県須賀川市)社長の林明博さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年02月15日公開

高級腕時計ケースの「美しいものづくり」を
ベースに事業を多角化。
最終目的は「いいものをつくる」こと。

林精器製造株式会社(福島県須賀川市)
代表取締役社長 林 明博 Akihiro Hayashi

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.09)
 福島県須賀川市に本社を構える林精器製造株式会社(1921年設立、従業員323名、資本金9,000万円)は、精密金属加工と美しいものづくりの融合を顧客価値として提供する、国内唯一の腕時計ケース専業メーカーである。現在、創業事業である腕時計ケース製造を軸に、ロボット装置・ファクトリーオートメーション機器の設計・製造、装飾・機能めっきの受託処理等を県内3つの事業所で行っている。2011年に発生した東日本大震災では本社須賀川工場の約7割が使用不能になる大きな被害を受けたが、数多くの方々の支援と社員の奮闘により比較的早期に復旧できた。2013年には新築となった工場への帰還を果たし、新たな成長に備えている。2012年「第4回ものづくり大賞」特別賞受賞、2014年「がんばる中小企業・小規模事業者300社」認定。そんなオンリーワン企業の林精器製造がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の林明博さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。

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精度のみならず高い質感と仕上げの美しさが求められる高級時計ケース。ミクロン単位での加工やチタン等の難削材の加工等、広範囲な金属加工技術と最新の設計・加工設備を駆使して製造する。

 実を申し上げますと、当社は本当の意味でのオンリーワン企業です。日本国内に腕時計ケースの専業メーカーは今や当社一社しか残っていません。創業96年以来、当社が唯一一貫して取り組んできたのが時計ケースの製造です。現在、国内大手時計メーカー3社のうち、2社と取り引きしています。当社以外で時計ケースを製造しているところはどこにあるかというと、時計メーカー内部の仕事として位置づけられています。それくらい時計ケースは腕時計において重要な要素を占めると言えます。

 96年の社歴の中で、時代の変遷もあり多くの災害もありました。とりわけ大きな転換点が太平洋戦争の勃発です。当時は東京に本社工場がありましたが、戦火の拡大とともに徐々に軍事工場化し、時計ケースの製造が事実上できなくなりました。「このままでは生産再開は望めなくなる可能性がある。主要な生産設備だけは別の場所に移したい」との想いを当時の経営者が持ち、その移転先がここ福島県須賀川市でした。1943年に生産拠点を移してから今日に至るまで、須賀川市が私どもの本拠地になっています。当時東京にあった工場は、1945年の終戦を迎える前に戦火に落ちてしまいました。もし生産拠点を移していなければ、当社の歴史はそこで途絶えてしまった可能性は十分に考えられるでしょう。

 その後、1980年から1985年頃にかけて、当社における製造のピークを迎えます。正直に申し上げますと、この時代のお客様はただ1社でした。その1社の時計メーカーに対して当社が時計ケースを供給し、その生産量は月50万個、年間にして630万個という記録が残っています。ところが1985年から1990年代に至るや、多くの工業製品の生産拠点が日本国内から人件費の安い海外へシフトしました。この流れは時計ケースも同様でありまして、年産630万個をピークとし、年を追うごとに生産量は減少しました。そんな中で当社は、最上位モデルの時計ケースのみに特化し、さらに他事業にも多角化展開を図ることで、今日まで生き延びることができたのです。

 今日の当社の姿は、ここ須賀川事業所において時計ケースを製造する他にも、さらに二つの機軸事業領域があります。ひとつは玉川事業所のメカトロ事業部で機械装置の設計製作を行い、ロボットやファクトリーオートメーション関係の事業を手掛けています。もうひとつの郡山事業所では、めっき表面処理事業を行っています。この3つの事業体制ができあがったのが、2000年の段階でした。

 そこで、冒頭に申し上げた当社が「オンリーワン企業」になった経緯についてですが、1985年をピークに、時計ケース製造のうち、とりわけ低価格品の生産が海外に流れました。それに伴い、大手時計メーカーに供給していた時計ケースメーカーの仕事量は減少し、廃業や転業、もしくは大手メーカーと一緒に海外へ生産拠点を移す動きとなりました。その結果、ある大手時計メーカーに対して当時25社程存在していた時計ケース専業メーカーの中で、日本国内で今も事業として継続しているのは当社1社のみになった次第です。


◆ 日本国内に1社だけ残った理由

― なぜ貴社1社だけが存続できたのでしょうか?

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ザラツ研磨は技術的難易度が高く、熟練技能を要する。

 当社が今日まで生き残れた要因のひとつは企業の規模で、当社が最大でした。ふたつ目は圧倒的な技術力の差だと思います。技術とはお客様との信頼関係そのものです。ちなみに、高級時計のパンフレットでよく見られる「ザラツ研磨」という言葉自体は当社の発祥です。もともとスイスで使われていた先進的な研磨加工技術を当時の社長が何とか導入したいと現地調査等を行い、それが「ザラツ」という会社の機械であることがわかりました。そこで、ザラツ社の機械を導入し、その技術を定着させたのです。以来、その研磨技術については、「ザラツ研磨」という言葉が、業界用語ではありますが一般名称となっています。

 加えて事業の多角化展開を図れたことも当社の経営安定化に大きく寄与したと思います。現在、当社のビジネス全体に占める時計ケース売上の割合は約45%で、残りの約55%はそれ以外のビジネスが占めています。めっき表面処理も機械装置の設計製作も、もともと当社内の時計ケース製造というビジネスエリアに付随していた一工程でした。それから約20年が経った今、事業内容は大きく変化しており、当社の本業である時計ケースとは全く異なる内容仕事になっています。


◆ 時代の流れにうまく適応して生き残る

― めっき表面処理と機械装置の設計製作、それぞれどのようにして時計ケース製造の一工程から事業の多角化を図れたのですか?

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表面処理事業では現在、東北で唯一の大型自動めっき設備を保有している

 まず、めっき表面処理事業についてお話します。時計ケースの材料には、もともとチタンやステンレスなどの錆びにくい高級な材料が使用されていますが、かつての月産50万個の時代には、いわゆる黄銅や洋白といった、錆び易い合金が使われていました。そのため当時の時計製造には、めっき表面処理が必要な技術でした。そこで、以前から付き合いのあった、めっき会社を当社のグループの中に招き入れた次第です。その後、めっきが必要な低・中価格帯の時計ケースの生産がすべて海外へ移り、日本国内での生産がほぼなくなりました。そこで、他に事業展開ができないかを考えました。

 めっきには、大きく分けると2種類あります。色や質感の改善など外観の美観を与える「装飾めっき」と、めっき皮膜そのものの特性を利用して、電気伝導性などの機能を与える「機能めっき」です。当社はずっと装飾めっきを専門としてきましたが、装飾めっき分野は先細りであろうとの見通しを受けて、機能めっきに"業種転換"したのです。これは"業種転換"というほど大きな変化で、苦労に苦労を重ねて、機能めっきにシフトしました。

 そこで始めたのが、フレシキブル基板という、回路基板のパターンをめっきでつくる技術の開発です。実はこれが"大当たり"しましてね。ちょうど2000年から2010年頃までが、携帯電話の爆発的な普及期を迎えた頃でしたので、折りたたみ式の携帯電話に必ず1台に1枚ずつ使われるフレシキブル基板の需要が爆発的に増えたのです。当社においても装飾めっきから機能めっきに切り替えたちょうどその後、フレキシブル基板の爆発的ブームが到来し、そういう意味では、非常に助かりました。お客様からの増産要請に応えるのは非常に苦しい面もありましたが、めっき事業をうまく時代の流れに乗せることができました。

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自動車部品のプラスチックめっき等、幅広い表面処理に対応。

 では今はどうなっているかと言うと、それから10年経った今、フレキシブル基板のビジネスは0です。グローバル化に伴い、日本国内でフレキシブル基板を製造しているメーカーはほとんどなくなりました。それだけ時代の移り変わりが激しい事業なのです。ちょうどフレシキブル基板の製造が危ないなと思っていたところに、次段階で増えてきたニーズが、装飾性の高いプラスチック製品に対して金属感を与える装飾めっきでした。そこで当社は装飾めっきの方にまた戻ったわけであります。現在では表面処理事業の売上の約85%が、プラスチックの射出成形品に対するめっき処理です。

― 時代のニーズの移り変わりの激しさを貴社の歴史から感じますね。

 そうですね。終始一貫変わっていないのは時計ケースの事業だけで、その他の事業は本当に大きく変化しています。時代の変化に追従できたからこそ、生き残っているのです。


◆ リーマンショックという逆境の中で見直した事業価値

 もうひとつの機械装置の設計製作については、世の中が大量生産から多品種少量生産へシフトする中、社内で専用機械を製造する必要性がなくなったため、この部門を独立させて社外向けの対応を行おうとスタートを切りました。機械装置の設計製作も今では約98%が社外のお客様向けです。

 この事業も大きな浮き沈みがありました。一時期は大手家電メーカーのOEM生産を手掛けるなどして凌いできましたが、一番の大きな変化がリーマンショックでした。これから本格的な拡大期を迎えるということで、半導体製造装置の開発をあるメーカー様と一緒に進めており、当社としてもクリーンルームを設ける等、莫大な設備投資を行っていました。しかし、クリーンルームの開所式まで実施した矢先にリーマンショックが起こり、その仕事は完全になくなってしまったのです。それが当社の機械装置部門の一番苦しかった時期で、リーマンショック前と直後で、部門売上はなんと10分の1まで落ち込んでしまいました。そこからの再スタートとなったわけでありますが、当社の事業の価値はどこにあるのかを、よく考え直し、実に色々なことをやりました。

― 貴社が提供できる価値をどのように見直したのですか?

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腕統計ケース製造で培ったメカトロニクス技術を駆使し、顧客ニーズに合わせて生産現場の効率化、自動化、省力化に役立つ設備を製造している。

 我々が提供できるのはあくまでソリューションであるという原点に戻りまして、お客様のニーズに合わせたファクトリーオートメーション機器・ロボット装置のソリューションビジネスを展開しました。現在はさらに世の中が進んでいますので、よりシステマティックな内容へシフトしています。ただ、ソリューションビジネス1本だけでいくには当社の規模はやや中途半端でして、経営的な安定性を高めるためには、部品加工という新たな領域が、機械装置の設計製造を支える構造として必要だと考えました。そこで現在、医療機器や航空機、次世代自動車の部品加工といった、次代を担う新規分野の開拓も積極的に進めています。


◆ 「美しいものづくり」のDNAで高付加価値産業を狙う

― 部品加工という新たな事業領域において、もともと貴社が持っているどのような強みが活かされますか?

 お客様からはよく「非常に仕事が丁寧ですね」と仰っていただきます。これは当社のDNA的なものが多分に影響していると思うのですが、メカトロ事業部に現在所属している従業員たちのルーツを辿ると、時計ケースの製造から入っています。時計ケースは外観的な「美しさ」が命の製品ですので、自然と物の扱い方や加工面の出来栄え等が一般的な加工屋さんとは違ってくるのでしょう。お客様が手にとって見ていただくとおわかりになっていただける丁寧さが、製品に現れるのだと思います。ただ、必ずしも丁寧だからよいというわけではありません。丁寧というのは多分にコストがかかります。「丁寧だけど、高いね」と同じタイミングで言われるお客様もいらっしゃるので、それが悩みでもありますね。

― そこで、もともとの値段が高くて丁寧さが求められる分野として、医療機器や航空機、次世代自動車などの高付加価値製品にターゲットを絞っているのですね。

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医療機器関連は外科手術用術具やインプラント器具の製造を行っている。

 仰る通りで、もうその分野しかないと思っています(笑)。当社がボルトや金具のような同一部品を大量に生産することはとてもできません。これまで私どもが時計ケース製造で生き残ったように、将来的には医療機器や航空機、次世代自動車にしましても、小ロットで高付加価値な製品分野を狙っていくのがよいと考えています。


◆ 東日本大震災で本社工場全壊 社員一丸となっての早期復旧

― 2011年3月11日に発生した東日本大震災では、貴社須賀川工場の約7割が使用不能になるという甚大な被害を受けました。

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東日本大震災で倒壊した社屋。落ちてきた天井や梁を工作機械や備品等が受け止め、その僅かなスペースから社員たちは脱出できた。

 当社の96年の社歴の中におきましても、関東大震災と太平洋戦争敗戦と東日本大震災、この3つは語るに避けて通れない出来事だと思います。東日本大震災では、ここ須賀川は最も激しく揺れた場所のひとつでして、当社の鉄筋コンクリート3階建ての建物が見るも無残に倒壊しました。倒壊した3階には当時、約50名の社員がいましたが、重傷者は一人もなく、この事態を切り抜けられたことは大変有り難いことでした。2年後の2013年2月、幸いにしましてグループ補助金で、現在の社屋をこの場所に再建築し、もとの仕事ができるようになりましたが、今日に至るまでは本当に大変でした。その中でも一番苦しかった時期が震災発生からの3年間です。

 震災発生直後は、一刻も早い生産再開にむけて、まず生産再開をどこでどのようにするか、すぐに動き出しました。当社が部品を製造できなければ、その先にある製品も生まれません。製造業を営む以上、ものづくりのつながりを途切れさせることは許されないのです。幸いにしまして、震災発生から2週間以内の早い段階で、生産再開の場所は決まりました。偶然、お客様が須賀川市内に遊休工場を所有していることを知り、何とか貸してもらえないかと、直ちに出向いてお願いしたところ、二つ返事で借り受けることができたのです。

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生産再開にむけて装置を運び出す社員たち。

 場所は決まりましたが、生産再開にあたっては、当然ながら機械装置を移動させなければなりません。ところが装置は倒壊した建物の中にありましたので、失ったものは除いても300台以上もある装置を倒壊した建物から引っ張り出してトラックに乗せて運び、仮工場に設置して稼動させる作業を行う必要がありました。まず運送業者に相談しましたが、どこに相談しても引き受け手がいませんでした。その理由は、現実的に資材も人手も集まらないし、あまりにも作業現場が危険だからということでした。そこでいよいよ「もう自分たちの力で移設せざるを得ない」と心を決めまして、約35人を選抜して3班つくりました。第1班は倒壊した建物の中から使える機械装置を引っ張り出し、第2班はそれをトラックに乗せて新しい仮工場へ運び、第3班は仮工場に設置した機械の動作確認をして立ち上げました。必死に作業を続けた結果、震災から約3週間で約300台の機械を仮工場に設置することができ、一部を除き、製造ラインを再開することができたのです。

 「生産再開は震災発生から3ヶ月」という目標を立てていました。実は当初、5ヶ月程度はかかるだろうと見ていたのですが、5ヶ月も経ってしまうと仕事を戻せないことがわかり、何としても3ヶ月で生産再開せざるを得なかったのです。約300台の機械には修理が必要なものも多くありました。これもできる限り自分たちで修理を行いました。結果として、2011年6月6日、目標通り、震災発生から3ヶ月で全工程の生産再開を果たすことができました。


◆ 震災で約3割の仕事を失うも、業績回復できた理由

 しかしながら、当社の売上の約55%のビジネス領域を担う須賀川事業所が約3ヶ月間、生産停止した影響は、決して小さくはありませんでした。震災から3ヶ月後に生産再開を果たしたものの、やはり仕事の多くは失われてしまったのです。実は震災の瞬間にはっきりと無くなってしまった仕事が2種類ありました。ひとつはサプライチェーンに乗っていた仕事です。震災が発生した翌々日にはもう仕掛品(製造途中にある製品のことで、そのままでは販売できないもの)の引き取りに来ました。サプライチェーンが一旦途切れてしまうと、全体の生産に影響が出ますから、その影響を最小限に食い止めるために、サプライチェーンの寸断された部分が直ちに補修されます。そのため仕掛品の引き上げが必要になってくるわけです。サプライチェーンが一旦補修されてしまえば、我々はもう二度と戻ることができません。もうひとつは海外のビジネスを、その瞬間にすべて失いました。特に東電福島第一原発事故に伴う風評被害の影響は大きなものでした。これらによって失った仕事は、全体の約3割でした。

 一度失った仕事は二度と戻ってきません。失った仕事を別の何かで埋めるか、もしくは、事業縮小化か、その二者択一を迫られました。当社の場合、何とか事業縮小化はせず再生を図りたいということで、その分、社員一人ひとりには説明をした上で、非常に大きな苦労をかけました。それが、震災から3年間の非常に苦しかった時期のことです。その後、震災によって失われた仕事を埋める手段等々含めて回復の兆しが見え始め、今期に至っては、震災前のみならずリーマンショック前まで業績を回復することができました。

― 震災前のみならずリーマンショック前まで業績を回復できた要因とは何ですか?

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2013年2月、須賀川市に再建した新社屋。須賀川本社事業所として操業を再開。

 ある意味、幸運もあります。現在、日本全体として好調なメカトロのビジネスが、大きく伸びてくれました。また、めっき表面処理に関しましても、プラスチックへの装飾めっきの需要が非常に大きく伸びています。さらに、本業である時計ケース製造におきましては大変有り難いことに、「一時期は転注せざるを得ないが、林精器製造がきちんとものをつくれるようになったら、必ず仕事を戻そう」と仰ってくださったお客様がその約束を守ってくださったのです。

― 先程「技術力とは信頼関係」と仰っていましたが、まさにそのことですね。

 その通りです。この東日本大震災からの期間において、お客様との信頼関係がビジネスにおいて如何に大切かを今回改めて強く感じています。当社では現在、「いいものをつくる」を社是に掲げています。いいものをつくることによって、お客様との信頼関係が継続されると考えています。

― 貴社が96年間存続している根底には、様々な時代の変化や逆境にも適応するしなやかさに加え、確かな技術力に裏付けられた顧客との信頼関係があることが感じられました。


◆ 「いいものをつくる」熟練技能者の技能伝承と最先端加工技術の融合

― とはいえ「いいものをつくる」と口だけで言っても、なかなかつくれるものではないと思います。どのような仕組みで「いいものをつくる」ことを具現化されているのですか?

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「ものづくり革新グループ」でベテラン技能者から若手社員に研磨の技術・技能が伝承されている。

 それは常に求めていることであって、一言で「こういう仕組みで、こうなっています」と言うことは非常に難しいのですが、当社では技術・技能の伝承を非常に大切にしています。

 とりわけ研磨はかけがえのない技術で、当社には珠玉の技能者が数多く在籍しています。熟練した匠の技をどのように次代へ伝承すべきかを考えた結果、2006年から新たに始めた取り組みが、技能の伝承に特化した「ものづくり研修塾」で、現在は「ものづくり革新グループ」という形で本社機能として位置付けています。当社には、工場見学をきっかけに「自分も研磨をやりたい」と入社してくださる方が多いのですよ。研磨を希望する新入社員を少なくとも2年間、生産ラインから外れたチームで専任の熟練技能者が指導し、訓練した後、職場に配属します。あるいは適性がないと判断した場合には、他の仕事に配属します。

― OJT(実際の職場で実務を通して学ぶ訓練)ではなく、実際の業務から離れて2年間もトレーニングしてから現場投入とは、訓練期間を非常に長く取っていらっしゃる印象です。

 2年間トレーニングして研磨の仕事ができるかと言えば、できません(笑)。半人前にもなっていないレベルです。ただ、それを従来はOJTで補っていましたが、同等のレベルに達するには4年から5年はかかりましたので、その分は、育成期間が短縮されています。一般的には10年間の経験を積んでやっと一人前の仕事ができるかというところです。熟練には時間が必要です。

― 熟練を要する研磨技術は、ロボットに置き換えることはできませんか? 必ず人間の手は必要ですか?

 近年、ITやAI等の技術が進展する中、それらを活用してベテラン技能者のスキルを如何に伝承していくかは、ひとつの大きなテーマです。当社におきましてもロボットによる研磨に挑戦して今年で4年目となり、かなり実現できるようになっています。例えば、入社2年目の社員は、自分の手を使った研磨の経験はまだ1年で何もできないレベルですが、その研磨ロボットを使えば、10年クラスのベテラン技能者と同じレベルの仕事ができます。

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世界最高水準のザラツ研磨技術により、磨き上げられた美しい金属。

 ただし、研磨の技能者がいなくても仕事ができるようにしようとは、全く考えていません。例えば、20、30年の経験を積んだベテラン技能者の仕事のうち、その技に裏付けられた作業が本当に必要な領域は30~40%だと思います。すると残りの60~70%はロボットに置き換えられるだろうという考え方です。一方で、最後の30~40%は、20、30年の経験で培った人間の技能が必要です。お客様が時計を手に取った瞬間の感動は、ロボットにはつくることができません。そこは大切にしたいので、人もしっかり育成しているのです。


社長が二十歳だった頃

― 次に、林さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ ものづくり好きで、自動車競技に没頭

 二十歳の頃にどんなことを考えていたかを思い出せって、ちょっと厳しいなぁ(笑)。私が二十歳だった1969年、一番記憶に残っているのは、東大安田講堂事件ですね。けれども私自身は学生運動には全く興味がなく、自動車が大好きで、ラリー競技に没頭していました。当時は改造に対する規制がそれほど厳しくなかったので、山の中を走れるようにするための改造もしました。いや、暴走族じゃないですよ(笑)。自動車のクラブもつくりましてね。今でもそのメンバーとの交流は続いています。

― 当時、この会社を継ぐことに対しては、どのように感じていましたか?

 親から「会社を継げ」という指示は全くありませんでした。私も継ごうという意思はなかったですね。けれども今から考えれば、漠然とですが、興味はあったと思います。実は私、大学の工学部を2回卒業しているのです。はじめに電気、次に機械を専攻しました。卒業後はスイスに2年間滞在し、スイスの時計産業とはどんなものかを身体で感じてきました。そして帰国後、当社に就職しました。当時の本社は東京にありましたので、東京に入社し、ここ須賀川工場に配属となりました。

― 当時、自動車競技に没頭したり、電気と機械の2分野を専攻したり、スイスに滞在したことは、今の林さんとどのようにつながっていますか?

 すべてつながっていると思います。そのような意味では、二十歳の頃を考えてみると、当社に入る意志はすでに出来上がっていて、そのための準備期間だった感じがしますね。ただ、大学の専攻を電気から機械にしたのは、あまりにも電気がおもしろくなかったから(笑)。機械はよかったです。自分に合っていました。

― その後、社長に就任されるまでは、どのような流れでしたか?

 1987年まで須賀川で勤めた後、1988年に一度退社し、足掛け21年間、東京で自分の会社を経営していました。そして2009年、当時は私の兄が当社の社長を務めていたのですが、年齢的に私と交代すること含みで須賀川に戻ってきました。2010年6月、当社6代目の代表取締役社長に就任し、それから1年も経たないうちに東日本大震災が発生したわけです。

― そして先程お話されていたこととつながるのですね。林さんにとって、社長に就任することは自然なことでしたか?

 私にとっては比較的自然でした。もともと車が大好きなので、ものづくりに対する基本的な興味がありました。それが当社の事業とも相性がよかったのだと思います。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 「いいものをつくる」ための人の技能の伝承

 私にとって自慢できる当社の環境は、何と言っても人の技能の伝承です。ロボットを活用できるようにしたい面もありますが、その最終目的はロボットを使うことではなく、「いいものをつくる」ことです。「いいものをつくる」には、人の技能の伝承は絶対に必要な要件です。そのために今、当社が本社機能として位置付けているのが先程お話した「ものづくり革新グループ」での技能伝承です。指導しているベテラン技能者そして若手技能者から、ぜひ話を聞いてもらえると嬉しいです。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代に対するメッセージをお願いします。

◆ どんなことでもいいから、自分で考えたことを形にしてみて

 世の中がどんどん便利になり、その便利さ故、人は何も考えなくても何かができる環境になっています。若い世代で起こっているもの離れは、決して若い人たちがものに対する興味を失ったわけでなく、ただ興味の対象がピンポイントになっただけで、その頂点がスマホであろうと思うのです。しかし、自分がやりたいことをどうやったらできるかを考える前に、アプリで刹那的に物事を解決してしまうと、結果的に、自分の人生がおもしろくなくなると思います。便利なアプリは結構ですが、あくまで自分の生活を楽にする上ではよいことでも、本当に自分を豊かにするものは必ずしもスマホからだけでは得られない気がするのです。

 ものをつくることは、人間のみに許された特権です。人類に与えられた最大の宝物は今後とも大切にしていただきたいですね。それを誰かがやってくれるというのでは、自分の人生ですから、あまりにも勿体無いと思います。では具体的にどうするかといえば、どんなことでもいいから、自分で考えたことを自分で形にしてみることではないでしょうか。たとえ、それが価値を生まないことであっても、まずはやってみることが大切だと思います。そして、できあがった時の感動を体験できる機会をぜひとも持っていただきたいです。

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― 林さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 積極的な若手人材育成が自慢、研磨の技を後継者に伝えたい
/有馬正則さん(62歳、入社44年目、福島県須賀川市出身)

 19歳の時に入社し、今年で44年目になります。ずっと研磨の主力部隊にいて、2017年9月から、ものづくり革新グループに異動しました。現在は、トレーナーとして若い人を育成しながら研磨作業を行っています。研磨のおもしろさは自分が思うストーリーでものをつくれることですね。反面、苦しみもありますが、その分、できた時の楽しみがあります。

 トレーナーとして、一番は基本をしっかり身に付けていただける指導を心掛けています。細かいことじゃなくて、やって良いことと悪いこと、ここが一番のポイントだという点を、しっかり伝えていきたいですね。従来はひとつの工程を何年もかけて習得していましたが、今の時代は短期間で育成する必要があるので、2年間で1から最後の仕上げまでを教育する計画で進めています。中級品を一人でつくれるようになることがひとつの目標です。長年、研磨をやってきたので、教えること自体は苦になりませんが、1から教えることを作業者が飲み込んでくれるか、試行錯誤しながら指導しています。

 我が社の環境自慢は、このように、若手の人材育成に積極的に取り組んでいることです。どうしても昔は見て覚えるとか、長年仕事をする中で徐々に覚えていくところがありましたが、今は覚えるまで人が続かないですし、我々の高齢化も進んでいますから、先を見据えたとてもよい取り組みだと思います。できるだけ早期に積極的な人材育成を行って若手人材を底上げし実戦投入できるよう、これまで培ってきた技術を若い世代に伝えたいです。


◆ 自己研鑽を支援する教育制度が自慢、先駆的な開発の一翼を担う誇り
/秋田真輝さん(21歳、入社3年目、福島県石川郡平田村出身)

 通っていた高校のすぐ近くにあり、通学路から毎日見ていた当社はすごく身近な存在で、職場体験でもお世話になりました。就職を考えた時、真っ先に候補として挙がったのが当社で、今年で入社して3年目です。現在は、研磨作業に関わる人の手間をなるべく省いて効率化を目指すロボットの開発を担当しています。

 入社して半年間は研磨の基本を習った後、丸2年、研磨ロボットを日本大学工学部(福島県郡山市)と共同開発しています。まだ完璧ではないですが7割方できて、量産品の加工が始まりました。もう少し詰めれば自動化まで展開できるようになります。有馬さんをはじめベテラン技能者の方との協働で、新しいロボットと伝統に裏付けられた匠の技を融合する職場なので、お互いにわからないことがあれば聞ける環境がよいですね。ただ、研磨作業のロボット化については、まだ誰もやったことがない先駆的な取り組みなので、自分で考えるしかありません。その分、プレッシャーや不安は大きいですが、社長も研磨グループの皆もとても期待してくれているので、期待以上の成果を出したいです。

 当社に入社してから、何にでも興味を持てるようになりました。特にロボット関連は自分で調べて勉強します。それが今の開発につながると思うからです。高校の時よりも今の方が勉強していますね(笑)。我が社の環境自慢は、そのような自己研鑽を会社が率先してバックアップしてくれる教育体制です。例えば、ロボットの展示会や講習会等、自分が「行きたい」と言ったところには大抵行かせてくれ、本人の自主性を尊重してくれます。須賀川の地で、技能伝承のロボット化という先駆的な取り組みを行う会社で、若手の自分もその一翼を担える環境が一番の自慢です。

オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.10】八戸の地で、日本一の修理屋を目指す/ハード工業有限会社(青森県八戸市)社長の山形虎雄さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.10】八戸の地で、日本一の修理屋を目指す/ハード工業有限会社(青森県八戸市)社長の山形虎雄さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年02月19日公開

八戸の地で、日本一の修理屋を目指す

ハード工業有限会社(青森県八戸市)
代表取締役 山形 虎雄 Torao Yamagata

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.10)
 青森県八戸市に本社を構えるハード工業有限会社(1991年設立、従業員数25人、資本金500万円)は、プラント等の生産設備の修理・補修作業を生業とする企業である。「ハードフェーシング」のひとつである溶射技術を軸に、鋼材から最終研磨仕上げまでの一貫した加工作業を手がけ、大型機械の磨耗部品の完全修理を実現。さらに、生産設備の補修作業で培った溶射技術を応用し、産学共同研究を通じて、世界初の金属粉末製造プロセスを開発している。平成25年「あおぎん賞」受賞。平成28年経済産業省「はばたく中小企業・小規模事業者300社」選定。そんなオンリーワン企業のハード工業がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の山形虎雄さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

◆ 溶射技術を軸に、大型機械の磨耗部品の完全修理を実現

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。

 当社は、プラントなどの生産設備の修理やメンテナンスを本業としている会社です。具体的には、機械を分解・点検して壊れている部品を修理あるいは製作し直したり、消耗品を交換したりした後、組み立てて試運転して出荷する、という仕事の流れです。各工程を個別に対応できる修理工場は日本中にたくさんありますが、当社は、溶射技術を軸に、生産設備の補修作業のほぼ全工程を社内で完結できることが一番の強みです。そのため短期間での補修・改善が可能となります。

 例えば、機械要素のひとつであるシャフト(軸)は、回転して動力を伝える役目を果たすうちに摩耗します。通常であれば作り直す必要がある部品ですが、作り直すには時間もお金もかかります。そこで「一刻も早く生産ラインを再稼動させたい」というお客様のニーズに応えて、如何に早く修理できるかがポイントになるわけですが、その方法のひとつに溶射という技術があるのです。私自身も「溶射技能士」という国家資格を持っています。

―「溶射」とはどのような技術ですか?

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溶射のようす。ジグザグ状に金属が盛り上がっている部分が肉盛した部分。

 溶射とは、金属などの材料を加熱して溶かし、対象物に吹き付けて皮膜を形成する表面処理法のひとつです。特に、表面を硬くするために下地よりも硬い合金材料を溶射する処理法を「ハードフェーシング(hard facing)」とも言います。ちなみに、表面を溶接金属で被う「肉盛(にくもり)」や皆さんご存知のメッキも、ハードフェーシングの一種です。

 先程のシャフトを例にすると、軸が磨り減った部分に金属を溶かして吹き付けることで、その部分を盛り上げ、機械加工で仕上げます。通常、軸を1本製造すれば4~5日は要するところを、溶射ならわずか数時間で修理できます。溶射ができる修理工場はそれほど多くはなく、さらに機械整備まで社内で対応できる修理工場となると、ありそうでないのですよ。「痒いところに手が届く」とでも言いますか、何でもできる点が当社の強みだと思います。

 今は人手不足の時代と言われます。例えば、製鉄所で「そろそろ機械が壊れそうだから、修理に出そう」となった時、機械を分解する会社、溶射をする会社、軸を製造する会社、機械を組み立てる会社...とバラバラに発注するのでは、ただでさえ人手不足な中、担当者の負担が大きいですよね。それを当社にまとめて発注いただくと、ワンストップで対応できるということです。すると短期間で納品できる上、担当者の負荷も軽減できるので、担当者の方はより本来業務に集中いただけると思います。

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修理前の部品(写真左)と、同社にて修理後の部品(写真右)。まるで新品のように部品が生まれ変わっていた。

― なぜ他には「溶射から機械整備まで何でも対応できる修理工場」がないのでしょうか?

 ひとつは、地域特性があると思います。日本の人口と生産拠点が集中する関東や関西地域なら、溶射だけでも商売が成り立つほどの仕事量があると思います。しかし東北地域の場合、溶射だけではなかなか商売として成り立たないという必然性がありました。

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溶射済みの部品を、機械加工によって仕上げるようす。同社の機械加工では、鋼材から最終研磨仕上げまでが可能。

 もうひとつは、当社の成り立ちに起因すると思います。先代社長の山形琢一会長は、溶射を専門とする外資系企業から独立して、ここ八戸の地に当社を創業しました。創業時は溶射のみを扱っていましたが、お客様から寄せられた「溶射ができるなら、仕上げの機械加工までやって欲しい」「機械加工ができるなら、溶接でものもつくって欲しい」「ものまでつくれるなら、機械のメンテナンスまでやって欲しい」というニーズに段階的に応える形で、現在の電動機・機械加工・溶射加工の3部門ができました。


◆ ないものは自分でつくる

― 生産設備の補修作業で培った溶射技術を活かし、さらに貴社では、産学連携を通じて、新技術の研究開発も展開されているそうですね。

 溶射用の材料(金属粉末)を、以前は「使う」だけの立場でしたが、「作る」立場も併せ持つことを目指し、産学連携で研究開発を進めています。一口に「耐摩耗のために溶射する」と言っても、現場が変われば、「高温環境に強い材料」「腐食に強い材料」といったように、現場の環境に応じて欲しい材料は変わります。本当は現場ごとに溶射材料を設計できるとベストですが、そのような材料は売られていませんでした。「世の中にないものは自分たちで作る」という会長の性格もあり、「無いなら自分たちで溶射材料を作ろう」となったわけです。

 その後、金属ガラスの専門家(東北大学)と知り合い、金属ガラスでおもしろいことができそうだと考えた会長が、「金属粉末が欲しい」と東北大学に相談しに行きました。すると、「金属粉末はないが、ハード工業の溶射機で溶射材料を作ったらおもしろいのでは」という助言を受け、おもしろそうだと遊び感覚で新技術開発を始めたのがきっかけです。

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「ちなみに、溶射機はこんな形をしています。これは自分も使ったことがないくらい古い型で、日本溶射学会の溶射遺産に申請中です」と山形さん。

 もともと当社の溶射機は、燃焼工学の専門家(当時は八戸工業高等専門学校、現在は岩手大学)と共同開発したもので、その基本的原理は新たに開発する装置と近いものでした。そこで溶射機を何台か並べて色々試してみた結果、うまく金属粉末を製造することができました。現在は装置が完成し、お客様の環境に合わせた金属組成の開発と実地試験を行っている段階です。試験がうまく行けば、2018年中には金属組成の開発に目処がつく見込みです。通常、こういった技術開発は資金力のある大手企業ならできることですが、当社のように小規模な中小企業ではなかなかできないことなんですよ。

― なぜ大手企業よりも小さな規模で、貴社は新技術開発ができるのですか?

 予算がないなりに、本来買ってくるべき装置をすべて自分たちで設計してつくったり、色々な助成金を活用したり、別の手段を考えました。会長も私も自分の興味があることには、足を突っ込んでみる性格なんです(笑)。それは、逆に言えば、小規模な会社のよい面かもしれません。もちろんその分コストはかかりますが、現状維持ではいずれ社会から取り残されてしまいます。たとえ10個失敗しても、1個成功すればよいという気持ちで、経営者として将来の新たな柱を常に探すことが必要だと考えています。


社長が二十歳だった頃

― 次に、山形さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 何かをつくりたい

 初代社長である父の会社を引き継ぎ、当社の二代目社長に就任して今年で1年目です。自分が二十歳の頃は、今思えば何も考えていなかったですね(笑)。「何かをつくりたい」という漠然とした気持ちがあるだけで、特筆すべきことは特にない、工業大学の学生でした。大学卒業後は東京で約3年、車の生産ラインを設計する仕事をしていました。学生の頃の「何かをつくりたい」という想いが、車を生産する機械設計という形で具現化され、仕事は最高におもしろかったですね。

― お父様の会社を継ぐことについては、当時どのように考えていましたか?

 実は、会社を継ぐことは当初は考えていませんでした。当時は八戸という地域自体に魅力を感じていなかったことや、友人のほとんどが関東に就職していることもあって、自分はずっと関東に住むのだろうと思っていました。

― その後、どのような経緯で会社を継ぐことになったのですか?

 25歳の時(約9年前)、父から「戻ってこないか」という話がありました。ちょうどそのタイミングは自分に海外転勤の話があった時で、八戸に戻らなかったら当分日本には帰らないとのかと、悩みました。機械設計の仕事は最高におもしろかったですし、海外出張や転勤があることがそもそも就職した理由のひとつでもありましたから。ただ、今までこういった話を一切してこなかった父からの相談だったこともあり、兄とも相談して、とりあえず一回戻ってみようという気持ちで戻ってきました。

― 25歳で八戸に戻った後、どのようなことをしましたか?

 正直な話、戻って最初の頃は仕事にあまりやりがいを感じていなかったです。というのは自分の好きな設計の仕事が当時はほぼ無く、さらに修理の仕事のおもしろさを理解していなかったからです。入ってきた機械や部品を日々修理することの繰り返しだと感じていました。そんな中、今の仕事がおもしろくなってきた最初の出来事は、お客様から「こんな機械がほしい」という相談を受け、その機械設計に携わったことです。その後、先程もお話した溶射材料製造装置の設計・製作をしたり、お客様と直接かかわっていく中で、本業である修理のおもしろさもわかってきて、今の仕事にどっぷりと浸かっていったわけです。

― 貴社では本業の生産設備補修で培った技術をベースに、機械整備から機械設計、さらには新技術開発まで幅広く展開されているというお話でしたが、それは山形さんが八戸に戻ったことが非常に大きかったのですね。

 そうですね。もともと会長もやりたいと思っていたことですが、一人ではできないので、自分が戻ったことで、会長のやりたいことが少しずつ形になっていったのだと思います。

― これから社長として、どのような会社にしたいと考えていますか?


◆ 日本一の修理屋を目指す

 これまで、お客様は主に地元の企業でした。もちろんこれからも地元のお客様が大切なことに変わりはありませんが、ここ数年は、積極的に県外へ営業する体制を作り始めています。成果も出始めており、順調に県外からの受注を伸ばしています。

 そこで、今年度から私が全社員にむけて言っていることがあるんです。「この先10年で、日本一の修理屋を目指そう」って。最初に私がそう言った時、社員たちは「社長が変なこと言っているな」という感じでしたが、最近は皆、「いけるぞ」という感じになっています。何をもって日本一とするのかは定義するのが難しいかもしれませんが、まずはそういう気持ちをもって仕事に取りかかることが大事だと思います。言ったもん勝ちですね(笑)。けれども、会長が作り上げたこの会社のポテンシャルを考えると、日本一は実現可能だと確信しています。そのためにも、これから先は優秀な人材の確保が鍵になってくると思いますが、修理という仕事のおもしろさや技術開発を新聞等のメディアに取り上げられていただく機会が増えてからは、地元の若い人を中心に求人への応募が増えてきています。


◆ ここ八戸で仕事をしたい

 実は、日本一を目指すにあたってキャッチフレーズを考えたんです。「修理は北へ」って。初めて来社されるお客様に、自分が決まって聞く質問があるんです。「仕事のためにこんな北までは来たことないですよね」と。すると、ほとんどの方から「八戸まで来たのは初めて」という答えが返ってきます。例えば、関東の工場で使われている機械を修理する必要が出た時に、普通は関東圏内もしくは関西方面の会社で修理することはあっても、それよりも北に持っていくという考えはほとんどないんです。せっかく技術があってもPRが苦手な会社が多いため、東北の会社があまり知られていないんじゃないかと思います。それに、「東北」と聞いただけで遠いと思われますね。実際は東京からの距離は大阪と八戸で大差がない上に、東北自動車道は渋滞があまりないので、物が予定通りに届くという意味では東北に地の利があるんです。他県に営業に行った際には、会社の技術的なことだけではなく、地理的な有利性が実はあるということも伝えています。「言われてみると、確かにそうだな」と、皆さん東北に対するイメージが変わっていきます。また、遠方からの仕事が増えてからはお客様に「近くに工場を建ててほしい」といった要望もいただきますが、それは断っているんです。なぜかというと、やっぱり八戸に仕事を持ってきてもらいたいから。お客様にも確認のために八戸まで来てもらって、八戸の街で一杯飲んでから帰ってくれよと。ここ八戸で仕事をしたいんです。

― 二十歳の頃とは、会社だけでなく八戸に対する想いにも大きな変化があったのですね。

 二十歳の頃は「こんな田舎には絶対に住みたくない」と思って八戸を出たのですけどね(笑)。正直、戻ってきたばかりの頃は、あまり八戸が好きではありませんでした。それが、ある時、八戸に来たお客様が仕事の後に一杯飲んで、「八戸はすごくいい街だね」と言ったのです。それ以来、その方は年に何回も仕事ではなく観光目的で関東から八戸に来るので、はじめは「何がそんなに楽しいのかな」と思っていたのですよ。けれども自分も色々な土地に出張で行くようになって気付いたのですが、八戸ってどこで食べても飯がうまいんですよね(笑)。八戸に帰って飲むと、「やっぱり、これだよな」と思う(笑)。そのお客様から教えられた気がします。ただ、やはり一度外に出てみなければ、そのよさには気付かなかったでしょうね。


我が社の環境自慢

― 続いて、貴社の環境自慢を教えてください

◆ 八戸に会社があることがパーフェクト

 立地で言うと、八戸に会社があること自体がもうパーフェクトだと自分は思っています。どこでも飯がうまいですし、東京まで新幹線で3時間で行けますし、太平洋沿いなのでほとんど雪も降らないです。でも車で1時間も走ればスキー場に行けるし、紅葉は八甲田で見られるし、北海道にも近い。もう完璧じゃないですか?(笑)八戸は日本で一番住みやすい場所だと自分は思います。そう言うと「どうせ飲みたいだけだろ」と言われそうですが(笑)、実は自分がお酒を飲むようになったのは、ここ3年のことなんです。理由はよくわかりませんが、自分が八戸を好きになった時期と、お酒を飲むようになった時期は一致しているような気がします。


◆ 社長が若い

 自分で言うなよって感じですけど(笑)、社長が34歳と若いことは魅力的だと思います。後継者がいないために廃業する会社が増えている中、お客様にとっては10年後20年後に取引先が存在しているかどうかも、評価基準のひとつになっています。しっかりと世代交代を進め、30代の社長がバトンを受け取って舵を取り始めていることは、お客様からみても安心できる材料ではないかと思います。もちろん、会長と比べられると自分は知識も技術もまだまだですが、足りない部分はしっかり会長からサポートを受けて経営をしているので心強いですね。基本的に自分と会長は性格が似ている部分が多いですが、創業者の勢いと2代目の慎重な部分が上手く融合されて堅実な経営をしていると思っています。


◆ 社員平均年齢35歳で活気がある

 ここ1年で若手社員が増えたこともありますが、社員の平均年齢は約35歳と若いです。例えば、機械加工部門の課長は35歳で、年上の部下もたくさんいます。仕事ができる人は、年齢等に関係なく抜擢され、皆の先頭に立ってどんどん仕事ができる環境が自慢です。


◆ 常に新しい技術を追い求める

 「おもしろそうな工具や材料等があれば、どんどん新しいものを自分で買って試してよい」という環境も自慢です。これは「常に新しい技術を追い求め、最新技術でお客様に貢献し、それによって正しい対価をいただく」という当社の経営理念を体現するものです。例えばですけれど、鉄板に穴を開ける作業ひとつをとっても、普通のドリルを使うか、それとも通常の何倍も速いスピードで穴を開けられるドリルを使うかで、穴1個なら変わりませんが、数千個の穴を開ける時、かかる時間は雲泥の差です。それを社員自身が探して、実際に使ってみるんです。現場の人が「すごいやつ見つけた!本当かな」とワクワクしながら使って、本当にすごければ、その人の自信になるじゃないですか。遠慮している人もいますが、故意ではない失敗は悪いことではないと思っています。挑戦しなければ失敗しませんから、どんどんあたらしいものや技術に挑戦してほしいです。


若者へのメッセージ

―最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代にメッセージをお願いします。


◆ 結局は「やるか」「やらないか」だけ

 興味があることには何でも挑戦して欲しいですね。それができる環境かどうかは大きいとは思いますが、「お金がないからできない」という言い訳は、今の時代ではもう通用しないと思います。今はクラウドファンディングなどを通じて、何かをやりたい人に資金提供できる仕組みも増えていますし、自分のやりたいことさえあれば、お金も年齢も学歴も関係なく、誰でもどこででも起業できる時代になりました。では、成長する企業としない企業の違いは何かと言えば、仕事が「できる」「できない」の次元ではなく、結局は「やろう」と思ってそれに向かって挑戦しているか、それとも現状維持でいくか、その覚悟の違いでしかないと、以前誰かが言っていました。つまりは「やるか」「やらないか」だけなんです。だったら、やった者勝ちじゃん、という話ですよ。学生のうちは、少しくらい失敗したって、別に命をとられるわけではないですから、失敗を恐れずに、ぜひどんどん挑戦してください。

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― 山形さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 他社にはできない完全修理が可能
/機械加工課 課長 清川圭太さん(35歳、青森県八戸市出身、入社16年目)

 我々の課では溶射課から預かった溶射済み部品を機械加工で仕上げる仕事をしています。課長としての自分の役割は、外回りをして仕事を受注したり、現場へ指示をしたり、新入社員の教育などが主な役割です。時間が許せば、自分も機械を動かして部品の修理や製作をします。

 我が社の環境自慢は、他社には修理できないような機械が来ても、電動機・機械加工・溶射加工の3部門が一体となって取り組むことで、完全修理ができることです。実際に最近も、「5台ある機械のうち、1台でも2台でもいいから直してほしい」という依頼が来ました。なぜ5台かと言うと、その1台、2台を活かすために、残り3台は部品取りで使ってくれ、という話です。それを当社では「5台全部直せそうです」と答えました。すでに3台は直し終わり、残り2台も海外から探して取り寄せた部品が来れば全部直せる状態です。

 機械の部品が摩耗して使用不可能になると、普段は「新品を買わなければいけない」という発想になるらしいんですよ。でも、当社で摩耗部品を直せば、また最初から使えるので、お客様は新品を買わなくて済みます。ちなみに先程の5台の機械については販売終了商品で、新品も部品も買えないものでした。それを我々が修理したので、お客様から褒められました(笑)。会長の知識は半端ではなく、まだまだ会長に頼っている部分もあるのですが、これから自分たちが会社を引っ張っていけるよう頑張っていきたいです。


◆ 会社の成長を肌身で実感
/溶射課 課長 田端敏勝さん(53歳、青森県階上町出身、入社27年目)

 我々の課が専門とする溶射には、色々な種類がありまして、主に力を入れているのがアーク溶射です。また、肉盛に関しては耐摩耗の肉盛等もやっています。

 私は創業時から当社に勤めていて、はじめは4人でのスタートでした。創業当時は初めて挑戦することも多くて、ずっと試行錯誤し続けてきた結果、今があります。当時と今を比べると、人数も4人から約30人に増え、当時プレハブひとつだった工場も今では大きくなりました。まだまだこの先、大きくなる予定なので(笑)、それに向かって頑張っています。今は若い人たちがたくさん入社してくるので、これまで培った技術を伝承しながら、また新たな技術も考えていきたいと思います。

『東北society 5.0』を考える/東北活性研が産学官連携フォーラム開催

『東北society 5.0』を考える/東北活性研が産学官連携フォーラム開催

2018年2月23日公開

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【写真】2月22日に仙台市内の会場で開催された産学官連携フォーラム「『東北society 5.0』を考える」のようす

 東北活性化研究センター(以下、東北活性研)は、産業技術総合研究所東北センターと東北大学との共催で、「『東北society 5.0』を考える」と題した産学官連携フォーラムを2月22日、TKPガーデンシティ仙台(仙台市)で開催し、産学官金から約100人の関係者が参加した。

 「Society 5.0」は、IoT(Internet of Things)や人工知能(AI)等の新しい技術を活用し、一人一人のニーズに合わせる形で社会的課題を解決する新しい社会をつくる構想のことで、日本政府がその実現を進めている。同フォーラムは、「Society 5.0」の鍵となる先端技術の動向を紹介することで、地域経済や地域社会がどのように変容していくかを考える機会を提供しようと開催された。主催者挨拶に立った東北活性研会長の海輪誠さんは「本フォーラムをきっかけに、新しい技術に対する興味を高め、東北未来創生へ導く示唆を与えるとともに、連携の輪を広げていただき、2018年が『東北society 5.0』の実現にむけたスタートの年となることを祈念する」と挨拶した。

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【写真】パネルディスカッションのようす

 続けて、産総研人工知能研究センター長の辻井潤一さんが「人工知能の社会実装とSociety 5.0 ~東北版Society 5.0の可能性を探る~」、東北大学未来科学技術共同研究センター長の長谷川史彦さんが「近未来技術による地方創生 ~次世代移動体システム~」、日本電気の高木秀和さんが「デジタルが拓く持続可能な都市づくり」と題し、それぞれ基調講演を行った。その後、行われたパネルディスカッションでは基調講演者3人が登壇し、東北活性研常務理事の木村研一さんが進行役を務め、新しい技術を如何に地域に根付かせるかや、今後の人材育成について意見交換が行われた。パネラーからは「AI化が目的ではなく、AIによってどんな課題を解決するかが大切だ」「実際に課題を抱える人との対話により、課題を"見える化"することが重要」「東日本大震災で本当に必要なものは何かを経験したことが東北の強みになるのではないか」といった意見や「変化の激しい社会では、自ら提案し前に進める積極的な人材が求められている」といった指摘があった。

 最後に閉会の挨拶として東北大学理事の矢島敬雅さんが「"課題先進国"であるピンチをチャンスと捉え、地域の産学官金が協力し合うことで取り組んでいきたい」と述べた。


主催者インタビュー

◆ 30年後の社会を想像し、便利で快適な社会づくりにチャレンジしてほしい
 /(公財)東北活性化研究センター会長 海輪 誠さん

― 本日のフォーラムを踏まえ、中高生にむけて、一言メッセージをお願いします。

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 20年後、30年後、自分や家族の生活や社会がどうなっているかを想像してみてください。ますます若い人の数が減り、高齢者が増える社会では、今までのように少数の若い人で大勢の高齢者を支え切れなくなるため、何かの力を借りる必要があります。例えば、高齢者の外出を車の自動運転が助けたり、介護ロボットで手助けしたり。あるいは、時間が空いている人と忙しい人の情報を集めてマッチングし、お互いに助け合う社会をつくったり。その時の決め手となるのが、AIやIoT等の日進月歩の新技術です。その進歩を支える主役は若い皆さん方です。高齢化社会でも誰もが自立的に活き活きと生活できる、便利で快適な地域社会づくりに、ぜひ一緒にチャレンジしていきましょう。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.11】目には見えない膨大な積み重ねが生み出す、サンタクロース公認除雪機/フジイコーポレーション(新潟県燕市)社長の藤井大介さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.11】目には見えない膨大な積み重ねが生み出す、サンタクロース公認除雪機/フジイコーポレーション(新潟県燕市)社長の藤井大介さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年02月26日公開

目には見えない膨大な積み重ねが生み出す、
サンタクロース公認除雪機

フジイコーポレーション株式会社(新潟県燕市)
代表取締役 藤井 大介 Daisuke Fujii

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.11)
 新潟県燕市に本社を構えるフジイコーポレーション(1865年設立、従業員数145名、資本金1,200万円)は、農機具の製造に始まり152年以上の歴史を持つ機械メーカーである。現在は除雪機や農業機械の製造・販売等といった「グローバルに売れる商品」に絞って事業展開をしており、輸出にも力を入れている。同社の除雪機は、北極から南極まで世界各地で活躍している。2007年にはフィンランドのクリスマス財団よりサンタクロース公認除雪機として認定された。これを機に、会社のマスコットキャラクターをフィンランドのサンタクロースより認定を受けたサンタクロースに決定し、制服等で使用している。本記事のトップ画像も顔写真ではなく、マスコットキャラクターであるサンタクロースのイラストである。2012年「第4回ものづくり日本大賞」優秀賞、2013年「ジャパン・ツバメ・インダストリアル・デザイン・コンテスト」経済産業大臣賞、2014年「ダイバーシティ経営企業100選」、2015年「日本でいちばん大切にしたい会社」大賞審査委員会特別賞等、数々の賞や認定を受けている。そんなオンリーワン企業のフジイコーポレーションがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の藤井大介さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

◆ 北はサンタクロース村から南は南極基地まで、グローバルに活躍する除雪機

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われている所以を教えてください。

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2007 年にフィンランドのサンタクロース公認除雪機として認定された時の証書(写真上)。これを記念して同社のユニフォームやグッズなど様々な場面でサンタクロースが登場する(写真中央)。同社の輸出相手国の方角を向く本社前に設置された様々な国名の標識。同社がグローバルに活躍していることを物語っている(写真下)。

 「オンリーワン」とは、社外の方が評価して言うものなので、自分たちで言うのは難しいのですが(笑)。弊社の事業は、ダイレスプレス事業、鋼材事業、及び、機械事業の3つです。機械事業のうち、除雪機に絞って言えば、私たちは雪国の人々の生活が少しでも楽になるものを雪国にある企業として一生懸命つくっているだけです。そんな気持ちで、当たり前のことを当たり前に毎日コツコツ積み重ねている結果として、外から「オンリーワン」と言っていただけるなら有り難いことです。

 雪国の生活とともにある我々がつくった除雪機は、豪雪地でも十分に使える雪国にふさわしい除雪機です。日本海側の雪は水分を多く含むため、積もると硬くなり、また湿った雪は飛びにくくなります。重くて硬い雪でも弊社の除雪機は除雪できると自負しています。他社ではできないところまで雪の中を食い込んでいけるのが強みです。北はフィンランドのサンタクロース村から南は南極基地まで、世界各地で使用いただいています。

 今年は、ベルギーの南極越冬隊が弊社の除雪機を導入しました。日本やイギリス、イタリア、アルゼンチンの南極基地で弊社の除雪機を使用しているのを見て、同じものが欲しいと思ったそうです。似たケースがドラマ「冬のソナタ」のロケ地になった韓国ドラゴンバレースキー場です。韓国初のスキーリゾートということで、建設に先立ち、視察に訪れた新潟県のスキー場で、弊社の除雪機が使用されているのを見て購入を決めたそうです。


◆ 豪雪との戦いの歴史が世界に認められる品質を醸成

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除雪機は、「オーガ」という螺旋状の回転刃で雪を掻き込み、中央に雪を集めた後、「シュータ」という煙突状の投雪部を通って雪を飛ばす仕組み。同社製品は丈夫さと修理のしやすさを重視して、オールスチール製。鋼材の仕入れから自社一貫生産できる体制も強み。


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オーガの拡大写真。オーガに雪が付着すると雪がスムーズに排出されず除雪効率が下がるため、軸にまとわりつく雪を落とす独自の部品「ミラクルオーガ」を今年から新発売。


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シュータの拡大写真。シュータの出口の形状を丸型から角型に改良した「ミラクルシュータ」により、最大投雪距離が17mから20mへ大幅アップした。

― 世界で数多ある除雪機の中から、なぜ貴社製品が選ばれているのでしょうか?

 技術面での強みなど細かいところは色々ありますが、世界有数の豪雪地帯である新潟県に本社を構える企業だからこそできたことかもしれません。弊社の除雪機は、新潟の雪で何度となく試されることで磨かれてきました。世界には同じような豪雪地帯が数多くありますので、基本的には各国別に開発し直すことはしません。弊社製品を受け入れてくださる場所を世界中から探すという考え方です。

 また、大手企業はスケールメリットを出す必要性がありますが、中小企業だからこそ、尖った技術や商品でニッチな市場に特化しても、採算が合うところがあると思います。弊社の場合、大手企業と競合しない業務用や豪雪地のヘビーユーザー、そして海外市場をターゲットとして、知る人ぞ知る商品をつくり、地球の裏側で一台でも求められれば届けるという営業スタンスです。商売ですから採算度外視というわけにはいきませんが、そのようなところに心意気を感じてください。

 もちろん、他社が全くできないという意味ではなく、程度の差です。その分、弊社の製品は安くはないので、その価格差を納得いただける方からご購入いただいていると私は理解しています。


◆ 雪国の生活を少しでも楽にして、豊かな生活を送ってほしい

― 「当たり前のことを当たり前に、地道に積み重ねる」時、貴社が一番大切にしている中軸は何ですか?

 私どもの目的は、雪国の生活を少しでも楽にして、豊かな生活を送ってほしいということ。それを今はたまたま「除雪機」という商品で具現化しているだけであって、そのために何をするかです。

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製造ラインの最終検査工程に製造担当者のみならず営業担当者も参画する仕組みを運用することで、ユーザーに近い立場の視点による検査の実施と、営業担当者の製品安全に対する意識向上を図っている。

 例えば、安全に対しても私どもはいち早く取り組みました。心臓ペースメーカーなど電磁波の影響を受ける医療機器を使用している方が除雪機を安全に使用できるよう、コストはかかりましたが、
電磁波対策を施したエンジンに切り替えました。また、販売後も安全講習会を開いています。単に自社商品が売れればよいのではなく、除雪機を使用している方の人生が豊かになることが目的ですから、安全講習会は弊社製品購入者に限定せず、希望する方ならどなたでも参加できます。他にも事故予防のための安全機能・仕様等の採用にも積極的に取り組んでいます。これらの弊社の製品安全に関する取り組みは、経済産業省「製品安全対策優良企業表彰」で優良賞を受賞しました。

 「これをやったから格段によくなった」というものではなく、重くて硬い雪を飛ばせるか、雪を詰まらせないか、事故を起こさないか、高齢社会でより使いやすくなるか等を考え、設計、製造、管理、営業、それぞれの部門の社員たちが、外からは見えないような改良を少しずつ積み重ねた結果です。ですから弊社152年の歴史を支えているのは、歴代社長ではなく社員です。社員全員が現状に満足することなく「今日よりも明日」、より良くしようと向上心を持ち続ける姿勢が大切なのです。


◆ 事業とは人を幸せにするためのもの

― それでは、貴社を支える社員に対する考え方について教えてください。

 弊社は、経済活動をする場であり、その活動を通じて、社員が豊かな人生を過ごす場です。ですから、ここでは政治と宗教の話は一切タブー、というのが私どもの考え方です。私は社員を採用した瞬間から、社員が心身ともに健康で、健全に現役をリタイアできるまで支えるのが、会社の責務だと考えています。

 事業とは、人を幸せにするためのものです。社員がここで「苦労も多かったけど、よい人生だったな」と現役世代を終えられるのが一番ですよね。その時、「会社や周囲のおかげで自分(社員)はここまでやってこれた」と思う気持ちが50%、「自分のおかげで会社はここまでやってこれた」と思う気持ちが50%で、リタイアの時を迎えられる人生が理想的だと私は思います。

― なぜその割合が理想的だと考えますか?

 慢心している人を見て素敵とは誰も思わないでしょう。けれども謙虚さも度が過ぎて卑屈になるのもいささかどうでしょうか。何より「会社の犠牲になった」だなんて、自分自身が惨めでしょう。自分の子どもや孫に語れるものがひとつもない人生なんて寂しいですよね。「これは私がつくった。そして生きた」という証が残り、そういう気持ちになれるのが半分。けれども、それができたのは会社や同僚、取引先、地域の人など周囲からの助けのおかげだと思うのが半分。それが人間として一番素敵ではないかと私は思うのです。難しいことですが、難しいからこそ挑戦しています。

 つい先日も、社員OBが小学生対象の弊社工場での仕事体験会にお孫さんを送ってくれました。「あの溶接職場は俺がつくったんだ、ビクビクしないで行って来い」と話していたことを聞いて嬉しかったですね。その方は「会社にお世話になったから」と色々な場面で協力してくださいます。そんな形が理想ですね。オンリーワンと言えば、弊社社員の15%強が大臣表彰を受けています。それは家族に自慢できることだと思います。会社も応援しますが、自ら挑戦したいと望む社員が多く、会社の応援と社員の努力がマッチした結果だと思います。

― 単に売れることだけ、コストだけを考えるのではなく、人間というものを大切にした中軸があるのですね。

 そうですね。今の時代、例えば1,000円コストダウンすれば、その分、製品価格を下げる企業が多いと思います。弊社の場合は、「その分、よい部品を買って性能を上げろ」と社員に指示する方が多いです。第一、「コストダウンだけしろ」と言われ続けたら、技術者は嫌になります。世間をあっと言わせるような新機能を開発して、一生のうち一回でも自分の技量を世に問いたいと願うのが技術者魂だと思います。弊社はその欲求を実現させてあげたいと思うのです。その結果、雪国の人の生活をより豊かにすることができます。


◆ 能力ではなく意識の問題

― 技術者の内発的動機付を基軸とした社風が根付いているのですね。それを社員全体まで根付かせることは現実なかなか難しい面も多いと思いますが、経営者としてどのような点を意識していますか?

 自然に成り立っていた社風です。創業時からこんな社風だったのではないでしょうか。ただ、それが実際に100%形になって、うまくいっているかと言えば、まだまだやることはたくさんあります。社員には常に「次はさらによくしよう」という、謙虚な気持ちになってもらう必要があります。簡単なことほど難しいのですよ。

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少量多品種の生産体制を実現した工場内のようす。同社では人の注意力に頼らない安全性の追求により、多様な人材を受け入れるシステムを築いている。部品の供給エリアでは、部品の受入と払出しは1台セットで行い各エリアへ。フォークリフト等の資格が必要なものは、「資格が要る=過去に何か危険なことがあった」という考えから同社では極力使用していない。代わりに荷台や作業台等にキャスターを取り付け、高年齢者や女性など力が弱い人でも楽に運べるようにしている。工場内の高さ制限は140 cmで、どこに誰がいるか一目でわかり、万が一物が落下しても頭に当たらない。工場内をフルフラット化するために、床の段差や柱は一切設けず、天井に配線している。


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電動ドライバー等の重い工具は天井から吊り下げ、作業負荷を軽減。工具を吊り下げるおもりが砂入りのペットボトルなのは、万が一紐が切れたとしても身体に当たった時の衝撃が小さくて済むようにとの配慮から。赤い紐はカツオの一本釣り用の丈夫な釣り糸を使用している(写真では、わかりやすいように、赤い紐を赤色で強調している)。

 優秀なのに自分の能力に気づかない人が多いと感じます。新潟県はそれなりに仕事をすればそれなりに食べていける恵まれた地域です。それは、上を目指すという意味ではマイナスです。ですから、社員に自身の能力に気づいてもらうためには、社員が「それはできない」と言いそうなことを、「やってみて」とやらせてみて、それを積み重ねるうちに「できていた」と気付いてもらう過程が必要です。

 弊社の工場も、昔は同一の製品を大量に流れ作業で製造するロット生産システムでした。それをブランドのシールを交互に張り替えるところから始めて、約25年たった今、気付けば、多品種少量生産に対応できるフレキシブルな生産システムを構築するところまで来ました。最初は「多品種少量生産対応型の生産システムだなんて、大手企業のやることで、まさか自分たちができることじゃない」と社員たちは思っていました。少しずつ色々なものを直していくうちに「できる」と思うようになりました。今では「このシステムじゃないと生産できない」と言っています(笑)。

 どの会社さんでも同じだと思いますが、優秀な職人ほど「これをやって」と言うと、「できない理由」が瞬時に出てきます。ですから、そのできない原因を潰せばできる、ということになります。つまり能力ではなく意識の問題です。「できない理由」が出てきたら、それをひとつずつ潰していく。すると気が付けば富士山の8合目まで登っていて景色が開けていた、ということです。


◆ 簡単なことほど難しい

― 「当たり前のことを当たり前に積み重ねる」ことを目指すが、「簡単なことほど難しい」と仰っていたことについて、他にも象徴的な例はありますか?

 基礎・基本は大切ですが、ややもすると、おざなりになります。例えば除雪機も、最近は電子制御に頼ろうとします。そもそもの機体設計が悪ければ、どんなにいじくりまわしても駄目なわけですよね。高度なハイテクの生産設備も、ローテクの知識があるからこそ活かせるのです。

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業界では実現不可能と言われていた多品種少量生産対応型の溶接システムを、若手とベテランの協同によって実現した、革新的な溶接ロボットシステム。「ものづくり日本大賞」優秀賞を受賞。

 弊社でも、おそらくこれから徐々に深刻な問題になるであろう課題のひとつは、経済産業省「ものづくり日本大賞」優秀賞を受賞した溶接ロボットシステムから生じてくるものです。導入以降、人間が溶接するところが極端に減りました。その結果、溶接工が昔は1年で経験していたような溶接技術の習得に、今では5、10年もかかるようになりました。それだけ社員の熟練に歳月が必要となりました。

 やはり20歳で覚えたものと30歳で覚えたものでは身体への染み込み方が違います。それだけでもハンデです。さらに基礎となるノウハウがなければ、いくらロボット化しても最後に誰がロボットに教えるのか? という問題が生じます。若い人はロボットの操作は上手です。しかし、どんな角度で溶接したらいいか、複雑なものをどの順番でどう溶接すれば、ひずみが最小になるのか等は、現時点では人間の経験と熟練技に敵うものはありません。今後登場すると言われるAIも、最初に誰かがプログラミングするわけですから、人間の基本知識が必要ですよね。

― 基本となる技術や知識の問題について、貴社ではどんな対策を行っていますか?

 ひとつは「ものづくり道場」をつくりました。これは新入社員全員が対象で、総務の女性でも皆が受けます。私も一期生で受けました(笑)。もうひとつは資格です。技術・技能のベースとなる要素技術の国家資格取得を推奨しており、ボーナスや昇給の加点ポイントとして評価しています。


◆ 豊かな社会人人生を送れるかどうかは、その人次第

― オンリーワン企業をつくる要は、"人"なのですね。三方よしで豊かな人生を送るために「今日より明日」の意識変革がオンリーワンをつくる鍵だと感じました。他にも社員の方に心がけて伝えていることは何ですか?

 社員には「よそでやっていないことをやれ」と言うことを心がけてきました。特に、若手社員が勉強する時には「あなた方のライバルは同僚ではなく後世の人間だ。後世に新しさを感じさせるものを研究しなさい」とよく言います。それに、「常識や定説は疑ってかかれ」とも言います。越後出雲崎生まれの良寛和尚(江戸後期の僧)が「何必(かひつ)」という言葉を残しました。定説を「何ぞ必ずしも」と疑い、もっと自由な心で物事を見て人生を過ごしなさい、という意味です。人は常識というものに縛られて、誰も不思議だと思いません。少し立ち止まってみて自由な発想で考えみると、ユニークな商品や仕事のやり方につながるヒントがあるかもしれません。

 また、「どんな仕事にも一流、二流、三流がある」ともよく言います。最近は一緒に行く機会は少なくなりましたが、昔は海外出張に行った時に時間があると、社員を一流レストラン等に連れて行き、「ドアマンだってボーイさんだって、一流レストランは違うだろう。どんな仕事でも、それをつまらなくするのもおもしろくするのも自分次第だ」と話します。自分がその仕事で世界一になろうと思えば、やることがたくさんあって楽しいと思います。一流を目指すのです。自分がやりたい理想と現実との差があるから、「今日よりも明日」の仕事があるわけで、一致してしまえば、もうやることなんてないですよね。

 モチベーションだって、自分の人生ですから、自ら出すべきものだと思います。「上司が悪いからやる気が出ない」と文句を言う人には、「嫌いな人のためにあなたの人生の大切な一日を駄目にするなんて、馬鹿げている。好きな人のために地球の裏側まで追いかけていく話はよく聞くけど...(笑)」と言います。毎日「嫌だ、嫌だ」と仕事をするのも一生です。一見つまらなそうな仕事でも、自分が世界一になろうと思えば、「今日は何をやろうかな」と色々な工夫や技の磨き方があり、楽しい一日になる。残念ながら、私はその域に達していませんが、そうありたいと常に思っています。

 人材育成も突き詰めれば、人が人を「育てられる」わけがないと思っています。人は「育つ」ものです。他人はチャンスという水際まで連れていけますが、その水を飲むかどうかは、その人次第。社会人人生という白いキャンパスにどんな色を塗るかは、その人次第です。


社長が二十歳だった頃

― 次に、藤井さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 人とは違うことをやりたい

 二十代の頃に考えていたことは、今やっていることとあまりに真逆です(笑)。まず新潟に帰って家を継ごうという気は全くありませんでした。当時と今の共通点は、「人とは違うことをしたい」という気持ちだけ。当時の常識は「よい会社に入って、終身雇用で会社に残り、できれば役員になりたい」というのが、一般的な大卒者の人生設計でした。そんな時代に、転職を重ねながら自分のキャリアを磨き、世界と渡り合いたいと本気で思っていました。実は国際金融に興味があり、卒業後は政府系金融機関でODAに関わる仕事をしていました。将来は、国際通貨基金や世界銀行で活躍することを夢見ていたのです。「自分の知識と腕だけで勝負し、自分の力量を世に試すんだ」と、裸一貫、自分の実力だけで自分の人生を歩みたいと思っていました。

 それが今では、70歳までの再雇用制度を整備して、5代目社長として4代目までの諸先輩方が残したものを引き継ぎ、後世に伝えることを一生懸命考えているわけです。全く真逆でしょう?(笑)。もちろん継ぐことは非常に難しいことですし、元手があることも恵まれていることです。これとは全く違う生き方を、若い頃は夢見ていました。自分で稼いだものなら自分のせいで失っても仕方がありませんが、諸先輩方や社員たちが得たものを自分の代で無くしてしまったら...と考えていたら、つまらない常識人になったと思います(笑)。

― その後、どのような経緯で、会社を継ぐことになったのですか?

 就職してからわずか半年後、父の見舞いのため新潟に戻ると、父は亡くなっていました。突然のことで考える暇もなく、また、新潟から帰してくれそうな雰囲気でもありませんでした。私が勤めていた会社に、勝手に退職届を出した社員がいるのですよ...。今になれば、そのことに文句を言うよりも、「この状況で今日は何をやろう」と思うのも、ワクワク・ドキドキの楽しい一瞬です。その方が自分にとっても幸せな人生だったと思うように、敢えて心掛けています。ただ、今でも海外に行くと、国際金融の世界で仕事をしたかった気持ちが疼くことはありますよ(笑)。若い頃の夢って、そういうものです。

― 「人と違うことをやりたい」気持ちは、今もずっと続いているのですね。なぜ「人とは違うことをやりたい」と思うのですか?

 学部で経済学を学んだ後、MBA(Master of Business Administration)を取得するために大学院に進学しました。今でこそMBAという学位は一般的ですが、当時、日本での認知度は低く、また文系の大学院進学者は教員志望者しかいない時代でした。それだけ世の中の極一部の人しか知らないことを勉強していると思うと知的興奮を覚え、2年間、寝食を忘れて勉強しました。人と違うことをやることは、こんなにおもしろいのかと思いましたよ。

― 先程の技術者魂を尊重する話とつながりますね。

 そうですね。ただ、これでも今は随分と丸くなったんですよ(笑)。ですから今の弊社社員は真面目なんです。この程度の私で驚いていたら、二十歳の頃の私を見てどう思うのだろうと...(笑)。

 うちの社員は、社長の意見に黙って「わかりました」と100%従う人は少ないのですよ(笑)。最後にちらっと自分の個性を出すんですよね。私が言ったこと100%その通りにはせず、「素直じゃないな」と思います(笑)。そういう反骨精神があるからいいと思うのです。


我が社の環境自慢

― 続いて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 多様性を尊重

 多様性を重んじる会社です。それを可能にするのは、先ほどお話した通り、宗教と政治は一切タブーという考え方です。ですから、弊社には高齢者の方や外国人の方、イスラム教の方もいます。自分の人生と会社のために一生懸命頑張る人ならば誰でも受け入れる点は、我が社の良い点だと思っています。

 もちろん何でもOKというわけではなく、社長の言うことには当然、従ってもらいます。その範囲で社員は自己実現をするわけです。「船頭多くして船山に上る」では困ります。この方向に行くと指示を出すのは社長の仕事です。それをどんな航海にするか、航海中どんな食事を出すかは、それぞれの船員たちの仕事でしょう。そこに創意工夫があると思うのです。

 組織ですから、それぞれの立場に範囲があるわけで、自分の持ち場の中におもしろさを見つけることが、その人の幸せではないでしょうか。「青い鳥」ではないですが、幸せは自分の気持ちの中にあると思うのです。そういう意味では私も「新潟に閉じ込められた人生」という言い方もありますが、ここにはここのおもしろい仕事があるから、おもしろい人生だと思います(笑)。


若者へのメッセージ

―最後に、今までのお話を踏まえ、若い世代にメッセージをお願いします。

 リベラルアーツ(教養)をもっと勉強してください。大学を含めて今の学校は就職予備校化していると感じます。小手先の技能や知識だけでは世界に通用しません。ものづくりも研究開発も、そこには、その人の哲学や価値観が必要です。そして、それを勉強でき、体得できるのは、若い時だけです。商品販売の前に自分を売らないといけないのですから、魅力のある人間になるためにはどうすればいいかを考えてください。それこそが本当の王道だと思います。

― 藤井さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 色々な人がいて、おもしろい会社
/須藤綾さん(入社2年目、福島県いわき市出身)

 ものづくりに携わりたいと漠然とですが思っており、大学まで説明に来てくれた同社の話を聞いて入社を決めました。今は部品の仕入れや納期管理等を担当しています。文系出身のため、わからない言葉も多くて仕事を覚えるのは大変ですが、新しいことなのでおもしろいです。これから色々勉強して、自分で考えてどんどん仕事を進めていけるようになりたいです。

 弊社の環境自慢は、高齢者や外国人の方など、色々な人たちと一緒に働けること。色々な人と話す中で、自分が「当たり前だ」と思っていることが全く違うことに気付くことが一番おもしろいです。また、弊社には独自の変わったルールがたくさんあります。色々なこだわりがあって、おもしろい会社だと思います。


◆ 会社の支援で博士号取得。挑戦する人を積極的に支援してくれる環境が自慢。
/栗原 信さん(入社10年目、大阪府出身)

 新潟大学大学院修士課程を修了後、弊社に入社しました。大学・大学院では工学部に在籍していました。大学3年生の時、副専攻制度を利用して農学部の農業機械に関する授業を受けたことをきっかけに、人間にとって無くてはならないものは、車やパソコン等より、生きるために必要な農作物だと考えるようになりました。そこで、自分の一生をかけて社会に貢献できる仕事として、農業機械メーカーへの就職を希望し、農業県である新潟県内で、自分の専門と希望を活かせる唯一の会社だった弊社1社のみを志望し、無事採用いただきました。

 現在は、商品開発部の制御グループで、主に弊社で製造している除雪機、草刈機、高所作業機等の制御ユニットの設計・開発をしています。これまで世の中になかった新しい機能を自分で考えて開発し、それが製品となって、お客さんに喜んでいただいた瞬間が、最もやりがいを感じる時です。

 弊社の環境自慢は、皆が仲良く仕事をしているので、人間関係のストレスがなく、仕事がやりやすいアットホームな雰囲気です。また、私のような若手にも、重要な仕事をどんどん任せてくれ、挑戦する人を積極的に支援して育ててくれる環境も自慢です。今から6年前に、会社から「博士号をとらないか」と、学費を出していただいて新潟大学の社会人博士課程に進学し、今年9月に無事、博士号を取得しました。博士課程で勉強した最先端の画像処理やAIなどの技術を弊社にも取り入れ、よりよい製品を他社に先がけて開発したいです。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.12】超ハイエンドな技術ニーズに応え続け、超精密基板の外観検査装置で世界トップレベル/インスペック(秋田県仙北市)社長の菅原雅史さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.12】超ハイエンドな技術ニーズに応え続け、超精密基板の外観検査装置で世界トップレベル/インスペック(秋田県仙北市)社長の菅原雅史さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年03月05日公開

超ハイエンドな技術ニーズに応え続け、
超精密基板の外観検査装置で世界トップレベル

インスペック株式会社(秋田県仙北市)
代表取締役社長 菅原 雅史 Masashi Sugawara

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.12)
 秋田県仙北市に本社を構えるインスペック株式会社(1988年設立、従業員46名、資本金8億1,112万円、東証第二部)は、半導体パッケージ基板を始めとする精密プリント基板を、画像処理技術で自動的に検査する装置を開発・製造する研究開発型メーカーである。画像処理技術、メカトロニクス技術、光学センシング技術という外観検査の三大要素技術すべてを社内に有しており、高速高解像度画像処理技術は、精密基板検査分野において世界トップのレベルにある。多くの技術蓄積とノウハウの裏づけから、オリジナルのハードウエア及びソフトウエアを開発している。特にCPU向け等の超精密基板等を対象とした、ハイエンドのスペックを持つ検査装置を得意とする。2014年10月、青森県弘前市に子会社を設立し、医療関連機器事業を開始。また、2015年4月にはスイスのプリント基板製造装置メーカーを子会社化し、事業展開している。2006年 経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」選定、2007年「第7回アントレプレナー・オブ・ザ・イヤ―JAPAN」において菅原雅史代表取締役社長が日本大会ファイナリスト7名のうちの1名として選出、2008年 経済産業省「IT経営力大賞」の「東北IT経営実践ベストモデル賞」認定。そんなオンリーワン企業であるインスペックがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の菅原雅史さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワンと言われる所以を教えてください。

◆ 超ハイエンドの光学式外観検査でグローバルニッチトップ

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精密基板用外観検査装置

 当社は、半導体パッケージ基板等の超精密プリント基板を検査する装置を製造しているメーカーです。プリント基板と言えば、一般的にはマザーボード等をイメージされると思いますが、半導体パッケージ基板は半導体チップを乗せるような超精密なプリント基板です。その中でも特に精密な、コンピュータの頭脳にあたるCPU向けの超精密プリント基板等に当社はフォーカスし、ハイエンドスペックな光学式外観検査装置を製造・販売しています。

 お客様の求めるレベルは自ずと精密になりますので、一般的な基板を検査する精密度では検査ができません。そこでお客様が要求する精密度を実現するカメラやレンズ、コンピュータのソフトを自社開発し、検査のシステムを構築しています。技術的にはハードルが高く、その開発には手間暇も費用もかかるため、市場規模はそれほど大きくはないですが、競争はあまり激しくない分野です。

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スマートフォンやウェアラブルデバイス等に使われるフレキシブルプリント回路基板(薄く柔らかいフィルム状の回路基板)を検査するためのロール to ロール 外観検査装置。

 基板の市場は、検査不要のローエンド、検査が必要で最も価格競争が激しいミドルレンジ、当社の装置でなければ検査できないハイエンドの3つに分類できます。微細なほど、またフレキシブルなほど、技術的な難易度が高まります。ミドルレンジの市場が数百億円から数千億円近い規模であるのに対し、当社がターゲットにするハイエンドの市場規模は数十億円程度のニッチな市場です。

 お客様も常に新製品を手掛けていますから、「新製品の開発時には足並みを揃えて一緒に開発して欲しい」と期待いただき、我々もその期待に応える形でお客様と一緒に進化し続けてきました。その分野で最先端の最も難しい要求レベルに常に応え続けることを基本方針とし、その基本方針をお客様から評価いただいてきた結果、「オンリーワン」という言葉が、ぴったりかはわかりませんが、それに近い形でビジネスを展開してきました。今後、半導体のレベルがさらに進化すると、超ハイエンドな技術ニーズは急拡大していくでしょう。AIやIoT、ビックデータ等に使われる半導体がそれで、まさに今それが起こりつつあります。

― そこに至るまでの軌跡を教えてください。

◆ メーカーになる夢を抱き、下請けからのスタート

 会社自体は私が29歳の頃、1984年に創業しました。ちょうどその数年前、米国でマイクロソフト(1975年~)やアップルコンピュータ(1976年~)などの新しくて有望な会社が伸びて話題になっていた頃です。当時はインターネットもなければ、パーソナルコンピュータもアップルコンピュータが世に出したばかりの頃でした。私は秋田県で起業することになり、その分野にも興味があったのですが、「この田舎では無理だ。ならば、ものづくりのメーカーとして生きていける会社になりたい。会社をつくる以上は大きくなりたい」と思いました。当時、ものづくりで世界に冠たる企業といえば日立製作所をイメージして、社名を「太洋製作所」としました(その後、画数がよくないことに気づき、社名を「大洋製作所」に変えています)。「いつかはメーカーになりたい」という想いを胸に、1984年から1995年までの11年間は下請けの仕事をしていました。

 起業から約3年間は、ちょうどフロッピーディスクドライブが世に出た頃で、大手電機メーカーから磁気ヘッド関係の下請けの仕事をもらいました。ところが、その会社はお役所よりも役所的な会社でして、我々が創意工夫をして「コストは下がり、品質は上がる」提案をしても、返事をもらうだけでも2ヶ月以上かかり、その上「勝手に工程を変えてはいけない。言われたことをやりなさい」と言われました。

 「このままでは将来性もないなぁ」と思っていた時、宮城県にあったソニーの子会社「プレシジョンマグネ(株)」から「磁気ヘッドを組立てて欲しい」という話がありました。当時はまだ「ソニー」の名が付いていない子会社で、地元からは「よく知らない会社だから、やめておけ」と言われました。けれども、小さな頃からソニーに対してよいイメージがあったので仕事を受けたところ、下請けながら非常によい仕事でした。我々が創意工夫して今で言う簡単なロボットを自分たちでつくり、何百人分の工程をロボットに置き換えてコストダウンを提案すると、現場の担当者が「いいね」と即断即決してくれ、さらにそのロボットをソニーが海外で使いたいと、大量に買ってくれたりしました。当社の業績もよく、ピーク時には120人の社員を抱えていました。今でも本社の隣に古い工場が残っていますが、ソニーの仕事を下請けしていた頃の工場です。


◆ 下請けの仕事がすべてなくなり、メーカーとして再出発を決断

 ところが1995年、それらの仕事をすべてソニー本体の工場で行うことになり、社員120人分の仕事がすべて半年間という猶予期間でなくなるという、大変な局面に遭遇しました。社員120人の雇用を維持できるよう、日本各地で様々な会社を訪問し下請けとしての仕事を求めましたが、ソニーの時のような仕事はなかなかありませんでした。

 非常に悩みましたが、その時に思い切って、下請けの仕事をしながら少しずつ培ってきた技術を本業にしよう。その時に、下請けをやりながら「いつかメーカーになりたい」という目標を持っていたじゃないか、ということに思い当たりまして、思い切ってメーカーとしての再出発を決断しました。そして、ほとんどの社員は再就職を斡旋し、その年の暮れまでに社員を40人、翌年1996年には29人まで、一人も問題を起こさず削減しました。そして、検査装置メーカーとしての再スタートを切ったわけです。その時、「生まれ変わる」という気持ちの切り替えがうまくできていなければ、早々に諦めて、別のことをやっていたかもしれません。幸いにして、ソニーの下請けをしていた時に培った技術の経験を、結果として非常にうまく活かすことができました。


◆ 最も難しい技術レベルの要求に応え続ける基本方針で差別化を図る

― メーカーとして、どのような事業を展開していこうと考えたのですか?

 メーカーとしてどのような事業をするか、色々な人に相談したり、悩んだりしたのですが、長期的に伸びていく分野として、半導体分野で事業を展開したいと考えました。我々に何ができるだろうと色々模索していた時、当時、「半導体のリードフレーム(IC等の半導体パッケージに使われ、半導体チップを支持固定し、外部配線との接続をする部品のこと)の検査に非常に人手がかかって困っている」と仰っていたお客様がいて、お話をよく聞いてみると、検査装置を切望していることがわかりました。そこで、技術的なハードルは大変高いですが、その検査装置を開発できれば大きな可能性があると考え、1996年から開発を始め、約1年で第1号モデルの検査装置をつくりあげました。

 その時、それまで全く関わりのなかった業種から半導体分野に新規参入したものですから、何かひとつ大きな特徴を持った製品にしなければ、お客様から評価いただけないだろうと考えました。そこで、「最も精密な検査ができるシステム」という基本方針で開発を進め、他社との差別化を図ったのです。具体的には、画素数が非常に多いカメラと、当時はまだ日本で採用されていなかった専用の画像処理ボードを用いながら、2000年頃までそのような形で開発を進めました。


◆ 運命の出会いで、精密基板検査分野で世界トップの画像処理技術を確立

― 下請けの仕事をしていた時に培った技術はどのように活かされたのですか?

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独自のアルゴリズムをベースとした画像処理システムと、最適化された照明システムにより、世界トップレベルの検査性能を発揮する。

 精密基板検査の心臓部は、画像処理システムです。我々がソニーの下請け時に学んだことは、精密な機械装置と画像処理でどのようなことができるかでした。ただ、ハイエンドスペックの画像処理システムを我々自身で開発できるようになったのは、2000年まで画像処理ボード開発元のカナダのメーカーと協力関係を結んだことに加えて、2000年から非常に高い技術力を持つエンジニアが入社したことが大きかったと思います。彼の貢献によって、画像処理技術による検査システム分野で、世界最高性能の装置を常に提供できる開発力を獲得することができました。

 彼は私と似たところがあって、小学生の頃から電気好きで、近所の人がラジオやテレビが壊れると、小中学生の彼のところに「修理してくれ」と持ってくるほど詳しかったそうです。大学でも電子工学を専攻し、当社に入社する前は別のベンチャー企業に在籍していました。彼と出会ったきっかけは、ある展示会で彼が一人で開発した高精度な画像処理システムを知り、当社の検査装置にぜひ使いたいと問い合わせたことでした。その後、彼のいた企業が別分野へ事業戦略を切り替えたこともあり、彼が「ずっと画像処理分野をやりたい」と言うので、「では、一緒にやろう」と当社に加わったという経緯です。まさに"ぴったり"でした。

 彼が入社する前は、カナダのメーカーとも非常によい関係を結んでいましたが、外部の力を頼りにする形でした。彼が加わったことで、自社の技術になったのです。彼が新しい技術を開発する過程で、優秀な若手エンジニアも入社して力をつけ、今日では若手エンジニアがしっかりと彼の技術を継承し、引き続き同じ戦略でハイエンドの画像処理システムを開発できるようになりました。特に30代のエンジニアの層が厚く、現在は彼らが開発の中心を担っています。


◆ 新しい製品やサービスの開発で、より力強い会社へ

― 今後の展望については、どのようにお考えですか?

 もう一回り大きな会社になれると思っています。今の時代、単純に規模が大きければよいというものではありませんが、質的に"強い会社"になるためには、ある程度の規模はどうしても必要です。そのために、これまで検査装置のメーカーとして蓄積してきた技術やノウハウ、ネットワーク等を活用して、検査装置以外にも、事業の力強い柱になるような新しい製品やサービスを少しずつ増やしていきたいと考えています。特に、検査装置とAIの技術の親和性は高いので、積極的に取り組むことで新たなサービスを提供できる可能性があり、すでに手は打ってあります。


社長が二十歳だった頃

― 次に、菅原さんが二十歳だった頃について教えてください。

◆ 「自主独立」の精神を培った高専の5年間

 私は秋田工業高等専門学校の出身で、二十歳はちょうど高専を卒業した年です。小学生の頃から機械や電気が大好きでした。小学5年生の時にはオートバイのエンジンがなぜ回るかを完璧に理解していたほどで、よくクズ鉄屋から真空管を集めては、自分ではんだ付けをしてラジオを作ったりしていました。ですから本当は高専の電気学科に入りたかったのですが、残念ながら成績が悪く、第二志望の土木工学科に入りました。今振り返ってみれば、高専に入学した15歳から25歳頃にかけての経験が、その後の人生を形作っていることは間違いありません。

 私は秋田高専に土木工学科が新設された年に入学したので、土木工学科の第一期生でした。秋田県全域や隣県から入学するため、学生寮に入る学生も多く、私もその一人でした。高専では年1回、学科対抗の大運動会が開催されたのですが、我々以外の3学科は1年生から5年生まで全学年揃っているのに対し、我々土木工学科は1年生しかいませんでした。それが「我々は土木工学科の第一期生だ。わずか40人で他学科と対抗するのだ」という団結心と自立心を育んだ環境だったと思います。

 人生で一番本を読んだのもこの頃でした。高専4年生の時、友人と読書競争をしまして、1年間に240冊、乱読しましたね(笑)。きちんと勉強もして本も読む仲間たちと、感受性旺盛な15歳から20歳までの5年間、切磋琢磨して過ごした経験は、私自身の根底に大きく影響していると思います。私は29歳で起業してから今年で34年になりますが、これまで一貫して拘ってきた「自主独立」は、まさにこの頃、その基盤が醸成されたと思うのです。

 さらに遡れば、私が5歳の頃に父親が亡くなり、私と当時0歳の弟を母親が女手ひとつで育ててくれました。母親からはずっと「お父さんがお前には好きなことをやらせるんだと、ずっと言っていたから、お前は好きなことをやりなさい」と言われてきた記憶があります。「自主独立」に拘る理由の根本には、その記憶があるのかもしれません。


◆ フランス文学にのめり込み森永乳業を退社

 二十歳で高専を卒業した後は、東京にある森永乳業に入社しました。実は、学生の頃から本や音楽が大好きで、密かに音楽家を志していました。フランス音楽への没頭をきっかけに、社会人になってからフランス文学に強い関心を持ち、22歳の時、フランス語を学ぶために東京のアテネ・フランセの一番難しいコースに入りました。そちらの方が忙しくなりまして(笑)、森永乳業を退社し、丸一年、人生の中で一番勉強しました。

 途中で音楽の道は才能がないと諦めましたが、そんな経緯でフランス語をマスターしたので、せっかくなら活かそうと思い、中東の石油プラント会社で、フランス語圏で従業員を募集している会社を何社か受けました。どの会社も三次面接まではいけるのですが、最後に「荒くれ者ばかりいるスラングだらけの現場で、きちんとした言葉ができるだけでは、仕事は務まらない。そのレベルではノイローゼになる」と言われ、落ちてしまいました。

 さて、森永乳業も辞めてしまったし、これからどうしようかと考えました。そこで、地元に戻って自分の得意なことをやれないかなと、秋田に帰ってきたわけです。ですから、格好いいものではなく、ある意味では、やろうと思ったことができなくて、地元に帰ってきたというところがありました。


◆ 色々な経験をしたことが後から必ず役に立つ

― その後、どのような経緯で、会社を設立することになったのですか?

 どうせ再就職するなら、自分の好きな電気系や機械系の会社に入りたいと思っていたのですが、秋田の田舎にそんな会社はほとんどありませんでした。さぁどうしようとなった時、秋田県の企業誘致斡旋事業担当の方が「電子部品を作っている誘致企業が、下請けを探している。やってみないか」と仕事を紹介してくれたのです。いずれは自分の会社を設立しようと自分で決めた時期でしたし、自分が好きだった分野につながる可能性がある話でした。それに先程もお話したように、アップルやマイクロソフトが話題になっていた時代でしたから、自分もそんな会社になれるようチャレンジしたいと思い、29歳で起業しました。

― それで先程のお話とつながるわけですね。現在の仕事と分野的には異なることに強い興味を持って没頭したことは、今振り返ってみると、今の菅原さんとどのようにつながっていると思いますか?

 冒頭にお話したように、自分にはこの技術の分野が合っていたと思います。創業時には、機械の設計から製造まですべて自分でやりました。今は社長という立場になると、大企業のトップや役員の方と話す機会も多いですが、若い頃に音楽や文学等、色々なことに没頭したおかげで、物怖じせずに話もつなげられますし、場合によっては話が盛り上がり、そこから付き合いが深まったことも事実ありました。色々な経験をしたことは、必ず大きく役に立つと肌身で感じています。

 論理的に説明できるわけではありませんが、今まで30年以上も会社を経営してきた中で、「明日はもう駄目になるかもしれない」という大変苦しい時期を3、4回経験しています。そんな時、色々な形で頭の中に入っている色々な人達の経験が自分の心の支えとなり、それがあるために、どんなことがあっても「それを乗り越える何かが必ずあるはずだ」と諦めず、折れない心につながっていると感じます。そしてどうにか切り抜けてきた自分の経験自体が今度は自分自身を支えてくれます。逆に「あの時、自分はやれたじゃないか」という経験が全くないまま順調に来た会社には、脆い部分があるのではないかと思うのです。

我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ ローカルで最先端の事業を行う企業

 非常にローカルな場所で最先端の事業を行っていることが、特に地元出身のエンジニアの雇用の場として、魅力のある企業になれたらいいなと思っています。地元、あるいは地元を出て大都市圏に就職した後に秋田に戻る人たちの多くは当社を見るので、ひとつの決断になりうるのかなと考えています。


◆ 自立したメーカーとして、すべて自分たちの意思で決められる

 当社に限った話ではありませんが、自立したメーカーであるということは、すべて自分たちで決められるということです。自分たちがどこに向かうか、何をやるか、すべてのことについて、誰かの意思に沿わなければいけないということは全くありません。もちろん、その結果の責任はすべて自分たちが負いますが、それが自主独立であることの一番の価値だと思います。ある企業のトップも「自分の運命は自分で決めなさい。さもなければ他人に自分の運命を決められてしまう」と言っています。「世の中の大半の人が気づかぬうちに自分の人生を誰かに決められているが、自分の人生は自分で決めなさい」という意味です。それは会社にとっても全く当てはまることだと思います。


◆ 素直な人が多い

 素直な社員が多い社風も自慢です。


◆ 会社の定着率がよい

 会社の定着率もとてもよいです。当社を辞めても、当社で培った能力を活かせる会社は他にあまり多くないので、「他社に移るから」という理由で当社を辞める人はほぼいません。

 私は、創業時から、色眼鏡で人の評価をしないことを徹底して心掛けてきました。ただ、社員から見て魅力的な会社かどうか、働き方改革や物理的な環境整備等、色々な改善が必要だと思いますので、これからも環境整備を積極的に進めていきたいと思います。


若い世代へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へのメッセージをお願いします。

◆ 自分の人生は自分でデザインして自分で作り上げて

 今の時代は間違いなくチャンスに溢れています。自動運転だって、つい最近までは想像ができなかった技術が実現されつつありますし、あらゆるものがインターネットにつながり、AIも登場し、そこからどんなサービスが生まれるか、無限の可能性があるでしょう。今の若い人たちは生まれたときからデジタルに触れ、物心が付いた頃からスマホを扱っているので、そこから新しいアイディアが生まれる可能性がたくさんあると思います。私の創業時に比べてチャンスが非常に増えていると思いますし、その挑戦を支援する制度も増えています。ぜひ大きな夢と目標を持ち、失敗を恐れず、自分の人生を大きくするチャレンジをしてください。それを誰かに言われてからやるのではなく、自分の人生は自分でデザインして自分で作り上げてください。そうすれば人生、後悔はないはずです。

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― 菅原さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 秋田にありながら、国内外から高く評価される企業
 /藤井豊さん (33歳、入社8年目、秋田県大仙市出身)

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 関東の大学に進学しましたが、いずれは秋田に戻ってきたいと考えていました。県外で一度就職してしまうと秋田で就職することが難しくなると考え、思い切って新卒から秋田で就職活動をする中、当社に巡り合いました。工学部で学んだ知識を活かして、ものづくりに関わる仕事がしたいとの想いから当社に入社して8年目です。現在は技術開発課の係長として、主に装置の電気設計、装置で使用する機器の調査・選定、仕上がった装置の動作確認等の作業を担当しています。

 我が社の環境自慢は、秋田に本社を置きながらも、国内のみならず海外にも事業展開し、国内外のユーザー様から高く評価いただけているところです。また、我々若手エンジニアが手を挙げると積極的に任せてくれる環境も自慢です。我々若手がどんどん先輩方の技能を吸収して、他社の追従を許さないくらい今後も頑張っていきたいです。ぜひ若い皆さんにも入社いただき、益々活気ある会社に一緒にしていきましょう。


◆ 少数精鋭でダイレクトかつフラットにコミュニケーションがとれる環境が自慢
 /高橋達さん(32歳、入社9年目、秋田県秋田市出身)

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 私も県外の大学に進学し、いずれは秋田に戻ることが確定していたので、県内企業も視野に入れて就職活動をしていました。そんな中、自分の大学から入社した先輩がおり、国内外で豊富な経験も積める当社に魅力を感じて入社し今年9年目です。現在は機械の設計を担当しています。

 我が社の環境自慢は、少人数のため、コミュニケーションが非常に円滑ということです。ものづくりをする中で製造からダイレクトに率直な意見を聞くことができるので、すぐに対応ができますし、上司とも壁なくコミュニケーションがとれるので、仕事がやりやすいと感じています。まだまだ勉強中の身ですが、自分自身のスキルをさらに向上させ、ひいては当社製品の品質を向上させることに貢献していきたいです。


◆ 自分の貢献が会社の売上に直結するやりがいを感じられる
 /宮越徹さん(37歳、入社2年目、秋田県仙北市出身)

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 県外の大学を卒業後、一度は東京に出ようと考え、都内のデジタルカメラの会社で11年間勤務しました。いずれは秋田に戻りたいと考えていたので、地元で有名な当社のことは知っていました。そんな中、たまたま菅原社長と出会い、また秋田に戻れるチャンスにも恵まれて、当社に受け入れてもらい今年で2年目です。

 当社に入社してからは、生活する環境が大きく変わりました。都内の平均的な通勤時間は往復2時間ですが、ここではまず車通勤ができる上に、移動時間も数分レベルで、ストレスのかかり方が全く違います。そこがもう環境として最高ですね(笑)。また、他の皆も言う通り、秋田にある小さな企業ながら、日本全国のみならず海外のお客様とも取引できる企業であることも自慢です。それに、自分の貢献が売上に直結する規模の会社であることは、我々社員にとってのモチベーションにもなるので、優位性を示せるものになると思います。

 現在は、当社として新たな価値を付加できる分野の調査から実装まで、先行開発的な仕事を担当しています。今研究していることをできるだけ早く製品化につなげ、当社のPRポイントにできるよう、これからも開発を進めていきたいです。


未来社会を創造する、真のグローバルリーダーとは?/中鉢良治産総研理事長と山形大学大学院生が座談会で議論

未来社会を創造する、真のグローバルリーダーとは?/中鉢良治産総研理事長と山形大学大学院生が座談会で議論

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 産業技術総合研究所(理事長:中鉢良治、以下産総研)では、将来のイノベーションを担う研究開発人材の育成を目的として、博士号を持つ若手研究者を産総研の特別研究員として受け入れ育成する「産総研イノベーションスクール」(※)や、優れた研究開発能力を持つ大学院生を産総研リサーチアシスタント(契約職員)として雇用する制度、全国の大学等での講演活動等、様々な取り組みを行っている。さる平成29年11月15日、山形大学フロンティア有機材料システム創成フレックス大学院(以下iFront)からの依頼で、中鉢産総研理事長と山形大学iFrontの大学院生9名との座談会が実現した。座談会は山形大学米沢キャンパス(山形県米沢市)にて開催され、「今後の社会に期待される博士人材とは?」をテーマに熱心な議論が交わされた。

※ 産総研イノベーションスクール:博士号を持つ若手研究者を産総研のポスドク(産総研特別研究員)として受け入れ、特定の専門分野について科学的・技術的な知見を有しつつ、より広い視野を持ち、異なる分野の専門家と協力するコミュニケーション能力や協調性を有する人材として育成する制度。博士人材の活動の場の拡充を目的に産総研が2008年度から開講し、スクール生は産総研の一員として研究を推進しつつ、講義・演習、企業研修を内容とするカリキュラムを実施する。これに加えて、大学院生のみを対象とする講義・演習からなる研究基礎力育成コースを2014年度から実施している。


◆ 今後の社会に期待される博士人材とは?

今野:山形大学iFront産学連携教授の今野千保と申します。本日は、産総研中鉢理事長を含む13名の方々にお集まりいただきありがとうございます。私事ですが、山形大学に赴任する前は中鉢さんと同じくソニー(株)に勤務しており、一時期、中鉢さんの組織下で薫陶を受けながら色々な新しい仕事にチャレンジさせていただく中で、自分自身、成長することができました。その雰囲気を学生にも味わってもらいたいと思い、本日は短い時間ではありますが、この場を設けさせていただいた次第です。座談会の参加者は、本学iFrontの学生9名です。iFrontとは大学院の修士課程と博士課程の5年間一貫教育で「未来のグローバルリーダー」を育成することを目的とした、文部科学省の「博士課程教育リーディングプログラム」平成24年度採択事業で、平成30年3月に1期生を輩出します。本日の座談会では、テーマに基づき多様な視点で議論することを通じて、学生が各自の考えを整理し、新たな気づきを得て視野拡大を図り、各自が目指す将来像にむけて新たに行動する契機となることを期待します。ここからは、学生主体で座談会を行います。進行はモデレーターの高橋君(博士課程2年)にバトンタッチします。

高橋(博士課程2年):モデレーターを務める高橋です。本日の座談会のテーマは「今後の社会(産業界&アカデミア)に期待される博士人材とは?」です。議題1で「今後における社会の変化と大学・公的研究機関・企業の役割について」を明確にした上で、議題2で「これからの社会でどのような人材が必要とされるか」を議論し、我々が目指すべき博士像と、そのために今なすべきことを明確にしたいと思います。


◆ "Know What "を追求せよ

高橋:それでは、はじめに私からブログなどで拝見した中鉢先生の意見を紹介させていただきます。「新しいモノづくりでは、未来社会で必要なものを知る"Know What"が重要となる。モノづくりが経済成長の源泉で多くの消費者に豊かさをもたらしてきた時代の「モノ」と、モノが溢れる現代の「モノ」とでは、自ずとその価値は異なる。かつての社会では消費者が欲しがるモノは何かを知る"Know What"が明瞭だった。一方でモノが氾濫している今日、何が有用で、何が不要か、未来社会で新たに必要なものは何かを知る"Know What"が重要になる。結果として研究の位置付けの変化が必要となる。これまで大学は基礎研究、公的機関は応用研究、企業は商品開発・生産と棲み分けの時代が続いてきたが、これは"Know What"の解決策にはならない。これまでアカデミアは研究論文の作成・発表が目的だったが、これからは研究を如何に社会に役立てるかが重要になる。したがって産学官が明確なビジョンを議論・共有することが鍵となる」と仰っています。

中鉢:最後は一般論になりましたが補足しますと、"Know What"の対語として"Know How"があります。かつてのモノづくりの時代では、メーカーは"Know What"よりも、それをどのようにつくるかという"Know How"、つまりコストとクオリティとデリバリーの3つが競争のポイントでした。学生が就職する時も、例えば「S社に就職して、テレビをつくる」というように、企業を選んだ瞬間に何をつくるかは既に決まっていました。しかし、"Know What"の時代においては、将来「テレビをつくる」ことが本当によいかを学生の間に考える必要があるということです。それは、アカデミアにも同じことが言えます。私も大学院では博士号を取得し、研究者を志した時期もあるので、自分の研究が我が子のように可愛く、研究を続けて結果を出した上で評価いただきたい気持ちは理解できます。しかし、自分の研究が25年後、50年後の未来に、本当に役立つかどうかを、研究者は考える必要があるでしょう。それが"Know What"ということです。
 ところで、議題1については、そもそも結論の出ない問題ではないでしょうか。今後における社会の変化なんて、正確なことは、誰にもわからないことです。産業界とアカデミアの役割については、だいたい予想される答えがわかるでしょう。敢えて議論する必要があるのか疑問ですが、私個人の見方を補足します。政府が第3期(平成18~22年度)から第4期(平成23~27年度)の科学技術基本計画を策定した時、私は内閣府の総合科学技術会議の議員として、その策定に関わりました。第3期では重点投資すべき8つの研究開発分野を決めて産学官連携の推進を図りましたが、現状で期待した社会・経済的な効果は十分に得られなかったと総括しました。このうち特に難しかった課題が、産学連携とモノづくりと人材育成の3つでした。そこで社会・経済的な課題を解決するための研究を推進するべきということで、第4期では「課題解決型の研究」を掲げていました。しかし、それでは基礎研究が疎かになるとの問題意識から、第5期(平成28~32年度)に入っていくわけです。要するに今、日本が総力を挙げて解決すべき課題が未解決の段階で「産学官連携を進めろ」と言っても、「それは大学の役割でしょう」「それは産業界の役割でしょう」と、何となく皆が「総無責任化」して元の木阿弥になるだけではないでしょうか。それが非常に問題だと個人的には思っていて、いろいろなところで書いているので、ここで繰り返しても仕方がないと思います。したがって、議題1の「アカデミアと産業界の役割を明確に」という問題設定がわからないのですよ。


◆ そもそも「グローバル人材」とは?

中鉢:それよりも私は、iFrontでどのような「グローバルリーダー」を育てようとしているのか、ぜひ皆さんに聞いてみたいのです。そもそも「グローバル人材」とはどのような人材だと皆さんは考えていますか? 米国などの海外では、「グローバル人材」と言っても意味が通じません。それが仮に「世界を舞台に活躍する」ことであるならば、「米沢で活躍する」ことは「グローバルではない」のでしょうか?

福田(博士課程3年):私の考えるグローバルリーダーとは、働く場は米沢でも、「明日米国に行って、こんな話を聞いてごらん」と言われ、障壁を感じず海外に行ける人材だと思います。普通の日本人学生は、英語を話せないとか、海外でのコミュニケーションの仕方がよくわからないことに、かなりの障壁があるからです。

中鉢:あなたは何年、英語を勉強しているの?

福田:中学生の頃から数えると、15年です。

中鉢:15年も勉強して英語が話せないのなら、グローバル人材になるには何をやればいいと思いますか?

福田:iFrontを始めてから英語は話せるようになりました。そこで一番ためになったのが「学んだことをアウトプットする機会」です。大学4年生まではただ知識を詰め込むだけでしたが、学んだ知識を実際に使う立場にならなければ、自分が本当に理解できているのかどうかの判断がつかないと感じました。

中鉢:学んだ知識を使う機会があると、ぐんと伸びるんだよね。そのためのカリキュラムであるべきですね。

梅本(修士課程1年):海外の大学と共同研究できる能力を持ち、その経験を用いて外から日本の問題を意識できる人だと私は思います。外からでしかわからない観点もあるのではないでしょうか。

中鉢:大事なポイントですね。

後藤(博士課程3年):日本だけにとらわれず海外の人とも積極的にやり取りができ、自分のやりたいことを対等に進められる能力を有する人材だと思います。

中鉢:すると、今あなたが山形大学で専門分野を身に付けていることは、非グローバル化の動きと言えますよ。

後藤:そうではないと考えます。例えば、世界で一番高いレベルで研究をしている時点で、「グローバル」と言えるのではないでしょうか。

中鉢:それは客観的に世界1位と言えますか?クラリベイト・アナリティクス(旧トムソン・ロイター)の高被引用論文数による研究機関ランキングで、山形大学は世界1位ではないですよ。

江部(修士課程1年):私は、日本人も海外の人も区別することなく仕事ができる人だと思います。

中鉢:そう言うのなら、国際交流に重点を置く、東京の大学の方が、圧倒的にそのような場は多いと思いますよ。なぜ山形大学なのですか?

江部:国によって、あくまで使用言語が異なるだけで、重要なことはコミュニケーションの障壁が無いことであると私は考えています。それは日本人に対しても同じで、山形でもその場は多いと思います。

榎本(博士課程3年):私の考えるグローバル人材は、どこにいても自分の能力を発揮できる人材です。そのために自分が取り組んできたことのひとつが、インターンシップです。私の専攻は化学系ですが、電気電子系の市内企業にインターンシップに行った時、専門用語が飛び交う中、日本人同士であるにもかかわらず、日本語が通じない事態に直面し、どうすればコミュニケーションを取ることができるか必死で考えました。専門領域や国が変わったとしても、自分の能力を発揮し、生き残れる人材がグローバル人材だと思います。

小松(博士課程3年):英語はあくまでツールであり、そのツールを用いて、メンバーの国籍によらず、プロジェクトの目的達成まで導ける人材がグローバルリーダーだと思います。

宮根(博士課程2年):私も、国籍や専門分野、バックグラウンドや価値観が異なる人をまとめられる人が、グローバルリーダーだと思います。その場とは、海外のみならず、別に米沢でもいいと思います。例えば、自分の隣にいる非常に変わった日本人とうまくやっていける人も、ある意味ではグローバル人材ではないでしょうか。

佐々木(修士課程2年):私も、文化の違いを受け入れた上で歩み寄っていける人材がグローバルリーダーだと思います。それは日本国内でも同じで、他県でも文化や政治等に関する考え方の違いがある中、それもひっくるめて歩み寄り、よい結論を導き出せる人材だと思います。


◆ 米沢でグローバル化は可能か

中鉢:はじめに福田君から「グローバルに活躍するには、英語のコミュニケーション能力がツールとして欠かせない。そのために一番効率的な方法は、実際に外国人と接することだ」という意見があったね。一方で、宮根君らからは「必ずしも海外へ行かずとも、米沢でもグローバル化はできる」という意見がありました。それでは、米沢でグローバル化するには、どうすればいいでしょうか? これはちょっと難しい問題です。「不可能」という答えがあってもいいですよ。

福田:私は可能だと思います。最近は研究成果もすべてインターネットにアップロードされ、世界中から簡単に見ることができます。その上で世界のどこかから、たとえ一人であっても、「おもしろい研究をやっているな」とこちらにコンタクトがあれば、米沢でもグローバル化はできるのではないでしょうか。

中鉢:評価されることだね。英語で書く必要はあるが、米国に行かなくとも、それは可能であると。

梅本:海外から研究者を招聘して、米沢で国際学会を開くこともグローバル化のひとつだと思います。iFrontでは学生主体の国際学会を毎年10月、山形大学米沢キャンパスで開催しています。海外から毎年約15人の研究者を学生自ら招聘し、第5回となる今年は約60人の方が米沢を訪れました。

後藤:海外の人から「魅力的で真似したい、技術を学びに来たい」と評価され、海外の人が米沢に来た時点でグローバル化だと思います。確かに山形大学はクラリベイト・アナリティクスの研究機関ランキングで世界1位ではありませんが、城戸淳二教授は、同社の「世界で最も影響力の大きい科学研究者(高被引用論文著者)」に4年連続で選出されています。私は「世界一の塊」で有機合成の研究をしています。

小松:私も後藤君と同じで、評価されることがグローバル化に必要だと考えています。私は城戸研究室で有機ELを研究していますが、城戸研究室が有機ELで世界一の技術を有するからこそ、世界中から著名な研究者を米沢に呼ぶことができます。私が城戸先生に憧れる理由は、まだ有機ELが流行っていなかった20数年前から、研究の種を見つけて研究開発を行い、今日のグローバルな環境があることです。城戸先生のように、私も研究の種を見つけて研究を頑張っていきたいです。

中鉢:では、城戸研究室に入ったことは間違いだったということになるのではないですか? 華やかな領域に入った時点で、その目的は達成されちゃうじゃない。まだ花開いていない、マイナーな領域で目指さなきゃ。

小松:今後、有機ELで身を立てようとは考えていません。

中鉢:米沢でグローバル化は果たせる。それは一流の人につくべきだ、と。

小松:いいえ、一流のことをすべきだ、と考えています。

中鉢::山形大学の有機分野に世界トップがあることはわかりました。しかし、するとなぜ米沢に来て有機合成以外の勉強をするのかという疑問が生じますよ。山形大学で城戸先生以外は全部ダメなの? ということになっちゃうでしょう。

宮根:私もやはり評価されることが必要だと思います。自分の研究で結果を出し、外国からも評価される必要があるのではないでしょうか。

中鉢:福田君が言ったように、研究者としてプロになり、かつ自他ともに評価される人材になることがグローバルに近づくことではないか。それは米沢でも可能だ、ということだね。

佐々木:グローバル化には異なる文化圏へ行くことが大切だと私は思います。そのためには、私は、米沢の外に出る方が得られるものが大きいと思います。

江部:異なる文化の人と関わることは、グローバル化の重要な要件だと私も思います。それは米沢の中でも、例えば地元の元気なおばさんから交流することも、その一歩となりうるのではないでしょうか。そもそもローカルのことを知らずに海外へ行っても、何がグローバルかがわからないと思います。

中鉢:ローカルな中にもグローバルの因子があるということだね。

榎本:グローバル人材になるための環境は米沢でもつくれると思います。そこで重要なのは、自分自身のモチベーションではないでしょうか。たとえ海外に行っても、自分自身が仲良くしようと思っていなければ、実際のグローバル化は進まないと思います。私はできるだけ、米沢市内でも自分の専攻とは異なる企業に入り込み、交流を図るよう心がけてきました。

中鉢:どんな目論見で交流を図っているのですか?

榎本:これから直面するであろう様々な困難に備えるための訓練です。実際に異分野の企業にインターンシップに行った時、最初の1週間は、同じ米沢にありながら、同じ日本人でも、意思疎通が十全に果たせない事態に直面し、苦しい想いをしました。そのような経験をする状況に自ら取り入れられる環境をつくることが先決だと思います。

中鉢:いいことを言いますね。では、山形大学と産総研からも「グローバル人材の育成」について、意見をぜひ聞かせてください。

高橋:山形大学の落合文吾先生、お願いします。

落合:私はiFrontの教育ディレクターを務める立場ですが、実を言うと、個人的には「グローバル人材」にはあまり興味がないのです。

会場:(笑)

中鉢:いやいや、私は賛成だ(笑)。特定の訓練を受けたからと言って、グローバル人材になれるというものではない。グローバル人材になりたければ自らなれ、なんだ。

落合:自分が好きなことを突き詰めた結果として、必然的にグローバル人材となる場合はあると思います。今の時代は日本だけで閉じて生きていくことが難しい社会ですから、グローバル化は避けられないでしょう。私自身も、同じ日本国内であっても地域によって固定観念が異なること、その差は海外でさらに大きくなるという経験をしました。これから商売等をしていく相手は、自分とは異なる観念を持つ相手ですから、自分の固定観念を打破することの重要性は感じています。ただ、それでは全員が全員、グローバル化する必要があるのか? といえば、それはよくわからないですね。

中鉢:とても賛成するところがあるのだけど、産総研から松田所長、お願いします。

松田:産総研東北センターの所長を務めている松田宏雄です。山形大学の学生の皆さん、流石によいことを言うなと思ったことは、まず、地元の人と話ができることが大事ですよね。私も、30年以上つくばで勤務した後、2年半前、仙台市にある東北センターに赴任した時、東北の皆さんと仲良くするために東北のことを一生懸命勉強しました。今日は皆さんから「国際的に仲良くする」のがグローバル人材だという意見が多かった印象です。一方、「世界と喧嘩して勝てる」人材という意見はなかったですね。「評価してもらいたい」って、どこか受け身ですよね。日本の人口は減少し、資源も食料も豊富にはありませんから、外国から買ってくる必要があります。そこで産業で勝ち抜くためにグローバル人材が必要だと議論されているので、「国際的に喧嘩して勝てる人間になろう」と思ってもらうことが大事だと感じました。

中鉢:「グローバル人材とは世界で喧嘩して勝てる人材だ」と言った人がいました。ソニー創業者の盛田昭夫さんです。彼の口癖は「Think globally , Act locally.」でしたね。

今野:盛田さんは、ご家族とともに米国ニュージャージー州に移住した時、「モノをつくる技術と考え方の物差しは、国際的な基準でなければいけない。しかし顧客のニーズは、ローカルで生活して体験し、はじめてわかるものだ」という趣旨でそう仰ったと理解しています。

中鉢:私個人の話をすると、私の生まれは宮城県大崎市の鳴子町で、まわりには山しかなく、毎日が同じ風景でした。次男は家を出る必要があったので、非常にドラマティックな気分で仙台に出てきました。仙台の高校に入り、仙台の大学に入って、仙台から通える企業に勤めることになったので、自分は世界で一番幸せだと思っていました。家族を第一に考えれば、仙台にいることが一番ですから、仙台を離れることに関し、私は極めて保守的だったのです。それが全く私の意に反して、社長から突然「米国に赴任してくれないか」と命じられました。それで米国に渡り、大変な思いをして戻った後はずっと東京で、以来、故郷には帰っていません。企業の社長という立場になれば、世界を舞台に仕事をする機会は増えるので、仕事をこなすうちに少しずつ「世界を股にかけて仕事をしている」と実感したことは事実です。しかし、「これがグローバルだ」と意識したことはないです。つまり、集中訓練を受けて「自分がグローバル人材になった」という実感が生まれたわけでなく、ひとつひとつ、現実世界からのフィードバックを受けながら学んできたのです。
 ただ、訓練で「役に立った」と思ったのは、ある外資系コンサルティング会社が主催した、世界に通用するビジネスパーソンを10年間で1,000人養成しようという研修プログラムへの参加でした。最初の1ヶ月は日本で合宿し、次の1ヶ月は米国、最後の1ヶ月は欧州で、世界のビジネスを学び、使用言語は基本的に英語でした。海外に行く前は「グローバルは知らない、ローカルは知っている」という錯覚があったんですね。知らないことは不安だからグローバルに対する不安感がある。けれども海外に行っただけでも「大体こんなものか」と覚悟のようなものができ、本当に少しずつ、1mmずつですが、徐々に普遍性のようなものを感じるようになりました。それが成長だと私自身は感じました。

高橋: iFrontでも海外での長期インターンシップを課しています。それに関して学生から意見をお願いします。

小松:中鉢さんも仰ったように、iFrontでは自分の希望とは関係なく学生全員が半年から1年間、海外に派遣されます。私もドイツで約9ヶ月間の研究生活をする中で、多少の違いはあれども、研究スタンスは結局「日本と一緒だ」と感じました。そのような経験を積ませてもらえることは、このプログラムのよい点だと思います。

中鉢:アナロジーだね。「ここが違う、ここが一緒」というデータベースが増えてくると、次回海外に行った時、学んだことを実践し、それで失敗するかどうかを検証しますね。それが「同じ」となれば、高い精度で「これは正しいのではないか」とわかってきます。それが「経験」というものです。


◆ "こだわり"は捨てるべきか

中鉢:先程意見があったように「固定概念を捨て、物事を俯瞰的に見る」という能力も非常に重要ですが、世の中のことがわからないのに、世の中全体を完璧に見ることなんかできないですよ。それに、"こだわり"を無くすわけにはいかないです。"あなた"から"こだわり"を引けば"ゼロ"になります。つまり、自分が一番大切だと思っていたものがなくならない限り、こだわりはなくなりません。なぜなら、それは自分のコアだから。理屈では皆さんは「こだわりは捨てるべきだ」と言いますが、こだわりを捨てたら、あなたに何が残るのですか? 自分のこだわりをアイデンティティだとすると、皆さんのアイデンティティの中に非常に矛盾に満ちたものがあるはずです。例えば、自分はグローバルになりたいけど、すごくドメスティックだなとか。それを「絶対矛盾的自己同一」と、約100年前の哲学者の西田幾多郎さんが言いました。基本的に矛盾した世界がリアリティですよ。「この矛盾はどこに行ってもあるんだな」と感じるには、生まれてから65年はかかると私は思っているのです(笑)。そういう矛盾に対して、学生の頃は強い反発を覚えたものですが、それと共存しながら色々なことを学んでいくのでしょう。未だ何者でもない学生の皆さんは、むしろ今、こだわっていいのですよ。

福田:私はこれからの社会で、"こだわり"は無理にでも捨てる必要があると考えています。私自身「有機合成だ!」とこだわるあまり、だんだん自分の技術に酔ってしまい、例えば新しい材料をつくる時、つい複雑なプロセスで実現しようとしがちです。しかし、本質を見つめ直し、別の視点から見れば、シンプルな別のよい方法があるかもしれないし、有機合成すら必要ないかもしれません。自分自身を変えることは非常に難しいですが、自分の環境を変えることは比較的簡単にできます。環境を変えれば、それに応じて自分も徐々に変化するので、自分の専門領域に対する"こだわり"から敢えて飛び出してみることが、これからは必要ではないでしょうか。

中鉢:大事なことに気付きましたね。福田君の意見に対して、産総研側からコメントを。

中岩:産総研の福島再生可能エネルギー研究所で所長を務めている中岩勝です。米国に代表される多様性に富んだ社会の中でこそ、自分が生きる上で"こだわり"が必要ですし、多様性を受け入れることと自分がこだわることは矛盾しないと思います。例えば、「クールジャパン」という今日の日本の強みも、日本が文化や技術にこだわっているからこそ、世界に注目され、グローバルに通用しているのではないでしょうか。

中鉢:"こだわり"について、山形大学の野々村美宗先生からも、お願いします。

野々村:私の研究対象である化粧品は、グローバル化しやすい領域です。なぜかというと、「美しくなりたい、美しくしたい」という価値観は世界共通だからです。私は"こだわり"とは武器であると捉えています。私の武器に興味を持つ人たちが世界中にたくさんいて、女性を如何に美しくするかを一緒に考えることに、国や会社の垣根はほとんどありません。私自身、グローバル人材ということを意識したことはなく、英語も達者ではありませんが、私の武器を皆がおもしろがってくれることが楽しいです。ですから私は、iFrontの5年間で、学生の皆さんに多くの武器を持ってもらいたいと考えています。

中鉢:技術者、研究者として活動していく根底には、"Something like philosophy(哲学のようなもの)"を持つことが必要です。そして、研究者や技術者の倫理等々、コアとなるルールを共有した上で、"尖った"ところをリスペクトしなければ、多様性というものがバラバラになってしまいます。その上で、自分は「そこは譲れない」というものを堂々と主張し、相手に認めさせることが、"こだわり"ではないでしょうか。すると、だんだん自分に役割がまわってきて、「自分も第一人者になったのかな」と実感し、やっと自分を認めて、少しずつ安心できる。そうやって人は成長するものだと私自身は感じます。自分で思うだけなら、単なる自惚れですからね。

福田:自分の"こだわり"をつくることについては賛成です。しかし、それを相手に押し付けるのは、いかがなものでしょうか。

中鉢:それは、学習効果ですよ。こだわりを相手に主張して、「これをやったら嫌われた」「これをやったら好かれた」という経験を積んでいくと、だんだん嫌われることをやらなくなります。最初から自分がこだわったことがすべて社会に受け入れられるとは限りません。私だって、これまで圧倒的に失敗の方が多いですから。

福田:基本的に自分が話したいことを話しても相手は全く聞いてくれないので、相手の興味を引き出しつつ話す必要があると思います。そのためには、日本人は苦手なことですが、「相手の利益になりますよ」という"したたかさ"を養う必要性があるのではないでしょうか。iFrontでは発表の機会を多く与えられます。その相手は専門家の時もあれば非専門家の方、一般の方々の場合等々、毎回オーディエンスが変わるため、相手の反応を見つつ、話し方を変えなければいけません。そのトレーニングが役に立つと思いました。

中鉢:福田君は十分その能力を持っていますよ。それは何かというと、「率直にものを言う」ことでしょう。企んでは駄目です。わざとらしくないのが人の共感を呼ぶのでしょうね。

福田:それは生まれ持っている人だけができることではないでしょうか。

中鉢:そんなことはないですよ。皆、努力しているのです。例えば、茶道や武道等でもわざとらしいのは、いけないのです。では、それは自然に知るものですか? というと、そうではありません。日本では伝統的に、まず型を守ることから始まり、型を破り、型を離れる、それが道の極め方であると言いますね。けれどもその型を真似るだけでなく、型の中に心を込めなければいけないのでしょう。そして心を込めると、また新たな型ができると思います。


◆ 部分最適と全体最適のジレンマ

中鉢:いずれにせよこれからの社会は"Something like global"になるでしょう。世界との関わりなくして社会も経済も成長しないので、世界に対してよりオープンになる必要があります。そこで私は、「持続可能性」について言及したいと思います。それには、まず歴史を振り返って産業革命の意味を考える必要があります。これは全くの私見ですが、産業革命に必要な要素は3つあり、1つ目は圧倒的なイノベーション、2つ目は資源、3つ目は資本だと思います。この3つが揃ったのが、イギリスにおける産業革命です。ところが、それから約300年が経った現在、技術はリスク社会を生み、資源は枯渇し、資本は格差を生みました。つまりこの3つによる産業革命のコアが壊れたのです。したがって、産業革命の延長線上ではない、新しい価値観に基づいた「持続可能な社会1.0」をつくる必要があります。これが"What"を探す時の基本です。皆さんが取組んでいる一つひとつのことは、25年後、50年後、持続可能な社会に本当に役立ちますか? と、自分の胸に手を当てて考えてください。つまり、「未来に対してアウトリーチせよ」ということです。持続可能性とは、「今を続けること」ではなく、「未来に手を伸ばすこと」であると私は考えています。では、その"What"を探すのに誰が一番近いのか? と言えば、未来に「生きたい」という願望が未来技術を生むと私は思っています。そもそも温暖化や大気汚染で困るのは、地球ではなく人間です。「地球に優しく」と問題をすり替えるのではなく、未来社会の「人間に優しく」するにはどうすべきか。それこそが、人類が総力を挙げてグローバルレベルで解決しなければならない課題ではないでしょうか。

高橋:未来に対するアウトリーチについて、産総研や山形大学からご意見をお願いします。

伊藤:産総研東北センターで所長代理を務めている伊藤日出男です。全世界的に持続可能性が重大な課題である今、求められるグローバルリーダーとは、「自分のやりたいこと」が「地球のため、人のためになる」という「良い巧み」をできる人材だと私は思います。しかし一人の力でできることは限られているため、良い巧みをするにはキーマンと連携する必要があり、そのためには相手からリスペクトされる必要があります。そこで必要なことが、ここだけは誰にも負けないという、自分のアイデンティティを持つことです。さらに世界中の多様な人と連携して良い巧みをする時、必ずしも相手が自分を理解してくれるとは限りませんが、少なくとも相手にも自分とは別の一本の芯があることを受け入れ、良い巧みができる人になって欲しいです。良い巧みをする相手にリスペクトされるためにも、人類が生き残るためにベストを尽くすためにも、学生の皆さんは今をぜひ頑張ってください。

中鉢:それは現実には難しい問題ですよね。部分最適と全体最適のリアリティは、その真中にあるから。部分最適とは一番細かくすると自分自身、全体最適とはグローバルと考えた時、「自分は生き延びたい」と思うのはエゴでしょう。けれども、それは社会のためにはどうか。「『地球のためによくない』と口で言うことはあっても、それは自分のためにやっているものだ」と考える人もいれば、「自分を犠牲にしてでも地球のためにやろう」という人もいます。これは相矛盾して、どうもこれは「性は善なるもの」「性は悪なるもの」と考える人の二つに分かれるようです。そう区別して、その時その時で判断する二重人格が圧倒的に多いですよ。それがリアリティというもの。「良いことはしなさい、悪いことはするな」と言われてもなかなか難しい。約2,500年前に釈迦が言ったことを今でもできかねていて、仏教の教えとして扱われているのですから。まずは難しいものである、という認識が必要ですよね。
 学生の皆さんは今こだわりをつくる段階であって、捨てる段階ではないですよね。人生まず何でもかんでもやってみたらいいでしょう。良いものと悪いものを区別する必要すらありません。そして、それを評価するのは少し経ってからやった方がいい。良いものかどうかは、65歳くらいになってからわかるものですよ。悔しかったら65歳になってみなさい(笑)。すると、若い頃は如何にくだらないことを考えていたかがわかるでしょう。


◆ 「役に立たない」ことは無駄か

福田:もともと私は専門分野以外にも興味があり、学部時代も本を読んで勉強していました。研究室に入ってから、結局、それが何の役にも立たないことがわかりました。ですから、今の私の考え方としては、自分が本当に必要なものに対して自分勝手になれる人の方が、結局は得をしていると思います。しかし、それでは持続可能性とは反するため、国などが「人間のため」「未来のため」に頑張る人を評価する必要があると思います。現状そうなっていない中で、頑張る意味はあるのでしょうか?

中鉢:若いうちは、「役に立たない」と思うんだね。私は大学院で鉱山学を専攻して博士号を取得し、ソニーに入社しましたが、大学院で学んだ専門知識は直接的には役に立ちませんでした。"無駄なこと"をたっぷりやったわけです。しかし、かつて研究者を志した経験は、65歳になって、産総研という研究機関に入ってから大変役に立ちました。また、研究のプロセスで学んだことや、当時は不条理だと思った先生からの叱咤激励も、今になってみればそれらの経験が自分にとって必要な資質になったと思います。つまり、自分の経験が自分の人生のどこでどう役立つかはわからないものです。ですから今はできるだけ"無駄なこと"をいっぱい経験して、いっぱい引き出しを持つことの方が大事です。

福田:唯一、今のところ役に立っているのは、他の人と話ができることくらいです。

中鉢:他の人と話をすることは大事なことですよ。皆さんが学んでいるような勉強は、ほぼ独学でできますが、唯一できないことがあります。それは、果たして自分のレベルはどこか、というベンチマークですよ。昔は、大学の研究室で参考書や論文を読んでいると、先生から怒られたものです。「研究室は勉強する場所じゃない、実験する場所だ」と。それで生協に行って先輩と飯を食いながら、だらだらと話すのがいいんです(笑)。非常に効率が悪いのですよ。寮に帰れば理系も文系もいて、酒を酌み交わしながら「お前はどんな研究をやってるんだ、意味ないだろう」とか言われてね(笑)。勉強は自分の部屋で静かにやるものです。そうやって自分が実力を付けたかどうかが、自分でわかるのです。

中岩:iFrontで、いわゆるダブル・ディグリーのように主専攻と副専攻の教育をしていることは重要なことです。ダブル・ディグリーの基本的な考え方は、2つの分野を見ることで2倍わかることが目的ではなく、異なる世界の存在を理解することで、多様性に対応できるベースをつくることに意義があります。また、生物に例えるならば、変化の激しい環境の中でどの遺伝子がいつ役に立つかわからないからこそ、すぐに発現しない遺伝子を多く保持する生物が生存競争を生き抜いてきました。つまり、今まで経験していないことを経験しようとこだわりを持ちながらやることが大切であって、今までの経験は全く無駄にはなっていないのです。

福田:そう仰っていただけると、大変有り難いです。今まで自分は無駄なことをしてきたと思っていたので。


◆ 自分が決めたことが正解

中鉢:学生の間に得て欲しい資質について、産総研イノベーションスクールで前事務局長を務めた一木正聡さんは、どのよう感じますか?

一木:熱意を持って取り組むことですね。はじめは「大丈夫かな」と心配になるような言葉遣いやレポートの書き方だったスクール生が、企業インターンシップの辺りから見違えるように成長し、企業からも気に入られ、そのまま就職先も決まるような、そんな成長に寄り添えることが育成する側としては楽しいです。

中鉢:私も大学院にいた頃、何となく"大学院の学生"に就職したような気分でした。「次は社会人か、なりたくないな」というモラトリアム意識があったのです。一木さんが例に挙げたスクール生は、私から見ると、とても幼いと感じます。自分の考えを言葉にすらできないドリーマーです。それでも顔つきが変わっていくのは、自分も実社会に関わらなければ大変なことになると、実感としてわかってくるからではないですか。スクール生は依然として研究者志向が強いと思いますが、色々なことを経験する意味では、企業の方が合っている人もいます。自分がどちら向きか、楽観的に考えて判断するのがよいでしょう。環境があなたの進むべき道をつくってくれますから。つまり、自分が決めたことが正解です。決められないのは自分の修行が足りないからであって、相手が悪いなんて思ってはいけないのです。

福田:iFrontの5年間で、決断に悩むことはあっても、結局「えいや」と決めてしまえば、案外できてしまうものだという実感を得ることができました。

中鉢:どっちに決めても大したことがないということが、だんだんわかってくるでしょう。そうじゃないところでこだわって、しがみついているだけです。その握っている手を離した方がリラックできますよ。

高橋:それでは学生から、iFrontでのトレーニングを通じて自分が成長したこと等について、感想をお願いします。

佐々木:私にとっては、知識が増えたことより、考え方が変わったことが大きな収穫でした。iFrontでの様々な経験が、私の人間性に大きな変化をもたらしてくれたと思います。特に先生や先輩方と議論させていただく中で、自然現象から法則を見出し、それを用いて新しいものを創造するという科学・技術のおもしろさがわかったことが一番の収穫でした。海外でも他の文化に触れて、自分の中で噛み砕いて自分自身の法則性を見出していく過程は楽しいですし、自分の性に合っていると感じます。できればこのまま続けていきたいです。

江部:iFrontで先輩方や企業の方々と直にお話したことを通じて、研究者としての将来像を描けていることが、私にとっては一番の収穫でした。

中鉢:すべてを吸収する気持ちで一年一年を大事に取り組めば、圧倒的な経験量になります。それを絶対に止めてはいけないし、ぜひ続けてください。

梅本:グローバルリーダーとは何か、iFrontに入る段階から問われ続け、今日も問われました。その都度、たとえ不完全であっても現時点での自分の経験と知識を駆使して答えを導く過程がよい経験になったと思います。完全な知識や経験にこだわるのではなく、今ある知識や経験で自分なりの答えを出し発信していく積み重ねが重要だと考えるようになりました。

中鉢:でも、現実に妥協してはいけないでしょう。完全を目指す志は若々しくてよいと思うけどな。完全を目指して、どんどん不完全になってくる、そのことがだんだんわかることが大切なプロセスだと私は思いますよ。

後藤:iFrontで米国に留学した時、日本で自分がやってきたことが米国でも通用した上に、米国トップの研究室より優れている点もあったことが、大きな自信となりました。将来の研究像を描く時、その自信が役に立つと思います。

榎本:私はもともと基礎研究を行う研究室に所属していますが、留学先のボルドー大学では、会社との共同研究で最終的なゴールが設定されている中で、自分がその一部を担う体制を経験しました。毎日の議論でその日のうちに研究の方向性が修正されていく過程を経験できたことが、帰国後の研究室生活でも活かされています。また、ボルドーの街中では英語があまり通じなかったため、フランス語で積極的に伝えようと試み、最終的にはある程度通じるようになったことが、私にとっては嬉しい体験でした。さらに、iFrontの学生同士で、与えられた課題に対して全力で議論した経験を通じて、普通にドクターを続けていただけではおそらくできなかったであろうネットワークを築くことができたことも、思わぬ収穫でした。

小松:私も、iFrontを通じて博士号取得を目指す学生たちが研究室の垣根を超えて集まり、iFrontの寮でお酒を飲みながら自分の研究や将来の話をしたこと、おもしろい人たちと出会えたことが、当初は予期していなかった収穫でした。

宮根:iFrontでの経験から「物事はなるようになる」と実感できるようになりました。自分の研究を英語で発表する機会を多く与えられ、最初は日本語でのプレゼンですらままならない状態だったのが、自分の力で何とか乗り越えた経験が、自分の自信につながりました。海外の企業にインターンシップで行く前は、本当に自分一人でやっていけるのか不安で怖かったのですが、日本に帰る頃には帰りたくなくて泣いたほどです(笑)。


◆ 熱意が未来社会を創造する

高橋:今日の議論をまとめます。グローバル人材とは、経験を積み重ねる中で、少しずつ実感するものであり、ひとつのことを究めこだわることが大事という意見が出ました。また、「自分が決めたことが正解」と考えると、我々がiFrontで行っていることは決して間違いではなく、中鉢先生の言葉を借りれば、どんな世界を自分たちが創造したいか、情熱を持って取り組んでいけば、日本を牽引するグローバルリーダーになれるのではないかと思います。最後に、山形大学からiFrontプログラムコーディネーターの飯塚博先生、産総研から中鉢先生、コメントをお願いします。

飯塚:皆さんの議論を伺って、ひとつ思い出したことがありました。本学工学部教職員有志が取り組む子どもむけの移動化学実験教室があります。その教室では、化学の実験を行うだけで、理屈は敢えて教えず、「すごい、なぜ?」と聞く子どもたちに、「なぜだろうね、山形大学に入学してきたら教えてあげる」と答えるそうです。その理屈が頭でわかるという道筋ではなく、「わぁ、おもしろい」と心の方が動き始める。その心を動かすために化学実験教室を行っているわけです。皆さんのお話を聞いて、大学院生になっても、頭よりも心の方が動き出すという経験が想いや熱意となり、個性になっていくのだろうと感じました。ぜひ色々なものに出会った時、頭で考える道筋ではなく気持ちの方で受け止められるといいですね。そのことが個性豊かな人材をつくると思います。

中鉢:客観的に見れば米沢は、色々な意味で、決して恵まれている土地ではないと思います。しかし、その中にあっても何とか成長させようという環境がよいのですよ。「何か満ち足りない」「きっと、どこかに別の世界があるんじゃないか」と感じること、それがエネルギーになるのです。私自身も70年の人生を振り返り、田舎で育ったことがよかったと思っています。都会から見ればハンデですが、その環境でやったことが自分のDNAをつくっているからです。その意味で米沢にはとてもよい目標があるし、すべてが揃っているわけではないけど、それが環境として素晴らしいと思います。iFrontの学生の皆さんはよく育っていると感心しました。
 最後に私が体得した法則を3つ挙げます。第一法則、今は続かない。それはまだ何も決まっていないから。第二法則、人生ずっと思うようにはいかない。第三法則、無駄なことは何ひとつない。以上。

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学生:本日はありがとうございました。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.13】特殊カシメ接合や高効率モーターコイルのオンリーワン技術で、次世代自動車に革新/アスター(秋田県横手市)社長の本郷武延さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.13】特殊カシメ接合や高効率モーターコイルのオンリーワン技術で、次世代自動車に革新/アスター(秋田県横手市)社長の本郷武延さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年03月12日公開

特殊カシメ接合や高効率モーターコイルの
オンリーワン技術で、次世代自動車に革新

株式会社アスター(秋田県横手市)
代表取締役 本郷 武延

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.13)
 秋田県横手市に本社を構える株式会社アスター(2010年設立、資本金9,000万円、従業員65名)は、自動車関連、産業機械、医療器具関連の部品の製造をしながら、他社につくれない「オンリーワン技術」の開発に注力しており、特に特殊カシメ接合や高効率モーターコイル製造等の技術に強みを有する開発型企業である。特殊カシメ接合技術では、これまでにない接合強度を実現。スポット溶接やリベット等を使用せず、曲面接合、多点同時接合、異なる板厚の接合及び異種接合が可能であり、従来のスポット溶接に比べて設備費、消費電力、接合コスト等の面で優位性を持つため、多くの企業で採用されている。高効率モーターコイルの製造では、独自の積層技術により、モーターの小型化・高出力化を実現する銅線占積率90%以上の高密度な省エネコイルの開発に成功。コイルの量産技術を確立し、世界中の大手自動車メーカー等から注目を集めている。他にもLED照明や融雪装置等のヒット商品を生み出している。また、独自の厳しい社内検査基準に基づく不良ゼロ運動の成果により、取引メーカーから「管理検査認定工場」としての認定を受けている。2012年・2013年 経済産業省 中小企業ものづくり高度化認定、2015年・2017年 戦略的省エネルギー技術革新プログラム(NEDO)提案テーマ採択、2016年 経済産業省「はばたく中小企業・小規模事業者300社」認定等。そんなオンリーワン企業であるアスターがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の本郷武延さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワンと言われる所以を教えてください。

◆ 秋田で雇用を守るには、オンリーワン企業にならなければ生き残れない

 もともと私が勤めていた会社がこの場所にあり、その会社は大企業からの下請けで部品加工を預かって生産していました。1本社5工場を持つ非常に収益率の高い下請け企業でしたが、リーマンショックの後、急激な受注の減少により、秋田工場の閉鎖を決めたのです。その時、私も生産本部副部長として秋田工場を閉鎖するプランに関わっていました。しかし、私は秋田工場の工場長も兼任しており、ここの若い人たちも含めた作業者のレベルの高さを十分知っていましたので、本社の都合で閉鎖することに非常に強い憤りを感じ、「じゃあ、ここを私にやらせてください」と工場を引き受けたのです。

 リーマンショック以前の事業体は、とにかく会社を開けば、変なことをしない限り儲かる体質がありました。しかし、これから日本が生き残ろうとしたら、しかも秋田のように中央から離れた場所で雇用を守ろうとするなら、下請け型企業では無理だと思ったわけです。だって中央から600kmも離れた場所ですから、相当特殊なものでなければ難しいでしょう? 特殊なものとは、つまりオンリーワンでしょう。我々の場合、それまで下請け型企業でしたから、オンリーワン企業にならなければいけませんでした。では、オンリーワンとは何か。他ではできない技術なり製品なりを持っていることが大事なわけですね。我々はオンリーワンの技術や製品を持っていなかったので、そこからつくりあげていく過程が必要だったのです。


◆ 溶接を使わない接合技術と高効率モーターコイルをオンリーワン技術として育てる

 ですから、我々はオンリーワン技術をつくって、育ててきました。そして今、いくつかのオンリーワン技術があります。ひとつは溶接を使わない接合技術で、もうひとつは今までにない高性能なモーターをつくるためのコイルです。その他にもLED照明や融雪シートの類も開発してきましたが、同じようなことをやっている会社は他にもありますので、オンリーワンという意味では、このふたつになります。オンリーワンの技術を開発・販売することで、大手企業と一緒になって世界に売り出していくことができるだろうと考えました。そうすれば下請けではなく、きちんとパートナーシップを結んで事業をやれますよね。そこを目指したわけです。

― 数多ある技術の中から、溶接を使わない溶接技術と、高効率なモーターコイルのふたつをオンリーワン技術として育てようと判断した理由は何ですか?

 実は私、開発自体はたくさんしているのです。その中から、市場の大きさで、商売として成り立つという判断で選びました。溶接に代わる接合技術については、ヨーロッパでは既に標準化されており、自動車産業等で積極的に使われています。ただ、ヨーロッパの技術ではどうしてもクリアできない問題があり、それを我々が解決することができたので、市場規模が大きい自動車市場に参入できると判断して選びました。

 また、モーターコイルについては、今後大きく拡大することが見込まれる大変な市場です。高効率モーターコイルのアイディアを思い付き製品化しようと思い立った9年前は、まだ電気自動車ブームは到来していませんでしたが、「省エネ」というキーワードはありました。ですからガソリンに代わる新しい動力源としてモーターの需要がいずれ大きく伸びることは当時でも予測できました。当時のモーター市場が約5兆円でしたから、そのうち例えば10%の市場を我々のコイルが獲得したとしても5,000億円で商売になるという判断でした。市場の大きさと需要があることが、このふたつの技術を選んだ大きなキーポイントです。

― 市場が大きくニーズもあるということは、逆に言えば、非常に競争の激しい領域ですね。なぜ、その中でオンリーワンの技術をつくれたのでしょうか?

 これらの技術を開発して製品化しようという試みは、世界中の関連会社もやっています。現にこの分野で先進国のドイツで我々も確認したところ、やはりチャレンジしていましたが、どうしても技術的にネックになっている問題の解決ができずに諦めていたのです。世界がクリアできない問題を我々は独自技術で解決することができたので、「オンリーワン技術」として打って出ることができるのです。

― 具体的には、どのような技術なのですか?


◆ 溶接しない接合技術「カシメ接合」

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特殊カシメ接合技術の実演をする本郷社長。

 実際のものを見せてあげましょう。まず、ひとつ目の溶接しない接合技術とは、金属の板同士を、このポンチとダイでガチッと押しつぶすだけでくっつけることができる特殊カシメ接合技術です。鉄とプラスチックのように、普通ならくっつかない異種素材同士でも接合できます。ヨーロッパで失敗していた技術は使わずに、我々の特殊技術で問題をクリアできました。消費電力は溶接と比べて8分の1以下で、地球環境問題にも役に立つ技術です。用途としては、例えば自動車ボディの溶接の代わりに使えるので、2019年の実用化に向けて、自動車関連企業と一緒に展開を始めています。

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アスター製のカシメ装置は、ポンチとダイで板金部分を押しつぶすだけで、曲面接合、多点同時接合、異なる板厚の接合及び異種接合が可能。

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スポット溶接を使用せずに、カシメ接合で、これまでにない接合強度を実現。


― ガチッと押すだけで簡単に接合できて驚きました。どのような仕組みなのですか?

 原理そのものは簡単です。特殊なくびれ形状をつくっているダイの上に部品を置き、上からポンチで押しつぶすことで広げ、脇を突っ張らせて抜けなくする技術です。くびれていることがポイントで、それによって外れなくなるわけですね。これが当社の特許技術です。

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【図】カシメ接合とは

― 「カシメ接合」の「カシメ」とは元々どんな意味ですか?

 カシメとは「形状を変形させることで永久結合する技術」のことです。実は「カシメとは」という論文を今から約30年前に盛岡大学の先生に頼まれて一緒に書き、そう定義したのは私です。もともと私自身はカシメ技術から入りカシメ技術一筋で40年以上やってきたので、このオンリーワン技術をつくったわけです。

― 特殊カシメ接合技術の開発のみならず、カシメの定義まで本郷さんがつくったと聞いて驚きました。もうひとつのオンリーワン技術である高効率モーターコイルについても実物を見せていただけますか?


◆ 小型で高効率な革新的モーターコイルを開発

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既存のモーターコイル(写真左)とアスター製モーターコイル(写真中央、写真右)。

 まずは、既存のモーターコイルを手に持ってごらんなさい(写真左)。すごく重いから、気を付けてね。それが当社開発の高効率モーターコイルに代わるだけで、こんなに軽くなってしまうのです(写真中央、写真右)。まずはそれがすごいことでしょう?

― 既存のモーターコイルは両手で持つのも大変なくらいとても重いですが、貴社製のモーターコイルは片手でも持てるほど軽くて小さいですね。

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既存品とアスター製コイルでモーターの性能がどれくらい変わるかを実演しながら説明する本郷社長。

 もっとすごいのが、モーターの性能の大幅なアップです。最近の電気自動車は一回の充電で約400km走ると発表されていますね。では、そのモーターの性能はどれくらいかと言うと、約9,000回転(R)で、約10アンペア(A)の電気を消費します。そのコイルを当社開発品に替えただけで、ドライバーとモーターは同じままなのに、電気は半分の5アンペア弱で9,000回転までいくのです。さらにすごいのが、既存品は9,000回転で目一杯だったのが、それより回転数がどんどん上がっていきます。ということは、400km走る電気自動車を当社開発コイルに変えただけで、800kmも走れるようになったらどういうことになりますか、という話ですよ。しかも、モーターの中身を変える技術は他のどこもやっていません。この高効率コイルを製造するプロセスが今、当社でやろうとしていることで、世界中がやりたかったけど他のどこもできなかった技術です。

― どのようにして、そのような高効率なモーターコイルをつくるのですか?

 では、どのようにつくりあげるかちょっと見せてあげましょう。ただ、この製造プロセスは開発中で企業秘密ですから、撮影はNGですよ。この特殊な装置でガチガチと圧接して、要は、金属と金属を原子結合させる技術なんです。この工程を繰り返して成形することで、モーター内部に占めるコイルの占積率が通常の5割程度から9割以上となり、コンパクトでハイパワーな高効率コイルが出来上がるわけです。

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従来コイルとアスター製コイルの比較。

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アスター製コイル。


― わずか数秒、装置でガチガチしただけで原子結合させることができるなんて、にわかに信じられないくらい驚きました。モーター内で電気が通れる導体の割合をどれだけ増やせるかが高効率化のポイントで、そこに貴社の膨大な試行錯誤とノウハウが詰め込まれているのですね。

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絶縁皮膜技術の開発を行う社員。

 電気の走る導体をどれだけ敷き詰められるかということですね。その時、熱をどれだけ逃がせるかという問題があります。発明している側の私も、わかればわかるほど、わからなくなりますよ(笑)。この問題を解決するにはもうひとつの技術が必要で、銅の表面に絶縁皮膜をかけなければいけません。化学の専門知識を持つ人材も社内にいて、その絶縁皮膜技術も当社で開発しています。ワンセットすべて自社で開発しているのです。

―世界の消費電力の50%以上がモーターによるものと聞いたことがありますが、高効率なコイルをつくるために高密度にすると、放熱性等の問題で、かえって効率が悪くなる課題が原理的に起こりますね。世界中の誰もその問題を解決できなかった中、貴社は解決する技術を開発できたわけですね。ちなみに、この高効率コイルと先程のカシメ接合は、接合という点で似たような印象を受けました。技術的なつながりはありますか?

 「接合」という観点から言うと、確かに共通点はありますね。


◆ 閃きの源泉は「70人の社員を食わせなければといけない」という危機意識

― とはいえ「オンリーワン技術をつくる必要があるから、オンリーワン技術をつくった」というのは、「言うは易く行うは難し」の典型だと思います。なぜ実現できたのでしょうか?

 皆にとっては難しいことでも、私にとっては難しくないのです。きっと着目点が違うのでしょう。そして、私が気づく前の人たちはやろうとして、やれる前に諦めたのでしょう。私はやろうとして、たまたま諦めなかった。それは、次々と閃いていったからです。なぜ閃いていったかと言うと、やっぱり人間って、最終的にはどれだけ危機意識を持っているかだと思います。途中でめげず諦めず、朝から晩までずっと考えているから、私のような人間でも閃いたりするのですよ

 経営して70人の社員に飯を食わせなければいけない危機感です。十分な収入もないのに、70人を雇わないといけなかったから。毎月2,500万円の経費に対して、1,500万円くらいの仕事は何とか掻き集めたけれど、毎月1,000万円の赤字でした。お金を借りたり助成金に申請したりして何とかやりくりしていましたが、「とにかく早く完成させないといけない」ということばかり、朝から晩までずっと考えていました。5兆円市場に打って出る技術が完成すれば、借りているお金を返すことができます。となれば、やることは簡単です。如何に早く完成させるかしかないです。宝くじとは訳が違うんですよ。勝てる要素はあるのだから、それを早く完成させることに努力すればいいのだから。それを銀行や色々なところに訴えて、お金を借りたり助成金をいただいたりして、今に至るわけです。

― そのオンリーワン技術が完成するまで、どれくらいの期間がかかったのですか?

 2016年9月に量産化の目処がつくまで、約7年かかりました。毎年「あと2年でできる」と思ってやるのですが、やればやるほど新たな問題がパカパカ出て来るわけです。娘からは「お父さんは『あと3年で楽になる』と言っているけど、もう何年経ったの?」と毎年言われていました(笑)。

― それだけ技術的なハードルが高いからこそ、他の方は途中で諦めたのですね。

 そこまで投資できるか、我慢できるか、普通の経営者にはできないでしょう? ましてや社員に7年間も、いつ成果があがるかわからないような開発を会社がやらせるかというと、やらせないでしょう。普通は「2、3年で結果を出してくれ」とか「将来の展望を描けるようにしてくれ」と言うじゃない。それは、私が経営者であり開発者だからできたわけです。もちろんサブのところは社員に手伝わせたけれど、基本的なところは自分で考える必要がありました。

― やっとオンリーワン技術を開発できた時のお気持ちは?

 まだまだですよ。だって、実際には量産化の目処がついただけで、量産化にむけた過程の中ですからね。2019年に新工場を建て、設備を入れて量産化し、出荷して、きちんとお金が入るのを確認できるまでは、ガッツポーズは取れないです。まだ、そんな「お気持ちは?」という気持ちにはならないですよ(笑)。けれども、全体としては出来上がってきています。


◆ 「働かされ感ゼロ」の新しい工場をつくり、優秀な人材を集めたい

― 新しい工場はどのような工場にしたいと考えていますか?

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新本社工場・社屋のイメージ。

 社員が働きたくなる、集いやすい新工場を構想しています。気軽に私服でも入れて、きちんと食事もできて、家族も連れて来られるようなイメージです。働く環境についても「働かされ感」をゼロに近づけ、「働かされる」のではなく、働きたい人が「働ける」工場にしなければいけないと考えています。働く人の将来のことも踏まえた、いくつになっても働ける会社。これからロボット化やAI化が進む中、「働かされ感」があるなら、それはロボットにやってもらえばいいので、今の時代に工場をつくるのなら、そんな考えが必要でしょう。

 「ここで働きたい」「ここで生活をしたい」環境をつくるには課題が沢山あります。働き方についても、子どもを預けて仕事に出ることができないために、働き盛りの20~30代の女性がパートでしか働けない現実が、特に地方にはあります。それをなくし安心して自分が働きたい時間だけ働ける環境をつくる必要があるので、新工場では、単に保育施設をつくるだけでなく、会社が母親の代わりに子どもたちを学校に迎えに行き、母親の帰宅時間まで勉強したり遊べたりできる場を社内につくろうと構想しています。工場2階はそんな用途に解放したいので、カフェのような雰囲気にしたいです。働く環境を整備することで、我々が求める優秀な発想力や創造力を持つ社員を雇える可能性が高くなると考えています。

 より高いレベルで考えられるかもしれないですが、まず我々が考えられる範囲でつくらないことには議論にならないでしょう? 私が公開した途端、「随分、生意気なことを言う会社だな」と見に来る人がいるでしょう。そういうのはウェルカムなわけです。そういう"風"と言うか、"波"を起こすことをしなれば、やっぱり変わらないと思うからです。

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取材中ご馳走になったドリップコーヒー。

 あなたが飲んでいるコーヒーも、うまいでしょう? 会社で飲むコーヒーもちゃんとドリップしているの。高価なものは無理だけども、普段からきちんと素材を理解して、できるだけ本物に近いものを味わっていくことが、ものづくりに大事だと思っているから。正直、昨年までは生き残るのに必死で、そういうこと考える余裕がなかったのですが、ようやく昨年辺りから環境についても考えられるようになってきました。


◆ NEDOフォーラム成果発表や支援機関の紹介で、世界中から問い合わせが殺到

― 逆に、なぜ量産化前の段階で、貴社の技術はこれほど注目されているのですか?

 日本の業界No.1、No.2の大手メーカーと共同開発することで合意しており、近々、発表されます。そういうことが現実化しているからこんな話ができるのです。幸いにして、世界中に市場がたくさんあり、世界の名だたる企業から、次々と問い合わせが来ています。そのきっかけは、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)のプロジェクトを成功させ、高効率コイルの量産技術を確立した成果を、2016年のNEDOフォーラムで発表したことでした。プレゼンした途端、問い合わせが殺到しました。

 特に自信を持ったのは、ドイツの研究所の所長の方から「"その技術"は使えないよ」と言われたことでした。なぜかというと「我々は"その技術"で失敗して痛い目にあっている。ヨーロッパでは"その技術"は信用がない」というのです。我々の特殊技術が"その技術"を使わずに問題をクリアしているので、皆がやりたがっている技術だとわかりました。

 それに、我々の技術を紹介してくれる人がたくさんいました。秋田県や大学、産業技術総合研究所、東北経済連合会等の目利きの人たちが「これはおもしろい技術だ」と広げてくれ、そこからネットワークが広がっていきました。ですから、中央から遠い秋田県であっても、我々の技術を見に来る人が絶えません。以前、自分でも大手メーカーに売り込みに行ったことはありますが、その時は理解してもらえませんでした。皆が簡単に理解できる技術なら、大した技術じゃないことになるわけですが。


◆ 如何に皆の力を集約できるか

 今は、日本の超一流企業のトップメンバーと一緒に開発しているのが本当に楽しいです。けれども、技術というものは、そこに居座った瞬間に滅び、長くは持ちません。当然ながら、さらに発展させた技術を追求する必要があります。そのためにも、先程お話したような職場環境をつくり、この技術をさらに発展させていってほしいと思うわけです。そのためには、豊かな発想力と行動力と勇気を併せ持つ優秀な人間を一人でも二人でも集めることが必要ですから、職場環境が非常に大事なフェーズになると考えて構想している次第です。

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応接室には、本郷社長や社員が表彰された賞状がずらりと飾られていた。「一体感を持って進めていくため、社員も表彰されていく流れは大切」と本郷社長。

 もうひとつは、今の若い人たちは、あまり成功体験をしていないのではと感じます。特に製造に関しては成功体験を味わうことで次の課題にチャレンジできると思います。それを私自身がつくりあげる必要がありますし、皆でつくりあげていく一体感が必要です。そのためには表面的なことではなく人間が必要ですし、環境が我々を必要とすることで、継続的に生き残る価値があります。そこに注力できたのは、必死だったけれど、いいところに目をつけたと思います。

 8年前にこの工場を引き受けて現在の会社を創立した時、社員に対して「秋田一の会社にする」と宣言しました。当時の社員は信じていなかったと思いますし、今もまだ3分の1の社員は信じていないかもしれないけど(笑)、それが会社の活力になるのです。話は簡単で、勝てる稼業は一致団結できます。皆の気持ちがひとつになれば、勝てます。世の中の歴史がそれを物語っています。如何に皆の力を集約できるかなんです。

 新しいオンリーワン技術だって、「アスターが」ではなく、「地域全体でこの技術を完成させることが必要だ」と一生懸命周りに訴えてきました。アスター一社だけはない、地域全体で関わる人全体のものでなければいけません。私はそのきっかけをつくっているだけで、それを押し上げるのは周りの人間だからです。

 周りを巻き込み周りと一緒になる意識は、成功するために必要な心構えだと思います。誰も別に私のために働いているわけじゃないですから。会社は団体ですから「一人は皆のために、皆が一人のために」が必要です。案外そのことが今の社会では個人主義に走り過ぎて、なおざりにされていると感じます。そこも大事なキーワードで、その勘違いな自由主義に気付いた人が成功するのではないでしょうか。それを考えている人が少ない方が競争率は低いわけですから(笑)、どちらが良い悪いという話ではないですけどね。?
社長が二十歳だった頃

― 次に、本郷さんが二十歳だった頃について教えてください。


◆ 今を脱却して次のステップに行きたい

 二十歳の頃は、大工でした。私は小学3年生で父を亡くし、高校に行っていないのです。はじめは16歳で出稼ぎに行き、地下鉄や鉄塔などを建てていましたが、事故に遭い、親戚から「危ないことは辞めて、大工になりなさい」と言われて大工になりました。その頃に考えていたことは「将来こうなりたい」とかじゃなく、やっぱり「女性にモテたい、いい車に乗りたい、いいマンションに住みたい、宝くじで一攫千金」ということしか考えていませんでした(笑)。

 二十歳の頃は、東京にいました。ある時、新宿で占い師が私を呼び止めて「あなたは大器晩成だよ」と言ったのですが、私は「冗談じゃない、成功するなら若くして成功したいよ」と言い返しました(笑)。ただ、人は大好きでしたから、女性に限らず友達が大勢いましたし、色々なことを経験してきました。二十歳の頃の俺を知っている人が、今の私がこんなに真面目な生き方をしているとは、誰も思っていないことは事実です。たまに男女問わず会う人がいて、懐かしくなって食事をすると、皆びっくらこいているわね(笑)。

 ただ、生き方としては、そんなことを考えながらも、真面目に「高級車を買いたい、綺麗な人と付き合いたい」と自分としては必死でした。「今を脱却し次のステップに行きたい」気持ちは、ギラギラするほどあったのです。その「次」とは何かはわからないけど。それは、つまり今の現実からの逃避ですからね。でも、それに向かって常に突き進んでいたことも、事実です。


◆ 達成しようという目標があれば、あらゆることをして達成してきた

 だから若い頃には「年中、夢みたいなことを言っているな」と言われていました。ただ、自分が言ったことは、これまですべて実現しています。例えば、「22歳で自分の住む地域の地場改善をこうしなければいけない」と実際に改善し、「25歳で家を建てる」と建て、以前勤めていた会社でも「30代で係長、40代で部長になる」という女房との約束は全てクリアしました。この会社もまずは秋田一の会社になろうと思っています。だって、達成しようという目標がなければ、方向を見失うでしょう?

 外から見ると、いい加減に見えたと思います。実際に、周りからは色々なことを言われました。けれども、俺は周りが何と言おうと、そうしようと思っていましたし、周りの意見に振り回されることは一度もなかったです。なぜならば、やらなければいけない"必要な順序"があるからです。

 例えば、なぜ25歳で家を建てたかと言うと、高級車に乗りたかったから。家もなく高級車だけなら、「どうせ借り物だ」と思われるけれど、家を建ててから高級車に乗れば、誰も疑わないでしょう? 女房にも「お前と結婚したい、絶対に幸せにする、とにかく結婚しよう」と言い続けて結婚できました(笑)。達成しようという目標があれば、あらゆることをして達成しようとやってきたのが私の人生です。女房も40年経ってやっと信用してくれるようになりました(笑)。

 「今を脱却したい」とずっと思っていて、今から脱却する方法を見つけた時は、迷わず、それに飛び込みました。父親がいなかったので、私を押さえつける者は誰もいなかったのがよかったと思います。周囲は「父親がいなくて生活が大変だろう」と言ってくれましたが、それは母親が偉かったのです。ですから私は、母親を最高に尊敬しています。母親を裏切るようなことは絶対にしません。もうひとつは、お世話になった人からの恩は返さなければいけないし、人の言うことは気にしないと言っても、人を裏切るようなことは絶対にしません。そうじゃないと足を引っ張られて、絶対に自分も成功できないですからね。

我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

 それはぜひ社員に直接聞いてみてください。

若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、次世代へのメッセージをお願いします。


◆ 10年後の社会をつくるのは今の若い世代。今の社会に絶望しないで

 60代の我々が一生懸命、10年後の秋田や日本を議論しても、それは我々目線での10年後です。今から10年前にまさかインターネットに世の中を動かす力があるとは想像すらしていなかったですし、10年前には今の新しい仕事だって生まれていませんでした。10年後の社会をつくるのは、あなた方、若い世代です。10年後に自分たちで社会をつくれます。ですから、今の社会に決して絶望しないでください。

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― 本郷さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

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◆自らの意志で決められる環境と、孫の代まで考えている社長が自慢
 /藤谷大輔さん、(33歳、入社8年目、秋田県横手市出身)

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 高校卒業後、ものをつくることが好きだったので、当社の前身であるアスター工業(株)秋田工場に入社しました。その年から数えると入社16年目になります。前身となる企業は下請け型だったので、やはり当時は、言われたことを淡々と効率よくこなし、お金をもらうという考え方で仕事をしていました。今でこそ当社は開発型企業ですが、設立当初は、大手企業からの下請けの仕事を何年かは続けて、景気が悪くなると切り捨てられたり数量が下がったりと、色々なことがありました。けれども社長が社員のことを大事にしてくれるので、社員も皆で休みを多く取ったりして対応してきました。

 今では、高効率モーターコイルやLED照明、雪解けシート等、自社ブランドを開発し、大手企業にはとらわれない環境で仕事ができるようになっています。もちろん大変なことも色々ありますが、自分の意志さえあれば、会社が決めるのではなく、社員が自分たちで色々なことを決めていける環境がよいと思います。それが会社にとってメリットとなれば、若手でも意見を吸い上げてくれるので、もちろん責任は重いですが、その分、自分たちのモチベーションも違います。仕事以外でも、例えば、イベントだろうが休日の長さだろうが、自分たちで判断して提案できる環境がよいです。

 現在は、製造課の課長として、現場の統括をさせてもらっています。部下の働きやすさをさらに向上させてあげることが自分の仕事だと思っているので、やりがいがあります。女性も多いので、仕事内容だけでなくメンタル面も気にかけています。逆に、僕が部下から毎日、いじられて大変ですよ(笑)。でも楽しいからいいかな(笑)。人間関係がギスギスした環境では、よいアイディアも浮かばないですからね。毎日楽しんでやっています。

 そんな我が社の環境自慢は、社長です。普通の社長なら「自分たちの代さえよければいい」と考えそうですが、うちの社長は孫の代まで考えて、「その子たちの働く場所がなければ、可哀想だろう」と、この会社が未来の地域や社会に対してどうあるべきかまで考えています。ここ秋田県は少子高齢化が急速に進んでいる地域ですから、その中で、年を重ねても働けて、さらに孫の代までこの秋田に残って働ける環境ができることは、この地域の夢です。秋田県で生まれた人たちが県外に流出することを防ぐためには、行政任せではなく、民間も行政もすべて動かなければ、そんな環境は実現できません。その先端にいて、そこまで考えている社長ってなかなかいないと思うので、本当にすごいと共感しますし、やっぱり自慢です。


◆アットホームな一体感と若手の意見が反映される環境、そして情熱的な社長が自慢
 /関あゆみさん(29歳、入社8年目、秋田県横手市出身)

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 高校卒業後、実家に近かったという理由で、当社の前身であるアスター工業(株)秋田工場に入社しました。その年から数えると今年で入社12年目です。昔の会社は下請けだったので、計画通りに言われた仕事をこなす感じでした。今の会社になってからは、確かに、言われた仕事はやるのですけど、自分で考えて行動できることが楽しいです。私、もともと言われたことをやらされるのが好きじゃなく、自分で考えて行動したいタイプなんです(笑)。今の社長の会社になってから、やりがいを感じています。

 今は、生産のリーダーをやらせてもらっています。人員配置を考えたり、現場で問題等が発生した時は問題点を吸い上げ、自分たちで解決できれば現場で解決して、できない場合は上にあげていく、そんなまとめ役の仕事を担当しています。

 我が社の環境自慢は、アットホームな一体感です。社長が社長っぽくないからかな(笑)。熱い社長で、自分のことのように社員皆のことを想ってくれているのが伝わってくるから、アットホームな一体感があるのだと思います。ですから、すごく働きやすいですし、何でも話しやすいですね。課長の藤谷さんも、何でも話しやすい上司です。下から上に意見を言いやすい環境は、人がつくるものだと肌身で感じています。

 うちの社長は、行動力が群を抜いているんですよ。私たち現場の者が問題だと思っていることを社長に話すと、社長は「現場の意見は大事だよ」と、すぐ行動に移してくれるので、社員の皆からすると、すごく働きやすいんです。社長直通で意見を言えることも、普通の会社とは違うところ。社長が社員皆のことを考えて想ってくれていることが伝わってくるんです。じゃないと、あんなに怒れない(笑)。社長の情熱を毎日感じます。会社自慢じゃなくて、社長自慢になっちゃいましたね(笑)。


◆ 自分で考えるものづくりに魅力、女性も多く相談しやすい環境が自慢
 /千葉優衣さん(19歳、入社1年目、秋田県横手市出身)

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 小さな頃からものづくりが好きで、工業高校に進学しました。県内企業に就職するために、自分でも色々な企業を見学したり話を聞きに行って、当社に初めて来たのが高校1年生の冬です。他の企業とは違って開発型企業で、単純作業で製造するのではなく、自分で考えてつくるところに他とは違った魅力を感じて、当社に入社しました。

 現在は、製造ラインに入り、組立を担当しています。色々な種類の製品を扱っているので、自分の任されている仕事が空いた時には、別の種類の仕事にも入れさせてもらい、色々な勉強をさせてもらっています。

 そんな我が社の環境自慢は、女性社員が多く(約4割)、すぐ先輩方に相談ができる環境です。先輩たちが親しく話しかけてくれるおかげで、私も話しやすくなり、自分が任せてもらっている仕事でミスをした時も、どうすればいいかを先輩にすぐ相談できるようになりました。入社したばかりでわからないことも多いですが、不安なく仕事ができる環境なので、色々なことを学び、私も先輩方のように色々なことができるようになりたいです。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.14】国内最大級の電解研磨工場と現場力で、あらゆるめっき・表面処理ニーズに応える/秋田化学工業(秋田県にかほ市)社長の丹野恭行さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.14】国内最大級の電解研磨工場と現場力で、あらゆるめっき・表面処理ニーズに応える/秋田化学工業(秋田県にかほ市)社長の丹野恭行さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年03月19日公開

国内最大級の電解研磨工場と現場力で、
あらゆるめっき・表面処理ニーズに応える

秋田化学工業株式会社(秋田県にかほ市)
代表取締役 丹野 恭行 Yasuyuki Tanno

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.14)
  秋田県にかほ市に本社を構える秋田化学工業株式会社(1972年設立、従業員65名、資本金1,200万円)は、半導体部品から自動車部品まで、あらゆる素材の表面に機能を付与することで付加価値の高い製品を供給する、めっき加工・表面処理の会社である。小物から大物まで処理できることを特徴とし、部分処理などあらゆる顧客の要望に応えている。2000年から陽極酸化処理(アルマイト)を開始。2004年には、年々大型化する製品に対応した国内最大級の電解研磨工場を新設。電解研磨、無電解ニッケルめっき、亜鉛めっきは、数mmの小物部品から、長さ数mの大型部品まで処理可能。また、化学研磨は数μmの精密研磨に対応。2013年 技能振興優良事業所、2015年 環境整備優良事業所、2017年 中小企業振興表彰に選出。そんなオンリーワン企業である秋田化学工業がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の丹野恭行さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われている所以を教えてください。

◆ 大型製品本体から小型部品までめっき・表面処理が可能

 「オンリーワン企業」と言われるような資格が当社にあるかどうか、正直我々にもわかりませんけどね。ただ、他社との差別化を図る流れの中で、あまり他社がやっていないことで、お客様が望んでいることを実現するため、いろいろなことに取り組んできました。

 我々の仕事は、裏方の仕事です。例えば、当社で取り扱っている液晶パネル製造装置は最終的にはテレビやスマホになりますが、それら部品の製造装置の表面に付加価値をつけるのが我々の仕事です。それを「表面処理業」とお話させていただいていますが、表面処理というのは幅広いので、一般の方には「めっき会社です」とお話した方がわかりやすいかなと思います。

― そもそも「表面処理」「めっき」とは何ですか?

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半導体部品から自動車部品まで、あらゆる素材の表面に機能を付与することで付加価値の高い製品を供給する。

 素材表面に付加価値をつけるのが表面処理です。ですから、塗装も表面処理のひとつです。めっきとは、製品の表面に薄い金属の膜をつけることです。研磨は、普通は表面を機械で削ることを言いますが、我々は機械ではなく化学反応を用いて電気化学的に表面を研磨します。また、「陽極酸化処理(アルマイト)」といって、製品自体が自らを溶かしながら表面に膜を作っていく処理も行っています。

 当社では塗装までは扱っていませんが、素材表面の性質を高めるため、めっきのみならず、いろいろな表面処理ができます。小物から大物まで処理できることが特徴で、部分処理など、あらゆる顧客の要望に応えています。

― それができるようになった背景を教えていただけますか?

 当社は、この秋田の地で創業して今年で46年になりますが、今の仕事と創業当初の仕事、中間の仕事は、正直まるっきり異なります。

 創業時は、同時期に進出した企業向けに、機械部品のめっき加工からスタートしました。しかし、その取り引き先企業が倒産し、当社も苦境に立った時、ちょうど半導体メモリーリードフレームへの半田めっき処理のお話があり、事業内容の大幅な転換をすることになりました。これを主力事業としていた頃が、当社の売上が飛躍的に伸びた時期で、売上高の80%以上を半導体メモリーリードフレームへの半田めっき処理が占めていました。ところが、2001年、日本の半導体不況に伴って受注が激減し、その売上はほぼ0になりました。そこで、できるだけ一社依存にならないよう、一般金属製品の表面処理で付加価値の高い部品を求めて事業転換を図りました。その後、半導体やFPD(フラットパネルディスプレイ:ブラウン管に代わる、薄型で平坦な画面の映像表示装置の総称)の製造装置部品の表面処理に転換した次第です。

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国内最大級の処理槽で、重量12tまでの大物ステンレス部品への電解研磨、酸洗処理が可能。

 FPDの主力が液晶パネルで、液晶パネル製造に必要な高真空環境を作るには、できるだけ製造装置内面の粗さを滑らかにする必要があります。その表面処理をしてほしいというお話を当社にいただきまして、お客様の生産ラインが年々大型化していくのに対応する形で、当社の設備も拡大化していき、大型製品の取扱を増やしてきた歴史があります。

― 大型製品の処理が難しい理由は何ですか?

 めっきは、基本的には手作業で、普通は小さな部品の処理が多いのですよ。一方、当社で処理する製造装置は、大きいもので約5m、10t以上もある、重量物の取扱いになります。単に大きくしただけでは済まない問題点があり、それをひとつずつクリアしていったのが、我々のノウハウだと思っています。

― 取扱うものが大きくなることで生まれる問題点とは何ですか?

 大きいものはスピード感を持って作業ができないという問題があります。例えば、何らかの処理を施した後、薬品を落とすために洗浄という工程が入りますが、大きなものはすぐに洗えないので、すぐ洗えない点における不具合が生じます。それが不具合にならないように、いろいろな工夫をしてきました。


◆ お客様からの難しいニーズに現場力で応える

― 他にも貴社の特徴ある技術はありますか?

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自動化された装置を極力もたず、人間の手作業による一品処理の仕事を行っている。

 最近、「この部分だけめっきをしてほしい」という部分処理のニーズが増えており、対応しています。お客様からは「必要なところだけに特定の機能を持たせたい」「めっきをしたくない部分がある」というニーズがあるのですよ。全体ではなく部分だけを何とか処理する方法は、マスキングで必要な部分だけ露出させる等、いろいろな方法があります。また、研磨についても、例えば「直径10cm穴の内面を、あと1μmだけ削ってほしい。嵌め合わせるので、ゆる過ぎてもキツ過ぎても駄目」といった難しいご要望をいただきます。簡単な仕事は海外に移管され、国内には難しいニーズしか残っていませんが、できる限りお客様からのご要望に応えていきたいと考えています。ですから当社は自動化された装置を極力もたず、人間の手作業による一品処理の仕事がほとんどです。

 我々には自社製品がありません。お客様から大事な製品を受け取り、表面処理という付加価値をつけて、お客様へ納品する受託業であるため、変化するお客様からのご要望に如何に応えられるかが我々の仕事になります。おかげさまで、「秋田化学工業ならできるだろう」とお客様に思っていただき、「あと数μmだけ削ってくれ」「複雑な形状の部品全体を表面処理してほしい」といった難しいご要望を日々いただきます。社長である私は「できます」と言うだけですが(笑)、現場が日々試行錯誤しながら取組んでいます。


◆ 輸送機産業参入や海外展開を視野に

― 今後の展望についても、教えていただけますか?

 ひとつは、事業分野を広げていきたいと考えています。半導体関係は、所謂「シリコンサイクル」と言われる4~5年周期の景気循環があり、どうしても良い時と悪い時がはっきりしています。経営的な安定という面で考えると半導体分野だけでは厳しいので、それ以外の分野として、自動車や航空機等の輸送機分野も増やせるように取り組んでいるところです。航空機関係は受注まで長い年月がかかります。まず取り組んだのは、2017年、航空宇宙・防衛産業の品質マネジメントシステム規格「JIS Q 9100」の取得で、環境づくりから始めました。次に、周辺の航空機関係に関わる企業から「組み立て治工具類の表面処理をしたい」という要望に応える形で広げています。また、海外との直接取引きを増やすことも考えています。秋田という中央から離れた場所にあってもお客様から求められるよう、これからも現場力を向上させ、さらに技術を磨き、他社との差別化を図っていきたいと思います。


社長が二十歳だった頃

― 次に、丹野さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 「好きな化学に関する仕事がしたい」

 二十歳の頃は正直、何も考えていなかったと思います。高校生の頃から、理系に進もうとは思っていました。高校までは宮城県仙台市にいて、高校時代の部活の仲間とは、先輩・後輩含めて今でも交流があります。有機化学に興味を持ち、秋田の大学に進学して、化学の勉強をしました。二十歳の頃は、勉強もしましたが、いろいろ遊びました。友達の家にたむろしたり、ウインタースポーツを楽しんだり。化学が好きだったので、「将来は化学に関する仕事をしたい」という漠然としたイメージはありましたが、会社の名前も、化学が社会で何に使われているかも、よく知りませんでした。


◆ 現事業の設備立ち上げ全般に関わる

 大学卒業後は、今の会社とは別の関東にある会社に就職し、めっきの仕事に関わりました。その時に磨いためっきのスキルを活かすには、めっきの会社が一番よいと思い、大学の先生からも助言いただいて、秋田化学工業に入社した次第です。私が入社した頃は、先程もお話させていただいた通り、半導体メモリーリードフレームへの半田めっき処理が好調だった時期で、8割が半導体関係の仕事で、残り2割が現在の事業に近い仕事をしていました。別に住み分けをしたわけではないのですが、私は半導体以外の、一般的なめっきの仕事の方に関わり、いろいろな設備を改善したり仕事を増やしたりしました。今の設備関係は基本的に全て私が関わって立ち上げたものです。ですから今でも新規の問い合わせに関しては、いろいろな経験がないと回答できないところもあるので、私の方で対応しています。


◆ 技術屋から社長へ

― 貴社の今日があるのは、丹野さんの現場力が大きいのですね。現場の技術者から社長という経営者の立場になって、どのような変化がありましたか?

 前社長から2011年に社長を引き継いで、丸7年の年月が経ちました。基本的には技術屋なので、技術的な仕事に関しては主に設備改善を引き継いでやっていますが、一方、経営となると、全体を見る必要があるので、考え方が少し変わってきました。技術も営業も引き継ぎながら、社長としてやることが増えたので、本当に大変ですよ(笑)。

― 社長という立場になって、どのように考え方が変わったのですか?

 もともとは技術屋ですからね。技術屋には技術屋の理論というものがあるんです。お客様から技術的にあり得ない要望が来た時、技術屋の立場なら「技術的に無理です」と回答することも、役員や社長という立場に変われば、全体を見る必要性が生まれますから、他の人の意見も聞かなければなりません。そこから「お客様がそう望むのであれば、実現できる方法はないだろうか」と考え始め、少しずつ考え方が変わってきました。

 例えば、もともと「錆びない」という意味のステンレスに「めっきをしてほしい」という要望は、技術的な立場からすると邪道ですが、結果的に、ステンレスへのめっきのニーズがあったところから自分は変わっていきました。部分めっきだって、技術屋からすると「そんなに手間がかかることを、なぜわざわざやるのだろう?」と思いますが、お客様からすると、どうしてもやりたい理由があるわけです。では、それをやるためにはどうすればいいかを、実際に考えてやってみると、実はやれる方法が出てくるんですね。

 ですから今は、いろいろなご要望に対して、基本的には断らず、一旦は受けるようにしています。必ずできるとは言いませんが、やってみれば「できる」ということがいろいろあります。そうやって、できることを増やしてレベルを上げていきました。先程もお話した通り、我々には自社製品が無いので、お客様からの仕事がなければ我々の仕事もありません。その要望の難易度が、結果的に、他社との差別化になったということです。

 これまで技術的なお話をさせてもらいましたが、やっぱり仕事って、人との関わりだなと、ようやく最近になって気づきました。ちょっとした営業活動でも、これまでは「要件だけでいいや」という気持ちが多少なりともありましたが、メールや電話だけでなく、やはり顔を見て話すと違います。過去を振り返ってみても、高校、大学、社会人と、人とのつながりで成長させられました。これも技術的な立場では気づかなかったことです。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 「めっき技能士」等の資格取得を奨励

 社員が「こんなことを勉強してみたい」ということは極力支援しています。資格取得の中でも、特に「めっき技能士」という国家資格の取得を奨励しています。東北に二つしかないめっき技能検定の試験会場のひとつを当社が提供しており、自社内で受験ができます。現場の作業者のみならず、お客様とお話をする上で必要な知識を持ってもらうため、事務員にも資格取得を推奨しており、女性社員も含めて半数以上がめっき技能士の資格を持っています。めっき関係の教本はあまり多くないため、めっきに関する知識が網羅されている技能検定を活用して、「現場に関わらない社員でも2級程度は取っておいてくださいね」とお話させてもらっています。


◆ 自らの手を使って考えるやりがい

 表面処理業界でも自動化が進んでいますが、先程もお話させていただいた通り、当社では手作業による一品処理の仕事がほとんどです。その分、仕事は多岐に渡り、現場の作業者の能力が非常に必要とされます。逆に言えば、自分の考えで如何ようにもなる、やりがいを持てる仕事だと思います。例えば、夏と冬で環境条件も変わりますが、皆、経験則で身体に身に付いていると思います。うちは本当に「現場力」なんですよ。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へメッセージをお願いします。

◆ いろいろなことに興味を持って。興味がある人はぜひ来てほしい。

 いろいろなことに興味を持って、経験してもらいたいです。例えば、学生の頃に選択科目がありますよね。私も必要最小限の科目しか選択しませんでしたが、今の仕事には化学系の知識だけでなく金属の知識も必要ですから、今になって「あの時、『要らないや』と切らず勉強しておけばよかったな」と思います(笑)。いつどこで何が役立つかはわからないものですから、ある程度強制的にでも、できる時にできるだけ学んでおいた方がよいと思います。

 また、今回お話させていただいたように、我々の仕事は裏方なので、若い人に伝えるのがなかなか難しいのですが、見て感じてもらえるところもあると思います。インターンシップの他、中高生や地域の人たちにも我々の作業を体験してもらえるよう、最近は取り組んでいるので、興味がある人はぜひ来てみてください。

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― 丹野さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 風通しのよい自由な社風で、自分の考えを仕事に反映できる環境が自慢。
/総括部長 佐々木夏仁さん(42歳、入社13年目、秋田県にかほ市象潟町出身)

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 私自身は「Aターン」(秋田県出身者もそうでない人もみんな秋田へ来て欲しいとの願いを込めたALL TURNの"A"とAKITAの"A"をかけた、秋田ならではの言葉)で、地元の秋田に戻って来た時、前社長に拾っていただきました。現在は全体の調整役や、外回り営業を仰せつかっています。もともと技術・製造から現在の立場になっているので、仕様決めから値付けまでできる形で、お客様支援を行っています。

 我が社の環境自慢は、トップから現場まで非常にフランクな雰囲気があり、自由な気風があることです。社長の丹野も「社長」と呼ばせず、「丹野さん」と呼ばせるくらいです。70人規模の企業なのでそれなりに上下関係が厳しくなるところですが、現場からの提案や要望が通りやすく、風通しがよい社風だと思います。その分、一人ひとりの裁量が実際の職制より幅広い面もあり、自分の考えを自由に仕事に反映でき、影響力を発信できる点は他の会社よりも大きいように感じます。

 もしこれで自動めっきラインが多ければまた、管理の仕方も違うと思いますが、当社の場合は初物の少量多品種が多く、手作業がメインで不確定要素も多いため、システマチックに決まり事や条件を決めても逆にうまくいかない場合が多いです。どちらかと言うと、「昨日飲みすぎた?大丈夫?」という管理が大事になるため(笑)、自然発生的にコミュニケーションが必要になります。ですから親方陣は、誰とでも円滑にコミュニケーションを行えるような人材を置いています。やっぱり、喋っている間に一発は笑わせないとねぇ(笑)。もちろん、きちんとやらなければいけないところはやっていますが、あまり堅苦しくならないよう心掛けています。作業員に気持ちよく仕事してもらわないと、良いものが仕上がってこないですから。

 そういう面も含め、めっきはまるで生き物なんです。化学反応の塩梅は機械加工のように目で直接見ることができないので、何で判断するかといえば、もう作業者の五感なんですよ。実際の製品を扱っている現場の作業者(私は「職人」と呼びたいです)が、そのことを一番よくわかっているので、その「職人」の五感を尊重する必要があるのです。それを踏まえ、明らかにそれは駄目だろうという場合以外は、現場からの提案を妨げるようなことは極力しないようにしているので、職人自身がどんどん自分の思うような創意工夫ができる職場です。それが万が一間違っていたとしても、そのフォローも私たち管理職の役割です。「皆でやろう」という一体感があります。

 当社には高卒で入社してくる人が多いですが、予め化学の知識があって入ってくる人はほとんどいません。一緒に勉強しながら身体で覚えていく側面が大きいので、最初から「化学式を知っていないと駄目」ということは一切ないです。めっき屋はものづくり製造業と言っても自社製品があるわけでなく、お客様からお預かりしたものを綺麗にして返す、クリーニング屋さん金属バージョンのような、サービス業に近い仕事です。働く方の適正としては、表面を綺麗にすること、お客様から喜んでいただくことに、喜びを感じる人が向いていますね。

 一昨年度、昨年度と売上が高め推移しています。営業という立場から、さらにコミュニケーションを円滑にし、より利益率の高い会社体質に持っていきたいと考えています。そのためにも、これからも、頑張ります!!


◆ チームワークがよく、コミュニケーションが活発な社風が自慢。
/製造1課課長 佐々木博俊さん(36歳、入社17年目、秋田県由利本荘市出身)

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 高校生の頃は化学が嫌いで、「え~、化学ぅ?」という感じで入社しましたが、自分が手をかけた分、きちんと返ってくることにやりがいを感じて、今は楽しく仕事をやらせてもらっていますね。現在は課長として、お客様と作業者の間に入り、製造に関する窓口のお仕事をさせてもらっています。金属部品等に表面処理をかけ、お客様から返ってきた感謝を、作業者に伝える仕事をしたいと思っています。

 我が社の環境自慢は、ものすごくチームワークがよく、コミュニケーションが活発な会社で、私自身も正直、現場の人たちからの提案で助けられています。皆、責任感を持って発言してくれるのでとても信頼しています。むしろ私より作業担当者の知識と経験が豊富なので、逆に私が支えられています(笑)。一人が問題を抱えるのでなく、現場の皆で解決するお互いの持ちつ持たれつが、すごくできている会社だと思います。

 めっきひとつを例にとってみても、少しでも手を抜いてしまうと、その分、汚い製品が仕上がるし、愛情を込めて手をかけた分、綺麗に仕上がるものなんです。それを情報として共有し、うまく仕上がれば「よくやった!」と皆で達成感を味わい、次回に同じ製品を処理する時はさらなる改善点があるか、というディスカッションを頻繁に行っています。私も含めて日々成長させられています。雰囲気が堅苦しいと、誰も意見を言えず、現場も成長しなくなりますよね。なので敢えて私はアホ役を買って出ているんです(笑)。いつも皆と話しているから、「おはようございます」の一言で、「今日はちょっと調子が乗らないな」とわかります。「今日は調子悪そうだな、気を付けてね」。そんな何気ない一言が大切だと思うのです。

 秋田化学工業には「佐々木」姓が多いのですが、「あいつに任せておけば間違いない」とお客様から思ってもらえるよう、「秋田化学工業の佐々木ね」、さらには「佐々木と言えば秋田化学工業」と言われるくらいになりたいです(笑)。今の自分があるのはこの会社のおかげなので、次の世代に感謝されるように、「恩送り」をできればよいなと思っています。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.15】高級小型ロックミシン市場で世界トップクラスシェア。使い勝手の良さを追求した「世界初」機能を生み出す開発力で、山形から世界へ/鈴木製作所(山形県山形市)社長の鈴木重幸さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.15】高級小型ロックミシン市場で世界トップクラスシェア。使い勝手の良さを追求した「世界初」機能を生み出す開発力で、山形から世界へ/鈴木製作所(山形県山形市)社長の鈴木重幸さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年03月26日公開

高級小型ロックミシン市場で世界トップクラスシェア。
使い勝手の良さを追求した「世界初」機能を
生み出す開発力で、山形から世界へ。

株式会社鈴木製作所(山形県山形市)
代表取締役社長 鈴木 重幸 Shigeyuki Suzuki

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.15)
 山形県山形市に本社を構える株式会社鈴木製作所(1953年設立、資本金6,500万円、従業員121名)は、「ベビーロック」ブランドで展開する家庭用高級小型ロックミシン(生地の裁断とほつれ止め縫いを行うミシン)市場で世界トップクラスのシェアを誇るメーカーである。それまで工業用の大型機しかなかったロックミシンを小型化し、簡易な操作で扱えるようにすることで家庭用の市場を開拓。また、ロックミシン開発で培った高い技術力をベースに、手縫い風の縫い目が再現できる刺し子ミシンの開発や、食品や工業製品等を個包装する横型ピロー包装機の製造を手がけている。1994年 グッドデザイン商品選定証Gマーク(通商産業大臣)、1996年 日本発明振興協会「発明大賞」、1997年「注目発明選定証」(国務大臣科学技術庁長官)、2002年「知財功労賞」(特許庁長官)、2004年「山形県産業賞」、2006年 経済産業省中小企業庁「元気なモノ作り中小企業300社」、2006年 経済産業省特許庁「産業財産権の活用企業百選」、2009年 山形デザインコンペティション実行委員会「山形エクセレントデザイン大賞」、2010年 東北地方発明表彰「中小企業庁長官奨励賞」等、数々の賞や認定を受けている。そんなオンリーワン企業である鈴木製作所がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の鈴木重幸さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われている所以を教えてください。

◆ 小型ロックミシンを世界で初めて開発し商品化

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「ベビーロック」ブランドで展開する鈴木製作所の家庭用高級小型ロックミシン。


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家庭用ロックミシンの研究試作機(1963年)。

 生地を切った後にほつれ止め縫いを行うミシンのことを「ロックミシン」と言います。昔、ロックミシンは工業用ではありましたが、一般の人が服を作る家庭用ではありませんでした。約50年前、家庭用小型ロックミシンを世界で初めて開発し、商品化したのが当社です。

― これまでになかった家庭用小型ロックミシンを貴社がつくろうと思った理由は何ですか?

 戦後間もない頃は衣食住どれも足りず、着る物も自分でつくる必要があり、ミシンで縫う作業が必要な時代が続きました。当時普及の進んでいた家庭用の直線ミシンを当社でも製造・販売していた時期があり、修理のため縫製工場等を訪問する機会がありました。そこで、縫子さんが裁断した布端を手で一針一針縫う姿を見て、「重労働で時間のかかるほつれ止め作業(縁かがり)をミシンが代わりにできれば、縫い子さんはさらに先のステップに進めるだろう」と考えたのが、開発に至ったきっかけです。バラック組み状態でのテストから始めて、ようやく完成した研究試作機を東京のミシン業者に見せたところ、「工業用ではほつれ止めミシンは既にあって、それを『ロックミシン』と言うのだ」と聞きました。つまり工業用のロックミシンがあるとは知らずに開発を始めたわけです。


◆ 使い勝手の良さを追求した「世界初」の機能を次々と開発

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「エアスルーシステム」以前の家庭用ロックミシン。縫う前にミシン本体の約35 カ所に糸を通したり、引っ掛けたりする煩雑な作業が必要だった。

 しかし販売後間もなく、大手ミシンメーカーも家庭用ロックミシンを製造するようになりました。当時は特許権利化しなかったので、大手他社から参入するという連絡があり、当社の部品を真似てつくり始めたのです。そんな中、1993年、糸通しを空気の力で自動的に行う新機能「エアスルーシステム」を世界で初めて開発し、それを特許でガッチリと固めたことで他社から一段抜きん出ることができました。従来のロックミシンは、糸を通すのが非常に面倒だった上、糸を通す順番を間違うだけで縫えなくなる使いづらさがありました。お客様が糸通しを覚えるのに苦労している姿を見て、何とかできないかと考えたのです。

― 糸通しに「空気の力」を使おうと着想した理由は何ですか?

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空気の力で瞬時に糸通しができる世界初の「エアスルーシステム」。

 空気の力で糸を通す新方式を発明した社員は、子どもの頃からものづくりが好きで、色々な飛行機をつくっては試しを繰り返していたそうです。ゴム飛行機は自分で紙の羽を貼ってつくりますが、単に貼っただけでは羽がピンと伸びないので、霧吹きで水を含ませておき、それが乾いた時に紙が伸びるように工夫をしていたそうです。その時、たまたま霧吹きのタンクの中に糸が入っていて、水だけでなく糸もピュッと一緒に出てきた経験を、糸通しの問題を考えている最中に思い出したそうです。「そうだ!空気の力で糸は運べるのだった」という記憶をもとにバラックを組んでテストしたところ、「これはいける」と手応えがあり、開発を開始しました。

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手縫いの風合いを再現した「刺し子ミシン」。刺し子やパッチワーク・キルト等の愛好家向けの製品。

 「エアスルーシステム」という付加価値を提供できる以前は、価格とともに他社とほぼ同じでしたが、他社には真似できない新機能を付加したことで、高級ロックミシン市場に参入でき、以来、その市場でずっとトップシェアを獲得し続けてきました。ただ、そのためには、常にお客様からのフィードバックを受けながら、「世界初」という付加価値をつけさせていただいて現在に至っています。例えば、手縫いの風合いを再現することを可能とした「刺し子ミシン」や、生地の種類や厚さが途中で変わっても美しい縫い目に自動的に仕上げる「オートテンション」、波模様の飾り縫いができる「ウェーブロック」等、その後も「世界初」の機能を開発して、それらを特許権利化し、他社の一歩前を歩き続け、ロック業界の牽引役として今日に至っております。

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「オートテンション」機能で布が途中からティッシュペーパーに変わっても美しい縫い目に仕上がる。

 お客様の望む機能を、如何に使いやすくできるか。最終的な製品価格という問題も加味しながら、お客様が喜んで、安心してお使いいただける製品を常に追求しているのです。家庭用ミシンの歴史の中ではなかった独自機能を新たに開発し続けているのは、弊社がNo.1と自負していますし、メーカーとして海外で生産せず、製品のすべてを日本国内のみで生産しているのも弊社だけです。その中で「オンリーワン企業」と認めていただけているのかなと考えています。


◆ 大手にできない商品を開発して特許で守り、山形でものづくりを続ける。

― なぜ次から次へと新しい発想で世界初の機能を生み出し続けることができるのですか?

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本体・重要部品の機械加工は自社内で行っている。加工冶具には前身の機械鍛冶屋のノウハウが今もなお生きているという(写真上)。マシニングセンタ導入等の自動化を進める一方、ミシンで最も難しい重要部品「ルーパー」の加工は職人技が必要となる(写真中央)。写真下は、針穴の内側を手作業で磨くようす。

 企業の規模で言えば、当社は小さな会社です。そんな中小企業が大手企業と同じ市場で生きようとする時、ひとつは、大手企業にはできない隙間の市場で生きる道があります。台数等の採算面で大手にとっては旨味がないけれど、当社のように小さな会社にとってはその隙間を独占することで生きていけるニッチ市場があります。ただし採算が合わなくとも大手が絶対に参入して来ないとは限りません。もうひとつは、大手が思い付かないような独自の発想で新しい技術や商品を開発し、それを特許で守ることをしなければいけませんでした。当社では現在、世界25ヶ国で338件の特許等を獲得しています。大手から乗り込まれないために、常に新しいものをつくり続ける必要性があるのです。

 実は、大手ミシンメーカーも製造する汎用機ミシンの価格競争のため、当社も一度だけ海外進出して失敗した苦い経験があるんです。大手企業と比べて、人材も少なく資本力で劣る中小企業が海外展開するのは、当時かなりの無理がありました。では、どうしようと考えた時、汎用機ミシンであっても、技術革新を続けていくことで、日本で生産しながら生き残れるのではないかと考えました。そこで内部の機構等、色々な形で合理化を進めた結果、それが実現できたので、海外に進出しなくてもよくなったのです。製造技術力を高めながら、新しい技術や製品を開発できるようになりました。逆に言いますと、他社ができない発想を元に、お客様に喜んで買っていただける製造技術力を高めて、海外へ進出せず、何とか山形でやっていこうという発想で、ものづくりをしています。

 ただ、特許権の存続期間は原則20年なので、すでに切れている特許もあります。他社から研究もされていますので、その中で、さらに上を目指していかなければなりません。例えば、ミシンは細い糸なら簡単に通せますが、ある程度太くなると通せない糸があるので、細い糸から太い糸まで確実に通せるミシンをつくりたいです。言うのは簡単ですが、実は難しいことなのですよ。さらなる使い勝手のよさを追求し、開発を進めていきます。


◆ ロックミシン開発で培った技術を、包装機や省人化機器の製造に展開

― 貴社では、ミシン事業の他に包装事業も展開されています。どのようにしてもうひとつの事業の柱を展開していったのですか?

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横型ピロー包装機。現在ではあらゆる包装形態に対応。東北では唯一の製造元で、東北・北海道はもとより全国各地及び海外でも使用されている。

 当社が食品や工業製品等を自動的に個包装する装置の製造を開始したのは、1977年からです。きっかけは、ロックミシンの事業が順調に伸びる中、それ以外にももうひとつ事業の柱をつくりたいと探していた時、「これからは、食品ひとつひとつが個別に包装されて当たり前の時代が来る」と教えてくれた人がいました。そこで、仙台まで実際の包装機を見に行った時、今では電気的な制御が主流ですが、当時はすべて機械的な制御でしたので、その機構にミシンの基本的な機構が応用できると考えました。早速、山形に戻って試作するとうまく包装することができたので、そこから事業を開始した次第です。

― これまで培った技術力を応用展開していくアプローチで、他にも考えている新しいことはありますか?

 国内外で人手不足が深刻化する中、省人化を前提にした機械が強く求められています。ミシン事業で培った機械的な要素と、包装機事業で培った電気的な要素を応用し、色々なことをやれると考えています。例えばミシンも将来は自動縫製になると言われています。自分の身体を3Dスキャンしたデータで生地を切り自動縫製して、自分好みのピッタリな服が出てくる生活になるでしょう。そうなれば、同じミシン業界でも、随分と違う方向になっていきます。自動縫製となれば、ロボットが必要になります。ロボットをつくるには発想力が必要ですが、先程もお話したようにミシンは機械的機構の集まりで、包装機では電気的な制御も行っているので、それらの技術を集約してロボットに応用できると考えています。そんな未来が訪れることを前提にして、これから色々研究する必要があります。


◆ 山形の気質を活かしたものづくりを、山形の地で続けたい。

― 今後の展望についても、お聞かせください。

 この山形の地で山形の人の気質を活かしたものづくりを、今後もずっと続けていきたいです。逆に言いますと、「山形でものづくりを続けるためにはどうすればいいか」から常に発想しています。

― 「山形の人の気質を活かしたものづくり」とは、どのようなものづくりですか?

 ここ山形の人の気質は、基本的に、真面目でコツコツ粘り強くやることだと思います。ものづくりや開発には、それがものすごく必要な気質です。色々アイディアはあっても、最終的に商品にして世に送り出すまでには、ものすごく失敗しながら、試作を繰り返してやっと製品になります。ですから、コツコツ粘り強くやる基本的な気質がなければ、本当の意味での開発はできません。それを山形の人は気質として持っているからこそ、それを活かしたものづくりを、ここ山形の地で続けていきたいのです。


社長が二十歳だった頃

― 次に、鈴木さんが二十歳だった頃について教えてください。

◆ 自動車が大好きで、毎日車をいじっていたかった

 二十歳の頃は工学部機械系の3年生でした。私はもともと自動車が大好きだったので、機械関係を学べる大学に入り、自動車部に所属して、車を整備したり車に乗ったりして、毎日車のことばかり考えていました。私たちの年代はお金儲けをしてオートバイや自動車に乗りたい人やいじりたい人が大勢いた世代で、今の人とは随分感覚が違うのですよね。将来は車を毎日いじれる整備工場で働きたいと考えていたので、この会社を継ぐことは頭にありませんでした。

― その後どのような経緯で、こちらの会社を継ぐことになったのですか?

 先代の社長と色々話をするうちに、こちらでも色々おもしろいことができそうだと思うようになりました。そのため大学卒業後は、はじめの3年間、工作機械をつくるメーカーで加工を勉強し、次の2年間、当社の50年来のパートナーである東京の商社「株式会社ベビーロック」でミシンと営業の勉強をしてから、28歳の時に山形に戻ってきました。それから約10年間、家庭用小型ロックミシンと包装機の両事業に携わった後、常務、専務を経て、2009年、社長に就任しました。


◆ リーマンショックで実感した開発力の大切さ

― 社長を継いだ時のお気持ちは?

 「やるしかない」という感じでした。公式資料には当社の設立は「昭和28年」とありますが、その前身は、祖父が昭和4年に創業した機械鍛冶屋から始まっていますので、そこから数えると私で3代目となります。

 2008年に起こったリーマンショックの影響をまだ引きずっていた2009年、社長に就任しました。どのメーカーもそうだったと思いますが、2009年は近年最低の売上だった中、今日までの9年間で段階的に少しずつ色々なことを考えてきました。まず2009年、最低限の売上だけでも維持することを目標としました。幸いにして、想定以上の売上を何とか維持できたのは、実は、先ほどお話した世界初の「刺し子ミシン」と、世界初の電動式「ジェットエアーシステム」を搭載した縁かがりミシンという、先代社長がずっと研究開発を進めてきた仕事を、この年に出そうと目標にして何とか発表できたことが大きかったです。2010年にはそれら新製品のおかげで、リーマンショック直後でも他社以上に売上を戻していくことができました。

 その時、たとえリーマンショック直後のように世の中の購買意欲が落ちている中でも、お客様が本当に望んでいる商品を出すことができれば、きちんと売れるのだということを実感しました。逆に言えば、開発することをやめれば、うちの会社は終わりです。開発が当社の原動力であることを、改めて感じました。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 離職率が非常に低い、アットホームな雰囲気

 あまり考えたことはないですが、ひとつ言えるのは、当社は非常に離職率が低いです。身体上の都合でやむを得ず辞めた人はいますが、「仕事が合わない、別の仕事がしたい」といった自分の都合で辞めた人は、ここ10年で1人いるかいないかくらいです。

― どのような要因で離職率が低いと考えていますか?

 どちらかと言うと、ギスギスしていない社風があります。目標は目標として、もちろんやらなければいけないことはありますが、基本的には各部署の考え方で色々やってもらう方針です。仕事の他にイベントも任意参加で色々とやっています。月1回、その月に誕生した人を祝う誕生会も開きます。それは、食事をしながら私の話を聞く会ですが(笑)。花見や芋煮、新年会や忘年会も各部署で色々やっています。もともと小さな会社からスタートしているものですから、現在の人数になっても、どちらかと言うと、家族的な雰囲気であることが、離職率の低さにつながっていると思います。


若者へのメッセージ

―最後に、今までのお話を踏まえて、次世代に対するメッセージをお願いします。

◆ 人と人との交流から見聞を広めて

 今の若い人はなかなか先が見えず、色々やりたいとは思っていても、本当の意味で自分が将来やりたい夢が描けない人が意外に多いと、最近色々なところで聞きます。そんな時だからこそ、「自分はやれる」と自分を信じて、色々な難しいことにチャレンジしてほしいです。そのためにも、例えば、自分の趣味を通して色々な物事に接したり、人との交流を通じて見聞を広めたりすることが大切ではないでしょうか。

 私自身、自動車で色々な機構の勉強をしたことも大変身になりましたが、一番はそれを通じて、長く付き合える本当の友達ができたことがよかったと思います。最近の世の中は人間関係が希薄な印象を受けますが、中学校、高校、大学から長く付き合える友達をぜひ大切にしてほしいです。

 最終的には、人間ひとりで生きていくことはできません。色々な人から面倒をみてもらいながら生きていますし、その分、誰かにお返しをしなければいけません。すべての企業も買っていただいている方から生かされています。人に対して感謝の気持ちがなければ、本当の意味で、社会で生きていけないと思います。人と人との付き合いから、ぜひ色々なことを広げていってください。

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― 鈴木さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 「0から1を開発」をモットーに、チャレンジをサポートし合う環境が自慢。
 /開発部 機械・構造担当課長 石川正人さん(52歳、入社14年目、山形県山辺町出身)

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 ミシン事業で機械に関する開発・設計を担当しています。我が社の環境自慢は、「0から1を開発」をモットーに、新しいことや自分がやりたいことに果敢にチャレンジさせてもらえる環境です。たとえ失敗したとしても、全社を挙げてサポートしたりカバーしてもらえる環境があるので、とても働きやすいですね。これからも世の中にないもの、お客様に喜んでいただけるものを開発して、世に出していきたいです。


◆ 社員同士の横のつながりが自慢。興味と視野が広がる仕事におもしろみ。
 /購買課 課長 阿部清さん(57歳、入社28年目、山形県上山市出身)

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 私は購買課で、材料の仕入れや当社オリジナル部品の注文、製作に協力いただけるメーカーさんの選定から注文、社内への供給等が、主な仕事内容です。当社は約100人規模の小さなメーカーですが、元請けということで開発設計から製造、完成品の検査・出荷まで、一連の作業を自社で手掛けています。ですから購買部としては、プラスチック部品や電気部品、機械部品、糸、針等々、多岐にわたる部品を扱います。それらの部品を使って当社のミシンは完成するので、色々な部品を自分で調べたり、人から教えてもらったりしながら勉強しています。すると当社で使う部品以外でも「これはどんなところで使われるのだろう?」と興味が湧くのが楽しいですね。普段買い物に行った時も、仕事柄、「適正価格かな」と見たりします(笑)。仕事で得た知識によって普段の生活でも色々な物事に興味が湧いて楽しいです。

 我が社の環境自慢は、社員の横のつながりがあるところです。春は花見、夏はビアパーティー、秋には芋煮、旅行好きな人の旅行会もあって、社員の皆と色々な話をします。手作りの漬物等をお裾分けしてくれる人もいて、居心地のよい雰囲気です。毎月開かれる誕生会では、会社がお昼のお弁当を出してくれ、その月の誕生者は最後にケーキをいただいて帰れます。決して強制ではないのが、よいところです。一人静かな環境がよい人もいれば、友達を沢山つくりたい人もいると思います。自分ひとりの力で横のつながりをつくるのは大変ですが、会社が色々な機会をつくってくれるので、それに参加することで色々な人と話ができる環境がよいですね。

 当社の製品は、当社の力だけではつくることができず、材料や加工、アッセンブルするメーカーさん等々、他社の応援が必要です。これからも購買部として、他社さんに気持ちよく協力してもらえるよう進めていきたいです。そして10年後には今よりもさらに協力会社が増えて皆が手助けしてくれる会社になれるよう、購買部として尽力して参ります。


◆ 人材育成に積極的な環境が自慢。山形の地で唯一国内生産している誇り。
 /生産課 課長 渡辺裕一さん(52歳、入社35年目、山形県山形市出身)

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 18歳で入社し、現在は部品を生産する加工現場で課長を務めています。自動で動く大型機械からハンドルで動かすような機械まで、当社には様々な設備があります。それらがうまく回るようにまとめる仕事を担当しています。

 現場には非常に多くの設備があります。最近はコンピュータ制御の機械が増えたので、ものの脱着作業等はすぐ覚えられるようになりましたが、一方、プログラム作成や、手でものをつくる作業等には人間の技能が大きく関わってきます。そこで当社では技能検定という国家試験に積極的に取り組んでいます。受験料は会社負担で、さらに合格者には、給料に手当を上乗せしていただけます。人材育成に非常に積極的に取り組んでいるため、社員が技能レベル向上に取り組みやすい環境が自慢です。また、当社はメーカーですから、例えば加工部門で困ったことがあると、設計部門と協力して改善できるのが当社の強みです。部署間の距離が近いので、改善のアイディアを出し合い協力し合える環境も自慢です。

 日本に大手ミシンメーカーは何社かありますが、国内だけでミシンを生産しているのは当社だけです。ましてや東北の山形の地で、日本で唯一国内生産している会社であることは、我々社員にとっても誇りです。今後もそれを絶やすわけにはいかないので、これからもよりよい製品を、ここ山形から世界へ、発信し続けていきたいです。

オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.16】創業から80余年、築き上げてきた顧客との信頼関係により、潜在的ニーズをいち早く掴み、ニッチ市場No.1シェアの多様な商品を展開/遠藤工業(新潟県燕市)社長の遠藤光緑さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.16】創業から80余年、築き上げてきた顧客との信頼関係により、潜在的ニーズをいち早く掴み、ニッチ市場No.1シェアの多様な商品を展開/遠藤工業(新潟県燕市)社長の遠藤光緑さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年04月02日公開

創業から80余年、築き上げてきた顧客との信頼関係により、
潜在的ニーズをいち早く掴み、
ニッチ市場No.1シェアの多様な商品を展開。

遠藤工業株式会社(新潟県燕市)
代表取締役 遠藤 光緑 Koroku Endo

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.16)
 新潟県燕市に本社を構える遠藤工業株式会社(1935年設立、従業員194名、資本金6,000万円)は、産業用機械・機具を自社で開発し、自社ブランドで製造・販売しているメーカーである。内蔵する渦巻きゼンマイの力を利用して、吊下げ物を任意の位置で保持することで、工場等における作業者の負担を軽減する装置「スプリングバランサー」は、国内市場では90%超のシェアを握り、世界市場では約50の国と地域に輸出している。また、移動体・回転体へスムーズに電気を供給する技術を有し、クレーンや搬送台車・舞台照明等に使われるケーブルリール、電力や信号を通信機器等へ伝えるスリップリングを製造。環境関連の分野では、多種多様なものを粉砕・破砕処理する各種破砕機を取り揃え、ゴミ処理施設やリサイクル施設、一般工場等で使われている。1969年「新潟県技術賞」受賞、1980年 Tryron(洋食器)がNY近代美術館Permanent Design Collection入、1990年「第7回新潟県産業振興賞」受賞。そんなオンリーワン企業である遠藤工業がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の遠藤光緑さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以と、それに至るまでの経緯について、教えてください。

◆ 潜在的ニーズに応え続け、ニッチ市場でシェアNo.1を目指す

 我々は中小企業ですが、昭和10年(1935年)の創業以来、幾多の変遷を経ながらも自社ブランドでずっと製造・販売している完成品メーカーです。世の中には必要とされる様々な商品・サービスがあり、ハイテクからローテク、大きなビジネスから小さなビジネスまで、いろいろな商品があってはじめて世の中全体の産業が成り立っています。そして、各商品を見ていくと、それ単独では小さな市場しかないけれども、「それがないと困る」というニッチな市場があります。それを探すには「目利き」が必要となるわけですが、それをここ50~60年間、ずっと探しながらやってきました。人からは「先見の明があった」と言われますが、実際にはそうではなく、やむにやまれず変化していく必要性に迫られ、結果的に大手企業が参入してこない分野で事業を営んできました。それを明示的に意識し始めたのは約30~40年前になってからで、先代社長である父が、当時はまだあまり一般的ではなかった「ニッチ市場を探す」という基本方針を打ち出しました。

― どのような指針でニッチ市場を探すのですか?

 人と人とのお付き合い、人と人とのつながりからです。例えば、ある製品をやっていると、商社やエンドユーザーのお客様から、「それができるなら、こんなものもできないか?」という話が来るのですよ。その話に対して、私どもは必ず「できます」と応え続けてきました。茶化して言えば、根拠のない楽観主義と言えますが(笑)、それは絶えず「立ち止まらず、未来に向かい変化し続けなければいけない」という想いがあったためで、創業以来80余年、どんな苦境の中にあっても前向きに、いろいろなことにチャレンジし続けてきました。


◆ 洋食器から工作機械へ。終戦後はGHQ管理下で生産活動停止

― 貴社の事業はどのように変化していったのですか?

 当社は、茶托や薬缶を一枚の銅板から鎚で打ち出す鎚起銅器の職人だった、祖父によって創業されました。祖父は大正時代の中頃から、機械を導入して金属製洋食器の製造を開始し、昭和10年(1935年)、洋食器等の大量生産を目的に、個人商店を会社組織に変更し、遠藤工業株式会社を創立しました。

 しかし創立後間もなく、第二次世界大戦(1939年~1945年)の開戦ムードが高まる中、洋食器製造の続行が難しくなりました。危機感を抱いた創業者がいろいろな人に相談したところ、「これからは軍事産業だから、工作機械をやりなさい」との助言を受けたそうです。それまでは当社に工作機械の技術者はいなかったので、周囲の協力により、専門の技術者を会社に迎え入れたり、当時群馬県にあった中島飛行機製作所(SUBARUの前身)に技術指導を仰いだりして、航空機部品等の製造を行いました。

 しかし、そのために終戦翌年の昭和21年(1946年)、当社はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から工作機械製作部門の「賠償指定工場」とされ、進駐軍の管理下におかれます。当社の前にはGHQの憲兵二人が毎日銃剣を持って立っていたそうです。賠償指定工場の間は、生産活動がすべて停止にされてしまい、当社の経営は大変厳しくなりました。昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって日本に特需がもたらされた時、この町もアメリカ軍からの洋食器注文の急増により戦後の不況から脱する中、当社はGHQの管理下におかれていたために、戦後のスタートダッシュが遅れたのです。昭和27年(1952年)、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、賠償指定工場を解除されて初めて、当社は"戦後"を迎えました。


◆ 主力商品スプリングバランサーの誕生

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半導体部品から自動車部品まで、あらゆる素材の表面に機能を付与することで付加価値の高い製品を供給する。

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スプリングバランサー

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自動車工場で溶接機を吊るスプリングバランサー

 ようやく生産を再開でき、遠藤工業で何がつくれるかを考えた時、戦争中に小松製作所の指導で丸鋸(まるのこ)盤という工作機械をつくっていた関係で、その図面が工場に保管されていることに気付きました。「これなら自分たちでも作れるな」と自社製品として丸鋸盤の製造を始めました。

 一方、昭和20年代、いすゞ自動車のエンジニアから商社を通じて、1枚の写真とともに「海外製バランサーを国産化できないだろうか」という話が持ち込まれました。当時は進駐軍による管理が解除されたばかりの頃で会社は暇でしたから、「できます」と、根拠のない楽観主義で手を挙げて(笑)、見様見真似で作り始めたのです。苦労に苦労を重ね、やっと完成したサンプルを手に各自動車メーカーをまわりましたが、当初は誰からも相手にされず、「こんなもの使えるか」とサンプルを足で蹴っ飛ばされたこともあったと聞いています。

 バランサーとは、うずまきゼンマイの張力を利用し、懸垂する工具等を任意の高さでバランスすることで作業者の負担を軽減する、組立工場等で不可欠な装置です。キーコンポーネント(心臓部となる構成要素)であるスプリングの耐久性(寿命)がポイントで、今もそれが圧倒的に優れている点が当社商品の特長となっています。当時もスプリングの耐久性を研究していた時、新潟大学の先生にその研究を依頼したそうです。その先生の論文が昭和36年(1961年)に学会誌に掲載され、それを見たトヨタ自動車が採用したことを契機に、国内の自動車メーカー他社にも販路が広がっていきました。その後、スプリングバランサーは国内市場で90%を超すシェアを占める、当社の主力商品となりました。

 現在、当社のビジネスは大きく3つの分野に分けられます。ひとつ目が、今お話したスプリングバランサー等の「荷役機器」。次に、ケーブルリール等の「給電機器」。3つ目がモノを破砕するための「環境機械」です。ちなみに、売上の約3割近くは輸出によるものです。


◆ エンドユーザーとの信頼関係こそ財産

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大当クレーンやゴミクレーン等へのスムーズな電源供給用にケーブルリールが使用されている。

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プラスチックや木材、金属屑等を破砕して細かくできる破砕機は、自治体のリサイクルセンターや一般工場等で使用されている。

 スプリングバランサーから派生した商品もいろいろあります。スプリングやモータの力でケーブルを自動で巻取る「ケーブルリール」も、スプリングの大きさは違うものの基本的な構造は同じです。ある商社の方が工場見学に来られた時、「ケーブルリールも生産できるのでは」というお話をいただいて、それがリールを始めるきっかけになりました。

 3つ目の事業の柱である環境機械については、約30年前から「新しい事業をやりなさい」と先代社長に言われてきた中で、私が新たに開拓してきたビジネスです。そのプロジェクトが生まれたきっかけも、それまでずっと切断機を納めていたアルミサッシの加工工場から、「切った後に発生する大量の金属屑を溶解工場までトラックで運ぶ時、できるだけたくさん乗せたいので、細かく砕いて容積を小さくできないだろうか」という話をいただいたことでした。様々な試行錯誤を経て、今では破砕機も事業のひとつの柱として成長しています。

 このように、当社の事業が生まれてきた背景には、すべて理由があります。それもある日突然、偶然舞い降りてきたわけではなく、冒頭にお話した通り、人と人とのつながりによるものです。ある分野で自分たちが商売を通じて、お客様との信頼関係を構築してきた結果、いろいろなお話をいただけるわけですから、この信頼関係こそ当社の財産と考えています。

 今でもいろいろなお話をいただきます。新しい技術開発や環境問題等、ものづくりの現場も目まぐるしく進化しており、数年前には想像できなかったニーズが生まれています。当社は自社ブランドで直接販売しているため、国内外の業界トップメーカーのお客様から「この商品のこの部分を改良してほしい」等という要望や意見等をダイレクトに聞くことができます。エンドユーザーとの結びつきが非常に強いという当社の強みを活かしながら、刻々と変化する市場の潜在的ニーズをいち早くつかみ、新たな需要を創造していくことが、会社発展の鍵と考えています。そのためにもお客様からのお話に「できます」と前向きに挑戦し続け、変化を恐れない行動力こそ必要であり、絶えず変化していくことが社長の仕事であると私は考えています。たとえすぐには結果が出なくとも、「1年2年やって成果が出なければ社長を辞めろ」とは言われない家族経営的な企業である点を甘んじることなくメリットとして活かすことを心掛けています。


◆ 進化するものづくりの現場に対応した商品開発と海外展開加速

― 今後の展望については、どのようにお考えですか?

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「ぜんまいモータ」の応用例。移動することでゼンマイに力を蓄え、その力で元の場所に戻る台車やターンテーブル等をつくることができる。

 環境機械については現在、破砕機を柱にしていますが、それと並ぶもうひとつの柱として、バイオマス関係で求められている機械を開発中です。荷役機器については、ものづくりの現場が劇的に進化していく中、スプリングバランサーの用途も変化しています。最近では製造業のお客様向けに、近年のものづくりの現場で注目されている「からくり改善」(ものの自重やテコの原理、ゼンマイ、滑車の原理等を利用したシンプルな機構で、電気を使わずお金もかけずに、日常の問題を創意工夫で改善すること)に使われる「四角バランサー」や「ぜんまいモータ」を開発し、収益を伸ばしています。また、給電機器についても、情報化時代、IoTの普及で需要拡大が予想される、ネットワーク信号対応の商品を開発中です。

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2017年10月にドイツで開催された展示会「Motek」にスプリングバランサーとからくり関連商品を出展。

 それとともに、当社売上の約3割を占める海外輸出についても、今後ますます世界市場は広がると肌身で感じています。当社では、海外各エリアに代理店を置くとともに、インドと中国に現地法人を設立しています。これらを拠点として、日本と同じくらいの納期で世界中に商品を供給できる仕組みをつくりたいと考えています。ちなみに、なぜインドなのかと言うと、2017年の新車販売数がドイツを抜いて世界4位に浮上する等、さらなる成長が予想されるインド市場において当社の存在感を高めるには拠点が必要だと判断したからです。さらに、地図を見てもらうとわかるように、インドのすぐ近くに中東やアフリカが位置しています。将来的には、モータリゼーション到来間近との期待が高まるアフリカ市場への足掛かりになると見込んでいます。地球以外の拠点は考えていません。でも、もし地球に重力が無くなったら当社は困ってしまいますね(笑)。

社長が二十歳だった頃

― 次に、遠藤さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 理不尽な経験が人を成長させる

 二十歳の頃を話すには、私の子ども時代から話す必要があります。小学校の頃から基本的に"ひねくれ者"です。小学校高学年から中学生の頃は、「学校の先生を如何にやっつけるか」を生き甲斐にして反抗していました(笑)。というのも、先生が矛盾することや間違っていることを平気で言うものだから、その間違いを正すわけです。例えば、私が児童会会長を務めていた時、運動会で先生から「来賓の前で右手を上げて敬礼しろ」と言われたので、「なぜナチス式敬礼をやらせるのですか。あなたは歴史を知らないのか」と指摘すると、先生はカンカンになって怒り、昔ですから殴ったり、廊下に立たせたり、理科室に閉じ込めたりしました。その類の過ちを私が正して先生から怒られるたびに「大変だった。ひねくれて非行に走らず、よかった」と晩年母が語っています。学校では、教わったというより、世の中には如何に仕方ない大人がたくさんいるかを学びました。ただ、私のひとつ上の姉は「よい先生ばかりだった」と言うので、人によって随分と感じ方が違うのだなと驚きましたね。

 中学で熱中したバスケット以外は高校までは、あまりよい思い出がありません。子どもの頃から、この町が嫌いで嫌いで、仕方がありませんでした。今の時代とは違って当時は、緑色や青色をしためっきの廃液が町に垂れ流しで、煤で顔が真っ黒な人や機械で怪我をして手の指が無い人もいっぱいましたから、とてもよい町とは思えなかったのです。

 大学は、姉が行った東京には行きたくなかったのと、雪が近くにあるところがいいという理由で、北海道大学か東北大学にしようと思い、1974年(昭和49年)、距離的に近い東北大学工学部の方に進学しました。「俺はもう死んだものと思ってくれ、但し仕送りだけは頼む」と言い残して地元を離れて行ったと、母が晩年笑いながら話していました(笑)。二食付き風呂なしの下宿に入り、入学した年の夏には狂乱物価、大学2年生の時には学生運動が起こった時代で、暗かったですね。英語の授業も、自分はさっぱり聞き取れないのに、まわりはきちんと聞き取っているようすで、「俺がここに来たのは間違いだったのかな...」と思ったり。彼女もいなかったですし、もうコンプレックスの塊でした(笑)。それが私の二十歳だった頃です。

 大学4年生の時、「このまま卒業すれば何も勉強しないまま卒業して就職になってしまう」と、9月に大学院の入試を受けました。「勉強をしなくても受かる」という周囲の話を真に受けて勉強をしなかったら、確か15人中4人くらいしか合格せず、私も不合格者のうちの一人になってしまいました。「こんなはずじゃなかった」とそこから一生懸命勉強して、2月の入試で無事合格。その頃からちゃんと勉強するようになりました。配属された研究室では、人間関係を学びました。指導教官の助教授がテニス好きで、研究室の中で先生が一番テニスが上手く、私が一番下手でしたから、よく先生とダブルスを組まされました。私は前に出るべきか・出ないべきか、毎回悩み、どうやっても先生からは「違う!」と怒られました(笑)。また、当時先生方や先輩からいろいろなことを教わりました。でも具体的に何をしろとかの話は少なく、「この人は一体何を言いたいのか、よくわからないな」と思う禅問答のような話が多かったように思います。でも、そのたびに必死になって考えてきた経験は、今振り返ると、非常に重要だったと思うのです。今はなんでもかんでもわかりやすく教えてくれるのが当然という世の中ですが、それと引き換えに考える力や生きる力は衰えているのではないでしょうか。中学生の時に熱中したバスケットの部活でも、今では全く考えられない非科学的、非合理的な方法でしごかれましたが、その時も何でこんなことをしているのかと考えました。でもそれらがいい思い出になっています。理不尽だと思う経験によって、人間、鍛えられますからね。理不尽が人を成長させるのです。


◆ 厳しくて怖かった父のこと

 大学院を卒業して就職しようという時、会社のことが頭にあったので、100円玉を何枚か握りしめて公衆電話から父に電話し、「そろそろ就職のことを考えようと思うけど、将来、会社を継ぐことを考えた方がいい?」と一度だけ相談しました。父の答えは「何を生意気なことを言っているんだ。お前を頼るほど、俺は落ちぶれていない!」でした。そこまで言うのならと、当時大学に求人の来ていた東芝に入社し研究所に配属されました。そこには全国から多士済々なメンバーが集まって最先端技術の研究開発に取り組んでおり、多くの刺激を受けました。自由な雰囲気の中で仕事も遊びも充実した日々を過ごし、東芝にいた6年半が私の青春時代でした(笑)。その時に先端技術に触れられたことと、当時の上司や先輩、同僚と今でもお付き合いできていることが私の財産です。

― どのような契機で、こちらの会社に戻ることになったのですか?

 昭和56年新潟豪雪で、雪降ろしのために週末帰省した時、老いた父親の姿を見ました。その後も、父は病気で入院を繰り返すようになり、父の年齢のことが気になっていたことがひとつです。もうひとつは、東京営業所にいた常務の存在が大きかったですね。常務からは「ゴルフくらいやったらどうかい?」との誘いを受けて、嫌な予感はしつつ(笑)しばらく一緒にゴルフに行くことを繰り返していました。しばらくすると、「ちょっとゴルフクラブでも買ったらどう?」と百貨店に連れていかれ、「でも、お金がないなぁ」と思っていたら、「いいから、いいから、持っていきなさい」とクラブを渡されて(笑)。「これはまずいな」と思いながらも、ゴルフで釣られていくうち、だんだんその気にもなってきますよね(笑)。30歳になって先が見えてきたこともあって、父に「そろそろ来年7月頃に戻ろうと思うけど」と連絡すると、父の答えは「あぁそうか。お前がそう思うなら、そうすればいいさ」でした。天邪鬼でひねくれ者なんですよ(笑)。

― お父様はどのような方だったのですか?

 父は一部で「燕の三奇人」と噂されるくらい、強烈な個性の持ち主でかつ怖い人でした。OB会の話題が「先代社長が怒鳴ると、ガラスの窓がぴしぴし動いたよね」というくらい、会社でしょっちゅう朝から晩まで怒鳴っていました。富山のお客様が、納期遅れのクレームのために来社された時のこと。父はそのお客様そっちのけで担当部長全員を1時間も2時間も怒鳴り続けたそうです。そして最後そのお客様に対して「そういうことだ。だから申し訳ない。間に合わない」とだけ言ったそうですよ。そのお客様は、「これひょっとしたら演技じゃねえかなって思ったけど、あまりにも怒鳴られ続けている部長たちのことが途中から気の毒になって、文句を言えず帰ったよ」と後年話していました。なかなかそこまで本気で怒れないと思います。しかし父のこの個性、強力なリーダーシップのおかげで、昭和30年代、40年代の会社の苦しい時代を乗り切ることができたのだと思います。仕事を離れると明るく楽しい人でもありました。私が雪を好きになりスキーに凝ったのも父の影響でした。


◆ 世の中に「絶対」はない

 アメリカがドルと金の交換を停止したニクソン・ショック(1971年)の時、父は、「所詮、札(通貨)なんか価値が無いんだ」と話していました。確かに、今の仮想通貨だって、皆が大丈夫と信じているだけで、一気に価値が無くなることだってあるかもしれません。父は終戦時に国から退職金を小切手でもらい、翌年1月に換金できるはずだったのが不渡りを食ったので、世の中に「絶対」というものはないことが、肌感覚でわかるのだと思います。そもそも地球のサイズから見たら、地震も噴火もこの豪雪もまだ科学・技術でコントロールできないくらい人間はちっぽけな存在です。だからこそ「できる」という根拠のない楽観主義で、変化を恐れない行動力が大切だと思うのです。天邪鬼で二十歳の頃は暗かったですが、今は結構楽しいですよ(笑)。

 最近の若い人はいい子で素直過ぎて、天邪鬼がいないですね。いつの時代でも「今の若い者は」と言うらしいですが、でもやはりそれは駄目だろうと思います。「俺が言った通りにやるなよ」と言いたいです。もちろん「こうした方がよい」と思って言うこともありますが、議論のために敢えて投げかけている言葉もあるわけで、それをそのまま鵜呑みにしてはいけません。ですから最近は私も言い方に気を付けて、「こんな考え方もあるかもね、君が自分で決めなさいよ」と社員に接するようにしています。自分で考えるのは訓練です。教わる"教育"のみならず、できるようになるまで同じことを繰り返しやる"訓練"、その両方が社員教育でも必要だと考えています。

我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 自分の仕事が世の中に役立っているか直接感じられる環境が自慢

 我が社の環境自慢は、エンドユーザーの話を直接聞くことができ、フィードバックできる環境にあることです。人間、仕事をするからには、自分の仕事が世の中に役に立っているか、評価されたいですよね。できるだけ若い人たちにも、自分のやった仕事が「社長にとって」ではなく「お客様にとって」良いか・悪いかを直接ビシビシと感じられる仕事を担当させています。

◆ 若手でもいろいろな経験を積むことができる

 若い人にも、海外の展示会等の社外へ積極的に派遣し、可能性があるなら、いろいろな経験をどんどんさせてやりたいと考えています。それをどう感じるかは本人の問題ですが、自分がわかっていないことがわかることはよいことです。結局、会社とは社長のものでも誰のものでもなく、自分が仕事をする土俵です。極端な言い方かもしれませんが、その土俵をできるだけ好きに使えるようにしてあげたい、そんな場を目指しているつもりです。

若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえ、次世代へのメッセージをお願いします。

◆ もっと貪欲になれ。これからがもっとおもしろい時代になる。

 特に今の若い人たちには「もっと貪欲になれ」と言いたいです。これからの10年、20年、特にエンジニアにとって、こんなにおもしろい時期はないと思います。いろいろな技術がどんどん進歩し、ものすごい技術革新の真っ只中にありますから、それらの技術を使って世の中の仕組みをガラッと変えられる可能性を秘めている時期に、仕事をガンガンできることはハッピーなことです。ぜひそのチャンスを活かしてほしいですね。これからがおもしろいですよ。

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― 遠藤さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 自分の意見を反映でき、やりがいを感じられる環境が自慢。
 /営業本部 海外営業担当部長 赤川大介さん(44歳、入社10年目、新潟県新潟市出身)

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 遠藤工業の海外営業の募集を見つけたことが当社に入社したきっかけです。それまで海外営業の経験はなかったのですが、新しいことにチャレンジしようと応募し、今年で入社10年目になります。

 当社は日本国内のみならず、世界約50の国と地域に輸出をしております。海外での主なお客様は自動車メーカーやその関連企業で、代理店さんを通じて商売をしております。私は代理店さんやエンドユーザーさんに対して当社商品のPRや修理研修の提案、代理店さんの新規開拓等を担当しています。

 2011年、インドに現地法人を立ち上げた時には、現地法人のジェネラルマネージャーとして2011年から2015年まで家族とともにインドに駐在しました。あまりにも日本の文化と違うことに戸惑い、苦労は絶えませんでしたが、終わってみれば自信につながりました。あと駐在時代と比較して怒る頻度は減ったと思います(笑)。

 我が社の環境自慢は、自分たちの意見が反映されやすく、自分の仕事に対してやりがいを感じられる場を会社が提供してくれることです。その分、責任は大きく、発言に対する重みを感じます。また、何か新しいことをやりたい時のコミュニケーションも早くて活発です。また、面倒見のよい方が多いので、仕事がやりやすいこともありがたいことです。遠藤社長のお人柄が大きいと思いますが、私たちのことを受け入れてくれる、とてもよい環境だと思います。

 これからは、海外営業担当部長という役職で部下を管理する立場ですから、周りを活かすスキルや立ち振舞いをさらに磨きつつ、部としてより力を発揮できるよう努める所存です。


◆ 積極的に学べ、成長を実感できる環境が自慢。
 /製造本部 組立グループ 廣野秀人さん(24歳、入社6年目、新潟県加茂市出身)

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 私は、スプリングバランサーの組立を担当しています。オーソドックスな製品の他に、お客様のニーズに合わせた特型機種も組んでいます。

 高校卒業後すぐ当社に入社しました。私は普通高校の出身ですが、当社に入社した理由は、就職活動で会社見学をした時、「知識ゼロからスタートしても色々教えてもらえるから、工業高校出身でなくても大丈夫だよ」と案内してもらったこと。もうひとつは、私は野球をしていたのですが、遠藤工業には野球部があり福利厚生もしっかりしていること。それと年齢に関係なく、社員同士が明るく喋っていた雰囲気の良さが気に入り、今年で入社して6年目です。

 我が社の環境自慢は、ここ数年で強く感じていることですが、一言で言えば、学ぶことができるところです。例えば、会社全体で取組んでいる「QC(クオリティ・コントロール)活動」では、現場でチームを組み、品質向上や効率化等にむけた様々な問題の提起・改善に継続的に取組んでいるところですが、私も数年前からチームリーダーになって、QC活動に本腰を入れるようになると、学びたいことが増えてきました。そんな時も、気軽に上司に相談でき、単に「やれ」と言われるのではなく、自分が「こうしたい」と意見等を言えば、それができるよう周囲がサポートしてくれ、勉強会等にも参加させてもらえます。また、「からくり改善?くふう展」出展用に特殊なバランサーを組んでいた時、「これが現場でどんな風に使われるか見てみたい」と何気なく言うと、「現場の感じ方を勉強してこい」と展示会に連れて行ってもらえ、そこで得た知識をQC活動に反映することができました。さらに、製造本部では「多能工化」を目標としており、他部署の仕事も経験する中で視野が広がっています。

 社会人になりたての頃は「もっと勉強したかったな」と思った時期もありましたが、今は二十歳を過ぎても勉強ができているので、そういった欲求は満たされています。最初のうちは「他の人がやっているから」という感じで取組んでいましたが、少しずつできるようになってくると、仕事がおもしろくなってきました。単に仕事をこなすのではなく、自分が成長できる環境が、当社の一番の自慢です。


◆ 年齢や役職に関係なく相談しやすい、明るい雰囲気が自慢。
 /技術本部 商品技術部 吉岡祐紀さん(30歳、入社9年目、新潟県長岡市出身)

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 私の就職活動中はリーマン・ショックの直後で、厳しい反応を示す県内企業が多かった中、当社だけ堅苦しくない雰囲気がありました。役員面接で社長の遠藤と話してみておもしろい人だと思ったのと、会社全体が明るい雰囲気だったことが決め手となり、大学卒業後に入社して今年で9年目です。今の仕事はパソコンを使って電気回路の設計製図を行う他、お客様のご要望に合わせた選定業務も行っています。

 当社の環境自慢は、年齢や役職に関係なく、何かあればすぐ誰にでも相談できるくらい、コミュニケーションが活発な雰囲気です。ベテランさんに比べて経験も知識も乏しいダメダメな自分ですが、わからないことは先輩方が親身になって教えてくれます。部下の立場でも、部長や課長のような立場の先輩に気軽に相談できたり、逆に先輩方が若手社員の我々に最近の傾向を聞いたりしてくれることが、大規模な企業とは違う雰囲気かもしれませんね。

 それに、設計をする時も現場で実物を確認しながら進めるのですが、現場の人とのコミュニケーションで仕事に関係する情報を得られるだけでなく、気持ちの面でもリフレッシュになり、モチベーションも上がります。若手でも会議で発言権があり、「駄目でもいいから、意見を出しなさい」「気になる資格があれば、試験を受けなさい」「興味があるなら展示会に行ってみなさい」と会社が言ってくれるおかげで、若手であっても萎縮せず、仕事ができる雰囲気がとても大事だと思います。雰囲気って大切だと考えていて、おかげで羽を伸ばしながら仕事をしています(笑)。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.17】「まずはやってみる」の開発力で、世界中が使いやすい製品を追求し、トレッドミルと自動ネジ供給機でオンリーワン/大武・ルート工業(岩手県一関市)社長の太田義武さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.17】「まずはやってみる」の開発力で、世界中が使いやすい製品を追求し、トレッドミルと自動ネジ供給機でオンリーワン/大武・ルート工業(岩手県一関市)社長の太田義武さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年04月09日公開

「まずはやってみる」の開発力で
世界中が使いやすい製品を追求し、
トレッドミルと自動ネジ供給機でオンリーワン

株式会社大武・ルート工業(岩手県一関市)
代表取締役 太田 義武 Yoshitake Ohta

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.17)
 岩手県一関市に本社を構える株式会社大武・ルート工業(1968年設立、従業員48名、資本金4,000万円)は、高い開発力を武器に海外事業も展開する、オーダーメイドのトレッドミル(ランニングマシン)並びに自動ネジ供給機の国内トップメーカーである。オーダーメイドトレッドミルの設計から製造まで一貫生産が行える国内唯一の専門メーカーであり、また、世界で初めて「レール交換方式」を考案した同社の自動ネジ供給機は国内トップシェアを誇る。1999年「第11回中小企業優秀新技術・新製品賞」、2006年「文部科学大臣表彰 科学技術賞」、2008年 経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」等の賞や認定を受けている。そんなオンリーワン企業である大武・ルート工業がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の太田義武さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。

◆ 自動ネジ供給機とトレッドミルの国内トップメーカー

 当社ではふたつの事業を営んでおり、どちらも参入企業の少ないニッチ市場で自社製品を開発・製造しています。

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自動ネジ供給機

 ひとつ目の事業は「自動ネジ供給機」の製造です。製品組立ラインにおけるネジ締め作業の効率を高める自動ネジ供給機に、世界で初めて「レール交換方式」を採用し、1台で複数径のネジへの対応を可能としました(ネジ自動供給機分野でトップシェア)。ユーザーは弱電(主として通信・家庭電気用品等を扱う部門の通称)から自動車、住宅建材まで、ネジを扱う工場すべてが対象となります。世界中で使いやすい製品を目指したことで、現在は30カ国以上で利用されています。近年ではロボット組立用としての需要も伸びています。

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全天候型トレッドミル

 もうひとつの事業は、トレッドミル(ランニングマシン)です。当社は日本国内で唯一、オーダーメイドのトレッドミルの設計から製造まで一貫生産が行える専門メーカーです。医療機器製造認定工場となっており、医療用や研究用等の特殊品を主に製造しています。これまで多くの大学や国の研究機関、医療機器メーカー、民間企業の研究チームやプロアスリートチーム等からご用命いただいています。

― そこに至るまでの過程を教えていただけますか?

◆ 下請けから脱して自社製品開発へ

 弊社は1968年に設立し、大手電動工具メーカーのバンドソー(木材をカットして加工する小型の製材機)のOEM(相手先ブランドによる生産)からスタートしました。バンドソーはもともと製材業を営む父が開発したもので、私が会社を設立して製造・販売することになったのです。私が24歳の時でした。

 当初はかなりの台数を売り上げ、順調に事業が進んでいましたが、そのうち原価低減を繰り返し要請されるようになりました。OEM発注元の大手企業が泊りがけで当社の製造現場に立ち入り、原価低減の方法や品質管理、品質保証等の指導を受けました。「部品をバラせば何千点あるのだから、そのネジひとつ1円ずつコストダウンすれば可能でしょう」と指導され、大幅な原価低減を受け入れましたが、最終的には「原価をさらに2割安くしなさい」と言われてしまいOEM継続を断念しました。

 OEMを辞めた後は、自社製品ではなく付加価値の低い製品の下請けの仕事を2、3年、やってみたものの、もう懲りました。夜中でもお構いなく発注元企業から電話が鳴り続け、散々嫌味も言われ、嫌な思いを沢山しました。納期に間に合わせるために、社員も大変で、社員の親からは「うちの息子を家に返してくれ」と言われたこともありました。下請けの仕事の数自体はいくらでもありましたが、相手の都合でものをつくることに虚しさを感じました。「やはり自分たちでつくった製品でなければダメだ。何とか自分たちの製品をつくろう」と固く心に決めて以来、今でも基本的には下請けや部品製造の仕事はやらない方針です。


◆ 木材加工の技術を活かしてトレッドミルを開発

― 下請けから脱して、自分たちの製品として何から作り始めたのですか?

 バンドソーで培った木材加工の技術で、最初は、警察犬用の犬小屋の製造を始めました。外壁を外せたり折り畳めたりする特殊用途の犬小屋をつくったところ、高額で売れました。ただ、量産化や錆の問題が解決できなかったので、別の製品をつくれないかと考えていた時、テレビでたまたまドックランを見て「うちで犬用のトレッドミルをつくれるな」と思い付きました。ところが犬用のトレッドミルをペット業界に売り込むと、「絶対にニーズはない。だって愛犬家は犬を連れて散歩したいのだから」と言われました。今では台湾等のメーカーがドックランナーを販売しています。時代の変化ですね(笑)。

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天然木材の走行板

 そのうち、犬用から人間用のトレッドミルを製造するようになりました。今でこそトレッドミルはスポーツジム等にあって当たり前の存在ですが、当時の日本ではまだまだ真新しい存在で、そのほとんどが海外製でした。ある時、国内大手スポーツジムから「使用している米国製トレッドミルに問題が見つかったので、何とかしてもらえないか」と相談を受けました。他社の製品を直してあげることもできないので、本当に大変でした。試行錯誤する中、もともと製材業を営んでいた父からの木材加工技術に関する助言がブレイクスルーとなり、走行板に天然木を使う独自技術を生み出し、当時の既存品にあった様々な問題を解決することができました。他社の走行板には合板や金属、化学材料等が使われていますが、当社は、木材の持つ性質をうまく活かして磨き込むことで、安定して低動摩擦な走行板を実現することができたのです。使い込むことで滑らかになる木材はメンテナンスフリーで、潤滑剤の飛散もなく、耐久性が高いという特長があります。天然木を使用したオリジナルの低摩擦走行板は、今も当社製品の差別化要因となっており、それが医療現場や研究機関等から選ばれている理由になっています。


◆ 医療用や研究用のトレッドミル製造に特化

 トレッドミル販売開始当初は、国内の需要があり販売は好調でした。ところが、しばらくすると、台湾や中国から安い製品が大量に輸入されるようになりました。そこで、スポーツ用のトレッドミルから、医療や研究開発用途の高付加価値商品に特化する戦略へ切り替え、難関と言われる医療用トレッドミルの許可を取得し、製造を開始しました。

 けれども、その後も色々と大変でした。スポーツ器具メーカーが医療機器を製作したことで、それまで取引していた国内大手スポーツジムからの受注がゼロになってしまいました。競合しない業種だと思ったので、商売の難しさを感じましたね。実は一時期、トレッドミルをやめようと思ったこともありました。医療用の受注は月に数台はありましたが、特注品は時代の流れの影響を大きく受けるため、受注がない時期もあったからです。それでも結局、トレッドミルの事業を続けた理由は、思い入れがあり、何となくやめきれなかったのです。その間、トレッドミルの他にも事業の柱が欲しいと思い、自動ネジ供給機の開発に注力しました。そして気付けば、日本国内にトレッドミル専業メーカーは他にほとんどいなくなっていました。現在、特に医療用や研究用等の業務用の場合、目的や用途等に応じてきめ細やかな設計が必要なオーダーメイド製品のため、国内市場の業務用トレッドミルのほとんどを当社が開発から請け負っています。あの時、途中でトレッドミルをやめなくてよかったです。


◆ トレッドミルと無関係の自動ネジ供給機を開発

― もうひとつの事業の柱として、なぜ自動ネジ供給機にしようと思ったのですか?

 トレッドミルを製造していた時、部品を安く仕入れるため、台湾に事務所を設けました。そこで働いていた台湾人社員の知り合いから、「自動ネジ供給機をつくってくれないか」という依頼があったのです。話を聞いてみると、台湾での電機・電子関連の工場で生産が急拡大する中、日本製で高性能のネジ供給機は既にあったそうですが、「日本のネジは精度が高過ぎて、公差が粗い台湾のネジでは途中で装置が止まってしまう。どんなネジでもスムーズに流れる自動ネジ供給機をつくってほしい」という話でした。

― トレッドミルとネジ供給機、全く違う機械に見えますが、技術面等で何か共通点はあるのですか?

 全くありません(笑)。考え方も作り方も生産体制もお客様も管理方法も何もかもが全然違います。開発も本当に大変でした。そもそもネジって難しいんですよね。螺旋があるから、途中で引っかかってしまうんです。さらに大変だったのが、既成のネジ供給機が"特許の塊"だったことでした。特許を回避しながら、途中で詰まることなくネジを供給するにはどうすればよいか、非常に苦労に苦労を重ねながら開発を進めました。そして試作機が完成すると、件の台湾人の方が製造現場で実際に試し、問題の洗い出し等をあらゆる環境で一斉に行ってくれました。そのフィードバックを受けながら試行錯誤すること約2年。やっと製品化にこぎつけ、1996年にネジ供給機第一号の販売を開始することができました。機構設計は私一人で考えて、その後の量産設計は社員が考えてくれました。とはいえ、それまでトレッドミルという大型の機械しかつくっていなかったので、社員は皆、頑張ってくれましたね。

 ところが、販売を始めた当初、国内では、名も知られていない我々の装置は、販売代理店から全く相手にしてもらえませんでした。そのため、海外での販売からスタートしました。テストを海外で行っていた関係で、海外の販売代理店が取扱説明書等の翻訳面でも協力してくれたこともあり、まず海外で売れ始めました。海外では「大手企業だから、ベンチャー企業だから」という理由で取引先や製品を選ぶという考え方がないようです。すると最初は販売を断ってきた国内の販売代理店から、「日本で知名度のない製品がなぜ海外で使われているのだ?自分たちも日本国内で売りたい」と国内でも販売されるようになり、売れ始めました。


◆ 決定的な差別化を図るため、世界初の「レール交換方式」を開発

― 「ネジのばらつきが大きい海外でも使える装置を」というニーズに応えたことで、海外で貴社の自動ネジ供給機が売れたことは想像できますが、ネジのばらつきが少ない日本においても、貴社のネジ供給機が国内シェア1位になるほどまで売れた理由は何ですか?

 当時の自動ネジ供給機は、日系大手電機メーカー1社による独占市場だったので、お客様からの「こうしてほしい」という細かなニーズに応えてはいませんでした。我々は中小企業で小回りが効きますので、すべてのクレームに応えて改良を続けました。実は今でも外からは見えないところで常に改良が入っており、製品の部品や材質等も進化し続けています。

― どのようなクレームに応えたのですか?

 当時の既存品はネジをフォークですくいあげ、自重で落下させる方式だったため、ネジが詰まりやすく、扱えるネジのサイズも限られていました。特に近年、製品組立ラインもロボット化が進んでいますので、ネジ詰まりで分単位でもラインが止まってしまうと生産性が落ち、大きなダメージになります。そこで、これらの問題を解決するため、モーターの振動でレール上のネジを整理し水平に搬送する新しい方式を考えました。さらに、そのレールの特徴を最大限に活かして従来品との決定的な差別化を図るため、世界で初めてレール交換方式を考案しました。従来品はネジの種類が変わるたびに装置自体を買い換える必要がありましたが、オプションのレールを交換するだけで、多様なサイズや形状、材質はもちろん、多くの特殊ネジにも対応できるようにしたのです。


モーターの振動でネジを水平搬送させる新しい方式を開発し、さらに世界で初めて「レール交換方式」(特許取得)を採用した同社の自動ネジ供給機(動画)。

 7種類あった装置を1台にまとめた分だけ、当社の売上は落ちたなと思いましたけど(笑)。お客様にとって何がベストかと言えば、レールだけ交換できた方がコストも安く済みますし、生産ライン変更にもすぐ対応することができます。"私どもにとってのベスト"ではなく、"お客様にとってのベスト"を選んだ結果、お客様からは喜んでいただけました。一度購入してくれたお客様は必ずリピートしてくれます。また、機構がシンプルなので修理がしやすいという特長もあり、10年以上経った製品の修理を依頼されるお客様もいます。当社としては修理よりも新しい装置を購入いただいた方が売上は上がりますけど(笑)。お客様側で最適にカスタマイズできる余地を持つ製品を開発したことが、お客様から評価いただいた一番の要因になったと思います。はじめ競合他社からは「たいしたことがない」と言われたのですが、最後にはそれが当社の一番の特長になりました。一時期は「もし世の中がネジ不要になったらどうしよう」と心配したこともありましたが、そんな世界にならず安心しています(笑)。

― それほど画期的な装置を、他の企業は真似できないのでしょうか?

 1996年の販売以来、常に改良を繰り返して少しずつ製品のラインナップも増やしており、お客様からの多様なニーズに応えるため、50以上のバリエーションを取り揃えています。品質的に同等以上の製品をつくることも、また、これだけのバリエーションを揃えるのも、難しいのではないでしょうか。

 一方、最近は中国等の海外で当社製品の模倣品が大量に出回っており、その対策に頭を悩ませています。模倣品も年々精巧になっており、デザインのみならず、商標ラベルまでコピーされてしまい、外見を見ただけでは本物との区別がつかないほどです。酷いものは装置の一部だけが偽物になっており、使用中に不備が出て、偽物と気づくケースもあります。いたちごっこではありますが、お客様からも「安定性の高い本物を探し求めている」と聞くので、ブランド戦略の見直しや製品ラインナップの充実化等による模倣品対策を進めています。


◆ 技術力の高い開発型メーカーとして認められる

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認知動作型トレーニングマシン

― 現在はどのような事業を展開していますか?今後の展望についても教えてください。

 最近は異業種の大手企業からお声がけいただき、協働事業が増えています。ひとつは自動車産業で、大手自動車工場に当社の装置を組み入れていただいたり、大手ロボットメーカーとのタイアップで次世代型ロボットリハビリテーションシステムを開発中です。東京大学の小林寛道先生が開発した認知動作型トレーニングマシンの製造を行うことも決まり、研究用機器から販売製品への展開を目指しています。健康志向の高まりや高齢化社会の進展に伴い、当社のトレッドミルが開拓できる新市場はまだまだあると考えています。

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マイクロネジ供給機

 自動ネジ供給機分野においても新たな市場の開拓を進めており、ウェアラブル機器の新市場を狙って微細なネジ(直径0.5mm)用の新製品「マイクロネジ供給機」を東北大学超低摩擦技術領域との連携で開発しました。このほかにもIoT化への対応等、製品に「完成」というものはなく、やらなければいけないことはたくさんあると考えています。

 昔の下請けだった時の仕事と、今の仕事は全然違います。取引先は大企業ですが、今は買い叩かれないどころか、我々のことを対等に扱ってくれ、メーカーとして尊重してもらっていると感じます。それは他につくれないオンリーワンの技術を我々が持っているからです。至らないところもまだまだ多いですが、他社の方が助けてくれ、周囲に恵まれていると感謝しています。


社長が二十歳だった頃

― 次に、太田さんが二十歳だった頃について教えてください。

◆ 父から「戻ってこなければ勘当だ」「金はやるからお前が全部やれ」と言われ会社設立。

 外資系の仕事をしたかったので、ある外資系企業を志望したところ「面接までの一週間で全部読んで理解しなさい」と半導体に関する英語の教科書を渡されました。最初は真面目に勉強しましたが、できるはずがないですよね(笑)。今でも英語は一番苦手なんです。仕方がないので面接会場に行くと、初っ端から英語で半導体の質問をされました。「わからないです」と正直に答えると、面接官が急に日本語を話し始め、「無理なのは最初からわかっていて、この課題を出しました。あなたは逃げずに面接に来ました。それを評価します」と、その場で採用が決まりました。現地法人を立上げるために人材を集めている最中だったので、「入社まで修行してきなさい」と猶予期間が与えられました。

 ところが父から「岩手に戻って来なければ勘当だ」と言われました。先程もお話した通り、バンドソーを開発したのは父で、東京の商社と契約したものの、なかなか売れずにいました。そんな中、件の大手電動工具メーカーからOEMの依頼があった時、父は契約した会社との関係で、そのメーカーとの契約ができなかったので、新しい社長で会社を立ち上げる必要があったのです。父からは「金もやるから、名前も会社登記も全部お前がやりなさい。お前に全部任せた」と丸投げされました。そのために、若い頃はだいぶ苦労しました。設立当時はまだ24歳で、世間知らずだったこともあって、取引先からは「ぼっちゃん」と呼ばれたりしていました。

― 外資系企業に就職するつもりが、急に「会社を設立しろ。全部任せた」と言われた当時のお気持ちは?

 何千万円という大金をぽんと渡されて、萎縮してしまいました。だって、学生だったもの。大変でしたよ。何とも仕方ないですけどね。ただ、技術面では父のサポートがありました。父も製造業をやっていた影響か、私も小さな頃からモノづくりが好きでした。小さな頃は、工場で遊んでいた時、「絶対に触るなよ」と父から言われたものを、こっそり触って、よく怪我をして、よく叱られていました。中学校の頃は、巨大ロケット花火をつくろうとして、火薬を集めて試したら、大爆発しました。爆発音で周囲にいた子どもの耳も一時的に聞こえなくなるほどの大爆発でした。幸い他の生徒に怪我人はいませんでしたが、今も私の片目が見えづらく指も1本ないのは、その時の怪我です。学校の先生からは「我が校始まって以来の大惨事だ。君は将来、発明家になりなさい」と言われました。

― 非常にインパクトのあるエピソードから、太田さんのモノづくり力や実行力のルーツを感じられた気がしました。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 小さくともメーカーであること

 部品ではなく、自分たちで考えたモノを完成品として世の中に売る、小さくともメーカーであることです。


◆ 世界に通用する製品をつくる

 地方にある中小企業ながら、世界中にモノを売っており、世界中から問い合わせが来ることです。


◆ 大学や研究機関等との協働で、新たな付加価値を創造できる

 研究開発に力を入れており、大学や研究機関等、異業種とも協働しながら、次代の新しいモノを創る環境があることです。


◆ ビジネス的にポテンシャルの高い位置にいる

 私としての一番の自慢は、周囲の人たちから「売れるモノを持っている」と思ってもらえる環境があることです。市場規模が1兆円を超え、今後さらなる発展が見込める健康福祉産業に我々が売れるモノはたくさんあると可能性を感じています。やれることは、まだまだたくさんあるのです。


次世代へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代にメッセージをお願いします。

◆ まずはやってみたらいいじゃない

 やりたいことがあるなら、頭で考えるのではなく、まずは自分でやってみるといいですよ。だって、やってみないとわからないじゃない。1回やってみて、もし駄目だったら、じゃあ、どうしたらできるのかを突き詰めて考えればよいのです。私はよく社員や娘にも言いますが、私が聞きたいのは、できない理由ではなく、どうやったらできるかなんです。もし駄目でも、別に命までとられるわけではないのだから、失敗を恐れず、ぜひ挑戦してください。

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― 太田さんのスタンスがよく伝わってくるメッセージだと感じました。太田さん、本日はどうもありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 完成品の設計・開発から生産・販売まで手掛けられるメーカー
 /佐藤大介さん(35歳、入社2年目、岩手県一関市出身)

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 もともと東京で仕事をしていたのですが、家庭の事情で岩手に戻ることになり、ハローワークから紹介された1社目の企業が当社でした。前職の加工の経験が活かせると思い、迷わず当社を志望し、無事採用いただいて今年で入社2年目です。現在、私の入社と同時期に新設された製造技術部で、設計と加工の現場の人たちをつなぐパイプ役を担っています。例えば、設計図面をどの機械でどのように加工するかを現場の人たちと相談したりしています。

 我が社の環境自慢は、独自技術で、完成品の設計・開発から生産・販売まで、トータルで手掛けることができるメーカーであることです。岩手の特に中小企業では、そのようなメーカーは非常に少ないので、入社してからそれを知って驚きました。開発から生産まで全てを当社で行うため、全体を把握することができますし、工場内には様々な機械が揃っています。今まで触ったことのない色々な機械を使えること自体がおもしろいですし、社員のスキルアップ面でもよい環境です。製造技術部のミッションである現場の改善に今後も積極的に取組み、社員の一人としてよりよいモノづくりを目指していきたいです。


◆ おもしろい人達がたくさんいる、オンリーワン企業
 /板沢藍さん(24歳、入社1年目、岩手県釜石市出身)

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 地元の一関高専を卒業後、はじめは千葉県にある化学系の企業で働いていましたが、やはり地元に住みたいと思い、岩手に戻ってきました。高専の先生から当社を紹介いただいて、無事に採用いただきました。現在は、購買・庶務関係の事務の仕事を担当しています。

 当社の環境自慢は、少人数なので社内の人たちのことがよくわかるのですが、おもしろい人がたくさんいることです。事業内容も、他にはないオンリーワン製品をつくっているので、おもしろいと思います。私自身は入社してまだ半年なので、仕事を早く覚えて事務作業を効率化し、社内の皆さんがより働きやすい環境づくりに私も貢献していきたいです。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.18】汎用フライス盤で国内トップシェア、「ものづくりの人を育てる機械」で山形から世界へ/エツキ(山形県村山市)社長の早坂幸起さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.18】汎用フライス盤で国内トップシェア、「ものづくりの人を育てる機械」で山形から世界へ/エツキ(山形県村山市)社長の早坂幸起さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年04月16日公開

汎用フライス盤で国内トップシェア、
「ものづくりの人を育てる機械」で山形から世界へ。

株式会社エツキ(山形県村山市)
代表取締役社長 早坂 幸起 Koki Hayasaka

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.18)
 山形県村山市に本社を構える株式会社エツキ(1967年設立、従業員130名、資本金8,640万円)は、各種自動化省力化専用機械や産業機械の設計開発から製作、販売、サービスまでを行う会社である。同社の汎用フライス盤は、高剛性、高精度の信頼性の高さから、毎年開催される「技能五輪全国大会」で大会用機械として採用されている。汎用タイプながらミクロン単位での加工が可能なこのフライス盤の摺合せは、職人の高い感性と、職人技である「キサゲ」によって支えられている。汎用フライス盤を現在日本で製作しているメーカーは数社しかなく、その中でも当社のフライス盤はトップシェアを誇る。そんなオンリーワン企業であるエツキがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の早坂幸起さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以と、それに至るまでの軌跡について、教えてください。

◆ 「エツキ」ブランドの機械を世に出したい

 2017年9月に創業50周年を迎えた当社は、私の父である現会長が創業した会社です。約50年前、ここ山形県村山市には大手の疎開工場があり、その工場では職人を養成し、志ある者に独立を推奨していました。父は腕がよいと評判のフライス加工の職人で、この会社で修行した後に独立。最初は自宅敷地内の工場から始まり、その後、高度成長の波に乗り、部品加工のみならず組立等の仕事も始めました。しかしいずれは「エツキ」ブランドの自社製品を世に出したいという想いが強く、試行錯誤しながら様々な製品を開発する中で、現在の当社の主力製品である汎用フライス盤の製造を、はじめは生産委託から始めました。

― そもそも「汎用フライス盤」とは何ですか?

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フライス盤は、金属製の工作物を前後・左右・上下に動かし、定位置で回転する刃物(フライス)で金属の加工を行う。

 フライス盤とは旋盤と並んで金属を加工する最も基本的な機械です。昔の製造現場では主力の工作機械でしたが、世の中の流れがNC(Numerical Control:数値制御)化、いわゆる「マシニングセンタ(工作物の取り付けを変えずに、フライス・穴明け・中グリ・ねじたて等、種々の作業ができるNC工作機械)」に取って代わるようになり、フライス盤は製造現場の主流からサブ的な機械になりました。今では、汎用フライス盤を日本で製作しているメーカーは数社しかありません。

 当社もはじめは大手メーカーからの生産委託で汎用フライス盤を生産していたので、「エツキ」の名は表に出ていませんでした。しかし、その取引先が2002年に倒産し、民事再生法で他社に吸収され、新会社は汎用フライス盤の生産をやめてしまいました。創業以来初の経営危機を迎えましたが、当時社長だった父が「フライス盤を何とか当社の名前で売らせてもらえないか」と交渉し、汎用フライス盤の販売権を譲っていただきました。つくる機械は同じですが、2004年から「エツキ」ブランドの機械として製造・販売を開始しました。

 そこで改めて大変さを感じたのが、ものをつくるノウハウとものを売るノウハウは全く異なるということです。我々にとっては、機械をつくるよりも、売る方が非常に大変でした。営業マンを育てたり営業拠点をつくったり、販売後もメンテナンス等、メーカーとしての責任があります。それらを試行錯誤しながら進め、少しずつ認めていただけるようになりました。


◆ 2010年、技能五輪に採用されたことが大きな転機に

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2016年11月4日 やまがた技能五輪

 そんな中、2010年に大きな転機が訪れました。我々ものづくりの世界には、「技能五輪」という若手職人のオリンピックのような技能競技大会が毎年開催されています。「フライス盤」と「抜き型」のふたつの競技職種で、当社のフライス盤が選定機械として、2010年に競技用機械に採用され、以来、毎年選定していただいています。技能五輪には、日本を代表するものづくり企業が若手技能者育成のために出場しています。それまで当社の製品は主に全国の工業高校や職業訓練校等といった学校現場向けでしたが、技能五輪をきっかけに、大手企業の教育訓練用機械としても販路が広がりました。

 2016年、初めて山形を会場にした技能五輪全国大会が開催されました。我々としても、何とか地元で技能五輪を開催したいと、陰ながら県に働きかけてきましたので、非常に感慨深いものがありました。まだまだものづくりに関わる人しか知らない大会ですが、やまがた技能五輪では、地元の小中学生や高校生も見学に来てくれました。ものづくりに携わる者として、ものづくりの面白さや可能性を次世代に伝えることができたと思います。


◆ 伝統的な職人技「キサゲ」へのこだわり

― 貴社の汎用フライス盤は、特にどんな点が優れているために、オンリーワンになれたのですか?

 当社がオンリーワンたる所以は、「キサゲ」という伝統的な摺合せの技能にこだわり機械をつくっていることです。大手メーカーが汎用フライス盤をつくらなくなった理由は、製品の需要が大きく減少したこともありますが、非常に手間暇がかかる割には儲からないからです。今でも汎用フライス盤を製造している企業は国内で数社程しかなく、その中でも当社の機械は一番手間をかけていると自負しています。統計資料がないために商社の取扱い台数からの推測にはなりますが、日本で一番多く汎用フライス盤を製造しているのも当社だと思います。

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機械加工では不可能なμm(0.001mm)単位の加工精度を実現する職人技のキサゲ。難度が高く熟練が求められる。

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キサゲ加工中の金属。金属面の数μm単位の凹凸を職人の手で丁寧に削り平らにしていく。


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キサゲ加工には手間暇がかかるが、高精度を長期的に維持するために、フライス盤に必要な技術であるという。

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キサゲの模様は、同社のロゴのモチーフになっている。



◆ ものづくりの人を育てる機械

― なぜ「手間暇がかかって儲からない」上に「生産現場で主流でなくなったために他社も撤退した」汎用フライス盤の製造を、貴社は続けようと思ったのですか?

 最初はやはり社内でも汎用フライス盤やキサゲにこだわることに反対の声がありました。生産現場の主力機械でなくなったこともありますし、機械をつくるにも職人を育てるにも手間暇がかかるためです。しかし、当時社長だった現会長がもともとフライス職人で、その機械を使ってものづくりをしてきたという強い思いがありました。フライス盤の製造から撤退するメーカーが多い中、「日本の未来を支える技能者は、こういった機械で育てるのだから、どうしてもこの機械は残さなければいけない」と決断したのです。

 全国の工業高校にも、汎用フライス盤は必ずあります。製造業離れが叫ばれている今日、今の若い人たちにとってものづくりは魅力的な職場ではなくなっているかもしれませんが、それでも「ものづくりが好きだ」という若者がいるので、ものづくりを裏で支えたいという思いで汎用フライス盤を作り続けています。私たちがつくっているのは、「ものづくりの人を育てる機械」なのです。

 また、工作機械の技術がベーシックな分、色々な機械に応用ができますので、工作機械で培った技術を活かしながら技術開発を重ね、現在は、各種産業機械や自動化省力化専用機械の設計・開発から製作、販売、サービスまで一貫して行っています。


◆ 日本のものづくりを海外へ

― 今後については、どのようにお考えですか?

 当社が製造している機械も日本国内だけでなく海外でも使われる割合が増えていますし、我々の取引先も国内のみならず海外に進出しているため、海外にも目を向ける必要があると考えています。

 例えば、日本には「技能検定」という職人の腕を認定する国家資格があり、100以上ある技能検定職種の中にフライス盤職種もあります。そのような日本の技能検定制度が日本のものづくりを影で支えています。日本企業が進出している東南アジア等の発展途上の国々に、政府開発援助の枠組みで技能検定制度が展開されようとしており、当社も協力しているところです。

 使える人間がいなければ、機械は意味がありません。発展途上国では、日本のような職業訓練の仕組みがないので、機械があっても、使える人がいないのです。これまで日本の援助は機械だけを入れてきましたが、同時に人を育てていないために、機械が錆だらけの現状を見てきました。そこで今は機械だけでなく「人づくり、仕組みづくり」へと援助の形が変化しています。ハードとソフトの両面で、日本のみならず海外でも、ものづくりを裏で支えることに当社も貢献していきたいと考えています。


社長が二十歳だった頃

― 次に、早坂さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 父から言われた、ふたつのこと

 私が二十歳だった頃は、初めて山形を離れ、横浜で一人暮らしをし、学生時代を楽しんでいた時期です(笑)。二十歳の頃と言えば、当社はまだ創業から20年も経っていない頃でした。「いずれは会社を継ぐのだろうな」という意識は頭の何処かにありながらも、まだ具体的な進路は漠然としていました。

 大学は理系ではなく文系に進みました。周りからもよく「なぜ理系に進まなかったの?」と聞かれます。父からは「製造業だから、理系に進んで技術的な勉強をしてこい」とは言われず、「自分(父)が苦手な分野を勉強してこい」と言われました。「では無理をして苦手な理系に進まなくてもよいのだな」と私は都合よく解釈しまして(笑)、商学部に進みました。簿記や経営管理等を学び、会社経営の面で勉強になりました。父からはもうひとつ、「大学4年間で多くの人と知り合い、色々な人との付き合い方を勉強してこい」と言われたので、部活やサークル、バイトも含めて色々な人と出会うことを意識し、色々なことを教えてもらいました。

 初めて家を離れて、改めて故郷のよさも感じました。例えば、四季がはっきりしていて、夏は暑くて冬は雪が多いのも、住んでいる時は「こんなところ嫌だな」と思っていましたが(笑)、人間、生活していく上でのメリハリは大事だと思いましたね。食べ物も旨いですし。それに、山形は人もいいと思います、素朴でおっとりしていて。お金で買えないものがあるところが、地元のよさだと思いました。


◆ 人から聞いて初めて知った、経営者としての父の偉大さ

 私が一人暮らしをしていた場所の近くに、取引先企業(油圧機器メーカーの株式会社アールテーアール)があり、たまに父が出張で来た時、その社長さんとの食事会に私も一緒に連れて行ってもらいました。以来、その社長さんからは色々と面倒をみてもらい、「お前の親父はすごい人だ」とよく聞かされました。

 ちょうど父が創業した昭和40年代前後は、高度成長の波に乗り、起業する人が多かった時代だったそうです。腕のよい職人の独立を支援する機運が高かった時代で、父が勤めていた会社にも暖簾分けの制度があったそうですよ。そのため、独立して自分の会社をつくった職人は多かったそうですが、腕がよいからといって、必ずしも経営者として成功するとは、限りません。人を育てられる職人がなかなか多くはなかった中、父はどんどん人を増やし、次から次へと新しい事業を展開しました。「職人気質と経営手腕を併せ持つ人は、なかなかいない」という取引先の社長さんの話から、初めて経営者としての父の凄さを意識しました。それまでは漠然と「後を継がなければいけないな」と思っていましたが、「そんな想いで会社をつくった親父の後をしっかりと継がなければいけない」という気持ちが固まりました。それが、私が二十歳だった頃です。

 その取引先の社長さんには、その後も、色々な形で面倒をみてもらいました。当時は全く考えていなかったことですが、2016年、後継者がいないということで、その会社を当社で引き受けてグループ会社としました。今振り返ると、二十歳の頃、そんなこともあったなと思いますね(笑)。


◆ 社長就任直後にリーマンショック

― その後、どのような形で山形に戻ったのですか?

 ものづくりはアルバイト程度の経験しかなかったので、きちんとものづくりを勉強してから山形に戻っても遅くないという気持ちがあり、卒業後は、取引先の大手機械メーカーで約5年修行させてもらってから山形に戻りました。戻ってから数年間は、工場でものづくりをしたり営業をしたり、色々な下積みの仕事をさせていただきました。ものづくりは父が現役でやっていたので、自分は大学で勉強した経理や人事、労務関係等、経営管理的な仕事を主にやったような気がします。

― 社長就任はどのようなタイミングだったのですか?

 2007年7月に私が社長に就任して、今年で12年目です。その頃はリーマンショックの直前で、世の中の業績がよかった時でした。会長の想いとしては、仕事が最も安定している一番よい時期に社長を譲る考えだったと思います。ところが、社長就任から約1年後、2008年9月のリーマンショックで売上が激減し、創業以来最大の危機を迎えたので、私は社長になってからはずっと大変だったという思いしかないですね(笑)。ここ2、3年で、やっと落ち着きました。本当に大変でしたが、今になって考えれば、悪い時に社長になってよかったと思います。

― どのようにして苦境を乗り越えたのですか?

 先程もお話させていただいたように、2010年、技能五輪の競技用機械に当社のフライス盤が採用されました。一番大変だった時期、久々の朗報に社員の士気も高まり、営業的にも自社の技術力を強力にアピールする好材料となりました。その2010年が大きな転機となり、それをきっかけに色々な仕事につながっていき、おかげさまで2014年には業績がV字回復しました。苦しい時でも、「売れない機械を作っても仕方がないのではないか」という反対があった中でも、それでも諦めず、自社製品の開発と地道な営業活動を続けてきた結果だと思います。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ ここ山形だからこそ、つくれるものがある

 我が社の環境自慢は、この山形という地域です。「こんな雪深くて不便なところで、なぜものづくりをしているの?」とよく言われます。全国各地にいるお客様からすれば、「ここに来るのも大変だ」と言われるくらい、交通の便もよいわけではないですが、ものをつくる環境としては非常に恵まれている地域で、ここ山形だからこそ、つくれるものがあります。

 なぜかと言うと、まずひとつ目は、東北の人間に共通する点として、決して口は達者ではありませんが、真面目にコツコツと取り組み、ものをつくらせれば誰にも負けない、という風土が残っていることです。当社にも真面目にコツコツとものをつくる社員が多くいます。昔は、冬の農閑期になると出稼ぎに出る必要があり、それが嫌で企業を誘致した地域なので、冬に出稼ぎに行かなくても仕事ができることはよいという風土が、便利さから離れた地域だからこそ残っているのです。

 もうひとつは、ものをつくるために必要な仲間が山形には揃っていることです。例えば、鋳物は機械をつくるベースとなる素材ですが、もともと戦国時代の頃から、この地域は鉄器作りが盛んで、それが発展して鋳物をつくる土壌がありました。また、山形はミシン製造が盛んで、その部品を加工したりめっきをしたり熱処理をしたりと、半径30km圏内で、ある程度のものづくりができるベースがこの地域にはあります。ですから父も、この地域でなければ、ものづくりの仕事ができなかったと思います。

 一見、恵まれていないようにも見えますが、ここ山形は、ものづくりに恵まれている地域なのです。ただ、引っ込み思案の気質があるので、商売には向いていない地域ですが(笑)、この山形の地で世界と戦えるものづくりをやりたい、そう思っています。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へのメッセージをお願いします。

◆ 縁あって出会った仕事を大切にして欲しい

 誰もが皆、将来の夢を持ち、実現にむけた努力をしていると思いますが、ほとんどの人は、人生、自分の思った通りにはならないものです。たとえ「自分がなりたかった仕事」に出会えなかったとしても、縁あって出会った会社や仕事を大事にしてもらいたいです。夢を追いかけることは悪いことではないですが、出会った仕事を好きになって頑張れば、その仕事が「自分がなりたかった仕事」になるのではないかと思います。

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― 早坂さん、本日はありがとうございました。


我が社の環境自慢

◆ 高評価のフライス盤を自らの手で生み出す誇り
 /小関誠さん(33歳、入社13年目、山形県尾花沢市出身)

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 短大生の頃にインターンシップ生として当社から受け入れていただいた時、「でかいものをやっていて、おもしろそうだな」と興味が湧いて、当社に入社して今年で13年目です。現在、自社のフライス盤の精度を出すための「キサゲ」作業を担当しています。

 もともと私はものづくりに興味があり、工業高校、工業系の短大を卒業しています。母校も含めて、全国の工業系学校から高く評価されている自社フライス盤を、自らの手で直に生み出していることが、一番の自慢ですね。

 50年続いてきた会社は全国的にも決して多くないと思います。これから先、自分たちの世代が中心になった時、その一翼をきちんと担えるよう、伝統的な匠の技を磨きつつ、時代の流れにも対応できるよう、これからも精進していきたいです。


◆ 若い世代に技術を伝えていく循環が自慢
 /後藤喜文さん(31歳、入社13年目、山形県村山市出身)

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 中学生の頃に工場見学で当社を訪れた時、当時の社長(現会長)が工場を案内してくれました。よくわからないながらも、社長の話に「すごい」と感動し、また加工現場に大きな機械がずらりと並ぶ光景に「すごい」と感激して、当社に入社し今年で13年目です。現在は、機械課で金属加工の仕事をしています。自社フライス盤の大型部品の他にも、お客様からいただいた部品の加工も担当しています。

 我が社の環境自慢は、年齢や役職に関係なく、コミュニケーションが取れている現場です。私も新人だった頃、皆、自分の仕事が忙しいにも関わらず、手取り足取り仕事を教えてくれました。自分が教わった分、私も若い世代に教えていくつもりです。そんな恩返しの繰り返しができている現場だと思います。

 また、当社のフライス盤が全国の工業高校等に知られていることも嬉しいことですし、地元の人に「エツキで働いています」と言うと、大抵の人が「エツキか。よいところで働いているね」と知っていただいていることが本当に嬉しいです。エツキの社員として、恥ずかしくない言動を取らなければいけないと身が引き締まる思いです。

 これから当社は、日本国内のみならず海外にも展開していきます。世界にも目を向けて、ますます当社が発展できるよう、自分も尽力していきたいです。


【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.19】超精密加工技術であらゆる素材の加工に応えるオンリーワン企業/ティ・ディ・シー(宮城県利府町)社長の赤羽優子さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.19】超精密加工技術であらゆる素材の加工に応えるオンリーワン企業/ティ・ディ・シー(宮城県利府町)社長の赤羽優子さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年04月23日公開

超精密加工技術であらゆる素材の加工に応える
オンリーワン企業

株式会社ティ・ディ・シー(宮城県利府町)
代表取締役社長 赤羽 優子 Yuko Akabane

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.19)
 宮城県宮城郡利府町に本社を構える株式会社ティ・ディ・シー(1989年設立、従業員59名、資本金3,000万円)は、超精密鏡面加工のオンリーワン技術を強みとし、幅広い分野に事業を展開する企業である。金属、セラミックス、半導体、ガラス、その他新素材など、あらゆる材質をRa1nmオーダーに加工することが可能。超微細加工により平面度30nm、平行度100nm、真直度・段差100nmなど高精度なモノ作りを実現。寸法、平行、角度など100nmへの挑戦も行っている。取引先は医療、自動車、半導体、光学など業種を問わず国内外3,000社を超え、試作・少量生産から量産まで対応する。2003年「みやぎものづくり大賞」、2007年 経済産業省 中小企業庁「元気なモノ作り中小企業300社」、2010年「第3回ものづくり日本大賞」優秀賞、2014年 経済産業省「グローバルニッチトップ企業100選」、2016年「ナノテク大賞日刊工業新聞社賞」、2018年 経済産業省「地域未来牽引企業」等、数々の賞や認定を受けている。そんなオンリーワン企業であるティ・ディ・シーがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の赤羽優子さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以を教えてください。

◆ 「研磨」の技術を用いて、あらゆる材質・形状にナノレベルの精度を実現

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ティ・ディ・シーの超精密鏡面加工は、平面、曲面、球面など様々な形状に対応できることがひとつの特色である

 私どもは「切る」「削る」「磨く」「形状加工」といった機械加工全般、特に「研磨加工」が得意で、あらゆる材質をいろいろな形状にナノ(1nmは1mmの1,000,000分の1)レベルの精度で加工できることが、私どものオンリーワン技術です。一般的にはレンズメーカーならガラスのみ、シリコンウェーハメーカーならシリコンのみを扱いますが、私どもは金属、セラミックス、結晶材料、樹脂など、あらゆる材質に対応可能です。様々な材質を鏡面のように磨いて高度な表面粗さRa(面粗さの平均値の規格)1nm を実現しながら、研磨技術を用いて究極の平らさをつくったり(平面度30nm)、限りなく真球にしたり(真球度50nm)、各面を少しずつ削ることで寸法公差を±100nmに制御したり、すべてナノレベルで形状制御ができることが私どもの一番の強みです。

― 貴社の技術は、どのようなところで使われているのですか?

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研磨装置(ラップ盤)

 私どもの技術は、半導体、自動車、航空宇宙、ディスプレイ、医療機器など、世界の先端産業、最先端研究で採用されています。また、技術開発と並行して、積極的な販路開拓活動、広告宣伝や展示会出展なども行っており、世界18ヶ国で3,000社を超えるお客様との取引実績があります。2014年にはJAXAの「はやぶさ2」プロジェクトに私どもの鏡面加工技術が採用されました。「容器内面に最高の研磨を施したい」と、数ある企業の中から私どもの技術を採用いただきました。また、米国スタンフォード大学などのチームが南極に設置している「BICEP(バイセップ)3」望遠鏡の宇宙背景放射観測用ミラーに、私どもの技術が採用されております。研磨という形で私どもが携わったものが、宇宙を飛び宇宙の謎を解くことは嬉しいことです。

― 素人考えでは、研磨と言うと、ヤスリのように、対象よりも目が細かいもので磨けるというイメージがあるのですが、1nm以下と言えば、可視光の波長より数百分の1も小さい目で磨くのでしょうか? どのようにしてナノレベルで研磨できるのですか?

 私どもの研磨加工は、「ラップ」という手法を用いています。テーブルと工作物の表面との間に、「砥粒」という研磨剤にあたる小さな粒と液体を混合させた「研磨液」を入れてすり合わせ、加工面を精密に磨いて仕上げます。ですから、ヤスリのようなものでガリガリと削るのではなく、潤滑液の中を砥粒が泳ぎながら磨く感じです。砥粒の材料はダイヤモンドやセラミクスなどで、そのサイズがナノの場合もありますが、仮にミクロン(1μm=1,000nm)あったとしても加工面に当たる部分は点ですので、ナノレベルでの研磨が可能です。

― どのように制御して、あらゆる物質にナノレベルで研磨ができるのですか?

 研磨装置(ラップ盤)はその約半数が自社製です。例えば、砥粒のサイズや形状、ラップ液の濃度等を管理することで、加工面への当たりをナノレベルで制御することができます。また、工作物を置くテーブルの滑りやすさや硬さを調整したりもしますし、テーブルの回転数によっても制御することができます。例えば、ガラスをある形状に研磨するだけなら、ひとつの条件だけでよいですが、あらゆる材質・形状に対応するためには色々な条件を複合的に振る必要があります。長年の蓄積されたノウハウ(私どもではそれを「レシピ」と呼んでいます)により、ベストな条件を出すことができるのです。

― 「あらゆる材質」と言うことですが、できない材質はありますか?

 全部できます。例えば、銅やアルミなどの柔らかい材質にも対応できますし、セラミクスやダイヤモンドなどの硬い材質にも対応できます。

― ダイヤモンド以上に硬い物質がないダイヤモンドは、どのようにして磨くのですか?

 ダイヤモンドはダイヤモンドの砥粒で磨きます。実は、化学反応も少し使っていまして、ラップ液に薬品を使い、化学反応を起こすことで表面を脆くして削りやすくする、といった微調整をいろいろと行っています。

― 今まで扱ったことがない材質はありますか?

 ご依頼いただいたものは、基本的に「できない」と言わずに、挑戦するのがモットーです。ですから、ご依頼がないものには研磨したことがない材質もありますが、例えば、目の角膜移植を研究している大学の先生から「羊膜を透明にしてほしい」というご依頼で生体材料を研磨したこともありますよ。水を含めばふやけるし、それはもう大変でしたが(笑)、磨くことができました。「『できない』を言わない」をモットーに、お客様の困りごとや難しい技術課題を解決することを通じて、自社の鏡面加工技術の高度化を図り、オンリーワンの技術を確立してきました。


◆ 地元で雇用を継続するために、日本でよいものをつくり、世界中から高く買ってもらう

― 貴社がオンリーワン企業になるまでの軌跡を教えてください。

 1953年、私の祖父が当社の前身となる「合資会社東北ダイキャスト工業所」を創業し、私どもは鋳造業(ダイキャスト業)からスタートしました。金型をつくって溶融した金属を流し込む、大量生産の仕事でした。しかし1980年代から中国や東南アジアとの価格競争が徐々に激化する中、先代は「地元・宮城の地でものづくりを続けよう」と考えました。そして1989年、精密加工・研磨の会社として新しいスタートを切り、「東北ダイキャスト工業所」の頭文字を取って社名を「ティ・ディ・シー」としました。

 実は一時期、大企業の下請けの仕事をするために、私どももフィリピンに工場をつくり、しばらく操業していた時期がありました。しかし、その発注元の大企業から「フィリピンの人件費が上昇したため、他の地域に行くので、一緒に付いて来てほしい」という話があったのです。時間をかけて現地の方を社員として育て、同じ釜の飯を食いながら家族のような感覚で会社を経営していたのに、ある時解雇してまた新たな土地に行くというやり方に抵抗を感じた先代は、フィリピンから他地域の移転はやめて、国内のみの製造に絞りました。

 その時、先代が考えたことは「長く会社で社員を育てることをしたい」と、地元で雇用を継続することを事業の柱としました。日本のお客様に売るために海外で安くつくるという発想ではなく、世の中にできない超高精度なものを日本でつくり世界中のお客様から高く買ってもらう。そうすれば人件費が高い日本であっても全く遜色なく商売ができるはずだ。そう信じて新たなスタートを切ったのです。


◆ 誰もできない高精度な研磨ニーズに挑戦し続け、Ra1nmを達成

― どのようにして「日本でよいものをつくり、世界中から高く買ってもらう」ことを実現したのですか?

 大企業の下請けの仕事をしていた時はお客様からとても可愛がっていただき、「今月分の仕事、来月分の仕事」と仕事を預かっていましたが、下請けの仕事から脱却するには、自分たちで仕事を取りに行かなければいけません。製造業で「よい技術はあるのに仕事がない」という話がよくありますが、それはひとえに宣伝不足と考えており、私どもは積極的に営業活動を進めてきました。

 従来の鋳造業から機械加工の分野へ転身を図る際にも、特に地元のお客様に対して「私どもにできることで、何か困っていることはありませんか?」という御用聞きから始めました。従来のダイキャスト業で培ってきた金型づくりの技術が社内にあり、切削、研削、研磨といった一般的な機械加工は一通りできましたが、機械加工会社としては後発でしたので、他社がまだやっていないことをやる必要がありました。通常は「間に合っています」と言われるので、「では、従来の機械加工会社から断られる仕事はありますか?」と聞きますと、案外、研磨で困っているお客様が多かったのです。「もっと、こういう風に磨けないですか」というご依頼に応えて、高精度な研磨のご依頼が徐々に増えていきました。

 1999年には、お客様から「Ra200nmにしてください」というご依頼がありました。当時は「ナノ」や「Ra」といった言葉も今ほど一般的ではなかった頃で、当時は自分たちで評価もできなかったものですから、とりあえず一生懸命磨いてお客様に持っていったところ、Ra100nmを達成しており、お客様から「随分綺麗に磨けているね」と褒められたそうです。それから気を良くして(笑)、宮城県産業技術総合センター等から測定器をお借りして技術開発を始めました。翌年(2000年)にはRa17nmを達成し、「これから研磨屋として生きていこう」と決意して、数年後にはどんな材質でもRa3nm、Ra1nmを達成するなど、徐々に精度を向上させていきました。


◆ 積極的なPRで、困難な課題を世界中から集めて解決し、技術を発展させる

 Ra17nmを達成した2000年には自社でHPやブログを立ち上げ、「鏡面加工、承ります」と宣伝しました。手作りの素朴なHPでしたが、まだgoogle検索もなかった時代、私どもが思っていた以上に、一生懸命探していたお客様から仕事が来始めました。研磨に対する可能性を感じて、その翌年には英語のHPも立ち上げると、海外のお客様からも問い合わせが届くようになりました。

 従来の機械加工企業に頼んで「それ以上は無理」と言われるような難しい仕事は、実は、私どももできないくらい難しい仕事です。確かに調べてみると、できる会社もなく、専用の加工装置も売っておらず、やり方もその場ではわからない。でも、やってみましょう。社内にプロジェクトを立ち上げ、自社独自で技術開発をし、専用装置も開発し、プロセスも作り込むことをして、できるようにする。そうやってお客様のもとにお届けすることを、小さな一点物であっても取組んできました。

 お客様からご満足いただけると、次の注文にもつながりますし、噂にもなります。特殊な加工ができた時には一生懸命宣伝もしました。私どもは技術開発と営業・宣伝活動は両輪で、宣伝は単なるPRではなく、難しい仕事にチャレンジするきっかけをつくるものだと考えています。すると、「従来は不可能だと思っていた研磨加工も、ティ・ディ・シーに頼めば何とか対応してくれる」と評判になり、「もっと違う材質でできないか」「もっと違う大きさでできないか」と、国内外から難しい仕事ばかりが集まるようになりました。その都度悩み、試行錯誤しながら、難しい仕事を何とか解決することで、お客様からは喜ばれますし、自分たちにとっては技術が一段進歩することになります。その繰り返しがオンリーワンへの道だと思っています。


◆ 顧客の課題解決で生まれたオンリーワン技術

― 顧客の課題解決で生まれたオンリーワン技術の事例をいくつかご紹介ください。

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大面積ロール形状への超精密鏡面加工実現

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大面積金属箔への超精密鏡面加工実現

 例えば、金属材料の教科書には「磨いても光らない」と書いてある純チタンを「鏡面加工してほしい」と医学部の先生からご依頼いただき、鏡面のように磨くことができました(2003年、純チタンRa5nm以下達成、「第3回みやぎものづくり大賞」受賞)。また、「ロール形状にシリコンウェーハと同等レベルの面粗さで鏡面をつくってほしい」というお客様の課題を解決した技術は現在、「フレキシブルディスプレイ」や「ナノインプリント」等の色々なフィルムをつくる工程の金型として使われています。さらに、以前から小さな金属箔の鏡面研磨は手掛けていましたが、それを「もっと大きくしてください」というご依頼もありました。最初の「手のひらサイズにしてください」、次の「300mmにしてください」というご要望には難なく対応できたのですが、その次の「これから大量生産したいので、長さ100mにできませんか?」というご依頼は本当に大変でした。試行錯誤の末、専用装置を開発し、100μm、50μm、20μmの厚さではっきり鏡面に磨くことができ、その用途はグラフェンやフレキシブルデバイスの製造等に広がっています。このほかにも、アートやスポーツ用品分野にも鏡面研磨技術が用いられており、「美しさ」や「格好良さ」といった新たな価値が生まれていることを嬉しく思っています。


◆ 治具や工具、研磨機も自社製

 もともと金型加工をしていたので、角度を出すための治具や工具、研磨機も自社でつくっています。当社にある約100台のラップ盤のうち、半数以上が自社製です。機械専門のエンジニアを置く考え方ではなく、その機械を使う自分たちで機械をつくり、よりよい形に改造することに日々取り組んでいることが、私はおもしろいと思っています。その機械が如何に使いやすいかは、その機械を使う本人が一番知っていますから。自社製の装置活用によって、精度管理や納期対応、コスト低減が可能となり、結果的にお客様にも還元できるようになりました。

 また、私どもでは研磨技術だけではなく、品質管理の高度化もとても重要視しています。世界最高水準の測定環境・評価技術を持つことによって、世界に安心のジャパン品質を届けることが可能です。品質管理の高度化によって、市場は世界規模に広がります。一方、私ども中小企業の資源は限られていますが、他所と連携すれば可能性は無限大です。大学や企業等と技術開発のパートナーになることで、技術や知識レベルを効率的に伸ばすことが可能となっています。


◆ 常に成長して一流の人間を目指す

― 高度な技術力を実現するために、人材育成についてはどのように取り組んでいますか?

 ものづくりには熟練技術を要しますが、技術が熟練するまで何十年もかかってしまうとビジネスにならないので、人材育成についてはなるべく早く、上限なく育ってもらうため、いろいろなことをやっています。

 まずは目指す人材像の明確化と共有化です。もともと私も含めて一流の人間ではないけれど、常に成長して一流の人間を目指しましょうと、はっきり言葉にしています。自ら考えて決断する行動力、仲間を思いやるチームワーク、諦めずにやり遂げる責任感、昨日よりも少しでも上を目指す向上心。皆さん全員がリーダーです。どうしたら自分が働きやすい環境をつくって収入を上げられるか、私も頑張りますが、皆さんも精一杯頑張りましょう、と伝えています。

 また、個人・チームが新たな技術開発をして会社に貢献した場合、その成果に応じて賞金を贈与し、社員皆で称えています。業務上必要な資格の取得・教育等は適時実施しています。研磨の経験や専門知識がなくても、技術・測定方法など先輩社員が指導していきますので、「学ぶ」気持ちさえあれば大丈夫です。皆で一緒にレベルアップを目指します。

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女性も男性も働き続けることができる環境整備を進めている

 女性が働きやすい職場づくりも進めています。弊社の女性比率は、加工現場も含めて約36%です。女性が働きやすい職場は男性も働きやすい職場であるという考え方です。例えば、重いものをずっと持ち続けると、男性だって腰を痛めますよね。5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)活動の徹底、ムリ・ムラ・ムダの排除、効率化の追求、自動化の工夫、柔軟な働き方等を通じて、女性も男性も長く働ける環境を整備することが、各自のスキルアップにつながり、ひいては弊社の技術力向上につながっていくという考え方です。

― 今後の展望についても教えていただけますか?

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 ありがたいことに、「きっとティ・ディ・シーならできるだろう」と大変難しい加工依頼をいただくので、その信頼を裏切らないよう愚直に取り組んで参ります。そして、さらなる新しいテーマをいただき新しい技術を確立できるよう、技術開発と営業・宣伝活動の両輪でこれからも日々精進します。


社長が二十歳だった頃

― 次に、赤羽さんが二十歳だった頃について教えてください。

◆ アルバイトで働くおもしろさに目覚める

 二十歳の頃は学生で、あまり威張れないですが、アルバイトばかりしていました(笑)。実は私、働くことが大好きなんです。二十歳の頃は大型の生活雑貨店で「どうやったら売れるか」を考えて商品を陳列したり、「棚に埃があってはいけない」と先輩から言われて暇さえあれば掃除をしたり、アルバイトなのに本当によく働きました(笑)。その頃から「どうやったらお客様に喜んでいただけるか」ばかり考えていました。例えば、「プレゼント用に商品を包んでください」と言われた時も、包み方やリボンのかけ方を色々工夫したり、家に帰ってからも練習したりしました。

 今振り返ってみれば、これが私のルーツだと思います。今は職場環境を如何によくするかも考えていますが、如何にお客様に喜んでもらえるかを最初に考え始めたのは、この頃です。働くことがおもしろいと思いましたね。何事も楽しめば、結果が違います。結果が出れば嬉しくなって、またやれるようになるので、楽しむって大事だなと思います。ですから若者へは「人生、何事も無駄にはならない。だから今を一生懸命やりなさい」と言いたいです(笑)。


◆ 自分がやったことに対する価値を実感できることにやりがい

― 大学卒業後は、すぐにこちらの会社に戻って来たのですか?

 当時は女性が町工場で働くイメージがありませんでした。親からも「家業を継げ」と言われたことがなかったので、卒業後は今とは違う会社に就職し、広告をつくる仕事をしました。広告業界は華やかなイメージがありましたが、深夜残業や土日出勤も当たり前の職場環境でした。やりがいはありましたが、アルバイトとは違って「こんなに働くことって大変なんだな」と思いましたね。

 一方で、家業に興味が湧いてきました。「祖父や父の会社で、これまで当たり前のように食べさせてもらっていたけど、どんな仕事をしているのだろう?」という軽い興味で、弊社に転職しました。とはいえ腹をくくったわけではなく、2年間勤めた広告会社から転職したきっかけは、父からの「そのままでは体を壊すよ。人の体を大切にしない環境で働かせるなんて、おかしいよ」と言われたことでした。当時は「クリエイティブな仕事って大変なのよ、お父さんにはわからないのよ」と本気で思いましたが(笑)、今思えば人の体を大切にしない環境って、おかしいですよね。でも当時は皆それが当たり前だと思っていた時代でした。

― こちらの会社に転職して如何でしたか?

 こちらの会社に転職してみると、小さな部品を一つ磨いただけでも、検査時点で良品か不良品かはわかりますし、お客様に納めると翌日には「すごく綺麗に磨いてくれてありがとう」とお電話が来ることもありました。私どもとすれば、労働の対価をいただいて約束したことに応えることは当然なのに、良いものをつくればお客様に感謝していただけて、悪いものをつくれば出荷すらできない。自分がやったことに対する価値がはっきりとわかるものづくりに、前職では感じられなかったやりがいと達成感を味わいました。ものづくりのおもしろさを実感してからは、私にとってはこちらの方が合っていると思い、徐々に今の仕事にのめり込んでいきました。文系出身で専門的なことはわからないことだらけでしたが、周囲から教えてもらいながらやってきました。

― 会社を継ぐことについては、いつ頃から考え始めたのですか?

 会社を継ぐことを意識したのは、5年位働いた頃です。この会社でずっとやっていこうと思うようになりました。異業種の大きな会社で一度仕事をした経験も活きて、弊社の「駄目なところ」がよく見えたのもよかったんです。例えば約20年前、伝票は複写で手書きでした。ちょうどインターネットの普及期だったことも幸いして、社内へのPC導入や生産管理のIT化等を行うと、割と簡単に業務効率化の成果が出ました。それまでは「手書きが一番早いよ。入力するのは億劫だよ」と言っていた皆も実際にやってみると「楽だね、早いね」と変わるので、やったことに対する手応えがあって、おもしろかったですね。


◆ 皆で教え合う社風

― その後、どのようなタイミングで社長に就任されたのですか?

 私が35歳の時、父から「3年後に社長を交代しようか」という話がありました。思ったより少し早いと感じましたが、「社長業は大変だ。自分が教えられるうちに教えて引き継ぎできるとよいから」ということでした。実際に私が社長に就任したのは、リーマンショックや東日本大震災の影響で、それからもう少し後の私が40歳の時です。「自分が完璧だから」社長を引き継いだわけではなく、父から社長の仕事を教えてもらいながら始めた感じでした。うちの会社のよいところは、全部教え合うところなんです(笑)。社長と会長も教え合いますし、新入社員も先輩に教えてもらいますし、先輩になっても仲間同士で教え合っています。

― 特にお父様から強調して伝えられたこと等はありましたか?

 会社の理念はぶれることのないよう、私も心がけていますし、今は経営者が二人いる状態なので、常に確認し合おうと話しています。また、父からは「頑固な経営者になったら終わりだ。自分の決断が本当に間違っていないか、一人で突っ走るのではなく、後ろを見て、皆ついてきているか、常に振り返ろう」と言われています。私たちは仲が良い親子で、会長と社長でよく話し合いますし、社内でもよく話し合うことを大事にしています。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 「雰囲気でしょうか...」(笑)

 従来不可能だったことを可能にするという、技術的に難しい課題を解決するために、開発時は悩むことも多いですが、誰か一人が悩む様子なら、まわりから人が寄ってきて「どうしたの?」「どうだったらできると思う?」と現場で議論し始めるのは、とても良い環境だと思っています。とても家族的な雰囲気です。

 私自身もまだまだ未熟ですが、周囲から助けられ、地元の東北大学の先生方からもご指導いただくことありますし、お客様からも今後の方針を教えていただき、社内でも「社長、もっとこうしたらいいんじゃない?」と若手社員から言われることあります。他にもいろいろよいところがありますが、とにかく「いい会社ですよ」と言いたいです(笑)。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へのメッセージをお願いします。

◆ 逆風だからこそ高く上がれる

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国際学会で口頭発表する社長の赤羽さん

 可能性は無限だと、私はいつも思っています。今できないことをできるようにするのは、心の持ち方次第で、立ち止まらず、どうやったらできる方法があるかを考えれば、色々な可能性が出てきます。やってみて八方塞がりになることも頻繁にありますが、それを煮たり焼いたりしながら、楽しむ姿勢が大切だと思います。私、凧が好きなんです。凧って、逆風でよく上がるでしょう? 人生も技術開発も逆風ばかりですが、逆風だからこそ、人は高く上がれます。連凧のように、私も社員たちと連携して逆風の中で高く上がれるよう、今後も日々精進に努めて参ります。

― 赤羽さん、ありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 難しい課題に若い人も積極的に取り組み、まわりもサポートする環境が自慢
 /新沼忍さん(31歳、入社13年目、岩手県大船渡市出身)

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 ものづくりに関わる仕事をしたいと思い、オンリーワンの難しい加工技術を持つ当社に惹かれて、今年で入社して13年目です。現在は業務部で、現場管理や全体のサポートの役割を担っています。当社には、ベテラン技術者のみならず、若い人も多く在籍しています。当社に集まるのは難易度の高い仕事ばかりですが、若い人も積極的に提案しやすい雰囲気があるので、皆、新しい発想で挑戦していますし、それをまわりがサポートする雰囲気がよいと思っています。お互いにどんどんスキルアップできていると感じますね。これからも、世界中から難しい課題が集まってくると思いますが、諦めずにトライして、より良い成果を出し続けていきたいです。


◆ 人間関係がすごくいい会社
 /鈴木智さん(32歳、入社7年目、宮城県塩竈市出身)

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 知人からの紹介で入社して今年で7年目です。今まで色々な会社に勤めてきましたが、その中でも当社は人間関係がすごくいいと感じます。上司だからと言って、話しにくさは感じませんし、皆で協力しながら仕事をする環境ができています。お客様に提供する価値が難易度の高い課題の解決なので、対価をいただく立場でもお客様から感謝される仕事です。これからもお客様の期待に応え続けられるよう、色々な面で精進していきたいです。


◆ 個人を尊重する経営者の想いが自慢
 /武藤要さん(64歳、入社30年目、宮城県大郷町出身)

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「第3回ものづくり日本大賞」優秀賞表彰式の様子(2010年)。写真右が武藤要さん。

 当社の前身となる東北ダイキャスト工業所に入社した年から数えると、今年で入社30年目です。前職では別会社で営業の仕事をしていましたが、帰りが遅かったので、決まった時間で働ける会社を探して当社を見つけました。入社してみたら、「世の中にこんなにおもしろい仕事があったのか」というくらい楽しくってしょうがなくて、本当に毎日没頭して、仕事にのめり込んでいきました。

 そんな中、現会長が専務だった頃、当時の先代社長からちょうど代替わりする時だったので「管理職にならないか」と声がかかったのですが、はじめは拒否したんです。ここで一生働こうという想いで34歳の時に入社したので、管理職がもし務まらない状況になれば辞めるしかないですから。そこから現場に戻るという甘えはありませんでした。けれどもうちのかみさんから「あんたならやれるんじゃない?やってみて、その時になって考えたらいいじゃない」と言われて気持ちが楽になり、どこまでやれるかはわからないけど期待に応えよう、そんな想いだけでずっと無我夢中でやってきました。展示会では来るお客様に対して、やったことがない難しい課題でも「うちは何でもできますから、心配しないで頼んでください」と言いつつ、それを全部、従業員皆と協力して一つひとつ、つくりあげて、今があります。

 我が社の環境自慢は、経営者の考え方です。私はそういう意味で幸せだと思うのですが、自分が頑張って貢献した分に対して会社がきちんと給与や立場という形で応えてくれます。会社にとってメリットを与えられるような道具や加工方法を編み出した時は、「ティ・ディ・シー賞」として表彰され、金一封がいただける仕組みがあることも励みになりますね。するとまた自分もそれに応えよう、頑張ろうという気持ちになるので、よい相乗効果になります。皆が気持ちよく喜んで仕事ができる環境だと思います。

 人間誰しも叱られて気分がよい人はいません。だから私は褒めるだけなんです。皆が異なる性格で異なる能力を持ち、誰もがよいところを持っています。それを褒めてあげることで、皆喜んで前向きに仕事をしてくれます。それが新たなものづくりに展開できていく状態がすごくよいと思います。ですから退職者も本当に少ないんですよ。タイムカードもないので、時間にも縛られません。大量生産の時代はタイムカードによる勤怠管理でしたが、鏡面加工を始めてからは、タイムカードを撤廃し、個人のモラルに任せようとなって、気分的にも楽になりました。国で今「働き方改革」を議論していますが、そういう面でのストレスがこの会社は少ないんじゃないかと思います。だから皆、辞めないんじゃないですか。個人を尊重する経営者の想いに対して皆、「この会社はいいな」と思っていると感じますね。

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.20】独自のセラミックス焼結技術で、生産現場の生産性を向上/ナノテム(新潟県長岡市)社長の髙田篤さんに聞く

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【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.20】独自のセラミックス焼結技術で、生産現場の生産性を向上/ナノテム(新潟県長岡市)社長の髙田篤さんに聞く
取材・写真・文/大草芳江

2018年05月01日公開

ものの見方を変えて、
「できない」を「できる」に変える、
理に適ったものづくり。

株式会社ナノテム(新潟県長岡市)
代表取締役 髙田 篤 Atsushi Takada

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.20)
 新潟県長岡市に本社を構える株式会社ナノテム(1998年設立、従業員18名、資本金1億2,550万円)は、セラミックス焼結技術をコア技術とし、革新的な真空吸着プレート(真空チャック)や研削・研磨用特殊砥石を開発・製造している、国立大学発第一号のベンチャー企業である。独自のセラミックス焼結技術で、多孔質セラミックスの気孔を自在に制御することにより、様々な商品を開発。セラミックスから水や空気を自在に出し入れすることにより多様な機能を実現した。微細な気孔から空気を吸出し、セラミックス表面に研磨物を貼り付けて作業ができる真空チャックを実現。顧客の要望に合わせた仕様で最大2.5m角まで対応できる。半導体や液晶・有機ELといった分野から注目され、国内外の製造現場で導入されている。また、多孔質セラミックスによるダイヤモンド砥石を開発。被加工物の材質に合わせて任意に設計が可能。セラミックス素材をベースとした、ダイシングブレード、研削盤等の製造も手がけている。2009年「アドバンスト ディスプレイ オブ ザイヤー 」部品材料部門優秀賞、2010年 科学技術分野の文部科学大臣表彰、2012年「第46回グッドカンパニー大賞」新技術事業化推進賞、2014年 新潟県技術賞、2016年 経済産業省 中小企業庁「はばたく中小企業・小規模事業者300社」等、数々の賞や認定を受けている。そんなオンリーワン企業であるナノテムがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の髙田篤さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以と、それに至るまでの軌跡を教えてください。

◆ ダイヤモンド工具で起業するも、参入の難しさを痛感

 オンリーワンかどうかはわかりませんが、確かに"オンリーワンっぽい"んですよ。やっていることは"変"と言えば変ですね。人がやらないことをやっています。それは、やっても儲からないからかもしれませんが、うちは小さな会社だからやれるのです。会社の規模が大きければ、おそらく、どこも手を出さないでしょう。

 実は最初、ダイヤモンドの工具(多孔質セラミックスによるダイヤモンド砥石)を"攻め"たくて、約20年前に起業しました。ところが砥石は、我々のような小さな企業が参入するのが非常に難しい業界であることを、起業して1年目に痛感しました。

― なぜ参入が難しいと感じたのですか?

 私が思うに、工具業界の商売の主流が、砥石のサンプルを無償提供する形態であることが、資本力に乏しいベンチャー企業が参入しづらい要因になっていると思います。具体的には、工具をつくるのに約1ヶ月、それをお客さんがテストして評価するまでに約1ヶ月、長い場合は約4ヶ月もかかります。テスト後、お客さんに「この工具、よく切れるでしょう?」と聞くと、「おお、よく切れるね」の"次"が必ずあって、「でもね」から入り「もっと寿命が長くならないかな」と次の課題を言われるのです。「わかりました」と次の課題についても無償提供のサンプルをまた1ヶ月かけて準備し、3ヶ月かけてテストしてもらう時点で、もう半年を超えていますよね。また次も、「いい感じにできたね」の次にやっぱり「でもね」が入り、「もっとピカピカにできないかな」と、要はお客さんの要求レベルが課題をクリアするたびにどんどん上がるのです。やっと3つ目の課題もクリアしたと思ったら、今度は材料が変わって、もう一回振り出しに戻るという、もっと恐ろしい話だってありました。

 はじめは「よいものをつくれば買ってくれる」と思っていましたが、よいものをつくったからと言って、必ずしも買うところまではいかないことを痛感しました。さらに、よいものだからといって、誰も人には言わないのです。皆が加工できるようになったら加工屋さんは困るので、逆に内緒ですよ。すると売上もそんなに上がらないですし、時間もお金もかかるし、これは厳しいなぁと。ものづくり以外の要因で、ものづくり系のベンチャー企業は淘汰される仕組みになっていると気付きました。そこで実は工具はメイン事業にしない方針に、2年目から変えました。たまたま私は運良く回っただけで、"それ"がなければ回らなかっただろうと思います。


◆ 自分たちが必要だから開発した「真空チャック」が転機に

― それからどのようにして「運よく回った」のですか?

 ものを削る時、何かで固定する必要がありますよね。一般的な固定方法はクランプという金具で抑えて固定します。ただ、クランプで抑えた部分は削れないため、クランプの位置をずらしながら何度か削る必要があり、それによって段差ができてしまうので、本当は一度に削れる方がよいのです。あるいは、クランプを使わず磁石で固定する「マグネットチャック」という方法もありますが、鉄にしか使えないので、例えばガラスやプラスチック、セラミックスなどの非磁性体には使えません。

 実際に、自分たちも開発した工具を評価する際に固定する治具が必要だったので、我々は、真空を引いてワーク(加工するもの)を吸着する「真空チャック」という手法をずっと使っています。はじめは市販の真空チャックを使っていたのですが、問題点が幾つかありました。従来型は、アルミニウムやステンレスの吸着面に溝や穴を設けてワークを吸着する仕組みなので、すぐ目が詰まって真空が効かなくなりますし、真空を引くと溝や穴の部分がへこみ、真空を外すとその部分が出っ張るので、たわみができ、高精度な加工ができませんでした。もうひとつの問題は、ワークのサイズは吸着盤と同じでないと吸着しないことです。吸着盤の溝や穴をすべてふさがないと、空気が漏れて吸着する力が生まれません。そうなるのは当たり前の話ですが、そうならない真空チャックを探しても見つかりませんでした。

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独自のセラミックス焼結技術により、内部発塵が皆無、気孔径・気孔率の自在制御が可能となることで、従来品における課題を解決する革新的な多孔質真空チャックを開発し、特許を取得している。写真は既存の真空チャックに置くだけで性能・機能を発揮するタイプの商品。

 そこで、私はダイヤモンドの工具づくりが専門ですが、もともとの専門がセラミックスなので、眼に見えないくらい小さな穴が空いたセラミックスで真空チャックをつくることを、起業して2年目以降に始めました。というよりも、自分たちが工具を削るために、簡単に固定でき簡単に外せるテーブルがあればよいですよね。そこでセラミックスで真空チャックをつくり、工具を売るためにお客さんを呼んでテストすると、お客さんが「これは何?」「真空チャックです」「うちにもつくってくれないか」から始まり、「わかりました。どんなサイズですか?」と要望に応えるうちに、少しずつ、大きなサイズのテーブルを真空チャックとして出すようになりました。お客さんから頼まれて、すべてオーダーメイドで開発しました。そこに転機があって、よい方向に動いたのです。

― 「よい方向に動いた」とは?

 真空チャックは、砥石業界とは真逆でした。つくるのに1ヶ月かかる点は同じとしても、売るのは数分で、結果も「固定できました」とすぐ評価できます。逆にそのような手離れのよいものをつくらないと、お金が回収できなかったのです。一方、真空チャックは1回購入するとずっと使えるので、砥石とは違ってリピート性がないというデメリットもあります。これも砥石と相反するところで、リピード性がないと、会社の将来が見えづらくなりますね。けれども、うちは小さな会社でしたし、小さなサイズから真空チャックを大きくしたことは、世の中であまりやっているところがなかったので、国内外の大手企業から使ってもらえるようになりました。

 ただ、真空チャックを探しているお客さんが、真っ先にうちに来るかと言えば、ほぼ100%来ません。どんな経路でうちに来るかと言えば、普通はインターネットで探しても見つからない場合、最初は大手商社を介して業界大手に行くわけです。けれども皆さんが「できない」と言うから、その「できない」時、うちに来られる。そして「どんなことをしたいですか?何に困っているのですか?」と聞くと、やっぱり要望を言ってくれるわけです。

 例えば、そもそも真空チャックは、穴が塞がれば(真空状態になって)吸着しますが、穴が塞がっていなければ(空気漏れを起こして)吸着しません。ですから、ワークのサイズは吸着盤と同じでないと吸着しないのは当たり前の話ですよね。ですから「テーブルが大きくて、どこにワークを置いても吸着できる真空チャックがほしい」というお客さんの要望は、「ワークを置いていないところから空気が漏れているのに、吸着できるわけがない。物理的に無理」というのが当たり前の話なのです。それで一旦は終わるのですが、「でも、そんなのがあったらいいですね」というお客さんの話を聞いて、逆に私は「なぜ空気が漏れたら、吸着しないのだろう?」と考えちゃうんです。「当たり前なのは理解しているけど、空気が漏れなかったらどうなるっけ?」とね。そうやって、ずっと想像を膨らませていくと、おもしろいアイディアが出てくるんです。「空気が漏れないことを"擬似的に"やればいいんだ!やってみよう」とね。私の合言葉は、「やってみよう」なんです。


◆ 失敗から新たなアイディアが生まれる

 もうひとつ、おもしろい話があります。小さなサイズのセラミックスは、研究室でも簡単につくれます。けれども、テーブルサイズのセラミックスは、さぁ、どうやってつくろう? ここにも、たくさんの試練がありました。焼き物をする時はすべて、お茶碗でも何でも、台の上にものを乗せてつくります。大きなセラミックスをつくるためには、大きな台がなければできません。けれども世の中には1mの台しかないのに、2mの台がほしい時、1mの台を4つ並べて2mの台をつくろうとすると、割れてしまうのですよ。何回やっても、どんなやり方をしたって、割れるのです。その時が一番苦しい時期でした。

 「テーブルサイズのセラミックスをつくってほしい」とある大手企業から頼まれて、一千万円以上もする大きな窯を購入しました。うちにとっては大投資ですよ。そして1週間に1回、窯開けをするのですが、「ああ、今回もひびが入っているなぁ...」と窯の蓋を閉める日々が続くのです。けれどもおもしろいのが、毎回毎回アイディアが出るんですよ。「なぜ割れたのだろう?」「そうか、ここが足りていなかったからか!」と、次の対策を打つ。次、釜に入れる時には皆で「よし、これ以上もうアイディアはない。全部入れ尽くした」と入れ、一週間後に焼き上がって窯開けをすると「わ!また割れてるし!!」。これを何回も続けるわけです。でも、アイディアは毎回出るんです。「失敗した!」「なぜ失敗したのだろう?」というところに、前回考えていなかったアイディアが出てきて、「アイディアは無限だなぁ」と思いました。

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ナノテムのロゴマーク

 もちろん、何でもできるわけじゃないですよ。できないことも当然あります。けれども、できるものの方が多いのではないかと私は思うのです。今まで当たり前だと思っていたことが、実は当たり前じゃないかもしれないぞ。既存の概念にとらわれず、別の方向から見れば、ものの見方は変わるはずだ。その想いを、当社のロゴマークで表現しています。180度回転すると怒った顔が笑った顔に変わって見えるでしょう? これがうちのポリシーです。

― どのようにしてテーブルサイズのセラミックスをつくれたのですか?

 はじめは「4枚の台で焼き物をするしか無い」発想から始めていました。けれども「そもそもなぜ割れるのか?」を考えた時、ものは温度が上がると、ほとんどのものが膨張しますよね。台を並べると、温度が上がって膨張した時、台同士が接している点が競り合うため、向こう側に広がります。それが今度は冷える時、その部分に隙間が空くためにひびが入って割れてしまうのではないか。そのように理由を考えました。

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ナノテムの真空チャックは顧客の要望に合わせた仕様で最大2.5m角まで対応できる。

 そこで私が打った手が、「じゃあ1mの台を使う発想をやめよう。これが50mm角のブロックならどうなるだろう?」でした。50mm角のブロックを並べた場合、これも全部膨張しますが、例えば、1m(1,000mm)のものが1mm伸びると膨張率は1/1000ですが、それが1cm(10mm)のものなら、同じ膨張率の場合、10μmですね。つまり、材料の立場から見れば、1mm伸びるのは痛いけれど、10μm程度だったら、痛くも痒くもないはずだ。それで実際に試してみたら、一発でうまくいきました。やっぱり、理屈は合っているな。誰も教えてくれない"屁理屈"ですからね。けれどもそこに解がありました。そのやり方で大きなサイズに変えてつくってみても、全部割れずにつくれました。以来、大きなサイズの真空チャックの依頼が来ても、「やれるぞ!」となりました。

― 真空チャックはどのような用途に使われているのですか?

 用途としては、主に液晶・有機ELパネル製造装置用のテーブルに使われています。韓国の大手エレクトロニクスメーカーが大口顧客です。一方、日本のメーカーは冒険をしないという印象です。展示会で、「見積りが欲しい」と言われる時も、日本と韓国のメーカーでは全く反応が違います。「個数によって見積り金額は違いますよ」と話した時、日本のメーカーが求めるのは1個、さらに社内の了承を取るまでに半年から1年もかかります。一方で、韓国メーカーの場合、若い社員が自分で判断して、100個単位で見積もりし、2週間後には発注します。やはり冒険をしなければ、負けるのは当たり前ではないかと感じます。


◆ 課題をクリアすると、また新たな命題が生まれる

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部分吸着が可能な真空チャック

 ひとつのテーマをクリアすると、以前お客さんが言っていた「どこに置いてもくっつく吸着盤があったらいいな」という、次のテーマが出て来ます。部分吸着についても実現できる方法に気付きました。「空気が流れなければ駄目だけど、流れ過ぎても駄目なんだ。じゃあ機構の穴の経を小さくしたセラミックスをつくれば実現できるはずだ」と。すると、できちゃった、ということで特許を出しました。

 スカスカ空気が漏れないようにする技術が、うちの特許技術です。空気が流れ過ぎても、流れ過ぎなくても駄目ですから、セラミックスの穴の経と距離で、空気の流れる抵抗を制御しよう、という発想です。すると、ワークが載っている下は真空になり、その周りから空気は漏れてはいますが、じわじわ流れると、一瞬一瞬を見れば、あたかもラップが載っているようになります。それが後付ですが、理屈です。「こういうことかな」と理由がわかると、次の攻め方がたくさんできるのです。

 どこでも吸着版をつくると、今度は「どこでも吸着盤は欲しいけど、レーザーを当てたい」というお客さんがいました。レーザーを当てると、うちのセラミックスといえども傷がつくのです。私は「じゃあ交換してくださいよ」と思うけど(笑)、お客さんは「交換するのは嫌だ」と言うし、「レーザーの焦点深度を変えてください」と言っても、「変えられない」と言います。「じゃあ、レーザーでテーブル上のワークだけが切れて、テーブルには傷がつかなければいいわけですね」と、また新たな命題が生まれます。

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金属の穴を斜めにするアイディアで、CO2レーザーを当てても、下のセラミックス真空チャックは傷つかない。

 世の中でよく使われているCo2レーザーは、金属が切れないという性質があります。そこで、レーザーが当たっても切れないで欲しい部分を金属にすればよいと考えました。ただし、吸着のために穴を開けると、穴からレーザーが下に届き、セラミックスは傷ついてしまいます。そこでどうしたかと言うと、じゃあ、穴を斜めにすれば、レーザーは下に当たらないぞ、と気付きました。これをうちのセラミックスの上に載せれば、成立です。これも今から売り出します。


◆ 夢の完全非接触浮上搬送や、絶対に動かない真空チャックも可能に

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触っていなくても運べる、完全非接触浮上搬送装置

 真空チャックについては、「くっつく」話の他に、「浮かせる」話もあるんですよ。真空を引いていたのとは逆で、今度はエアーを出し、吸着盤にワークを浮かせ、吸着盤上で次の工程に運ぶシステムです。ただ、ものは浮かぶけれど、くるくる回り、どこにでも行ってしまうのが欠点でした。やりたいことは、「浮かばせて、止めたい。ただし、触っちゃ駄目」です。さあ、どうやって固定しますか? と考えていきます。もはや禅問答の世界ですよ。「触らないで何とか固定したい」「できるはずがないだろう」から始まるのですが、これができるようになるのです。

― どのようにして可能にしたのですか?

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正圧と負圧それぞれのエアーをコントロールすることで、真空チャックからワークを浮かせる完全非接触浮上搬送を実現。

 やれる方法がありましてね、ワークを非接触で支える4本の板に、蝶々の羽のような構造をつけて、超音波振動をかけると、目には見えないですが、蝶々の羽のように高速に羽ばたくのです。蝶々の羽はよくできていて、羽が下がった時に負圧となり、上がった時に正圧に変わるので、ワークをこの下に持ってくると、一番安定なところで止まります。すると、ワークを浮かしながら、手を離しても、引っ張っても、常に同じ場所に来ることを見つけたのです。このような仕組みで、正圧と負圧それぞれのエアーの供給と真空吸引をコントロールすることにより、空気で浮かせながらワーク姿勢を安定させることができました。言われてみれば、「なんだ、それだけか」と簡単に思えますが、つくってみればと言うと、皆つくれないのです。ガラスのような薄い材料でも浮かせられて、触らないのに、ヒューンと早く戻って位置も決まるし、便利そうでしょう? これまでやりたくてもできなかった夢の機能です。これから、この完全非接触浮上搬送装置が売れると見込んでいます。

 もうひとつ、今最も新しい商品が「絶対に動かない真空チャック」です。先程の「どこでも吸着盤」も、真空を引いて、それなりに動かないのですが、無理矢理やれば動くのですよ。それでも絶対に動かないようにしようと今、新たに開発しています。これも単純な仕組みで、普通は摩擦係数が0.2や0.3程度で、摩擦係数1を超えるものはあまりないのですが、摩擦係数が1を超える材料があったらいいなという発想で開発して、もうすぐ売り出します。これは、本当の意味でのオンリーワンになれるかもしれません。私が欲しかった吸着盤は、まさにこの絶対に動かない吸着盤ですし、近所の加工屋さんだって皆、欲しがると思います。

 ですから、はじめからテーマがあって真空チャックをやっているわけではないのですよ。砥石の方は、やりたいことがずっとありましたが、ずっと手を出せないのです。だって、真空チャックの方が忙しいのだもの。真空チャックの方は、性能も値段も、ほぼ他所に勝てるだろうというところまで来ました。年間売上高も今年6億円を超え、食える目処が付いてきました。


◆ 従来の欠点を全て解決する、理に適った工具づくり

 冒頭にお話した通り、もともと私は工具をやりたくて起業しました。工具の欠点については、20年前からずっと私は不満に思っていました。先程も、「工具業界はベンチャー企業が参入できない欠点がある」と言ったでしょう? てっきり20年の間に進歩しているだろうと思ったら、まだ20年前の課題が課題のままでした。「なんだ、まだ参入できるじゃないか」と、今一生懸命、工具をやり始めたところです。従来の工具の欠点をすべてなくした、理に適った工具です。

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従来型の砥石

 本当は大きな工具をつくるのですが、従来品の特徴を説明しやすいよう、一般のホームセンターで売られている普通の工具を今回準備しました。昔の工具は、砂がプレスで詰められていました(写真左)。けれども削るうちに、切り屑で目詰まりして切れなくなるという問題がありました。ですから、工具も少しずつ変わっていきました。左から2番目が、約25年前、私が工具メーカーに就職して2,3年後にできた工具で、サンドペーパーを重ねたタイプです。結構売れましたが、これも目詰まりの問題がありました。目詰まりしないようにするため、今度はサンドペーパーを砥石の面に対して垂直に並べた工具が登場しました(写真左から3番目)。けれども、これは使っていくうちに倒れるという問題がありました。そこで倒れにくくするために、今度はサンドペーパーの間を埋める工夫がされ(写真右)、今、売れていますが、これでもやっぱり倒れるという問題があります。

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砥石のパターンニングによって分担荷重を制御可能に。

 そこで、倒れずに、目詰まりもせずに、ずっと切れる工具にするにはどうすればいいか? を考えました。そこで私が考案するのがハニカム構造の砥石です。ハニカム構造にすることで、倒れないですし、切り屑がこの間に入るので、目も詰まらないです。従来品の何倍も切れます。私はいつも喩え話で説明するのですが、テーブルいっぱいに針を密集させると、その上を人が歩けますよね。では、その針の間隔が1cmに広がると、どうなりますか? 針が刺さって、足が血だらけになりますよね。従来品の砂でできている工具は、砥石の全面が切れるものでできていました。一方、私が考案した工具は、このハニカム構造の柱部分にしか、ダイヤなり切れるものがない構造です。先程の剣山の間隔を広げた喩え話と同じでしょう? 「砥石にパターンニング性を持たせよう」というのが、私がずっと考えてきたことです。

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コア部分とダイヤ部分の構成を自在に設計でき、砥石の能力を最大限に引き出すことができる。

 「けれども、ハニカム構造の中にゴミが詰まるのでは?」って、言われると思いましたよ。そこで、ハニカムの中を埋めました。ダイヤの柱の部分よりも、この灰色のコア部分が弱ければ、常に柱の方が飛び出るので、柱で切れます。セラミックスでも何でも、バリバリ削れます。これで、世の中の工具がガラッと変わるでしょう。いよいよ今年3月、ドイツで砥石デビューを果たします(注:取材は同年1月に実施)。

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砥石内部からの水・エアー供給により高精度を実現

 もうひとつ、秘密兵器があるのです。この灰色のコア部分には、実は、「多孔体」という、目には見えない小さな穴が空いています。普通は加工する時、熱くなるので、加工屋さんは水をかけながら削ります。けれども、ある速さ以上で回転しているところに水をかけると、水は跳ね返りますよね? じゃあ、絶対に水がかかる方法を考えましょう。そこで考えたのが、工具内部から水が出れば、削っているところに絶対に水がかかるという方法です。実際に見てもらうと、工具全面から水が出ているのがわかるでしょう? 水だけでなくエアーも出せます。

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コア部を水により膨張させることで、荒砥から仕上げまで同じ砥石で対応することも可能。

 さらに、この工具は、水を含むと、灰色のコア部分が膨らみます。ですから真空を引きながら、まずハニカム構造のダイヤ部で加工して荒加工し、水を出すと、灰色のコア部分が膨らんでピカピカに磨けてしまう。そんな一挙両得を狙った工具です。

 要は、先程も少しお話しましたたけど、「ワークの気持ちになれ」ということなのです。削られている材料の方からすると、「水、かかってねぇから!」って、思っていたんですよ(笑)。けれども、多くの人はそこまで考えていなくて、「そういうものだろう」と思い過ぎているのです。先程のロゴマークと同じで、「いやいや、当たり前じゃないぞ。ものの考え方を変えよう」というのが、私の工具づくりのモットーです。理に適った工具づくりを20年間、ずっと私は我慢して温めてきました。これがやっと今年からデビューし、どんと見事に売れ始めたら、「オンリーワンです」と強気に言えるかもしれないです。


◆ 「なぜ、そんなことで悩んでいるの?」と、口で言うだけなのは嫌い

 ですから、オンリーワン企業になった軌跡がどうこうというよりも、起業した、イコール、辞めたくても辞められないから、もう、ひたすら食っていくためにはどうするか?をずっと考えるほかありませんでした。人のやらないことを狙ってやったわけではなく、人がやらないことをたまたまやってきただけです。

 人ができないことを「なぜ、そんなことで悩んでいるの?」と口で言うだけなのは、私は嫌いなんです。それを具現化するには、自分でやるしかないぞ、ということです。手を動かしてやってみて、失敗して、でも失敗してもアイディアは出るから、諦められない、だから考える、その繰り返しです。最後にすべては解決できないですが、それでも結構多くのことは解決できますよね。追い求めれば、実は解が見えてくるのです。

 うちの社員にも、「はじめは屁理屈でもいいから、常にその行動を選んだ根拠を持て」とよく言います。例えば、「右と左、どちらに雨が降るか?」という時、できない方向に進む人に共通する思考パターンは、「どちらにしようかな?」と「天の神様が言う通り」に進み、雨が降っても、「まぁいいか」と諦めることを繰り返すパターンです。「よくわからないけど、とりあえず、まぁいいか」で動くと、自分の行動に根拠がないので、同じシチュエーションでまた延々と同じことの繰り返しです。ですから「まぁいいか」の人は、延々とステップを登れず、同じ場所に居続けるのです。

 私は違います。「右が明るいから、晴れている可能性がある。だから私は右を選んだ」と根拠を持って行動します。それで雨が降ったとしても、「前回、私は明るいから選んだが、あれは間違いだった。だから今度は暗い方を選ぶ」と選びます。それでまた失敗するかもしれませんが、でも明るい方がよいのか、それとも暗い方がよいのか、それが探し求める行き先へと徐々につながります。ステップを一段登るためには、理屈をつけることです。それが間違っていてもいいんですよ。ステップアップができれば。

 私が追い求めるのは、「なるほどね」という根拠です。「なるほどね」の次には「じゃあ、次こうしよう」という次の展開が見えます。それを追い求めていくと、人は成長すると思います。すみません、変なことを言いましたけど、でも私は重要だと思うのです。そういうことを考える人が、どこへ行っても一人でも生きていける、人間力のある人になれると、私は信じています。


社長が二十歳だった頃

― 次に、髙田さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 国立大学発ベンチャー第1号として起業するまで

 二十歳だった頃は馬鹿ですよ(笑)。うちの兄弟が大学に進学したので、自分も何となく進学しただけで、何の目的も目標もなかったです。私は熊本県八代市生まれで、地元の八代工業高等専門学校を卒業後、兄と同じ長岡技術科学大学に編入学しました。私には、長岡に来る理由がありました。兄と一緒にお金を出して買った車に乗る、という変な理由が(笑)。

 当時、何を考えていたか? 勉強をして、お金を貯めて、遊ぶことしか考えていなかったです。ただ、メリハリははっきりしていました。徹底して遊ぶし、勉強すると決めたら他のことはシャットアウトして徹底的に勉強しました。スキーも長岡に来てから覚えましたし、アルバイトも色々なことを経験しました。将来何をやりたいかは全く考えておらず、漠然と「きっとサラリーマンになるのだろう」くらいしか思っていませんでした。

 その後が波乱万丈で色々あったのですが(笑)、大学卒業後は研究生として1年間研究室に残りました。長岡技術科学大学では「実務訓練」という、今で言う、インターンシップの制度がありました。その制度を利用して半年以上、四国の砥石メーカーである株式会社日本グレーン研究所で砥石について学んだ後、同学大学院に進学し、多孔体をテーマに修士論文を書きました。

― 学部生の頃は、多孔体についての研究はしていなかったのですか?

 学部時代は、多孔体とは逆の「緻密体」という、世界一強いセラミックスをつくる研究をしていました。世界一強いセラミックスをつくると、加工できる工具がないのです。そこで、実務訓練では四国の工具メーカーを選び、大学院修士課程修了後に、同社に就職したのです。ところが、工具は工具で、経験と勘しかない世界で、理に適っていないことに、私は不満を抱きました。堅い素材を削るにはダイヤモンドなどを使う必要がありますが、ダイヤモンドが潜在的に持つ加工能力を100%使い切っていなかったのです。

 そこで、その工具メーカーに5年間勤めた後、長岡技術科学大学に助手として戻り、研究を進める中で実現したのが、独自のセラミックス焼結技術でした。この技術を活用すれば、工具の加工能力は従来の2~3倍に高まります。その"屁理屈"を自分自身で実証したいと思い、大学に戻ってから3年後に起業しました。そしてこれまで20年間ずっと走り続けてきました。その割には、ちっとも痩せないですが(笑)。けれども、もう少しうまく行けば、本当の意味でのオンリーワン企業になれるのではないかと手応えを感じています。

 成功してあぶく銭ができたら、次にやりたい夢はベランダ菜園ですね(笑)。多孔体を使って菌を上手く飼い、ベランダサイズで自給自足できることが理想です。最後はやっぱり、衣食住ですからね。そういう"遊び"をぜひやりたいものです。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 早寝早起き推奨、飲める人は大歓迎

 飲める人は大歓迎です(笑)。それと、早寝早起きを推奨しています。朝一番から仕事を始めて、午前中には仕事を終え、午後は翌日の準備をしてから、まだ明るいうちに家に帰り、ビールを飲むくらいが、私は効率がいいと思うのです。なかなかその想いがまだ社員全員には浸透していないのですが...。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へメッセージをお願いします。

◆ 自分に限界をつくるな

 自分で「これが限界だ」と線を引いた瞬間に、自分で自分自身の成長を止めてしまいます。「死ぬ気で」と言っても絶対に死なないですから、死ぬくらい、やってみればいいんですよ。「できない」と否定しても、何も始まりません。「できない」から始まり、失敗して、そこに活路が見えて、「できた」喜びをぜひ知ってほしいです。その喜びを一度味わえば、次も絶対にやってみれますから。だから、まずは「やってみよう」が大切ですよ。

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― 髙田さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 世の中にないものを売る魅力
/五十嵐 陽香さん(23歳、入社5年目、新潟県長岡市出身)

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 高校卒業後に当社に入社し、今年で5年目です。主に事務関係を中心に、輸出や発注業務、お客様とのメール対応のほか、2年前からは営業もやらせてもらっています。入社する時も、当社の「世の中にない商品を独自に開発している」点に惹かれましたが、今でも展示会などでお客様から「これはすごいね」「初めて見た」と驚かれるたびに私も嬉しさを感じています。世の中にないものを売っている環境が刺激的で楽しいので、それが我が社の自慢です。今年3月には、ハニカム砥石の第一号がドイツの展示会でデビューします。まだまだ私は勉強中の身ですが、難しい知識も自分なりにわかりやすく読み解きながら、これからも独創的な社長と一緒に頑張っていきたいです。


◆ 新しいことにチャレンジできる環境が魅力
 /NGUYEN HA(グエン ハー)さん(28歳、入社1年目、ベトナム出身)

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 私はまだ入社して3ヶ月目ですので、今は色々な仕事に参加しています。例えば展示会の仕事、開発の作業、営業関係の仕事も少し入っています。私は技術に興味があります。砥石やセラミクスのことはこれまでよく知りませんでしたが、ナノテムの商品を実際に触って、これはすごいと思いました。今の仕事内容は前職とは全く異なりますが、私はチャレンジしたいタイプですので、ナノテムで働くことを決めました。ナノテムの皆さんはいつも優しく仕事を教えてくれるので、とてもありがたいです。これから日本語も勉強しながら、得意な英語(TOEIC 980点/990点満点)とベトナム語を活かし、海外のお客さんに営業をたくさんしたいです。


◆ 一言で言えば、成長できておもしろい環境
 /髙田 愛梨さん(23歳、入社1年目、新潟県長岡市出身)

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 名前を見ておわかりのように、社長の娘です。2017年度に大学を卒業後、当社に入社しました。現在は現場での開発業務や、社長から指示されたことの実践をメインに、入社1年目ですので現場の作業を一通り覚えている段階です。少し前までは父の会社に入社すると思っていませんでしたが、海外にも輸出し、世界の名だたるメーカーに製品を納めていることを知って、当社のすごさを少しずつ理解しているところです。実際に開発に携わってみると、まだまだわからないことの方が多いですが、私は新しいことにチャレンジしたい性格なので、色々な勉強をしながら仕事ができる環境が、当社のよいところだと思います。また、出社時間や退社時間も一般的な企業では9時から18時が多いと思いますが、当社は朝7時半には来て16時半には帰宅することを推奨しています。夜の時間を有意義に使おうという考え方も、すごくおもしろいと思います。常日頃おもしろさを感じていますが、我が社の環境自慢を一言で言うとすれば、「成長できて、おもしろい環境だよ」というのが一番強いですね。今は技術開発を担当していますが、うちの会社はこれから営業がメインになると思いますので、私も技術を勉強した上で、「どこでも吸着盤」や「ハニカム砥石」を、さらに多くの人に知ってもらえる働きをしていきたいです。

【東北大学ALicE×宮城の新聞 ♯020】リケジョを増やすには何が必要?/東北大学工学系研究科長と現役女子学生が座談会で議論

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【東北大学ALicE×宮城の新聞 ♯020】リケジョを増やす方策とは?/東北大学工学系研究科長と現役女子学生が座談会で議論
取材・写真・文/大草芳江

2018年05月17日公開


「将来や進路選択に悩む、すべての中高生たちへ。
男女問わず学問を追求できる東北大学工学系で、
自分の興味がある分野に、自ら足を踏み入れて欲しい。」

 女性研究者や女子学生の支援や男女共同参画の推進を行う東北大学工学系女性研究者育成支援推進室(以下ALicE)は、東北大学大学院の工学研究科、情報科学研究科、環境科学研究科、医工学研究科の各研究科長4名と現役女子学生2名を交えた座談会を同大キャンパス内で実施しました。座談会では、東北大学工学系における女性教員及び女子学生の比率が少ない現状に対して、どのような方策を取るべきかが議論されました。本稿では、座談会の内容を編集してご紹介します。

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Q1 どうしたら女子学生が増えると思いますか?

鈴木(ALicE) 本日の司会進行役を務めるALicEの鈴木です。本日は大変お忙しい中、研究科長の先生方と現役女子学生にお集まりいただき、ありがとうございます。はじめに、研究科長の先生方へ質問です。どうしたら工学系の女子学生が増えると思いますか?そのための環境整備について、現在力を入れている取組や今後実践していきたい取組等もありましたらご紹介ください。

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東北大学大学院工学研究科長・教授 長坂徹也さん

長坂 私の妻がフルタイム勤務の歯科医をしている関係で、男女共同参画は若い頃から身近なテーマです。昔に比べれば環境は随分よくなったと思います。妻が「あなたは女性だから、一定の仕事だけしてくれればよい」と上司から言われたなんて、今の時代なら考えられませんよね。工学研究科から授賞やポストの推薦を頼まれますが、今は女性研究者向けの様々な支援事業が豊富なので、「むしろ女性の方が有利だ」と男性から言われるくらいですから、あまり悲観的にならなくてもよいと思います。ただ、依然として男性の理解が足りないのは事実ですので、もう少し時間をかけて変えていく必要があると思います。

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東北大学大学院情報科学研究科長・教授 中尾光之さん

中尾 女子学生を増やすための施策として、まず物理的にアメニティ(居住性のよさ)の整備は不可欠だと思います。我々も微々たる歩みではありますが、その環境整備を進めてきました。一方、情報科学そのものはジェンダー(社会的性別)やマイノリティ(社会的少数派)の枠にとらわれない学問領域であると思います。そのことにぜひ女子学生の皆さんが気付いて参入してもらえるとよいですね。また、本学で昨年度から始まった女性教員採用推進事業(※1)等のチャンスを我々も活用し、女性研究者のキャリアを積極的に支援していきたいと考えています。

※1 女性教員採用推進事業:東北大学は平成28年度文部科学省 科学技術人材育成費補助事業ダイバーシティ研究環境実現イニシアティブ(特色型)に採択され、「杜の都女性研究者エンパワーメント推進事業」を推進している。特に、優秀な女性研究者が長期に渡り安定かつ自立して研究を実施できる環境を整えることで、女性に特有のライフイベントも乗り越えて、多様な能力と発想を生かし、優れた研究成果の創出に繋げることを期待して、平成29年度から「女性教員採用推進事業」を学内経費により展開している。

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東北大学大学院環境科学研究科長・教授 土屋範芳さん

土屋 私の専門である地質学系では国際的に見ると、男女比はほぼ1:1もしくは女性の方が多いのが一般的です。一方で日本において、地質学系のみならず理工学系に極めて女子が少ない現状は歪な状態だと私自身は思っています。外国で地質学を専攻する女子が多い理由は、「自然がどのように成り立ち、それをどう感じて考えたらよいか」に興味を持つ学生が多いからだと思います。一般的に日本の中高生がイメージしやすい"派手な科学"だけでなく、"和やかな科学"や"心を豊かにする科学"等々、科学には多様性があります。そのことに女子が気付いて目覚めてくれるとよいですね。その結果、リケジョの割合も少しずつ増えていくのではないでしょうか。その先の社会システムの問題については、大学の一研究科がなかなかアプローチできない領域ですから、我々ができることは科学の楽しさや多様性を女子学生に感じてもらうことだと思います。

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東北大学大学院医工学研究科長・教授 厨川常元さん

厨川 内閣府では、男女共同参画社会の実現に向けて、「2020年までに、指導的地位に女性が占める割合が、少なくとも30%程度になるよう期待する」という目標を掲げています。それを本学で実現するには、そもそもの女性の数が少ない中で、ハードルが高いのが現状ですから、女性の数自体を増やす施策が必要です。そのためにはまず、勉強や仕事と育児を両立できる環境の整備として託児所の充実が必要不可欠です。

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【写真】2018年4月開設「青葉山みどり保育園」外観(複合施設3階および屋上が保育園)

 2018年4月、本学工学系キャンパス内に「青葉山みどり保育園」(写真)が開設されることは、非常によい取組だと思います。また、男女ともに育児や介護をしながら仕事を続けるためには、先行する企業の勤務時間管理や業務管理等の制度も参考にしながら、勤務時間の自由化や在宅勤務制の導入を検討すべきでしょう。さらに、これからの工学では技術の具現化から製品化までを念頭に置いた研究開発が求められます。我々の医工学分野では、"超高齢社会対応技術"や"癒やし"、"和"の具現化に、女性視点での技術開発が重要になると考えています。何よりもまず教員自身が楽しく研究している姿を見せなければ、男女限らず学生は入学してきませんから、我々教員にも課題があると言えます。

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ALicE 室長/東北大学大学院医工学研究科 教授 田中真美さん

田中 各研究科の先生方から心強い言葉をいただきました。東北大学女性研究者採用促進事業では各部局で女性教員を増やす取組を積極的に行っていただいています。また、育児との両立に関しては、ALicEで設置しているキャンパス内の一時託児スペースに加えて、2018年4月に100人規模の青葉山みどり保育園が工学系キャンパス内に開園し、本学の女性教職員や女子学生が利用できるよう全学で取組んでいます。さらに2017年度からは、出産等を行う博士課程の大学院生に対しても長期履修制度が導入される等、環境は非常に良くなっています。その一方で、現状としては工学部に女子学生が少ないために、女子中高生からは「工学系は女性を歓迎していないのでは」と思われている節もありますので、東北大学工学系は女子学生をとても歓迎していることを先生方からも事あるごとに発信いただければ幸いです。

鈴木 現役女子学生の視点からも、コメントをいただければと思います。

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東北大学大学院環境科学研究科 修士2年 野田千暁さん(平成29年度サイエンスエンジェル)

野田 私は学部時代、工学部の中でも女子が比較的多い化学バイオ系に所属しており、今の研究室でも日本人学生は皆女子という環境にいます。そのため、逆に男子が多い環境の方がうまくイメージできないところもあります。ただ、私自身も当時は、「男子は化学工学系、女子はバイオ系」という固定概念を持っていたようにも思います。実際は私の同期にはバイオ系でも男子が多く、工学部のWebサイトに登場していた工学部出身の女性の先輩は化学工学系というケースもありました。自分が想像しているイメージと実際とは異なる場合も多いので、ジェンダーに関する先入観がなくなるとよいと思いました。また、工学系には女子学生支援制度がありますが、教員だけでなく学生にも制度について広く周知してもらえると活用しやすいと思います。例えば、夜遅くまで研究をしていると、帰りの公共交通機関がなくなり困ってしまうことがありますが、女子学生支援制度の中には、そういった女子学生のためのタクシーチケット支援サービスがあります。こういった便利な制度を知らない女子学生も少なくないのではないかと思いました。育児については、学部生の頃はまだ先のことだと思っていましたが、大学院に進学すると、「何歳までには結婚したい」という話題と共に「博士課程まで進学すると、結婚が遅れるのでは?」という話が出て、今後の進路について悩むことはあります。東北大学工学系には、結婚や育児と研究を両立している先輩や先生方もたくさんいらっしゃいますので、そういった情報がもっと女子学生に伝われば、博士課程まで進学しやすくなるのではないかと感じました。

栗本 私は学部時代、工学部の中でも女子学生が少ない電気電子系に所属していました。私は女子学生の少なさは気にせずに入学しましたが、オープンキャンパス等で女子高校生からは「女子が少ないけど大丈夫ですか?」といった質問を受けます。実際に入学すれば、大学は人数が多いので、全員と関わる機会があるわけではなく、普段は男女比がほとんど1:1のグループで行動したりするので男子の多さは気にならないですが、入るまではわからずに不安だと思うので、女子が少なくてもこれまでと別に変わらず生活ができることを発信できるとよいと思います。また、私の研究室には女性の助教がいるので、進学や将来に対する色々な助言をもらえて助かっています。女性教員が増えれば女子学生も増えるのではないかと思います。

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東北大学大学院情報科学研究科 修士2年 栗本優美さん(平成29年度サイエンスエンジェル)

長坂 私の研究室に松八重先生が准教授として在籍していた時、女性の研究者がいることで女子学生が来る求心力になると思ったのですが、あまり来なかったですね。意外でした。

栗本 もし、多くの女性教員が在籍していれば、女子学生にとって、研究室選択の先にある「その後の進路選択」の参考にできるロールモデルとなり、大きな影響を与えるのではないかと思います。しかし、前提としては、「女性の先生がいる」ことよりも、「自分の興味がある分野」を優先して選ぶと思います。

長坂 そうですよね。女子学生の比率を見ると、化学・バイオ系と人間・環境系に多く、一方で機械系と電気系と材料系は少ない傾向で二極化しています。この差を議論するわけではないですが、「女子はどのような分野に興味があるか」について、ぜひ聞かせて欲しいです。研究室の女子学生と話をしていると、卒業後にどんな職業に就くかをイメージしていて、肉体的にハードな業種は避ける傾向にあると感じます。私の研究室では色々なことをやっていますが、基本は鉄鋼なので、職業としては製鉄所のイメージがあると思います。それが恐らく女子の仕事のイメージとは一番遠いところにあるから、いくら松八重さんがいても求心力がなかったのではないかという気がするのです。実際に松八重さんを慕ってきた女子学生は、実験ではなく計算の仕事ができるのがよいという理由の学生が多かったです。女子学生は、将来の結婚や出産・育児、旦那との同居等々を頭の中で漠然と考えて分野を選んでいるという印象があります。そのあたりをぜひ聞かせて欲しいですね。

鈴木 キャリアプランについては、後半でぜひ女子学生に直接聞いてみましょう。

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ALicE 副室長/東北大学大学院環境科学研究科 教授 松八重一代さん

松八重 私が専門とする持続可能性科学の分野は、海外では女性教授の比率が高い領域ですが、私が日本から学会等に参加すると「日本でも女性で教授になれるんだね」と驚かれるほど、日本と海外では男女の比率にギャップがあると感じています。もともと私は経済学部出身で、私が専門とする計量経済学は比較的女性が少ない分野でした。私自身は男女比が自分のやりたい学問分野の選択に影響を与えることはありませんでした。ただ、海外では工学系の分野を選択することで、将来のキャリアの選択肢が広がるポジティブなイメージを女性も持っているのに対し、日本では女性のポジティブな将来像が見えづらい現状が工学系に女性の比率が低い一因ではないかと、感じています。また、大学の環境について、ハードとソフトの両面で整いつつあることは、実際にその通りで、そのおかげで自分の選択肢を閉ざさずに済むようになってきたと思います。私自身も結婚して出産し育児との両立が必要になった段階で「学内に保育園があるから、少し休んで保育園に預ければ、すぐ仕事に復帰できるな」と楽観的に考えることができました。実は、田中真美先生は同じく男の子を持つママ友なのです。大学の業務と育児を両立する身近なロールモデル(行動や考え方のお手本となる人)の存在は、自分の将来像をイメージする上でもよいと感じています。

鈴木 先程「女性ならではの視点が活きる分野があるのでは」というお話がありましたが、その辺りについては如何でしょうか。

中尾 基本的には、学問的な興味に性差は存在しないと私自身は考えています。そのような意味では、「男性だから」「女性だから」という理由で学問を選んでほしくないですし、そうすべきではないと考えています。また、「女性ならでは」という言い方は本当によいのだろうかと感じます。ジェンダーはダイバーシティのひとつだと思いますし、当然ながら、ひとつの視点しか持たないグループはクリエイティブ(創造的)ではなく、ましてやイノベーション(技術革新)などは起こり得ません。できるだけ多様な視点が入ることが社会的にも研究やものづくりにおいても必要です。その多様性のひとつとして、性差以前に、「自分自身が如何に個性的であるか」の方が重要ですし、そのような個性的な人がグループ内にいることが、どの領域においても大切なことではないでしょうか。

土屋 私も研究室で学生と話をする時、基本的には男女分け隔てなく議論し、切磋琢磨していくので、男女差を考えたことはありませんでした。また、基本的に大学にいる限り、男女差をほとんど意識していません。例えば、約50年前の大学の建物には6個あるトイレのうち女子トイレは1個だけでしたが、約20年前に立替えた時、男子トイレ3個と女子トイレ3個に身体障害者用トイレ1個が加わる等、大学の環境整備も進んでいます。その一方、厳然として女子学生が少ない事実があります。その理由のひとつとして、将来に対する漠然とした不安があるのではないかと考えています。もうひとつは、女子中高生が自分自身で、「自分にできそうなこと、できそうなこと」といった"枠"を決めてしまっているような気がするのです。少なくとも大学では男女差がない社会がほぼ出来上がっています。あとは、女子学生がそこに飛び込んでくるか・飛び込まないかというところまで、環境整備は進んでいると思うのです。その後の将来に対する不安については社会システムの問題なので、すぐに解決することは難しいですが、それは男子も同じです。女子は結婚や育児で将来に対する不安を持っていると思いますが、男子も同じように将来に対する不安を抱えているために、博士課程への進学がなかなか進まない現状があるのだと思います。これは何とか変えていく必要があるでしょう。諸外国では、実は学問を志向するのは女子の方が多く、どちらかと言えば、男子はビジネス思考の傾向があります。博士課程に進学するのも女子の方が多い印象で、真摯に学問に取組みたいという意識を持っていると感じますね。男女共に将来に対する悩みを持っているという意味では同じスタート地点に立っています。だからこそ、そこから一歩前へ進むのに必要なのは自分自身の意識ではないでしょうか。

厨川 現在、私の研究室にいる約40人の学生のうち、女子学生は3人です。多い時には女子学生が6人在籍していましたが、入る時はまとまって入ってくる傾向があります。私の専門分野は「油まみれ」になって「ものを削る」という、どちらかと言えば男性的なイメージと言われる分野ですが、一方で、歯や骨を研究テーマにすると女子学生が関心を持つので、研究テーマの設定が非常に重要だと思います。ただ、東北大学に入学する段階で女子学生の数が多くない現実があります。その理由のひとつに、まず入試科目に物理があると女子が少ない傾向にありますね。さらに、これは男子学生も該当しますが、進路決定には保護者、特に母親の影響力が大きいので、母親に対して工学系の楽しさや格好良さを伝えることが効果的だと考えています。実際、小学校高学年向けに我々が実施している体験型科学教室は、母親に対する広報・PR活動という目的もあります。おかげさまでお母様方からは「工学部って格好良いのですね」という反応が割りと多いのですよ。浸透するまでに時間はかかりますが、直近ではその小学生たちが大学を受験する6年後に成果が現れてくると思います。

田中 最近のオープンキャンパスでは学生と一緒にご両親も参加する傾向にあり、ご両親の方から「女子学生が生き生きと学生生活を楽しんでいることがわかり、とても安心した」という感想をよく聞きます。私も学問には性差がないと考えています。一方、女子学生が多い研究室にまた女子学生が入る傾向が見られるので、女子学生が一人でもいると入りやすい雰囲気になるようです。土屋先生のおっしゃっていたトイレ問題も、私が学生だった頃と比べて環境が非常によくなりました。今度は私たち世代が保護者になりますので、自分たちの時代とは異なり、大学の環境が改善されたことを広くアピールする必要があると思います。また女子学生の進路選択については、保護者の方や高校の先生など、周囲の方の言葉が非常に大きく影響しているようです。そのため、保護者に加えて高校の先生方にも、東北大学工学部は女子学生を歓迎していることをアピールする必要があると考えています。

鈴木 実際に東北大学工学系研究科に所属している女子学生の皆さんはどのように感じていますか? 長坂先生から質問いただいたキャリアプランについても、ぜひ意見を聞かせてください。

野田 研究室に女子学生がいると入りやすい傾向は確かにあります。歳の近い人の方が、親近感を抱きやすいと思うので、私達サイエンスエンジェル(※2)が出張授業で高校を訪問し、理工系の楽しさを伝える活動は効果的だと思います。また、キャリアプランについて、私は大学院に進学する時も母親の影響が強かったです。私が「まわりの友達も大学院に進学しているから私も進学しようかな」と両親に相談すると、父は「いいと思うよ」と言ってくれたのに対して、母は「将来、結婚はどうするつもりなの?大学院に進学する意味はあるの?」と否定的な反応で、さらに博士課程への進学の話になると、「卒業する時には何歳になると思っているの?」という反応でした(笑)。ですから、先生方が仰っていたように親の固定概念を解消する必要もあると思います。私が将来のキャリアプランについて考え始めたのはつい最近のことで、きっかけは企業のインターンシップに参加したことでした。仲の良い女友達は皆インターンシップに参加しており、7人のうち3人は「企業に就職するよりも、大学で研究をする方が向いている気がするから、博士課程に進学しようかな」と進学を決めていました。そういった機会に積極的に参加することは将来を考えるきっかけのひとつになると思います。

※2 東北大学サイエンスエンジェル:次世代の研究者を目指す中高校生に「女性研究者ってかっこいい!」、「理系進学って楽しい!」という思いを伝えるために結集した、東北大学の自然科学系女子大学院生。

栗本 大学に入るまでは、私も親の影響が大きかったと感じています。私の場合は父親の影響力が大きく、進路選択についても父親から理系を勧められて工学部に進学しました。ただ、私も大学院に進学した時、母から「私があなたの歳の頃には結婚していた」と言われました(笑)。実際に高校の頃、周りには「女の子は資格がなければ駄目だから」と親から言われ、何らかの資格の取れる学部に進んでいる友達が多かった印象です。私の場合は、「工学部からの就職は工場勤務の人が多く、研究内容も似たような感じなのだろう」というイメージがありましたが、実際にきちんと調べてみると、どんな研究をしているかがよくわかり、分野によって研究内容も様々であると理解しました。自分の持っている固定概念や周りからの意見を鵜呑みにするのではなく、中身をきちんと自分で調べることが大切だと思います。

松八重 私の親は工学部電気系の大学教員で、小さな頃から、親がわくわくしながら大学に通う姿を見ていたので、「大学は楽しいところで、工学部の研究はおもしろそう」というイメージがありました。私自身は進路選択において両親に賛成されたことはないですが、一向に気にせず、自分の意志で進路を選択しました。親との関係性は人それぞれだと思います。
 研究者になって海外に行くと、自分で論文を執筆して研究の成果を発信する喜びに性差はなく、学問の世界は男女関係なく楽しめるところだと私自身は感じています。とはいえども、女性特有のライフイベントとして出産や育児等の心配はあります。女性の存在が周囲によい影響をもたらすためには、周りを含めて「ゆるさ」が必要ではないかと思います。「多様性の許容」と言いますか、「多様な人がいて、そんな生き方も"あり"だよね」と周囲が思わなければ、たとえ自分のやりたいことがあっても、周囲の思う"正しさ"から自分だけが外れる恐怖があります。大学の研究で「この目的達成のために皆で一丸となろう」という文化の中、そこから外れることを許容するのは、研究室を管理する立場の先生にとってもなかなか難しいことですが、それを受け止める文化の醸成が必要ですし、多様な人が存在することによって多様性に配慮する文化が自然と育まれていく効果があると思います。

鈴木 オープンキャンパスでは女子高生から「工学の中に女性でも活躍できる分野があることを知り安心した」という声をよくいただきますが、皆様のお話を伺い、大学では男性・女性の垣根を越えて「一人の"個"としての人間性を見てもらえる環境にあるということ」が一番の強みだとわかりました。自分の興味があることには思いきり挑戦してもらうことが、結果的に中高生の皆さんにとってよいことにつながるということを、私たちALicEも積極的に発信していきたいと思います!


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Q2 今後、ALicEに期待することは何ですか?

鈴木 ひとつの研究科だけでは難しいことでも、4つの研究科で力を合わせ、そこにALicEが加わることでできることがあるかもしれません。今後、ALicEに期待することはありますか?

長坂 このような活動は地道にやっていただくしかないので、ALicEが一生懸命取組んでいることに対して、最大部局である工学研究科として少しでも力になりたいと思いますし、やらなければいけないことだと思います。ただ、根本的には雇用という難しい問題があると考えています。せっかく東北大学でよい知識を身に付けた、将来の伴侶になる研究者を育成したとしても、大学のポストの数には限りがあるのが現状で、そのポストが空くまで待つわけにもいきません。ALicEの活動は下支えだとしても、どうしたら東北大学として、女性が活躍できる環境を安定して生み出せるかという根本には雇用の問題がありますので、ロングスパン(長い期間)の思考で物事を考える必要があると感じています。

中尾 いわゆる"マッチョな働き方"は高度成長期につくられた慣習だと思うのですが、今では実際に働き方や雇用形態もフレキシブル(柔軟)になり、多様化しつつあります。その多様性をALicEの活動を通じてぜひ伝えて欲しいです。"マッチョな働き方"が優先される雇用形態では、育児期間がキャリアにとってデメリットになる考え方になってしまいますが、フレキシブルな働き方の中では、それもひとつのキャリアアップの機会と捉えられると思います。また、ALicEでは女性を意識した取組を展開していますが、ダイバーシティという視点で考えると、他のマイノリティや男性の働き方そのものを解放する動きにもつながると思いますので、広い視点で活動していただけるとよいですね。勿論、ALicEの活動だけに大層なことを期待するのはよくないですが(笑)、我々も組織として考える必要があると考えています。

土屋 我々環境科学研究科としても、ALicEの活動を支援していきたいと考えています。工学部は、大学院になると4つの研究科に分かれてしまい、研究室中心の生活になるので、それを横につなげられるALicEの存在は、もともとの目的である女性参画推進のみならず、さらに色々なコミュニケーションを取れる場になっていると思います。ぜひ横のつながりの場を今後もつくってもらうことを期待しています。またダイバーシティは大事なことで、その実現には積極的に多様な人を入れていく努力も必要だと思います。そのアイディアのひとつとして、女子学生のみならず男子学生の支援も考えていただけるとよいのではないでしょうか。女性と男性の悩みは質的な違いもあるとは思いますが、男子学生も将来に対する悩みを抱えているので、ALicEのような場があると、色々な意見を聞けるチャンスになると思います。

厨川 ALicEには、女性のアクティビティの「見える化」に引き続き取組んでいただきたいです。「東北大学工学系=女性教員・女性研究者・女子学生がたくさんいる」ことが簡単にイメージされるよう、「見える化」により東北大学をブランド化していただきたいのです。女性の先生方が楽しく活躍している姿を、特にお母さん方にぜひ見せてください。ただ、ダイバーシティが推奨される環境下において、女性しか登場しないのも変な印象を受けますので、土屋先生のコメントにもありましたように、「男性と女性が一緒に活躍している姿」を見せるのもよい気がします。

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【写真】ロボットの機構について積極的に議論する学生たち。東北大学工学系では真に豊かな社会の実現のために多様性を尊重している。

田中 各研究科の先生方からは、ALicEの活動を支えていただき、ありがとうございます。長坂先生がおっしゃっていた雇用の問題は根本的に難しい問題ですが、厨川先生がおっしゃっていたブランド戦略で、我々教員が楽しく研究に取り組む姿を「見える化」していくことにより、少しずつ現状を変えていけるのではないかと期待しています。


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Q.3 中高生へメッセージを!

鈴木 最後に、中高生の皆さんへのメッセージを一言お願いします。

長坂 女子中高生の皆さんが、どんな意見を持っているのか、どんなことでもいいので、率直な意見をぜひ聞かせてください。東北大学工学系に進学してよかったと思われるよう、できる限り反映させていきたいと思います。

中尾 情報技術が世界を席巻する中、情報リテラシー(情報活用能力)はどの分野においても益々重要になっています。何をするにしても将来のポテンシャル(可能性)が広がると思いますので、ぜひ我々情報科学研究科に学びに来てください。

土屋 少なくとも大学の世界は、性差がないフラット(対等)な状況にあります。色々な問題点は残されてはいるものの、形式的にはその問題はかなり改善されています。すると、自分が興味を持ったことにまず一歩踏み込むのは、当事者である中高生の皆さん自身だと思いますので、ぜひ親の意向や既成概念を破っていく勇気を持って、頑張ってもらいたいです。そこから何かが開けてくると思います。

厨川 東北大学の女子学生や女性研究者が楽しく活躍している姿をぜひ見てください!

野田 自分のやりたいことをやりたいと思った時に、まわりは協力してくれるはずですし、東北大学にも色々な環境が整っていますので、自分がやりたいと思ったことは躊躇せずに、どんどん進んでください。

栗本 外から見ているだけではわからないことも多いですが、できる限りの情報を集めて、自分が「いいな」と思えるところに飛び込んでみれば、そこに楽しい世界が待っているはずです。まずは一歩踏み出してみてください。

松八重 自分がやりたいと思ったことは諦めず、やりたいままに進むのがよいと思います。社会が望む"よい女性像"や"よい母親像" を演ずることなんて、自分の一度きりの人生にとっては何の役にも立ちません。あくまで自分のやりたいことをやった上で、「私、少しこうしてもらえないと、前に進めない!」と声をあげていただければ、周りの人たちも東北大学もALicEもあなたを支えることができるので、自分のやりたいことにむかって躊躇せず進んでください。

田中 男女関係なく自分がやりたいことをやっていただき、後悔のない人生を送ってほしいと私も願っています。そのためにALicEでは、先生方から本日ご意見いただいたことや、工学系で活躍する女性の「見える化」を今後もさらに進めていく所存です。本日はありがとうございました。


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ALicEキャラクター『ずんだぬき』

東北大学工学系女性研究者育成支援推進室(ALicE)×「宮城の新聞」のコラボレーション連載として、女子学生・女性研究者や育児を行う研究者の研究生活や活躍、男女共同参画への取り組みを紹介しています。
☆ 詳細 =>> 東北大学工学系女性研究者育成支援推進室(ALicE)

【東北大学ALicE×宮城の新聞 ♯021】先輩が女子学生へ工学の魅力伝える/東北大学工学部「女子学生のためのミニフォーラム」開催

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【東北大学ALicE×宮城の新聞 ♯021】先輩が女子学生へ工学の魅力伝える/東北大学工学部「女子学生のためのミニフォーラム」開催
取材・写真・文/大草芳江

2018年09月19日公開


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女子学生のためのミニフィーラム「工学にかける私の夢」の様子=東北大学工学部(仙台市)

 平成30年7月31日から8月1日まで、東北大学工学部は、女子学生のためのミニフォーラム「工学にかける私の夢」を開催した。女性の活躍が期待される一方で、工学部に占める女子学生の割合は約1割と少ない。そこで、将来の進路選択の参考にしてもらおうと、工学部OGと現役の大学生・大学院生らが工学の魅力を発信する企画を、オープンキャンパスにて例年実施している。

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工学部の5つの学科に所属する女子学生らによるパネルディスカッションの様子

 ミニフォーラムでは、女子学生や女性研究者を育成・支援する東北大学工学系女性研究者育成支援推進室(ALicE)から活動紹介があった後、同大の女性教員や企業へ就職したOGらによる講演があった。続いて同学部5学科に所属する女子学生らによるパネルディスカッションが行われ、進学理由や大学生活などが紹介された。

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講演者を交えた懇談会の様子

 ミニフォーラム終了後は講演者との懇談の場も設けられ、参加した女子学生や保護者らが、進路の悩みや気になる大学生活などについて質問した。参加者からは「大学生活に対する不安が期待に変わった」、「先輩方の生の声を聞き、自分が工学部を目指す理由が明確になった」、「工学部が積極的に女子学生をフォローしている様子がわかり、保護者としても安心した」といった声があった。

 フォーラムの講演要旨は、次の通り。


「大学ってどんなところ ~実験が知識蓄積の虚無感から解放してくれた~」
/井上久美先生(東北大学大学院環境科学研究科 先端環境創成学専攻 特任准教授)

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 小学生の頃から大好きな「京大ヒュッテ」に宿泊するために、京都大学スキー部OGになろうと決意。勉強嫌いではあったが、一浪の末、念願の京大に入学できた。しかし、大学の勉強では高校までのように問題集がなかったので、どのように勉強すればよいかわからなかった。さらに、「研究者がこの速度で知識を積み上げていけば、50年後の学生はどれだけ勉強しないといけないのだろう。果てしない知識の積み上げは、もううんざりだ」と思った。

 卒業後は仙台に移住し、専業主婦として半年間生活した後、小さな会社で食品分析の仕事を始めた。自由に仕事ができるよい環境だったが、9年半務めた頃、別のことをしたくなり、33歳で東北大学の門を叩いた。研究補助として色々な実験する中で、ある日、自分の血液を顕微鏡で見た。教科書で見た通りだったが、自分の体から取り出した、生きている細胞を自分の目で見て、とても感動した。教科書で見たら何も思わなかったこと、むしろ覚えなければいけないと苦痛に感じていたことが、"実験"という形で自ら触れることで自分にとって重要なことに変わった瞬間だった。世の中の知識が多過ぎてうんざりしていた私が、「もっと知りたい!」、「なぜ?どうして?」、「細胞の機能を応用すれば、すごいセンサができるかも!」と考えて自分で勉強し、世界中の論文を読む人になっていた。

 こうして勉強嫌いだった私は研究者になった。専門分野は電気分析化学で、簡易型センサの研究をしている。血液の細胞を見た時に思った「細胞の機能を利用するセンサ」も開発した。また最近の研究成果は、科学雑誌の表紙を飾った。研究は一人ではなく皆で進めるもの。皆で研究した成果である。

 今、勉強をしていて、「なぜ、こんなに覚えないといけないだろう」と思っている人には、理系を勧める。理系では実験ができ、実際に触れて自分で確かめ、自分でつくることができ、世界がどんどん広がる。特に工学部には「役に立つものをつくる」という明確な目的があり、それに向かって、自分で考えて研究を進めることができる。周囲もサポートしてくれるし、一度社会に出てからでも、大学は勉強し直すことができる場である。


「会いに行きたい!に応える知能化モビリティ研究
 ~ 通信工学専攻から自動車メーカーに飛び込んで ~」
/阿部ちひろさん(本田技術研究所)

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 東北大学大学院工学研究科電気・通信工学専攻を修了後、現在は本田技術研究所にて自動運転の研究開発に従事している。小4でインターネットに興味を持ち、中3で電子工学のサマースクールの会場となった東北大学工学部に憧れ、高1で通信工学が学べる東北大学工学部電気情報系への進学を決意した。

 入学後は、少ない女子同士が協力し合うので、むしろ女子校のような雰囲気で過ごせたが、憧れの通信工学を学ぶために友人とは別コースを選択した。結果、クラスで女子1人という状況に陥ることとなった。暗黒の1年になりかけるも、その壁を打開できたのは、周囲の力を借りることは決して悪いことではないと考え方が少しずつ変わったことにあった。もうひとつは、バンド活動でシンセサイザーを購入し、音響工学と出会ったことだった。あらゆる音色の波形が数学的にプログラミングでつくられると知ってからは勉強が楽しくなり、音声認識や音楽情報処理を扱う研究室に入り、統計的言語モデルを用いた作詞補助システムに関する研究を行った。デモアプリも開発し、国内外の学会等で研究成果を発表した。研究室時代の仲間とは、卒業後も集まって一緒に旅行にも行く一生の友達だ。

 通信工学を学ぶにつれ、人と人とが顔を合わせて行うコミュニケーションには敵わないと思うようになった。「誰かに会いに行きたい!」という気持ちに応えられる仕事として、自動車メーカーを志望した。現在は、本田技術研究所にて自動運転・高度運転支援の研究開発を担当している。自動運転は「認知・判断・行動」の3つの技術から成る。このうち、電気情報系が担うのが「認知」と「判断」だ。普段の業務では、プログラミングをして自分の書いたソフトを車両に組み込み、実車テストのデータをもとに解析し、次の方針を決定する。研究で得た成果は、特許や製品にすることが多い。

 女性エンジニアとして意識していることは、「できること・できないこと・してみたいこと」を自分の言葉で周囲に発信し、「女性だから」という周囲の思い込みを排除する努力をすることである。自分ができないことを数えるのではなく、できることを最大限発揮するにはどうしたらいいかを考えてほしい。また、社会では不得意なところはお互いに助け合う相互補完がより一層大事になる。一人ひとりがチームの一員として活躍する当事者意識を持つことで、やりたいことが成し遂げられると思う。


「磁石の性質に迫る ~起源解明と応用に向けて~」
/梅津理恵先生(東北大学 金属材料研究所 准教授)

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 小学生の頃は、外遊びと星座ウォッチングが大好きで、将来の夢はスポーツ選手か天文学者だった。中学2年生で理数系への進路を意識し始め、高校では理系クラスとなった。しかし、中学・高校ではソフトテニスに打ち込み、第一志望は体育学部だった。理学部物理学科に入学後もテニスに明け暮れる毎日だった。ところが、卒業研究で実験がおもしろくなり、大学院へ進学。修士課程修了後に一旦就職するも、もう一度勉強したいと思い、東北大学大学院工学研究科博士後期課程に編入学をした。博士号取得後は大学で日本学術振興会特別研究員や独立行政法人科学技術振興機構の戦略的創造研究推進事業(CREST)の研究員となり、東北大学多元物質科学研究所、ならびに金属材料研究所の助教を経て、現在に至る。

 大学では、金属材料の「磁性(じせい)」について調べている。磁性とは、磁石に反応する性質のことを指す。磁性の起源は、つきつめると、原子を構成する「電子」にある。電子が原子核の周りを、円を描くように動いて(軌道運動)いることと、電子そのものが回転(自転)することによって「磁気モーメント」(磁石の強さと強さの方向を表す)が生じ、この配列によって物質の磁性は大きく変化する。例えば、磁気モーメントが同じ方向に配列されているものだけが磁石にくっつく「強磁性体」になる。なかには単体で強磁性体にならなくとも、色々な操作をすることで強磁性を示すおもしろい物質もある。金属磁性材料の応用例は、わたしたちの身の回りに実に多くあり、例えば、ハードディスクやモーターには、異なる性質の磁性材料が組み込まれている。また、磁場によって物質の電気抵抗が変化する効果を利用した磁気センサや、磁化すると体積が変化する効果を利用した振動発電素子など、磁気に付随する現象とその応用事例は色々ある。

 実際の物質の電子構造は非常に複雑で、磁性を決める因子はたくさんある。私は、実験的に色々な元素を組み合わせることで新物質を合成し、新しい機能の発見を目指している。実際の研究は泥臭く、どんな構成元素にするかを自分の発想でデザインし、金属元素を溶かして作製した試料の性質を大学内外の装置を利用して調べる毎日だ。研究は一人ではできないので、国内外の多くのチームと共同研究をしており、その成果は学会や論文、特許などの形で公表する。

 世界でまだ誰もつくっていない物質を自分がつくっていると思うとわくわくするし、それが新機能を持てばなお嬉しく、さらに世の中に役立つことができればこの上ない喜びであろう。また、色々な人と出会い、共同研究をしながら研究成果を生み出すことや、大学として社会で活躍する若者を世に送り出す使命にもやりがいを感じながら、研究者という仕事をしている。


「生物と建築と芸術と私 -多様な進路とキャリアについて」
/錦織真也さん(小川錦織一級建築士事務所)

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 最初から建築家を目指していたわけではなかった。愛媛県の高校を卒業後、得意科目が生物で都会が苦手という単純な理由から、東北大学理学部生物学科に入学した。しかし、実験のために何百ものサンプルを作成する地味な作業がどうしても好きになれなかった。そんな時、世界的に有名な女性建築家である妹島和世さんの作品集に本屋で出会い、「私も設計したい!」と強く思った。大学受験科目にはなかった物理を勉強し直して編入学試験を受け、東北大学工学部建築学科に合格。2年間で3年間分の単位を取得する必要があり、「できなくても当たり前」と肝が据わったことで、かえって好きなことに積極的にチャレンジできた。

 建築学科には、設計やデザインを主に扱う「意匠」、建築や建築の集合体である街の使われ方を考える「計画」、建物内外の環境について考える「環境」、建物の強度面からの設計を行う「構造」の4つの分野がある。大学院は他大学の意匠研究室を目指しつつ、設計をやるには計画も必要だろうと、敢えて計画の研究室に所属した。設計課題は楽しく、スケッチや模型を徹夜で一生懸命つくった。4年生の時、将来の就職先となる伊東豊雄さんが「せんだいメディアテーク」を建設していた縁で、東北大学に設計を教えに来た。私が建築学科に入るきっかけになった妹島さんも所属していた事務所だ。これは頑張るしかないと設計課題に積極的に取り組み、伊東さんが審査員を務める国際コンペに応募したところ、思いがけず一等に入選し、自信がついた。東京藝術大学の大学院へ進学し、設計をやると腹をくくって来ている人たちの中で、設計三昧の学生生活を過ごした。同大学院では、新設された先端芸術表現学科にも通い、国内外の展覧会やワークショップなどにも積極的に参加した。

 学生時代にやっておきたいことはやりつくし、念願の伊東豊雄建築設計事務所に入所。世界各地でプロジェクトが動く中、大変だがやりがいのある楽しい毎日を過ごした。単に格好良い建築をつくるだけでなく、建築家としての立ち振る舞いや、電話応対から仕事も飲み会も時間厳守なことなど、一流の事務所であらゆることを学ばせてもらった。入所5年目で独立し、現在は仙台を拠点に、家具からアートまで幅広く設計している。

 建築は一人でつくることができないので、建築家に求められる能力として、クライアント、職人、施工会社などとのコミュニケーション能力は必須である。さらにデザインだけでなく、性能や予算、施工会社の能力など、様々な要素から優先順位をつけて最適解を導き出す問題解決力も求められる。また、一級建築士の資格は難易度が高いため取得できると需要が高く、女性のライフステージが変わっても一生をかけて続けられる仕事だ。私も今年6月に出産したばかりだが、体調に合わせて仕事を続けることができた。このほか、意匠だけでなく、あらゆることを知っておく雑学力も必要で、出産や子育てなどの人生経験も設計の糧になる。

 大学は、高校生の時に想像するより深くて広い世界に触れられる場所。やってみなければわからないことが多いので、思い悩むよりも、まずは思い切ってやってみることが大切だ。それをとことんやることで、その後に進路が変わっても、やったことは決して無駄にはならない。進路が変わること自体、強みにもなり得る。一番大切なことは、自分がわくわくすることを見つけることだ。


各学科の女子学生とのクロストーク

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Q1 
自己紹介をお願いします

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遠藤夏実さん(工学研究科 電気エネルギーシステム専攻 修士1年)

 宮城県仙台第二高等学校出身。超電導ケーブルの長距離化に向けた研究をしている。
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五十棲直子さん(工学部 建築・社会環境工学科 学部4年)

 京都府立桃山高等学校出身。新しい水処理システムを環境省と研究している。
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片桐彩さん(工学研究科 都市・建築学専攻 修士1年)

 北海道札幌西高等学校出身。仙台駅前の再開発や都市開発の研究をしている。
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森瑛梨奈さん(工学部 機械知能・航空工学科学部3年)

 岩手県立盛岡第一高等学校出身。構造物の振動制御方法の研究をしている。
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志田友香さん(環境科学研究科 環境創成学専攻 修士1年)

 千葉県立千葉高等学校出身。水素エネルギー開発に向けてギ酸から水素を生成する研究をしている。学部の頃はスキー部でアルペン競技に打ち込んだ。
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山口実奈さん(工学研究科 知能デバイス材料学専攻 修士1年)

 茨城県立竹園高等学校出身。セラミック材料を用いた光学薄膜の作成の研究をしている。
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Q2 
東北大学・現在の学科を選んだ理由は?

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遠藤夏実さん(工学研究科 電気エネルギーシステム専攻 修士1年)

 超電導の勉強がしたいと思ったから。興味を持ったきっかけは高校1年生の時に参加した東北大のオープンキャンパスで超電導を初めて見て、おもしろそうとたくさんの疑問を持ったから。
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五十棲直子さん(工学部 建築・社会環境工学科 学部4年)

 高校3年生までは部活に打ち込み進路については考えておらず、やりたい分野は見つかっていなかった。視野を広げて自分の力で生きるために関西から遠くへ出ようと東北大へ。絵を描くことも好きだったので建築を選んだ。
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片桐彩さん(工学研究科 都市・建築学専攻 修士1年)

 物心がついた頃から建築家に憧れており、建築学科に行くことは決めていた。東北大を選んだ理由は、北海道を出て一人暮らしをしたかったことと、高校の先生に薦められたから。
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森瑛梨奈さん(工学部 機械知能・航空工学科学部3年)

 小さな頃から宇宙に興味があり、宇宙の研究ができる大学を探して、東北大の機械系を受験した。最先端で宇宙の研究ができる大学は意外と少ないと感じた。東北大は宇宙工学を学びたい人にとって、よい環境が揃っていると思う。
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志田友香さん(環境科学研究科 環境創成学専攻 修士1年)

 高校の科目の中で一番好きな化学を学ぶため、理学部か工学部かで悩んだ結果、商品を生み出すことに誇りを持つ商品開発をしている父親の姿に憧れ、国立大学工学部化学系を志望した。その中から東北大を選んだ最終的な決め手は、高校の先生から「東北大は入ってから伸びる大学」と薦められたから。
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山口実奈さん(工学研究科 知能デバイス材料学専攻 修士1年)

 高校生の時は具体的に夢が決まっていなかったが、社会の役に立つ研究開発の仕事に就きたいと漠然と思っていた。材料系を選んだ理由は、材料、電子部品、磁石、燃料電池など、幅広いことができると知ったから。縁の下の力持ちになりたいと思い、材料系を選んだ。
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Q3 
大学生になって自分自身が変わったこと・成長したことは?

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遠藤夏実さん(工学研究科 電気エネルギーシステム専攻 修士1年)

 高校生までの私は与えられたことだけをやっていたが、今の私はおもしろいと感じたら挑戦してみる生き方に変わった。例えば、早期卒業制度を利用して半年間ニュージーランドに留学をしたり、学会発表をしたり、小さな挑戦だが、挑戦が楽しみになった。
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五十棲直子さん(工学部 建築・社会環境工学科 学部4年)

 高校生までの私は行動に移すまでが遅かったが、今の私は、興味があることをとりあえずやってみるようになった。東北大学には色々な分野のプロや外国の人がいるので、興味があることに挑戦できる環境は揃っている。
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片桐彩さん(工学研究科 都市・建築学専攻 修士1年)

 高校生までの私は落ち込んだ時の気持ちの切り替えが苦手だったが、今の私は原因や対策をしっかり考えて前向きに取り組めるようになった。プライベートと研究の時間の切り替えもうまくなったと思う。
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森瑛梨奈さん(工学部 機械知能・航空工学科学部3年)

 高校生までは、主体的に動くといっても、先生や親に決められた範囲内だった。大学では自由度が上がり、授業やサークル、アルバイトなど自分で選択できることが増えたため、主体性が身についたと思う。
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志田友香さん(環境科学研究科 環境創成学専攻 修士1年)

 高校生までは何をするにも親に頼っていたが、今は一人暮らしを始めたこともあり、一人で選択して行動し、解決できることが増えた。時間もたくさんあるので、アルバイトでお金を貯めて、やりたいことにも挑戦できるようになった。高校生の時よりも、たくましくなったと思う。
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山口実奈さん(工学研究科 知能デバイス材料学専攻 修士1年)

 高校生までの私は人前で話すのが苦手だったが、大学に入ってからは発表する機会が多いため、経験を踏むうちに人前で話すことに対する苦手意識が減った。
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Q4 
女子学生の皆様へのメッセージを!

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遠藤夏実さん(工学研究科 電気エネルギーシステム専攻 修士1年)

 大学は高校とは違って自分が好きなことを中心に勉強でき、自分のモチベーションさえあれば、とても楽しく生活できる。得意・不得意や周囲の意見・環境に左右されることなく、自分の好きなことや興味を大切にして進路選択をしてほしい。
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五十棲直子さん(工学部 建築・社会環境工学科 学部4年)

 私は最初、建築に興味があったが、今は水環境を研究している。入学しなければわからないこと、選択が変わることもある。工学部には自分の興味につながる分野が必ずあるので、夢がないことを思い詰めずに頑張ってほしい。
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片桐彩さん(工学研究科 都市・建築学専攻 修士1年)

 小さな頃から憧れて入った建築デザインだが、デザインひとつするにしても、色々な分野の知識が必要になる。ひとつのことを目標にしていても入学してから道が広がるので、進路を決めかねている人も怖がらずに進んでほしい。
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森瑛梨奈さん(工学部 機械知能・航空工学科学部3年)

 東北大には、勉強も趣味も、自分のやりたいことができる環境が整っている。工学部は、ひとつの学科に所属していても幅広い分野の勉強ができ、入学後に専門のコースを選択できる点も魅力。
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志田友香さん(環境科学研究科 環境創成学専攻 修士1年)

 大学では、高校の時に想像していた以上に、色々なことを経験できた。色々なことに興味を持てば、大学はすごく楽しいところ。今はとにかく色々なことに興味を持ってやってみてほしい。
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山口実奈さん(工学研究科 知能デバイス材料学専攻 修士1年)

 夢が決まっている人は選択肢の幅を広げるためにも、夢が決まっていない人はどんな選択でもできるよう、広い視野を持ってほしい。オープンキャンパスで色々な分野を知ったり、講演を聞いたり、新聞を読んだりするのもよいと思う。
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Q5 
会場からの質疑応答

Q 「阿部先生に質問です。プログラミングなどの勉強は、いつ頃から始めましたか?高校の基礎知識だけでは、大学の勉強は難しいですか?」

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阿部ちひろさん(本田技術研究所)
 私も昔、プログラミングに苦手意識があった。しかし好きなことをやりたいと思って研究室に入り、やりたいことを実現するツールとして貪欲に勉強するようになってからは、どんなことも形にできると思えるようになった。たとえ今はできなくとも、やりたいことが見つかれば、必要な勉強はするようになる。

Q 「梅津先生に質問です。この学部にしようと決めたのはいつ頃で、決定打は何ですか?」

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梅津理恵先生(東北大学 金属材料研究所 准教授)
 高校の時は自然の成り立ちに興味があったので、理学部物理学科に進学した。私は理論より実験の方がおもしろく、物質の機能の根源を探る、という物性学に興味を持ち、さらにその応用を研究したいと工学部へ移った。最初から決めていたわけでなく、やっていることから考えるうちに、今いる場所に辿り着いた。

Q 「錦織先生に質問です。設計がうまくできず悩んだことはありますか?そんな時、その状況をどう打破しますか?」(高校1年生・女性)

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錦織真也さん(小川錦織一級建築士事務所)
 設計のアイディアが浮かばずに煮詰まることはある。そんな時は色々な人とディスカッションをして、自分の中で凝り固まっている考えをほぐしている。また、現場で問題が起こった時なども、人の意見を聞いて客観的になることで、周囲の考えを吸収して次につなげることをしている。

Q 「女子学生の皆さんへ質問です。受験勉強のポイントを教えてください」(16歳・女性)

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山口実奈さん(工学研究科 知能デバイス材料学専攻 修士1年)
 受験勉強で意識したことは、遠い目標だけでなく、「この日までにこの問題を解けるようになろう」と近い目標を設定して、少しずつできることを増やしたこと。また、英語は絶対にできた方がよいと思う。
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志田友香さん(環境科学研究科 環境創成学専攻 修士1年)
 集中している時間が一番大事なので、時間を測って、集中する時間をしっかりつくった。集中する時間はしっかり濃密に勉強して、リフレッシュする時間はちゃんと遊び、きちんと寝て、美味しいものを食べるメリハリが大事。
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森瑛梨奈さん(工学部 機械知能・航空工学科学部3年)
 受験とは人と人との戦い。負けず嫌いの人に効果的な方法だと思うが、レベルが同じくらいの友達と模試などの点数を競い合って切磋琢磨した。「何点負けた・勝った」が次のモチベーションにつながり、大変な時期を乗り越えられた。
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片桐彩さん(工学研究科 都市・建築学専攻 修士1年)
 一年浪人したが、現役との違いは、理解しなければいけない本質をきちんと理解しているかどうか。受験で暗記は多少必要ではあるが、本質を理解する必要があるところは逃げずに理解することで、余計な暗記はしなくて済む。
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遠藤夏実さん(工学研究科 電気エネルギーシステム専攻 修士1年)
 私も浪人と現役との違いは、勉強をやる時間と遊ぶ時間をしっかり分けたこと。私は忘れっぽいが、できる限り理解すれば覚える必要はないので、理解できるよう努めた。覚える必要があることは1日一回必ず触れるなどして覚えた。

【研究室訪問】物理学者の須田利美さん(東北大学教授)に聞く/短寿命で不安定な原子核の構造研究で宇宙の物質進化の謎に迫る

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【研究室訪問】物理学者の須田利美さん(東北大学教授)に聞く/短寿命で不安定な原子核の構造研究で宇宙の物質進化の謎に迫る
取材・写真・文/大草芳江

2018年10月26日公開

これまで不可能と考えられていた「電子散乱」による
短寿命不安定核の構造研究で、
宇宙での物質進化の謎に迫る。

須田 利美 Toshimi Suda
(東北大学電子光理学研究センター 教授)

埼玉県生まれ。1983年、東北大学理学部物理学科卒、1988年、東北大学物理学研究科原子核理学専攻修了、理学博士。1988年、大阪大学核物理センター 日本学術振興会特別研究員、東北大学教養部物理学科助手、1991年、東京大学原子核研究所 文部省内地研究員、1993年、ドイツ・ダルムシュタット工科大学フンボルト財団研究員、1999年、理化学研究所 RIビーム科学研究室専任研究員、2006年、理化学研究所 仁科加速器研究センター グループディレクター、理化学研究所 RIビーム科学研究室 副主任研究員を経て、2010年より現職。

 今回訪問した研究室は、仙台市太白区三神峯にある東北大学電子光理学研究センター(旧原子核理学研究施設)の不安定核電子散乱グループです。

 天然には安定に存在しない短寿命で不安定な原子核の構造研究は、現代の原子核物理学に課せられた重要課題のひとつであるとともに、宇宙での物質進化(元素合成)の解明に迫る上で重要であるため、世界中の研究者が実験・理論の両面から短寿命不安定核の内部構造の研究に鎬を削っています。

 原子核の内部構造を解き明かすには、高エネルギー電子を原子核に照射し、その散乱具合から内部構造を決定する「電子散乱」という実験方法が最も優れています。しかしながら、不安定核の場合、加速器を利用して人工的に生成する必要があるため生成が困難な上に、短寿命で崩壊してしまうため、電子散乱実験用に必要な十分な数の標的原子核を準備できず、電子散乱による研究は不可能と考えられてきました。

 須田利美教授率いる不安定核電子散乱グループは、極少数の不安定核標的数で電子散乱実験を可能にするSCRIT法(Self-Confining RI Target:自己閉じ込め型RI標的)と呼ぶ画期的な標的生成技術を発明し、2008年にその原理実証研究に成功しました。そして理化学研究所・立教大学と共同で短寿命不安定核研究専用の電子散乱施設を理化学研究所の RI ビームファクトリー内に建設し、世界で初めて電子散乱による短寿命不安定核の内部構造研究に取り組んでいます。

 さらに、これまで培ってきた"電子散乱力"と電子光理学研究センターの電子加速器を活用し、最近、Nature誌や Science誌の表紙を飾る事態となっている「陽子半径問題」の原因解明にも取り組んでいるという須田さんに、研究のこれまでとこれからを聞きました。

―須田さんの研究内容の概要から教えてください。

大学保有加速器としては国内最大の加速器

 はじめに、私が所属している東北大学電子光理学研究センターについてご紹介します。当センターは「加速器」という大型研究装置を有しており、その加速器を使って原子核を始めとするさまざまな研究が展開されています。

―「加速器」とはどんな研究装置ですか?

 加速器とは、原子核や、原子核を構成する陽子や中性子、さらに陽子や中性子を構成するクォークなどを観察し、その構造や反応を研究するための電子顕微鏡のような装置です。原子核のような小さなものを見るには、こちらの写真のように、とても大きな装置が必要になります。

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東北大学電子光理学研究センターが有する 1.3GeV(ギガエレクトロンボルト:「G(ギガ)」は1,000,000,000を意味する単位。「eV(エレクトロンボルト)」は原子核物理学や高エネルギー物理学で用いられるエネルギーの単位)の電子円形加速器。


 当センターの加速器は、大学規模としては国内最大の加速器、かつ大変広いエネルギー範囲の電子線やγ線を提供できるというユニークな特徴を持っています。そのため、文部科学省より全国共同利用・共同研究拠点にも認定されており、東北大学内の研究者だけでなく大学の枠を超え全国の研究者にも開放されています。

―「大学規模としては」ということは、大学以外ではさらに大きな加速器があるのですか?

 大きな加速器としては、例えば、国内では茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構(KEK)に国内最高エネルギーを誇る加速器がありますし、ヨーロッパには、物質に質量を与える「ヒッグス粒子」を発見した欧州原子核研究機構(CERN)の加速器(大型ハドロン衝突型加速器)などがありますね。それらは研究目的が異なり、それぞれの目的のために最適化された加速器です。

 当センターには、先ほどお話したエネルギーの高い電子加速器(円形型)と、エネルギーの低い電子加速器(直線型)の二つがあります。この加速器を中心に我々は研究を展開しています。加えて、我々の加速器を全国の研究者が共同利用するのと同じように、我々も「理研RIビームファクトリーリー」や「SPring-8(大型放射光施設)」、「J-PARC(大強度陽子加速器施設)」など、世界最先端の加速器も並行して利用し研究を進めています。

―それぞれの加速器で目的が異なるということですが、東北大学電子光理学研究センターの加速器ならではの特長は何ですか?

 これから述べる私の研究とも密接に関係しますが、まず「電子」加速器であるという特徴があります。我々の加速器は電子加速器としては加速エネルギーやビーム強度の観点では世界最先端ではありません。でも、大学が保有している加速器のメリットとして、学生と一緒に腰を据えた研究ができますし、また、新しい研究に比較的自由に挑戦でき、失敗したらやり直せるなど、裾野の広い研究推進や人材育成の観点からは他に代え難い特徴があります。このような観点から、私たちは二つの電子加速器の特長を最大限に活かしながら研究を進めています。

 私のグループが主に使用するのは、当センターの加速器のうちエネルギーの低い加速器です。実は、エネルギーの低いことが、後でお話しする陽子半径の精密決定には、逆によかったことに気がついたのですよ。


「電子散乱」で世界中が真似できないオンリーワン研究

―世界最先端の加速器はエネルギーの高い方へどんどん進化していると聞いているので、「エネルギーの低い方が、逆によかった」というのは意外です。どんな点が「逆によかった」のですか?

 そのことについて説明するには、まず私の研究の全体像からお話する必要があります。私自身は2010年に理化学研究所から東北大学に赴任し、研究を二本柱で進めています。

(1)電子散乱による中性子過剰核研究 ( SCRIT )

 ひとつ目のテーマは、電子散乱による短寿命不安定核(特に中性子過剰核)の研究です。今まで不可能と考えられてきた電子散乱による短寿命不安定核の研究を可能にする「SCRIT法」(Self-Confining RI Target:自己閉じ込め型RI標的)という手法を発明しました。後で詳しく説明しますが、この手法は、私が理研にいた頃から共同研究者と共にずっと研究を続けてきたもので、十数年がかりでようやくできるようになったものです。こちらの写真は、理化学研究所・仁科加速器研究センターの RI ビームファクトリー内に建設した世界初の短寿命不安定核研究専用の SCRIT 電子散乱実験施設です.

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理化学研究所RIビームファクトリーリー内に建設した世界初の短寿命不安定核研究専用の SCRIT 電子散乱実験施設

(2)電子散乱による陽子半径精密測定 (ULQ2:Ultra-Low Q2 実験)

 二つ目は私が本センターに赴任してから始めたテーマで、電子散乱による陽子半径の精密測定です。陽子は最も軽い元素である水素の原子核で、また中性子とともに重い原子核の構成子であり、長い間現代物理学の重要な研究対象であり続けています。したがって、大きさという最も基本的な物理量は十分調べ尽くされたはずでした。しかしながら、最近になって、どうも陽子の大きさがおかしいのでは、と指摘されました。後で詳しくお話するように、電子と「μ(ミュー)粒子」で測定した陽子半径が一致しないのです。素粒子物理学の金字塔である「標準理論」では、電子とμ粒子は質量は違うものの同じ粒子と仮定されているので、本来両測定の結果は一致するはず。したがってこの不一致は、もしかすると「標準理論」のほころびが見えているのかもしれないとの指摘もあり、世界中で今大騒ぎになっているのです。

 どちらの研究も、共通するキーワードは「電子散乱」です。電子散乱による安定核の研究はもう十分やり尽くされましたが、安定核では知られていなかった様々な新奇構造が発見されている短寿命不安定核については全く手がつけられていません。私は理研時代から、共同研究者と一緒にずっと研究手法として電子散乱を使った短寿命不安定核の研究を続けてきました。また、この研究を進める中で、陽子の大きさを電子散乱実験により精密に信頼度高く測ることができるのは、世界中で我々しかいないと気づき、電子散乱で陽子の大きさを信頼度高く精密に測る研究を始めたのです。

 どちらの研究も現時点では誰も真似できない競争相手なしのオンリーワンの研究です。国からの科学研究費も、前者の研究については基盤S(須田:2010 ~ 2015)と若手A(塚田:2017 ~ 2019)、後者の研究についても基盤S(須田:2016 ~ 2020)と、比較的予算規模が大きい科学研究費を受けています。これは本研究の重要性が原子核物理学のみならず広い分野で認められていることを意味していると考えています。

 私は、科学のひとつの重要な位置付けが、「今まで見えなかったものを見えるようにする」ことだと考えています。今まで見えなかったものが見えることで新しい発見があると思いますし、またその努力が新しい技術を生むと考えています。私はそれを理研在籍中の頃から後で紹介する共同研究者と一緒に目指してきました。


電子散乱が原子核研究に果たしてきた役割

―二つの研究に共通する「電子散乱」とは、どのような研究手法なのですか?

 加速器で加速された電子ビームを陽子や原子核に照射し、散乱されてきた電子を検出する、という実にシンプルな実験方法です。電子がどう飛び散っていくか(散乱)を観測すると、陽子、原子核の大きさや形、内部の構造を調べることができます。原子核や陽子の構造をきちんと見るためには、実はこの電子散乱という方法が一番よいのです。

 歴史を振り返ると、1950年代、米国の物理学者ロバート・ホフスタッターらが、天然に存在する安定な原子核を標的に電子を衝突させて、陽子や原子核の大きさや形を明らかにし、ノーベル物理学賞を受賞しました(1961年)。1960年代になると、よりエネルギーの高い電子加速器が登場し、原子核の構造だけでなく、原子核を構成する中性子や陽子の内部構造も電子散乱で探れるようになり、陽子や中性子はさらに小さな「クォーク」で構成されていることが発見されました。この研究もノーベル物理学賞を受賞しています。このように電子散乱が原子核研究に果たしてきた役割は非常に大きいのですが、ある意味では、もうほぼ終わった話なのです。

―「もう終わった話」とは?

 電子散乱による安定な原子核の研究はすでに一区切りついた、という意味です。私たちの研究の標的は「中性子過剰核」という天然には存在しない短寿命で不安定な原子核です。天然に存在する普通の原子核は、陽子と中性子がほぼ同数の安定した原子核です。しかし中性子の数が陽子に比べて多い中性子過剰核は、中性子が「ベータ崩壊」を起こして陽子に変わろうとするので、ある時間が経つと他の原子核に崩壊します。そのため寿命は有限です。

 加速器技術・測定技術の進展を背景に、約四半世紀前から、不安定な原子核を標的とした研究が始まり、これまで天然に存在する安定な原子核では知られていなかった原子核の内部構造が次々と明らかになりました。天然に存在する安定な原子核で長年培ってきた原子核構造に関する我々の常識が尽く破られる発見が相次いでいます。


宇宙の物質進化の謎解明の鍵を握る「中性子過剰核」

 中性子過剰核を調べること自体、まず原子核物理学としておもしろいことですが、さらに宇宙物理学の観点からも重要であることがわかってきました。

 宇宙は約138億年前にビッグバンで始まったと考えられていますが、ビックバン直後には水素やヘリウム(と極僅かなリチウム)が生成され、やがて星が生まれ、138億年経った今では、地球には金やウランのような重い元素まであります。太陽のような恒星内部では核融合により水素を原料に鉄までの元素が生成されることまでは明らかになっています。しかし、鉄より重い元素である金や銀、ウランなどの起源については、大量の中性子が存在する環境で生成されるとは考えられていますが、それがどのような現場、天体現象なのかについてははっきりしていません。

 その有力候補として「超新星爆発」が考えられていましたが、先日ノーベル賞を獲得した重力波天文台での重力波の検出により、もうひとつの有力候補であった「中性子星合体」が実際に存在し、重元素生成現場の候補であることがわかりました。鉄より重い元素の起源を調べるには大量の中性子が存在する環境で生成される中性子過剰核の構造や反応の理解が重要なことがわかっています。非常に短時間しか存在できないこれらの原子核は、原子核反応の連鎖である宇宙での元素合成過程では非常に重要な役割を果たすことが知られています。

 アメリカ物理学会が21世紀に入った頃にまとめた「物理学がまだ答えられない11の疑問」にも、暗黒物質や暗黒エネルギー、重力の本質などの問題と並んで、重い元素の起源の謎があります。もともとの僕の興味は重い元素の起源です。それを調べるために、中性子の多い、短寿命で不安定な原子核の内部構造をきちんと知りたくて、そのための電子顕微鏡をつくろう、というのが研究のモチベーションです。


電子散乱で中性子過剰核の研究は不可能と思われていた

―重い元素の起源の謎の解明にもつながる「中性子過剰核」の構造や反応を調べるための手法として、皆が一番よい方法とわかっている「電子散乱」が「もう終わった話」になっていたのはなぜですか?

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短寿命な中性子過剰核との電子散乱

 原子核の構造を調べるのに一番よい方法は電子散乱です。ただ、中性子過剰核は人工的につくる必要があり、つくるのも大変ですし、生成しても短寿命ですぐに崩壊してしまうので、中性子過剰核をたくさんつくって安定核の電子散乱実験で従来使用されていたような分厚い標的をつくることはできません。ですから、中性子過剰核を電子散乱という手法で研究することはこれまで不可能だと考えられており、誰も試みすらしませんでした。

 安定な原子核ならば、たくさん標的を用意することは容易いですが、不安定な原子核を、電子散乱実験に必要な、例えば1mol分程度、つまり10の23乗個もつくれません。仮につくれたとしても短時間で崩壊してしまいます。ですから本当は皆、電子散乱で調べたいのですが、できないので電子散乱に代わる近似的な方法で今までずっとアプローチしてきたわけです。

 けれども私と共同研究者は「原子核の内部構造をきちんと知るためには電子散乱で調べなければいけない。科学の大事な役割のひとつは、今まで見えなかったものを見える技術をつくることだ」という信念で挑んできました。人間の想像力には限りがありますから、今まで見えなかったものを実際に見えるようにすることで新しい視点、物理が生まれるきっかけになるかもしれませんよね。私たちは10年以上技術開発を続けて発明し、ようやく極少数の中性子過剰核標的数でも電子散乱を実現することができる実験手法を確立しました。


なぜ「電子散乱」が一番よい方法か

―そもそも「原子核の内部構造を調べるのに一番よい方法が電子散乱」という理由は何ですか?

 原子核の内部構造を調べる方法はいくつかありますが、大変小さいので、肉眼で内部を直接覗くことはできません。したがって、例えば高速の電子をぶつけるなど、外から刺激を与えて原子核がどんな応答をするかを調べて内部構造の情報に焼き直す方法を採ります。

 電子散乱は、電子と原子核との衝突が、「電磁気力」であることを利用して原子核を調べる方法です。電磁気力は十分精密にその性質が理解されているので、実験データから直接知りたいこと、原子核内部の構造、がわかるわけです。

 ただ、先ほど説明した理由で、不安定な原子核を標的にした場合に標的数の問題から電子散乱は難しかったため、電磁気力は使わず、原子核をつくる力である「強い相互作用」が利用されてきました。陽子や他の安定な原子核と不安定な原子核を衝突させ、その散乱を見る手法です。実験的には比較的容易なのですが、強い相互作用自体がよくわかっていないので、よくわかっていない刺激で原子核の内部構造を探ろうというものです。大凡はわかったとしても、実験結果から原子核の内部構造を出す時、色々な仮定やモデルなどの不確定要素が必要になってしまいます。電子散乱にはその不確定要素はありません。ですから電子散乱が一番よい方法なのです。


不可能を可能にした新技術「SCRIT」開発までの長い道のり

―須田さんたちは、不可能と思われてきた「電子散乱」による「中性子過剰核」の研究を、どのようにして可能にしたのですか?発明した新しい技術について教えてください。

 僕たちは、電子散乱に必要な標的数を劇的に小さくする、「SCRIT」という新技術を発明しました。例えば、今までは1mol、つまり10の23乗個程度必要だった標的が、10の8乗個程度あれば、実験を可能にするという技術です。この発明で、つくること自体が難しく、つくれたとしてもすぐに壊れてしまうような短寿命な中性子過剰不安定核を電子散乱という最適な手法で研究する道が拓けました。

 この研究は2000年初頭から始めたもので、最初のアイデアから約15年以上が経っています。長期間の技術開発の結果、原理実証実験がうまくいきましたので、世界で初めて不安定な原子核を研究するための専用加速器をつくることができました。今まで技術に関する論文は書いてきましたが、2017年、ようやく最初の物理の論文2本を出すことができました。十数年もかかって、やっと物理の論文を出せるようになったのです。

―「見えなかったものを見えるようにする」新しい技術を開発するところから新しい物理まで、信念を持って、長期スパンで基礎研究を続けてこられたのですね。なかなか最近は、長期スパンでの基礎研究が難しいと聞くので、ご苦労も多かったのではないでしょうか。

 これは私の個人的な想いですが、十数年も目に見える成果がなかなか出ない状態で基礎研究を続けるのは、大変難しい状況になっていると感じます。

 私は「ニホニウム」(理化学研究所 仁科加速器科学研究センターが発見した113番目の新元素。2015年、元素周期表にアジアの国としては初めて、日本発の元素が加わった)の研究にも関わっていました。新元素発見には実験装置建設や開発研究に約20年近くを要しました。そして、つくりだした113番原子核はたった3個。しかし、この発見は原子核物理学に大きなインパクトを与えましたし、世界中の子どもたちが使う理科の教科書にも載るようになりました。毎年ヒットを打つよりも、自分の研究人生をかけてひとつの夢(一本ホームラン)を追いかけることもできる環境が重要だと思いますし、このような研究もできる日本であって欲しいと思います。


「陽子の大きさが、なぜ4%も食い違うのか?」が素粒子物理学の大問題に

 そして、電子散乱による中性子過剰核を研究しているうちに気付いて立ち上げた新しい研究テーマが「電子散乱による陽子半径精密測定」で、この研究のキーワードも「電子散乱」です。

―冒頭にお話いただいた、物質の基本的な構成要素である陽子の大きさがおかしいので、世界中が正確に測ろうと注目しているテーマですね。原子核や陽子の内部構造だけでなく、陽子の大きさについても「電子散乱」で測れるのですか?

 陽子の大きさを測る方法はいくつかあります。「電子散乱」は、陽子の大きさを測るために最も古くから使われてきた方法です。半世紀前に電子散乱により陽子は点状の素粒子ではなく空間的に広がっていること、またその大きさはおおよそ 1 fm (f(フェムト) は 10の-15乗)であることが明らかになりました。先程、電子散乱で安定な原子核の大きさや形を測った人がノーベル賞を受賞したとお話しましたが、陽子をターゲットにした実験も同時に行い、陽子に大きさがあることも発見しました。その後も、電子散乱で陽子の大きさや内部構造を詳細に調べる努力が行われています。

 一方で、最近は他の方法でも陽子の大きさが測られるようになってきました。原子核をつくる物質の一番基本的な要素である陽子の大きさが、測定方法によってなんと4%も食い違うことがわかり、「陽子電荷半径問題(Proton Charge Radius. Puzzle)」として、最近のNature 誌や Science 誌などの科学雑誌の表紙を飾る事態になっています。

―陽子の大きさを測る方法には、他にどんな方法があるのですか?

 今までに三つの方法で陽子の大きさは測られてきました。ひとつ目は僕たちがやろうとしている、電子をぶつけてその跳ね返り方を見て陽子の大きさを推定する「電子散乱」です。

 二つ目は「水素原子分光実験」です。水素原子の原子核の周りを回る電子の軌道は、陽子が点状粒子か、それとも広がっているかで、僅かにその軌道エネルギーが異なります。そこで陽子の周りを回っている電子の軌道エネルギーを正確に測ることで、陽子の大きさを決定する研究が1990年代になって行われるようになりました。

 三つ目は「μ(ミュー)水素原子分光実験」です。「μ粒子」は電子と同じ性質を持つと考えられている粒子です。μ粒子の重さは電子よりも約200倍も重いので、水素原子に、電子の代わりにμ粒子を入れてあげると、μ粒子は電子軌道に比べ200分の1の軌道半径で陽子の周りを回ります。したがって、μ粒子の軌道エネルギーには陽子の広がりの影響がより大きく現れますので、二つ目の「水素原子分光実験」よりも精度高く陽子半径を決定できます。

 前者二つは電子を使う方法ですが、三つ目はμ粒子を使った測定です。電子を使った測定結果はお互いに一致しているのに、μ粒子を使った測定が4%も小さな半径を与えることが2010年代に入ってから明らかになりました。

―電子を使った方法とμ粒子を使った方法で、4%も陽子の半径が異なることは、物理学的にどんな重大な意味があるか、もう少し詳しく教えていただけますか?

 陽子の大きさの不定性は原子核物理学上の問題のみにとどまらず、高校の物理で学習する基礎物理定数であるリュードベリー定数の値にも影響を与え、さらに素粒子物理学の標準理論とも関連する可能性があるので、世界中で大騒ぎになっているのです。素粒子物理学の標準理論では、電子とμ粒子は「同じ性質を持っている」と考えられています。ですから、もしこの実験事実が本当だとすると、電子とμ粒子とで陽子の見え方が違うことを意味し、電子とμ粒子で何らかの違いがあることを示唆するわけです。なお、質量の違いによる影響ではないことは確かめられています。

 実験データから陽子半径を求める解析方法の見直しや過去のデータの再検討なども行われていますが、今のところ、「なぜ4%も違うのか?」を説明する理由が見つかっていません。そこで今、その不一致の再確認として、より精度と信頼度の高いデータを出す実験が世界中で計画あるいは行われつつあるのです


陽子の大きさを、史上最低エネルギーの電子散乱で世界一精密に測る

 三つの方法のうち電子散乱について、我々はこれまでのSCRITの研究を通じて"電子散乱力"が付いてきたことを活かせば、電子散乱としては世界一信頼度高く陽子の半径を決めることができることに気がつきました。

―自分たちが陽子の半径を決められることに「気づいた」とは、どういうことですか?

 半世紀前、陽子が有限な大きさを持つことが発見されて以降、その内部構造を探るために世界中の加速器はエネルギーの高い方へ向かいました。陽子の中にあるクォークなど、原子核の中のより細かなものを調べるには、加速器のエネルギーを高くしなければいけないからです。ですから、世界中の原子核研究用の電子加速器もすべてエネルギーの高い方へと進歩していきました。

 ところが、陽子や原子核内部の細かい構造を見るには高エネルギーの方が得意ですが、陽子全体の大きさを正確に測るには、高エネルギーよりも低エネルギーで実験した方が、実は精度が上がるのです。それには皆が気づいているのですが、世界中の最先端の加速器は高エネルギー化してしまったので、低エネルギーでの電子散乱実験ができないのです。私が所属する電子光理学研究センターには低エネルギー電子加速器があるじゃないか、そのことに私はSCRITの研究をしながら気づきました。

―具体的にはどれくらいエネルギーが違うのですか?

 世界最先端の加速器は数十GeV(ギガエレクトロンボルト:「G(ギガ)」は1,000,000,000を意味する単位。「eV(エレクトロンボルト)」は素粒子、原子核、原子、分子などのエネルギーを表す単位で、1eVは1ボルトの電位差で電子が獲得する運動エネルギー)まで電子が加速されるのに対して、僕たちの研究所にある加速器のエネルギー領域は20-60MeV(メガエレクトロンボルト:「M(メガ)」は1,000,000を意味する単位)なので、世界最先端の加速器のエネルギーと比較すると100~1000倍もエネルギーが低いことになります。陽子研究のための電子散乱としては史上最低エネルギーで、この実験は現在世界で我々しかできないのです。約50年も前の古い加速器ですが、皆と同じように高エネルギー化しなくてよかった、というわけですね。


50年昔の加速器でも、アイデアがあれば、世界最先端の加速器と対等に戦える

―インタビューの冒頭で「実は、エネルギーの低いことが今の時代になって逆によかったことに気がついた」とお話いただいた意味が、やっとわかりました。

 原子核研究用の電子加速器としては世界一低いエネルギーの加速器と測定器を設置できる広い実験室があり、さらにそこに我々のような電子散乱を専門にしてきた研究者がいたからこそ提案できた研究です。

 もともと我々の加速器は放射性同位体(RI)をつくるために使われていましたが、これを原子核用にうまく使えば、世界中の最先端の加速器が逆立ちしてもできないような研究ができる、それも物理学上、非常に重要な意味を持つ実験が、ここでできるということですね。この研究は、国内外の色々なところで注目されています。50年も昔の加速器で世界最先端の加速器と対等な競争ができること自体が驚きですよね。アイデアがあれば、世界最先端の加速器とも競争ができることを示せて、その意味でも嬉しいです。

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建設中の陽子電荷半径測定用散乱電子スペクトロメータ

―現在、どこまで研究が進んでいますか?

 運良く、当センターでの陽子半径測定用の大きな科研費を国からいただけた(科研費基盤研究費(S))ので、現在、極低エネルギーの電子散乱の実験装置を開発しているところです。5ヵ年計画のうち現在は3ヵ年目で、2017年度中に設計を終了し、2018年から建設を開始、2019年中には実験を開始する予定です。この実験装置のうち、加速器で加速した電子を陽子に衝突させ、散乱した電子を高精度で測るための「電磁石スペクトロメータ」という装置の設計を現在行っているところです。

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中性子過剰不安定核研究用に建設した東北大スペクトロメータ(WiSES)

 もうひとつのSCRITについては理化学研究所で研究がすでに始まっており、十数年間にわたる開発・研究の成果がようやく出始めました。右の図が我々が中性子過剰不安定核研究用に建設した東北大スペクトロメータ、WiSES(Window-frame Spectrometer for Electron Scattering)、ですが、これも獲得した大型科研費である基盤研究(S)で建設したものです。最初の実験で得られた物理成果を論文として発表しましたが、大変高い注目を集めています。

 このように僕たちは、「電子散乱」という研究手法で、今まで誰もできなかった天然に存在しない不安定な原子核の構造研究と、現在誰も真似のできない陽子の大きさの精度測定をやろうとしているのです。

―研究内容について詳しくご紹介いただき、ありがとうございました。続いて、インタビューの後半では、須田さんの個人的なモチベーションについて伺います。はじめに研究者になった原点から教えてください。


物理学が大好きになったきっかけ

 高校生の頃は「物理と数学の成績がよいから、行くとしたら物理学科かな」程度でしたが、真面目に勉強しなかったので(笑)大学受験に失敗、浪人生の頃に読んだ相対性理論の本から影響を受けて、物理がおもしろいと思うようになりました。さらにちょうどその頃、電子散乱で陽子や中性子の中にクォークが発見されて、それをテーマにしたBBCの科学番組「宇宙を解く鍵-素粒子論と宇宙論」を見て大いに刺激を受けて、物理の道に進むことを決めました。けれども大学入学当時は、研究者になることは全く考えておらず高等学校の物理の先生になろうと思っていました。

 大学1、2年生の頃は全く真面目な大学生ではなく、落語好きで入部してしまった落語研究会(サークル活動)で落語と麻雀と酒に熱中していました...(笑)、物理は好きでしたが、夢中になるほどではなかったんです。ところが大学3年生の時、高木伸先生の量子力学の講義がきっかけで物理が好きになってしまい(笑)、もっと物理を勉強し研究をやってみたくて大学院に進学しました。

 大学院生時代は、研究者になれるかどうかはわらかなかったけど、研究がおもしろくて仕方なかったので全力で研究に取り組んだことを覚えています。おもしろいから一生懸命やるし、やればやるほどさらにおもしろくなるという循環を経験しました。土日もなく長時間研究しても全く苦にならない。実験やデータ解析が楽しくて仕方がありませんでした。最終的に研究職につけたのは、単に巡り合わせ、運、です。運がよかっただけです。その後、今まで色々ありましたが、研究者としてはまだ運の女神には見放されていないのでしょうね。ずっと楽しい研究ができているし、また研究仲間にも恵まれている。最近は研究費も、運良く潤沢にいただけているので(笑)。


目に見える成果が出ない苦しい時期を乗り越えて

―高木先生の講義の影響を受けて感じたおもしろさと、今ご自身が実際に研究をしていて感じるおもしろさは違いますか?

 全然違いますね。高木先生の教科書をベースに講義で教わるのは、すでに出来上がった学問。でも僕にとっては全く知らなかった未知な量子力学という学問が自分で理解できるおもしろさ、楽しさだったと思います。毎週の講義が非常に楽しみでしたね。教科書を自分で勉強しただけでなく、物理好きの友達と自主的にゼミをつくって色々な教科書を勉強したのも楽しい思い出です。

 研究ですが、今まで誰も見ることができなかったこと、見る手段がなかったものを、ぜひ見てみたいというのがモチベーションです。結果として、原子核物理学や宇宙物理学にも影響を及ぼせたらよいとは思います。今やっていることの重要性を共同研究者と共有しているので、この10年間以上という長い期間、また色々ありましたけど、情熱を持ち続けることができたと思います。そうじゃなければ、やっていけないですよ、失敗ばかりでなかなか成果が出ませんからね。

―成果がなかなか出ず失敗ばかりだった時期を乗り越えたからこそ、他の人が不可能だと思う技術を確立できたと思うのですが、当時を振り返ると如何ですか?

 本当に失敗ばかりでした。まだ誰もこんなアイデアを試したことがないので、自分たちのアイデアが実際に正しいかを示す必要があり、理研にいた2005年頃から原理実証実験を始めました。京都にある加速器施設をお借りして理研から実験装置を運び込み、実験しては成果なく理研に戻ることを年に2、3回ずつ繰り返しました。ずっと失敗続きで全く成果が出ず、3~4年間は良い方向に向かっている感触もない状態が続いていました。周りからは、色々な声が聞こえてきました、「あいつら、何の成果も出さずに何やっているんだ」って。

- 成果が長年出ない苦しい時期を、しかも、長期的な研究が難しくなっているとよく聞く今の日本で、乗り越えられたことに驚きました。並大抵のことではないですね。

 理論的にはうまくいくはずと知っていても、実際は失敗ばかりでうまくいく見通しが持てず、ずっと成果が出ないのは、それはそれは辛く苦しいですよ。それでもめげずに、壁を乗り越えられたのは、若杉氏(現在、理化学研究所仁科加速器研究センター室長)という素晴らしい共同研究者がいたからです。彼も僕も「この研究が大事だ」という信念と情熱を持ち続けられたからだと思います。一緒に同じ方向を見て同じ夢を持ったからこそ、続けられたと思います。先ほど言ったように、そんな人に巡り合わせてもらえたのはまさに運ですね。研究がうまくいけば、先程お話したように物理的に大変重要なことがわかるし、それができるのは世界中で我々だけで、今まで見えなかったものが見えるようになる。そこに価値を感じているからこそやれるわけで、単に給料をもらうためだけなら、そんなことには耐えられないですよ。

 新元素「ニホニウム」を発見した理研の森田浩介氏(現在、九州大学理学研究院教授)も、長い間ずっと成果が出なかったんです。でも彼には「一番重い元素をつくってみたい。それがどんな原子核になっているか知りたい」という情熱があったから、そして、それを支えるまわりの研究者・技術者がいたからこそ、ニホニウムと命名された113番目の新元素を発見することができました。繰り返しになってしまいますが、これからもそんな研究ができる日本であって欲しいですね。

 科学を志す若い人が来年どうなるかわからない状況では腰を据えた研究ができないですし、そのような状況を今後も繰り返すと、日本の基礎科学研究は取り返しのつかないことになってしまうのではないかと案じています。明日すぐに成果が出るものや役に立つものは、きっと数年後には役立たなくなります。たとえ明日すぐに成果が出なくとも、誰も持っていない新しい装置や技術を開発することは大切だと思います。今まで見えなかったものが見えれば、きっと新しい発見があるでしょうから。それが必要十分条件ではないかもしれないけど、自分の知的好奇心にしたがって自分の全ての時間・エネルギーをつぎ込んで研究できる環境の大切さを感じています。


好きなことを見つけて一生懸命やりましょう

―最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へメッセージをお願いします。

 好きなことを見つけて、好きなことを一生懸命やりましょう、ですね。好きなことをやっている時は苦しくないですし、全てのエネルギーをそこに注ぎ込めます。そういうものに出会えれば幸せ。だからやっぱり「好きなことを探しましょう、出会いましょう」なんだよね。

 でも...もちろん自分で好きなものを選べて進める人はすごく幸せだけど、全員がそうなれるわけではありません。例えば研究室選びでも、自分の希望するところに行けない人もたくさんいます。そんな場合でもめげずに「このような状況の場合には、まずは与えられた環境で一生懸命やりなさい」って、大学院生には言うんです。最初の希望と違うことを引きずらず心機一転一生懸命やる人と、自分の希望とは違うとずっと引きずる人がいますね。他に選択肢がない場合には、たとえ希望とは違う与えられた研究テーマでも、まずは与えられた場所で一生懸命打ち込んでみる。修士課程の2年間もひとつのことに朝から晩まで打ち込めば、きっとおもしろくなる。おもしろくなればどんどん研究にのめり込み、そこから抜け出せなくなることもあるでしょう、私みたいに。最初の希望とは違う、思った通りならないことなんて、長い人生、何度でもありますよ。

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―須田さん、ありがとうございました。


東北大学 電子光理学研究センター 光量子反応研究部 不安定核電子散乱グループ 学生インタビュー

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青柳 泰平 さん(修士課程2年)

―どんな研究をしていますか?

 陽子半径の測定にむけた実験準備段階として、主にコンピュータでのシミュレーションを行っています。具体的には、陽子の半径を測るために電子散乱という実験を行うのですが、陽子に電子をぶつけ電子がどのように散乱されたのか、その方向やエネルギーを調べるための装置「スペクトロメータ」を設計・開発しています。

―この研究室に入った理由は何ですか?

 大学院修士1年生から、この研究室に来ました。高校生の頃から、陽子の大きさが 10-15 m程度であることは知っていましたが、その値にこのような問題があることに驚きました。その測定方法も原理的には、電子というよく知っているものをぶつけて、その跳ね返り方を測定することで陽子の半径を出すという、非常にシンプルなもので、その点に魅力を感じて、この研究室に入りました。

―研究でおもしろいところや大変なところは何ですか?

 電子をぶつけるシンプルな実験とはいえ、どのように電子が散乱したかを測定するには、多くの装置や解決すべき問題があります。この研究室に来てからは初めてのことばかりで大変でしたが、たとえ実験準備段階のコンピュータシミュレーションでも、自分で新しい結論を見つけられた時にはやりがいを感じます。

―この研究室を一言で表すと?

 一言で表すのは難しいですが(笑)、須田さんや助教の本多さん、塚田さんの面倒見がよく、居心地がよい研究室です。

―最後に、後輩の中高生へメッセージをお願いします。

 東北大学のオープンキャンパスや理学部主催の「ぶらりがく」など、中高生でも参加できる一般向けの科学イベントの機会はたくさんあるので、色々なことを見て勉強して、自分が本当にやりたいことをぜひやってほしいです。

―ありがとうございました。

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