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(5)決別と旅立ち/連載エッセイ「風に立つ」(南部健一さん)

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連載エッセイ 風に立つ

(5)決別と旅立ち

 大学院では実験に明け暮れた。ガスタービン羽根の冷却に関する基礎研究だった。研究成果は米国の学会で最高の評価を得、ムーディ賞を受賞した。先生は喜び「大学に残れ。この研究を続けよう」と言った。私は断った。課題の核心部分は解明されており、二番煎じでは心が躍らないから。「好きなことをさせて下さい」と畳み掛けた。間を置いて先生は「何を研究してもよい。ただし国際的に通用する仕事ができなければ、自発的に辞職せよ」と言った。私は直ちにこれを了承し教授室を出た。自由に研究できると思うと心が晴れ晴れした。まもなく私は自分をとりこにする研究課題を探して学問的放浪の旅に出た。勉強一途の旅だった。先生が旅の成果をほめてくれたのは三十八年後だった。先生も今は亡い。

南部 健一  (東北大学名誉教授、2008年紫綬褒章受章)
ひのき進学教室特別講師
南部 健一 (東北大学名誉教授、2008年紫綬褒章受章)
なんぶ・けんいち
1943年金沢市生まれ。工学博士、東北大学名誉教授。百年余学界の難問と言われたボルツマン方程式の解法を1980年、世界で初めて発見。流体工学研究に関する功績が認められ、2008年紫綬褒章受章。

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25年度「仙台城南高校」誕生/大学と接続した7年間の学びを提供

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25年度「仙台城南高校」誕生/大学と接続した7年間の学びを提供

2012年7月7日公開

校舎の外装も白で統一されエントランスや駐輪場も整備された

 学校法人東北工業大学(岩崎俊一理事長)は平成25年4月、東北工業大学高校(久力誠校長)の教育内容を「大学と接続した新しい学びの創造」を理念に一新し、校名も 「仙台城南(じょうなん)高校」に変更する。

 従来の普通科と電子科を再編し、新たに「特進科」「探究科」「科学技術科」の3学科を設置(下図)。 探究科の「探究学習」、科学技術科の「科学技術研究」といった課題発見型の実習を通常授業に加えて実施し、同大学との教育連携により展開する点が大きな特徴だ。

 これら改革のねらいについて、久力校長は「自分の知識や技術をどう組み合わせ問題を解決するかが求められる。主体的に学ぶ姿勢を身につけることで、通常の授業の学び方も変わるはずだ」と語る。


◆学び方が変わる

「iPad」を活用した授業イメージ

 学び方に合わせてツールも変える。アップル社のタブレット端末「iPad(アイパッド)」を、授業はもちろん、プレゼンテーション、データ管理などにも導入し、生徒一人一台ずつで活用する。

 また国際交流では、英語圏のみならず中国語圏も対象とし、語学講座や海外研修旅行などを実施。欧米に加えて台湾の大学進学も視野に入れた進路指導を行う。

◆スタイルも新たに

雨天対応の多目的運動場。フットサルコート1面分の面積がある。

 校舎の外装も白で統一され、エントランスや駐輪場などを整備。雨天対応多目的運動場「サンコートJOHNAN」も新設した。さらに制服も人気ファッションブランド「KANKO Produced by BEAMS design」に変わる!新制服は、7月16日(祝)のオープンスクールでファッションショー形式のお披露目(おひろめ)が行われる。

 久力校長は「グローバルな国際競争社会と知識基盤社会を生き抜き、持続可能な社会づくりに貢献できる人材を育成する『宮城県随一の私立高校』を目指す」と力強く語っている。


オープンスクール情報

【日時】2012年7月16日(月・祝) 9:30~11:30
【内容】仙台城南高校の説明、新制服・体育着の披露、iPadを使った「探究」のデモなど
【申込】パンフレットのはがきかホームページから、 お申込みください。

<本記事の問合先>
仙台城南高校 〒982-0836 仙台市太白区八木山松波町5-1 TEL:022-305-2111

内田龍男さん(仙台高専校長)に聞く:科学って、そもそもなんだろう?

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内田龍男さん(国立仙台高等専門学校 校長)に聞く:科学って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2012年7月9日公開

あなたは世の中を変えられる一人かもしれない

内田 龍男  Tatsuo Uchida
(仙台高等専門学校 校長)

1970年、東北大学工学部電子工学科卒業。1975年、大学院工学研究科博士課程電子工学専攻修了(工学博士)。同電子工学科助手、助教授、教授、工学研究科研究科長・工学部長などを経て、2010年より仙台高等専門学校校長。科学技術庁長官賞(1986年)、大河内記念技術賞(1986年)、SID Special recognition Prize(1988年)、テレビジョン学会業績賞(1990年)、市村賞(1993年)、SID Fellow(1994年)、日本液晶学会業績賞(2001年)、井上春成賞(2001年)、電子情報通信学会フェロー(2003年)、SID Jan Rejchman Prize(2004年)、文部科学大臣賞・科学技術賞 (2005年)、産学官連携功労者表彰・文部科学大臣賞 (2005年)、映像情報メディア学会フェロー(2007年)、SID Slottow-Owaki Prize(2008年)など受賞。

一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。 
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が
それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


私たちの便利な生活を支える技術の一つ「液晶ディスプレイ」。
その液晶ディスプレイ技術開発の第一人者が、ここ仙台・宮城にいる。
元・東北大学教授で、仙台高等専門学校校長の内田龍男さんだ。

内田さんが考案・開発したカラー液晶ディスプレイは、現在、
液晶テレビやノートパソコン、携帯電話などに広く実用されている。

しかし、今でこそ当前のように使われている液晶ディスプレイも、
技術開発までの道のりは、決して、平坦なものではなかった。

液晶ディスプレイの黎明期、東北大学の大学院生だった内田さんは、
あみだくじで外れ、たった一人で液晶研究をスタートすることに。

何度も壁にぶつかりながら、悩むことの連続。それでも液晶の研究を続け、
液晶ディスプレイの高性能化に内田さんが大きく貢献できた理由とは何か。

内田さんの試行錯誤のプロセスや原点などのインタビューを通じて、
内田さんがリアルに感じる科学とは、そもそも何かを探った。

<目次>
科学に対する興味を、さらに応用につなげる
新しい時代の幕開けに興味津々
単にわかるだけじゃ、おもしろくない
こんな大きかった真空管が、こんな小さなトランジスタに
真っ暗闇の中を一人手探りで歩いていく
光を求めなければ光はない
「犠牲は君一人にしてくれ」
「そんな高純度は到底無理だから、諦めなさい」
最初からつまづきだらけで、一つも前に進まない
「本当かな?」と一つ一つ全部疑うように
科学は確実に正しいことの積み重ね
半導体とともに進歩する液晶
「もう液晶は将来がないから、辞めなさい」
自分が一生懸命やるかどうかで、液晶が変わるはずだ
皆がやりたがらないところで将来大事になることをやろう
飛躍的な進歩が生まれるとき
液晶カラー化を達成したが、権威者に批判される
電気を使わない方法を研究中
人間の直感に含まれる本質
夢のように思うことが大事
科学は一人でつくりあげていくものではない
科学と社会の共通点
科学は一部のみが進化を遂げた
あなたが世の中を変えられる可能性がある
本物になっていく
運を捉える能力と意欲と努力


国立仙台高等専門学校校長の内田龍男さんに聞く



科学に対する興味を、さらに応用につなげる

―内田さんがリアルに感じる科学とは、そもそも何ですか?

 なかなか難しい質問ですね(笑)。

 私自身は、科学というものに、本当に興味から入った気がします。世の中にある現象が、よくよく解き明かしてみると、ある法則やルールに従って起こっている。なぜこういうことが起こるのか?さらにその先を考えると、どんなことが予測されるのか?その予測がその通りに起こるのか?そのようなことを考えることに、とても興味を持ちました。

 そもそもの科学のスタートは、やっぱり人間の興味からできあがったものだと思うのです。それが次は、応用というのに必ずつながります。それを上手く使えば、人間の生活の役に立ったり、人間が苦労しているいろいろな諸問題を解決してくれることがあります。

 私は、その両方がとてもおもしろいと思ったのです。そこで科学の世界に入り、現実には工学部で、科学に対する興味をさらに応用につなげることをやってきたように思います。


新しい時代の幕開けに興味津々

―「科学を勉強する興味を、さらに応用につながる」志向は、今思うと、なぜ生まれたと思いますか?

 それは、もう少し昔に戻ります。私の子供時代は、ちょうどエレクトロニクス(電子工学)が発展し始めた頃でした。真空管というものでラジオができたり、音楽を聞く「蓄音機」が電子式になって良い音が出るようになったり。もう少し進むと、世の中にテレビが出てくるようになります。

 そんな時代だったものですから、エレクトロニクスにものすごく強い興味を持ちました。それを職業にするつもりは全くなかったのですが(笑)、とにかくそういうものに触れること自体が、楽しくてしょうがありませんでした。自分でいろいろな回路をつくったり、ラジオをつくったり。そんなところから入っていったのです。

 一方で当時、電子工学は最先端科学の一つでしたが、それを使ったらいろいろなものができるという興味がとても強くありました。ですから、どちらが先か?というのは難しくて、半分理科好きであったのと、それを応用することと、ほとんど同時並行でした。新しい時代の幕開けのようなものに対して、すごく新鮮な、興味津々の気持ちがあったのです。

―「新しい時代の幕開け」に対する高揚感は、今とは違う雰囲気なのでしょうね。

 今の時代なら学生たちは、例えば宇宙やロボットなどに対して、ある種のワクワク感を感じると思うのですが、その何倍も強いワクワク感だった気がしますね。考えるだけで、もう楽しくなってしまう(笑)

 当時は、生活するのも大変な時代だった気がしますが、そんな中で、新しい未来を何となく垣間見せてくれるような、そんな憧れのようなものを感じていました。


単にわかるだけじゃ、おもしろくない

―憧れやワクワク感を感じながらの勉強はとても身につきそうですね。

 そうですね。私は勉強好きではありませんでしたが(笑)。「科学に興味がある」と「勉強が好き」は、どうも別のような気がします。直接身のまわりに関わることについては、すごくおもしろいと思いました。

 当時は、自動車もずいぶん珍しい時代だったので、自動車がどうやって動くか?にとても興味がありました。関係する本を一生懸命読むのは、おもしろくてしょうがなかなったのです。けれども難しいことは、そんなに好きじゃありませんでした(笑)

 逆に言えば、そういうことがあったので、だんだん勉強もやむなくするようなところもありましてね。勉強していくと、そこから、「あぁ、そういうことだったのか」ということがわかると、ものすごく興味を持ちます。そして新しい考え方や理論を勉強した時は、それが一体どう使えるだろう?と興味津々でした。

 ですから、人より何倍も進み方は遅かったのです。ただ単にわかるだけじゃ、おもしろくないものですから(笑)。わかった後、それが一体どんな風に使えて、役に立って、どうやって発展するのか?まで考えながら勉強すると、えらく進歩は遅いのです。けれども、後から考えると、それが随分、役に立った気がしますね。


こんな大きかった真空管が、こんな小さなトランジスタに

―そんな中、研究対象にはどのように出会ったのですか?内田さんは「液晶」(液体と固体の中間状態)の研究で著名な方ですが、最初から「液晶」を研究しようと思ったのですか?

 いえいえ。当時は、先ほどお話したように、電子工学の中で真空管が花形の時代でした。きっと皆さんは真空管のラジオなんて見たことないと思いますが(笑)、大きな箱のお化けみたいだったんですよ。

 真空管がトランジスタに切り替わった時期が、ちょうど小学生の終わりから中学生くらいの頃でした。すると、こんな大きかった真空管が、こんな小さなトランジスタになっちゃうわけです。

 それで同じ働きをすることに、とてもびっくりしました。しかも、電気もほんのちょっとしか食わないものですから。これはすごいと思いました。

 「これは一体どんな風になっているのだろう?」「これを使うとどんなことが起こるのだろう?」という興味を、ずっと持ち続けていました。

 結果的には「大学も電子工学に行きたい」と思うようになりました。そして「電子工学なら、東北大学に行くべきだ」と、まわりの人達から言われましてね。生まれは静岡県ですが、ぜひ東北大学に行きたいと思い、はるばるとこの仙台の地に来たのです。

 そして電子工学の道に入りました。大学では卒業研究があり、4年生時に研究室を選びます。そして私はトランジスタなどを扱う半導体分野の研究室に入りました。4年生の卒業研究も終えた後、大学院に進学し、また半導体の研究を続けようと思っていました。

 研究室には、同級生が4人いました。教授が私たちに出してくれた研究テーマは、3つまでが半導体でしたが、最後の一つに「液晶」が入っていたのです。

 けれども、まだほとんど誰も手をつけていない新しい分野は、誰もやりたくないわけですね(笑)。それで皆であみだくじを引くことになりました。その結果、私が外れてしまい、私だけ液晶をやることになったのです(笑)


真っ暗闇の中を一人手探りで歩いていく

―液晶は、当時どれくらいよくわかっていないものだったのですか?

 当時、液晶はディスプレイとして発表されたばかりでした。どんなものかはある程度はわかっていて、おもしろいものだとは思ったのですがね。けれども、その時、私は研究を始めて1年くらいでしたが、初めて「研究って、大変な仕事だな」というのを感じ始めていたのです。

 と言うのも、まだ世界で誰もやったことがない新しい問題をテーマとしてやるのが、研究です。けれども、本当に新しい分野に入ると、全く何もないんです。情報はないし教科書はないし、実験装置もない状態です。それに、今まで自分が勉強してきた電子工学も役に立つのかどうかわからないし。

 言うなれば、真っ暗闇の中を、一人手探りで歩いていくような、そんな印象でしたね。

 普通、大学の研究室では、世界的には新しい分野といっても、研究室の先生方や学生が同じ分野でそれぞれ違う研究をやっています。ですから真っ暗闇と言いながらも、周辺のことはある程度、知っている人たちが研究をしていますから、何となく光が漏れてくる感じがしましてね(笑)。その中で、誰もやっていない問題を見つけて研究するのですが、いわば、所々の暗がりを研究すればいいというようなことですから、何とかなるのですね。

 けれども液晶を研究し始めた時は、研究室では誰もそんなことをやっていないので、どうやって参考書や論文を探して良いかもわからないですし、実験材料も何もない。ですから、一応やるというところまで行っても、その先に何をやればいいか?は、世界中が真っ暗という印象なんです。行くべき方向すら検討がつかない。

 ですから「実は大変なことをやり始めてしまったのだな」ということが、だんだん日がたつにつれ、深刻になってきまして(笑)。それが液晶研究のスタートでした。


光を求めなければ光はない

―真っ暗闇の中、どのようにして研究を進めていったのですか?

 周辺には全く光はないのです。けれども自分で遠くの方まで行ってみると、ようやくそこに光らしきものがあるということを、何となく感じるんです。要するに、積極的に何か光を求めていかなければ光はない、という感じですかね。

 そこで最初は、「ともかく知識を得なければ、どうにもならない」と、必死になって論文を探しました。すると、化学分野の本が2、3冊と論文がいくつか出版されていることがわかってきました。化学は電子工学とは分野も全く違うので、読んでも簡単には理解できませんでした。

 そこで、「まずは化学の基礎知識を勉強しなければいけない」と思って、理学部の化学の図書館に毎日のように通って、一生懸命化学分野の本を読みました。そうやって、おぼろげながら、だんだん周辺情報が見え始めてきました。

 それと同時に、東北大学の学風でもあるのでしょうか。理論も大事だけど、自分で実験してみることを大切にする雰囲気がありましてね。そこで実験を始めるために、まず液晶材料を手に入れようと思って調べましたが、どこにも売っていないわけです。

 そのために、薬品会社から基になる化合物を買って、自分で液晶を化学合成してつくらなければなりませんでした。ここで、液晶にもいろいろな種類があるので、まずどんな液晶をつくるかと言うことから始まりました。

 最初の頃の液晶は、100℃くらいまで温度を上げなければ液晶にならないものでした。しかし室温で使えなければ、あまり実用的でないですね。例えばテレビを100℃に上げなければ見られないというのでは、しょうが無いですから。

 調べているうちに、室温で液晶になる材料が少し前に発表されていることがわかりました。そこで、せっかく自分で合成するなら、この最先端の材料をつくろうと思ったのですが、それがすごく難しい材料だったのです。


「犠牲は君一人にしてくれ」

―どんなところが難しかったのですか?

 とにかくその材料をつくるためには圧力を高くして温度を上げないといけない(高温・高圧)ので、つくっているうちに爆発する危険性があったのです。「非常に危険だよ」と随分、皆から脅されました(笑)

 でも、つくらないことには、前に進めません。どうしたら爆発しないで済むか、随分勉強しました。そしてこうすれば「爆発しないはずだ」というある程度の確信を得て、実験を始めようとしたのです。

 けれども工学部では、まわりから「青葉山キャンパスは学生が沢山いて人口密度が高いから、危険な実験はやらないでくれ」と言われましてね(笑)。そこで、人口密度が比較的低い、片平キャンパスの研究所に行って実験することにしました。

 片平の研究所に行って、半分は「だめだ」と言われる覚悟をしながら、「実験のために場所を貸して欲しい」とお願いしました。すると意外にも「いいよ」と言われました。

 東北大学って、すごい大学だなと思いましたね(笑)。研究のためなら、危険が多少あっても良いとと考えているわけです。とても感動すると共に、素晴らしい大学だと改めて感心しました。

 けれども「危ない可能性があるのなら、離れの地下室に行って実験しなさい。犠牲は君一人にしてくれ」と言われましてね(笑)。いやいや、すごいなぁと思いましたけど(笑)。でも、やらせてもらえることは、本当に有難いことだと思いました。


「そんな高純度は到底無理だから、諦めなさい」

―それで室温で使える液晶は無事合成できたのですか?

 それから、しばらく合成に時間はかかりましたが、最終的には合成が何とか上手くいきました。そして、いよいよ液晶の測定を始めたのですが、始めると今度は、思ったような結果が全然出てこないのです。電圧をかけても、何の変化も起こりません。

 「おかしいな、なぜだろう?」と思って、いろいろ調べてみると、中に「不純物」という、液晶以外のものがいっぱい含まれていたのです。それを取り除かなければ、測定にならないことがわかりましてね。不純物をとにかく無くす精製の実験を始めることにしました。

 まず化学の先生に伺ってからにしようと思って、いろいろな先生を訪ねました。「これを綺麗にしたいのですが、どうしたらいいでしょう?」と聞くと、「有機物の精製はものすごく難しいのだが、君はどれくらいの純度が欲しいのですか?」と逆に質問されました。

 当時の電子工学の常識では、99.999%以上、つまり不純物を10万分の1以下にする必要がありましたから、そのように答えました。すると、「そんなのできるわけない」と言われましてね。

 「こういう物質は、もともと綺麗にできるものではないし、そもそも最初の原料ですら高純度といってもせいぜい98%くらいの純度しかないんだ」という話です。「到底無理だから諦めなさい」と言われました。


最初からつまづきだらけで、一つも前に進まない

―そこで諦めなかったのはなぜですか?

 普通なら諦めるのかもしれませんが、せっかくここまで苦労したのに(笑)、今さら諦められない気持ちがありましてね。専門家に聞いても駄目なら、これは自分でやってみるしかない、と思いました。

 そこで、たくさんの本を読んで、いろいろな実験をした結果、こういうやり方をすれば純度が上がる、ということがわかってきました。

 次の段階として、どのくらい不純物が残っているかを調べる必要がありました。しかし、電圧をかけて流れる電流の量を測るのですが、今度は、ほとんど電流が流れない上に、不安定で測定がとても難しいことがわかりました。

 つまり、純度を上げたら上げたで、今度は自分の電子工学分野でも、高純度の液体を測定する方法が正確にわからない。

 このように、最初の段階からつまづきだらけで、一つも前に進まないわけです。そして、ようやく材料ができあがって、基礎的な測定もできるようになったところで、大学院の修士課程2年間のうち1年半くらい経っていましてね。

 この段階で、気がつくと電子工学としてはほとんど何も成果が得られていないどころか、何を研究するべきかすら、さっぱりわからなかったのです。何がわからなくて・何がわかっているかがわからないと、研究にはならないのですね。

 先ほどもお話ししたように、普通は、まわりに同じ研究をしている人たちがいて、誰かに聞けばおよその情報が得られるために、じゃあこの問題を研究すれば良いと、ある程度予測がつきます。

 けれども、それができなかったのですね。いろいろな本や論文を読んでも、うまくいったことしか書いていないですから。そうやって、悩むことの連続でした。


「本当かな?」と一つ一つ全部疑うように

 そんな中で、基礎的な測定をやり続けているうちに、ある時、変なことが起こることに気がついたのです。

 昨日まで測っていた特性が、がらっと変わっていました。「なぜ突然変わったのだろう?」といろいろ追求していくと、どうも分子の並び方が急に変わっていたことがわかりました。

 「じゃあ、どうしてこんな並び方をするのだろう?」と、まず論文で調べてみたところ、かなり古い時期に有名な研究者が関連した論文を書いていることがわかりました。ところが、実験してみても、その通りにならないのです。

 「あれ、論文って、本当のことが書いてあるんじゃないのかな?」と、だんだん怪しくなってきましてね(笑)。それからは教科書や論文に書いてあることも何もかも疑うようになりました。

 自分でやってみて確認してみないと信用できないような、そんな体質がこびりついてしまいました(笑)。まず人の言うことは信用できないとか、本に書いてあることは信用できないとか、「本当かな?」と一つ一つ全部疑うようになるんですよ。

 そして、納得できないものはとことん実験を繰り返して、確認できなければその理論を信用できなくなりました。「研究者の生活はこういうことが普通なのかなぁ」と、我ながらいやな性格になったと思いました(笑)。

 しかし、ちゃんと一つずつ裏をとって確認していくと、「ここまでは信じて良いけれど、ここから先は少し怪しい」とか、「ここから先は嘘じゃないか」と、ある程度わかるようになります。これは科学の世界では、とても大事なことです。


科学は確実に正しいことの積み重ね

―それが科学の世界で大事な理由を、どのように考えていますか?

 科学は、ある理論を基にして、その上にまた新しい理論を積み上げていくものです。その積み重ねが科学の進歩です。しかしながら、最初の土台が本当に正しいものでないならば、例えば、正しい確率80%・間違う確率が20%なら、どうなるでしょう。

 試験で言うと80点で上出来ですが(笑)、科学の世界では、確率80%の上に確率80%の理論を積み上げると、80×80=64%の確率しかなくなりますね。さらにその上に80%の確率の理論を積み上げると、もう50%近くになってしまって、当たるも八卦当たらぬも八卦の占いと同じになってしまうわけです。

 ですから、正しいという確率が80%しかないことは、科学としては許されないことなのです。誰がやっても、何度やっても同じ結果が出なければ、科学とは言わないですからね。そうでなければ、いろいろな理論を積み上げて複雑なものを組み上げていくことができないのです。

 そういうことを体験から学びました。しかし、少しでも間違っている可能性があることは徹底的に実験して考え尽くすことをしたのですが、このためになかなか前に進むことができませんでした。

 まわりの人達の研究はどんどん進んでいるのに、私の研究は遅々として進まないことに焦りを感じました。けれども、電子工学だけでなく化学も含めて非常に幅広く勉強したために、後で振り返ると、とても良かったと思います。


半導体とともに進歩する液晶

―それでは、「役に立つ」応用の方は?

 ちょうど、世の中の進歩と液晶がうまく合ったのです。液晶をいろいろなディスプレイに使えるようになると、液晶がとても役に立ちました。最初の頃は、白黒で文字や数字を表示するものが開発され、まず電卓に使われるようになりました。

 液晶を使う前の電卓は、とても大きくて電気を食うものでした。それが半導体の進歩に伴い、中身はどんどん小さくなりましたが、計算結果を表示する良い方法がなかったのです。いろいろな研究の結果、どうも液晶が一番良いとなり、液晶が使われたのです。

 その後、電卓がどんどん進化し、複雑な計算もできるようになりました。その考えをさらに発展させて、「電子タイプライター」に液晶が使われるようになりました。

 昔のタイプライターは1文字でも打ち間違えると、そのページを最初から手で入力し直さなければなりませんでした。一方、電子タイプライターなら、1行分ずつ入力してメモリーに入れ、液晶で文字を確認した上で正しければ打ち出すようにしたので、間違えて1ページ打ち直しする無駄がなくなったのです。

 そして、ひらがなを打てば漢字に変換し印刷もしてくれる「ワープロ」が登場し、その表示装置にも液晶が使われました。さらに、それが進化して、「コンピュータに使おう」ということになり、ノートパソコンの考え方が出てきたのです。


「もう液晶は将来がないから、辞めなさい」

―今でこそノートパソコンのディスプレイに液晶は当然のように使われていますが、当時はどのような状況だったのですか?

 それまでのコンピュータには「CRT」という昔のテレビのような大きなディスプレイが使われていました。そこで液晶を使って何とかノート型のパソコンができないかと研究され始めたのです。

 ところが、そこまで行くと、こんなにたくさん字を出した時、液晶がぼやっとしか映らなくなりましてね。「液晶の限界だ」「液晶は高級なディスプレイには使えない」とか、いろいろなことを言われるようになって、だんだんみんなの興味も液晶から遠のいていきました。学会にもあまり人が来なくなりました。

 実は、そんな時に、私の研究室の教授が亡くなってしまいましてね。教授が亡くなると、大学では普通、その専門分野は閉鎖されることになります。研究室の人たちは皆それぞれ外に出て、新しい就職口に行ったり転職したり、ということが起こるのです。

 けれども人生にはやっぱり、転機を迎える時期があるのですね。私にとっては、それがターニングポイントだったと思います。

 その時期に、まわりから「もう液晶はどうせ使えないし将来もないから、辞めなさい」と言われましてね。他の分野についていろいろ勉強してみたり、どうしようと、ずいぶん悩んでいたのです。

 そして、もう液晶を辞めて、大学を出てどこかに行かないといけないかな、と思ったのですね。実は私自身、以前から大学の外に出て、会社で仕事をしたかったのです。いろいろなものを、つくりたかったためです。


自分が一生懸命やるかどうかで、液晶が変わるはずだ

 大学院の修士課程を終えた頃から、大学の外に出たかったのですが、なかなか先生が出してくれず、「お前はまだ勉強が足りないから、もう少し研究室にいてちゃんと勉強しなさい」と言われて、大学院の博士課程に進むことにしました。しかし、それを終えても「まだ勉強が足りないから、大学に残って助手になって勉強しなさい」と言われていましてね(笑)

 それから5年ほど後に教授が亡くなったわけですが、丁度良い機会だから外に出ようとも考えました。しかし、私の下に、かなりたくさんの大学院や学部の学生がついていたものですから、「この人達が卒業する前に、自分が出てしまったら、学生たちが困るだろうな」と思って、しばらく大学に留まることにしました。

 一方、まわりからは「液晶をもう辞めた方がいい」と言われているし、困ったなと思いながら、何年か悶々と過ごしました。けれども、よくよく考えてみると、自分は液晶の研究者としてある意味では重要な立場にいるのではないかと、思い直しましてね。

 世の中が「液晶が良い・悪い」と言うことを、第三者の視点から見ていたのでは駄目ではないか。自分は研究者の端くれではあるが、液晶の一番の関係者なのだから、自分が液晶を一生懸命もっと良いものにしようとするかどうかで、液晶が変わるはずなんだ。そう考え直しましてね。

 たまたま他のものもいろいろ勉強してみたのですが、そんなに良いものはないですね(笑)。やっぱり他の分野を外から見ると良く見えても、よくよく勉強してみると、やっぱり問題がいっぱいありしまして。「隣の柿は赤く見える」とは、よく言ったものです。

 そういうわけで、もう一回、液晶に踏みとどまって、液晶を徹底的にやってみようと、思い直したのです。


皆がやりたがらないところで将来大事になることをやろう

―それでどのように考えたのですか?

 次の時代は、液晶をコンピュータ用の高度なディスプレイとして使えるかどうかが大事だと思い、一生懸命研究を始めました。自分でもいろいろな提案をしましたし、他のグループからもだんだんいろいろな研究が出始めました。

 そして、「いずれ液晶がコンピュータ用ディスプレイに使えるかもしれない」というところまで来たのです。ところが、そうこうしているうちに、いろいろな会社も、私たちより10倍も100倍も多くの人やお金をかけて研究するようになりました。

 これでは大学がまともに勝負しても、とても勝ち目はない、と思いましてね。その中で、大学でこのような研究をやる意味を改めて考えました。そこで、他の人達、特に会社の研究者は大変だからやらないけれど、将来は絶対に大事になることをやろう、と決めたのです。

 難しくて時間がかかるために皆がやりたがらない課題ならば、多少遠回りでも大学で研究する意味がある。しかも、それがとても大事なことならば、大学でこそやらなければいけないのではないか、と考えたのです。

 その結果、当時は白黒しか表示できなかった液晶を、いずれカラーにしなければ絶対に駄目だろうと考えて、これを徹底的に研究しよう、と決めました。

 ありとあらゆる可能性を全部試した結果、いろいろな方法でカラーにできることがわかりましたが、実用的には、そのほとんどがとても使い物にならないものばかりでした。しかし最後に、液晶の中に色のついた薄い膜(カラーフィルター)を小さくつくりこんでいく方法が良いことがわかってきたのです。


飛躍的な進歩が生まれるとき

 ただ、これも実はアイディアは良かったのですが、なかなか実際につくることが難しい技術でした。理論的には、カラーフィルターをうんと薄くつくらなければいけないのですが、薄くすると色が綺麗につかなくなったのです。

 これも「本当にできるのかな?」と思っていたのですが、ある時、研究を始めたばかりの4年生の学生が、それを解決してしまいました。「こんなの簡単ですよ」とか言われちゃってね(笑)。やっぱり若い人の新しい発想って、すごいなぁと思いました。

 研究のおもしろさは、まさにそういうところにあると思います。理論をうんと積み重ね、今までの経験と理論でがっちり固めていくのが常套手段ですが、それでも壁にぶち当たり、どうしようもなくなる時があるんです。

 そんな時、全く新しい考え方で、ぽんと答えを出すことが時々あるのですが、それをやってのけるのが、若いフレッシュな人たちなんですよね。

 そういう意味では、同じ分野やグループの人達たちだけでは飛躍的な進歩ができないところがありましてね。やっぱり、いろいろな人たちが集まっていろいろなこと考えるのはとても大事です。


カラーの液晶ができたが、権威者に批判される

 このようにして基本的なことができあがり、これで液晶もカラー表示ができることがわかりました。そこで基礎的な実験結果を日本で発表し、その後にヨーロッパの国際会議で発表しました。

 中には「これは素晴らしい」と絶賛してくれる人もいたのですが、一方で、何人かの学会の有名な権威者からは、「こんなものは非常に悪いものだ」と批判されたのです。

―批判された理由は?

 我々の方法は、赤、青、緑の色分けしたカラーフィルターを液晶パネルの中につくり込むという非常に簡単な考え方です。細かく色分けしたパターンと、液晶で表示した白黒の細かいパターンとの組み合わせで、カラー表示ができるようになります。

 ここで、緑のカラーフィルターは赤と青の光が吸収されて、残った緑の光だけ通します。ですから緑のところは、およそ3分の2の光を吸収して暗くなっているわけですね。同じように赤や青のフィルターもそれぞれ約3分の2の光を吸収するので、結局どの色も暗くなってしまうのです。仕方ないので、後ろにランプを入れて明るく照らしてやる必要がありました。

 ところが、液晶の特長は電気をほとんど食わないことなのです。例えば電卓や腕時計の液晶も、小さな電池一つあれば、電気はほとんど食いません。そういう良いことがあるのに、後ろにランプをつけたら、ものすごく電気を食うわけです。「これはとんでもない。せっかくの液晶の良いところを全部ダメにしてしまう」と批判されたわけですね。

 もう一つの理由は、テレビではすごく綺麗な画像が出せますが、印刷した絵は、テレビほど綺麗ではありません。なぜかというと光を発しないからです。CRTテレビのような「発光色」とカラー印刷の「非発光色」は全く違うのだと教えられ、「だから、これは駄目だ」と言われましてね。

 確かに理論的に考えると、発光するか・しないかの違いがあるけれど、色が綺麗かどうかは人間が目でスペクトルを見て感じるものだから、発光するかしないかにかかわらず綺麗に見えるやり方はいくらでもやりようがある、絶対に解決できると思ったのです。

 ただ、後ろにランプを置くために電気をたくさん使う方の問題は簡単には解決できそうもないと思いました。しかし、これ以外の方法は全部試したつもりですから、液晶でやる限り、この方法しかないという自信はありました。

 最終的には多くの専門家もそれがわかってくださったようで、結局、私たちの方法が採用されて、今ではパソコンやテレビ、携帯電話などに広く使わています。しかも、皆さんご存知のように、液晶でとても綺麗なカラーが出せるようになっています。


電気を使わない方法を研究中

 このようにカラー液晶は完成して広く使われていますけれども、最初の頃に言われた「電気を使い過ぎている」ことが、私の頭にはずっと残っています。それ以来30年近くなりますが、今でもこれを解決するための研究を続けています。

 実は、このノートパソコンにも後ろにランプが付いていて、最近はバッテリーの性能が上がったため、数時間使えるようになりましたが、かなり電気を使っているのです。

 もしこの問題を解決できれば、実は、ほとんど電気を食わなくなります。うまくいけば紙のように薄くなって、一度充電しただけで何百時間でも使えるようになるはずです。そういうものを、いずれはつくりたいと思って、研究テーマの一つとして続けているのです。

―今はどの程度まで実現できたのですか?

 少しずつ進んでいて、二つほど方法を見つけました。

 一つは、問題のカラーフィルターを全部取り除き、それでも綺麗な色を出せるような方法を考え出しました。まだ後ろに特殊なランプは必要ですが、とても綺麗なカラー画像が見える上に、電気を4分の1くらいに減らすことができます。

 もう一つは、ほとんど電気を使わない液晶ディスプレイです。現在、印刷した紙と同じくらいに見えるものはできているのですが、まだいくつか問題が残っています。いずれの日にか、本格的に使えるものにしたいと思っています。


人間の直感に含まれる本質

―そのように研究を進める内田さんの原動力は何だと思いますか?

 みんなが本当に必要で、これがあったら良いなということが、工学では常に重要な研究テーマです。例えば、真空管が小さなトランジスタになって、大きかった装置が小さくなって、電気も使わなくなって。

 今はその代表的なものが、携帯電話です。携帯電話は、まさに半導体の固まりと液晶でできています。最初は電卓から始まり、技術が進歩してノートパソコンになり、さらに小さくなってスマートフォンになり、私たちが欲しい情報はいつでも手に入れ、誰にでも送れるようになりました。

 私にとっては最初のスタート時点で、「トランジスタみたいなものをやりたい」と思った興味と、偶然かもしれませんが、液晶をあみだくじの外れで引いたことから始まりました。それがいつの間にか、現在必要とされている最先端技術につながっています。

 偶然の部分もありますが、必然の部分もあったように思われます。何とか世の中に役立つ仕事をしたいと思って力を尽くした結果ではないかと思います。途中何度も挫折しましたが、本当に嫌だったら辞めていたでしょうね。

 最初の興味と、すごく大変だけど何とかやり遂げたいという気持ちが組み合わされて、いつの間にか人間が情報を手に入れたい・人に送りたいという、人間にとって一番肝心な根幹を担うことに携われたことになったように思います。そういう意味では、最初の直感は、結構大切だと思います。


夢のように思うことが大事

 若い人達と話していますと、いろいろなことを考えていて、科学的には「それは夢物語で実現不可能じゃないか」と思うようなことがたくさんあります。けれども「なぜそんなことを考えたのですか?」ととことん議論していると、その中に非常に本質的で大事なことが含まれています。

 それをちゃんと引き出して一つずつ突き詰めていくと、意外に重要なポイントを突いていて、少し見方を変えるとちゃんと実現できることがよくあります。やっぱり人間の直感は凄いと思いますね。

 ですから、皆さんが「こんなことができたらいいな」と夢のように思うことが、とても大事なことなのです。そのようなもののほとんどは実現できると、私は信じています。

 よく言われるのは、今から約100年前に「将来どんなことができるか?」ということが論じられて、当時は夢だと思うような、例えば「写真電話」「超高速鉄道」等が挙げられましたが、そのほとんどが既に実現されているのです。これはすごいことだと思いますね。

 最初のご質問が「科学」という壮大なテーマでしたが、私にとってはかなり身近な話で、興味からやり続けてきたような気がします。「こんなことがあったらおもしろいな」「こんなことは本当にできるのかな」。

 そんな中でも、人の役に立って喜んでもらえることをやりたいな、というのがありました。その結果が、「液晶」という形になったのだと思います。


科学は一人でつくりあげていくものではない

 自分一人でやっていくやり方もあるでしょうが、壁にぶつかることもしょっちゅうあります。そんな時、人の考え方を聞いたり一緒に何かをやると、自分の分野から一歩違う視点で考えたり、新しい方向に進められることが多いものです。

 そのためには、自分の考えていることを正確に相手に伝えなければいけません。それを私はとても大事なことだと思っています。人は、考えていることを正しく相手に伝えることは意外と難しいものです。

 私も、最初のうちは「こんなに一生懸命説明しているのに、なぜわかってくれないんだろう?」とよく感じたものでした。けれども、相手は専門家ではないのだから、自分がちゃんと説明しなければ、わかってもらえるはずがない。そう考えると、わかってくれないということは、相手の問題ではなく、自分の説明の仕方が悪いのです。

 また、人が納得してくれない場合、説明が悪いだけではなくて、逆に自分の考え方や理論に欠陥があることも結構あります。人にちゃんとわかって頂こうとすると、それだけでも、理論の偏りや不十分な点、間違いなどが修正されたり、しっかりした理論体系ができ上がっていきます。

 人に説明して、人にわかっていただくことが、とても大事なことだと今も強く感じています。分野によっては、それぞれの人がそれぞれ独自の考えや理論を展開して多様性を重視する分野もありますが、科学の分野はそうではありません。

 多くの人達が理解したり修正しながら、さらに、その上に新しい理論をつくって、積み上げてきた歴史があります。

 人に理解してもらえなければ、次の新しい理論の展開に発展していかないのが科学です。ですから人にちゃんと説明して、理解され、その考えや理論が共有されることが科学では基本になります。


科学と社会の共通点

 一人ひとりが勝手に生きるのではなく、皆がコミュニティとして、ある種の共通の考え方の基盤の上で生活しながら、一方では個々の生き方が尊重されている。そして、みんなが幸せになると思える方向を追求していく。それが社会だとすれば、科学も全く同じです。

 さらに言えば、社会が幸せな方向とは、大きな視点から見ると、今の時代だけではなくて、将来も正しいか?という問題、すなわち時間軸も考えなければいけないですね。

 長い将来を含めて、本当に行くべき正しい方向を見つけ出すことは、まさに科学と同じかなぁと思うのです。科学は、今も将来もに正しいものは正しいし、正しくないものは正しくないです。

 人間社会は、そこにいろいろな周辺の状況も入りますから、「正しい」というものが、少しずつ時代とともに変わっていくものかもしれません。その意味で、人間社会の方が複雑ですが、ある条件に限って見れば科学も同じだと思います。


科学は一部のみが進化を遂げた

―社会と科学の関係については、どのようにお考えですか?

 科学は特定の分野だけ進化してきましたが、社会はさらに幅広いものです。科学が社会や人々の生活とつながっている部分は、本当に限られた分野だけです。これから科学はまだまだ進化しなければ、本当に人に役立つところまで行かないでしょう。

 社会の人の生活の方が、うんと複雑で幅広いし多様性があります。その中で科学は、限られた条件のところだけを取り出し、理論をつくり出しています。その頂点は非常に高いところまで行っているかもしれませんが、まだ裾は限られたところだけだと思います。

 例えば、物理学や科学の一部は非常に進化しています。一方、生物学は、まだわからないことだらけです。化学や物理学、その他の情報学などを全部組み合わさったものが生物ですから。生物学はこれからまだまだ進化していく学問分野でしょうね。

 そして人間社会はもっともっと複雑です。このため科学と社会がくっついているのはほんの一部で、まだ一体となっていない部分の方が遙かに大きいですよね。

 そういう意味で言いますと、まだまだやることがいっぱいあります。たとえば、科学の問題として、かつては環境問題もあったし、最近は原子力問題もあったり、いろいろです。これは科学の本質の問題ではなくて、科学がまだ未熟だから生じた問題だと私は思っています。

 これらの問題を、きちんとみんなで認識して考えていけば、必ず解決されるものだと思っています。いずれにしても、まだやるべきことは山ほどあるでしょう。


あなたには世の中を変えられる可能性がある

―最後に、中高生も含めた読者にメッセージをお願いします。

 一見完成されているように見える中にも、よく調べてみると、実はほとんど未熟なものが多いものです。そこにこそ、若い人達のフレッシュな考え方によって初めて解決できるようなことがたくさんあります。

 「こんなに進化した分野に自分はもう入る余地はないんじゃないか」と、私なんか、ある時期よく思ったことがあるのですが、実はそんなことは全く無いのです。それこそ、若い人達の力がなくては前に進められないことがたくさんあります。それをぜひ強く訴えたいですね。

 それを解決するのはあなたで、他の誰でもないのです。それを変えることができる力が、あなたには大きな可能性としてあるのですと。

 私たちは、新米の時に、「自分はたくさんの人達のほんの小さなひとかけらのように思える。そんな自分に一体何ができるのだろう?」と思いがちですね。

 世の中が進化して、安定な世の中ができればできるほど、一人の個人としてできることがだんだん少なくなったり、やりにくい時代になってくることは確かです。

 けれども、今までの歴史を見れば、本当に一人が世の中を変えるようなことはいっぱいあるのです。その一人が、ひょっとしたらあなたかもしれない。あるいは「自分がやってのけるんだ」という意識を持てば、世の中を変えられる可能性があるのです。

 それくらい、一人ひとりが大事なのです、ということをぜひ伝えたいですね。


本物になっていく

 自分ではとてもできないことだと思っても、とにかく頑張って一生懸命チャレンジしていけば、だんだん道が開けてきます。自分が世の中を変えられる一人かもしれない、ということを考えることによって少しずつそのようになっていきます。

 ただし、必ず途中で何度も壁にぶつかります。その壁を一つずつ突破していくことで少しずつ自信が持てるようになっていきます。しかし、一方で、「我ながら、良くぞやれた」と思うような時期に、必ずその反対のことが起こりましてね。まわりからガンガン叩かれるんですよ(笑)

 私の場合も、先述のように、「素晴らしいカラーの液晶ができた」と自分では思ったのですが、そんな時、「こんなことは、とても悪い方法だ」と偉い人達から叩かれました。

 実は、これに関して、大学の時にある先生から教えられたことがあるのです。「人間というのはだいたい良いことや素晴らしいことをやると、必ずまわりから叩かれるのだよ。逆に言えば、まわりから叩かれたら、自分も少しマシな仕事をやったと思え」とね(笑)

 その教えがなければ、私も厳しく非難された時、諦めてしまったかもしれないですね。でもその教えがあったから、「これが自分にとって、あのことじゃないか」と考えました。そして少しまともな仕事をやり始めたかもしれない、と思ったのです。


運を捉える能力と意欲と努力

 それから、運が良かったこともあるんです。たまたま壁にぶつかって困った時も、他に逃げる道がなかったんですよ(笑)。逃げたくても、逃げられない。

 例えば、「大学から早く離れてしまいたい」と思った時、自分の下に学生が何人もいて「この学生たちをきちんと卒業・就職させなきゃ、自分の責務を果たせないから、それまでは」と頑張っているうちに、新しい考え方をしたり、いろいろな状況が少しずつ変わってきたり、ということがありましたから。

 ある種の冷却期間を置かせてくれたのは、ある意味では運が良かったのですね。自分で努力しても、どうしようもない時はありますから。

 大変な状況に陥って、もう先が全くないという時に、「もうしばらく冷静にじっとしてみよう」なんて、なかなか人間できないですよね。もがけばもがくほど、どんどん悪い方向にいってしまいますから。

―そもそも運とは何だと思いますか?

 そもそも運とは何か?も難しいですけどね。運は特別な人だけに巡るわけではなく、人間にはあまねく幸運が巡っているということが良く言われます。しかし、それに気づかなかったり、積極的に取り入れようとしない人には、運命の女神が微笑んでくれないだけなのです。

 幸運をきちんと捉えらるためには、能力と意欲と努力が必要だとも言われています。それがあった人は運を捉えられ、結果的には「幸運だった」と言われる。ただ私の場合は、能力はなかったかも知れませんが、努力は随分したつもりです。

―内田さん、本日はありがとうございました

タンパク質の結晶成長メカニズム解明めざし宇宙実験スタート/東北大・塚本教授ら

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タンパク質の結晶成長メカニズム解明めざし宇宙実験スタート/東北大・塚本教授ら

2012年7月20日公開

【図1】国際宇宙ステーション(提供:JAXA/NASA)

 宇宙でタンパク質の結晶が成長していくメカニズムを明らかにしようと、国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」を利用した宇宙実験「NanoStep(ナノステップ)」が今夏からスタートする。

 東北大学の塚本勝男教授が代表研究者を務めるプロジェクトで、実験装置はあす21日にH2Bロケット3号機で打ち上げられ、半年間にわたって「きぼう」での宇宙実験が行われる。

 宇宙で結晶をつくると高品質になる例は多数報告されているが、そのメカニズムは解明されていない。結晶が成長していくプロセスを原子・分子レベルでリアルタイムに直接観察できる"その場"観察法の第一人者・塚本教授が、この謎に挑む。


◆宇宙では地上の常識が通じない

【図2】あるタンパク質の分子、一つの球が一つの原子をあらわす(引用:日本蛋白質構造データバンク (PDBj))

 結晶と言えば、食塩に代表される無機塩の結晶を思い浮かべるが、実はタンパク質も結晶になる。ただしタンパク質の分子は、無機塩の分子に比べて巨大なため、なかなか結晶表面に取り込まれにくく、結晶化が難しいことが知られている。

 さらに宇宙の場合、無重力では対流がない分、分子はゆっくりと取り込まれ、さらに成長速度は遅くなると予想された。ところが、塚本教授が宇宙でタンパク質結晶の成長速度を世界で初めて測定した結果、むしろ成長速度は速まるケースもあるという新しい現象を発見した。

 宇宙では地上の常識が全く通じない。だからこそ、宇宙でつくった結晶を地上で回収してから調べる従来の間接的な方法ではなく、宇宙で結晶が成長していくプロセスを"その場"で直接観察する必要がある。そう塚本教授は指摘する。


◆世界に誇る"その場"観察装置

【図3】結晶成長"その場"観察装置の内部

 そのためのプロジェクトが「NanoStep」だ。そもそも結晶は原子・分子レベル(nanoサイズ:ナノメートルは1メートルの10億分の1)の階段(step)が、積み重なることで成長する。そのプロセスを直接見ようと塚本教授が開発したのが、"その場"観察装置だ。

 原子・分子レベルのわずかな結晶成長を直接"その場"で観察できる実験装置は、そのユニークさが欧米で評判となり、ISS搭載用装置の基本的なアイディアにつながっている。今回の実験では、新たな装置(図3)を宇宙に持込み、半年間にわたって結晶が成長するプロセスを詳細に観察する。

 新薬への応用も期待されるタンパク質。その研究や開発には高品質なタンパク質の結晶が不可欠だが、結晶化は極めて難しい。塚本教授は「宇宙で結晶が成長するメカニズムを明らかにすることで、地上でも高品質な結晶をつくる指針にしたい」と話している。

【関連記事】詳しい実験内容は塚本勝男教授ロングインタビュー(第3回)をご覧ください。


◆宇宙実験には大勢の専門家の力が必要

【図4】9日に行われた「NanoStep」運用キックオフ会議=JAXA筑波宇宙センター(茨城県つくば市)

 宇宙実験には大勢の専門家の力が必要だ。JAXA筑波宇宙センター(茨城県つくば市)で9日に行われた運用キックオフ会議には、実験運用の関係者ら約60名が参加。本実験の概要や運用方針などが確認された。

 本実験は、"その場"観察装置を宇宙飛行士が取り付けた後、運転や制御のほとんどを地上からリモートで行う。実験運用の担当者らは24時間体制で、溶液の濃度や温度の条件を変えながら、結晶表面の微細な変化やわずかな成長速度を詳細に測定する。

 本プロジェクトを遂行するにあたって、苦労した点や期待する点とは何か。各関係者にインタビューした。


◇成功して欲しいの一言
/宇宙航空研究開発機構(JAXA)の吉崎泉さん

 共同研究者としては、宇宙では結晶の成長速度や品質・欠陥等がどうなるのか、明らかにできることを楽しみにしている。一方で、JAXAの実験担当コーディネーターとしては、成功して欲しいの一言だ。

 これまでの宇宙実験では、一つの大企業が頑丈な実験装置を全部つくるケースが多かった。しかし今回は、様々な制約がある中でハイレベルな実験をするために、複数の会社にそれぞれの得意分野を受け持ってもらって実験装置をつくった。

 宇宙実験にしては繊細な装置を打ち上げるため、装置がきちんと動いて実験が成功して欲しいと願っている。コーディネーターとしては、今回、複数の会社の人たちが関わったため、特に関係者間での調整に苦労した。

 本プロジェクトは、実験運用にも大勢の人が関わる長期的な実験。皆が体を壊さずに、きちんと良い成果が出て、それを「みんなで頑張ったおかげだな」と思えるような宇宙実験に是非したい。


◇実現化が難しい実験だからこその喜び
/財団法人日本宇宙フォーラム(JSF)の島岡太郎さん

 当財団は、宇宙実験採択後の「実験計画書」作成の支援を中心に、採択前の地上実験から実際の実験運用まで、最初から最後まで本プロジェクトに関わっている。実験後の解析も必要があれば是非支援したい。また、宇宙実験の成功のみに留まらず、例えば論文を書くなどの研究成果に結びつくよう注視している。

 本プロジェクトは、技術的にも非常に高みを目指している実験で、現代の技術の粋を集めて装置がつくられている。特に、宇宙実験という制約の中、反射型干渉計を上手く用いて綺麗な画像を得る点が大変難しく、さらにそれを地上からリモートで調整する点が極めて難しい。逆に言えば、それだけ実現化が難しい実験のため、地上からリモートで調整し、非常に成果の高い画像を得られることが、私としても大きな喜びになる。

 本プロジェクトには様々な会社が関わっているが、個人的なポリシーとしては、どこの誰が何をやっても良いので、とにかく本実験が先生の要望を可能なだけ達成し、得られた結果が素晴らしく、社会的にも科学的にも高い成果であること。それが私の希望であり、喜びだ。


◇高レベルな要求を実現化するまで議論を重ねた
/有人宇宙システム株式会社(JAMSS)の曽根武彦さん・水野哲朗さん

 本プロジェクトの運用にむけた準備から、軌道上の運用までを担当している。準備では、実験計画書を今後の運用に向けて具体化していく作業を担当。要求が全て決まれば、次段階であるハードウェア開発も支援する。その後の運用については、チーム内で分担し一緒に行う。

 本プロジェクトでは、先生の要求が高いため、実現性を出すよう要求を具体化するまでの検討が最も大変だった。なお、実際の軌道上実験開始までには、地上実験で温度を制御する条件の検討作業が残っており、まだ、準備の9合目といったところである。

 今回は、これまでにない方式で実験のハードウェアを組んでいるため、実現化に向けて、開発メーカ―やJAXAさん、JSFさんと皆で意見を出し合いながら、何とかフライトまで漕ぎ着けた。特に、反射型干渉計を用いて、なおかつタンパク質の結晶表面を見るというやり方自体が初めての実験なので、何とか成功して欲しいと期待している。


(取材日: 2012年7月9日、於:JAXA筑波宇宙センター、文責:大草 芳江)

科学の楽しさ感じて/産総研東北センターが一般公開

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科学の楽しさ感じて/産総研東北センターが一般公開

2012年8月11日公開

産業技術総合研究所東北センター(仙台市)で4日に開催された一般公開のようす

 産業技術総合研究所東北センター(仙台市宮城野区)は4日、研究施設を一般公開した。研究成果の展示のほか、実験や講座、研究室見学ツアーなども行われ、家族連れら約430人でにぎわった。

 このうち「研究紹介 圧力のおはなし」講座では、高温高圧状態の水や二酸化炭素を、有害な有機溶媒の代わりに利用するという、同センターの得意技術「超臨界流体の科学」の基礎が紹介された。

「研究紹介 圧力のおはなし」講座のようす

 講座では、二酸化炭素の気体と液体が共存できる限界の温度と圧力を超えた瞬間、液体でも気体でもない「超臨界」状態になる様子をデモンストレーション。高温高圧の水はペットボトルの原料化に、超臨界二酸化炭素はシンナーの代わりに塗料の希釈溶媒として利用されるなど、生活に役立つことが紹介された。

 その後、圧力や温度を変えると気体や液体はどうなるか、様々な実験を通して演示。大気圧の差を利用してアルミ缶を潰したり、大気圧を下げて沸点を下げたりする実験に、参加した子どもたちは興味津々。実験の結果にびっくりする姿も見られた。

体験コーナー「みそ汁のうずの正体を探れ!」で味噌汁のうずを再現する参加者

 このほか、味噌汁のうずを再現したり、息に二酸化炭素が含まれることを色素を使って確かめる体験コーナーや、「癒し効果世界一」とギネスから認定され被災地でも活躍中のアザラシ型ロボット「パロ」などが、子どもたちの人気を集めていた。

 さらに今年は、放射線の解説や、最先端技術で生活支援を行う取組み「気仙沼~絆~プロジェクト」の紹介など、東日本大震災に関連するコーナーもあり、参加者らは真剣な面持ちで解説に耳を傾けていた。

製品評価技術基盤機構東北支所のコーナー

 また、昨年に続いての共催となる製品評価技術基盤機構東北支所によるコーナーでは、食品や人間の体を守っているカビや細菌など、身近にいる微生物を、親子連れらが興味深そうに観察していた。電池の種類や正しい使い方を学ぶコーナーもあった。

産総研東北センター所長の原田晃さん

 同センター所長の原田晃さんは「子どもたちに、科学の楽しさをぜひ感じてもらいたい。その中で、産総研の取組みも知ってもらえたら」と話している。

天気や地震のしくみ学んで/仙台管区気象台「おてんき・じしん百科展」

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天気や地震のしくみ学んで/仙台管区気象台「おてんき・じしん百科展」

2012年8月13日公開

仙台管区気象台(仙台市宮城野区)で11日に開催された「おてんき・じしん百科展2012」

 気象台の仕事を広く知ってもらおうと、仙台管区気象台は11日、毎年恒例の一般公開「おてんき・じしん百科展2012」を、仙台市宮城野区にある同台で開催した。夏休み中の子どもたちや家族連れら約300人が、実験や観測装置の見学などを通じて、気象や地震への理解を深めた。

 このうち、ペットボトルで「雲」をつくる実験では、水が少量入ったペットボトルに、加圧ポンプで空気をいっぱい入れるよう、同台職員が子どもたちに指示。

ペットボトルで雲をつくる実験のようす

 空気を入れるにつれペットボトル内の温度計の数値が上昇したことを確認後、栓を開けて空気を抜いた瞬間、ペットボトル内の温度は下がり、あっという間に真っ白に。

 「雲ができた!」と歓声を上げた子どもたちに、職員は「寒い冬に吐く息が白く見えるのと同じように、水蒸気を含んだ空気を急に冷やせば雲ができる」と、雲ができるしくみについて解説していた。

気象台を見学するツアーで同台職員の解説に耳を傾ける参加者ら

 気象台を見学するツアーでは、実際に天気予報をつくったり地震や火山を観測している部屋や、雨量計や感雨器などの気象観測装置が案内された。参加者は、職員が作業中の部屋や装置を珍しそうに見て回り、職員らの解説に耳を傾けていた。

 このほか、地震の揺れに含まれるP波とS波の特徴をバネを使って確かめる実験や、津波の押し波と引き波が発生するメカニズムを説明する実験などが、子どもたちの人気を集めていた。職員や気象キャスターによるミニ講座もあった。

同台広報係長の佐々木秀樹さん(右)と気象庁マスコットキャラクター「はれるん」(左)

 市内から参加した小学3年女子児童は、「いろいろな実験があって、全部おもしろかった。特に雲をつくる実験を、もう一度やってみたい」と笑顔で話していた。同台広報係長の佐々木秀樹さんは「子どもたちの自由研究の参考にもなれば」と話している。

当日のようす

地震の揺れに含まれるP波とS波の特徴をバネを使って確かめる実験

津波の押し波と引き波が発生するメカニズムを説明する実験

気象キャスターの仕事について紹介するミニ講座


降水量を測る「雨量計」の測定方法について解説を受ける参加者ら

天気や地震に関する疑問について同台職員が答えてくれる質問コーナー

動力なしで自噴する「ヘロンの噴水」で水圧と大気圧の関係を学ぶ参加者ら


春から夏にかけて東北地方の太平洋側で吹く冷たく湿った東よりの風「やませ」を再現する実験

太陽の光を当てると風がなくとも上昇気流で風車が回る「太陽風車」の工作コーナー

冷たいと重くなり暖かいと軽くなる水の性質を利用した「ガリレオ温度計」の工作コーナー


文化祭の舞台裏から見える一高生・二高生の「今」/実行委員会・座談会

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仙台一高「壱高祭」・仙台二高「北陵祭」実行委員会インタビュー~文化祭の舞台裏から見える仙台一高生・仙台二高生の「今」~ style= 取材・写真・文/大草芳江

2012年8月18日公開

 ~「教育って、そもそもなんだろう?」を探るべく、【教育】に関する様々な人々をインタビュー~

仙台二高・仙台一高の文化祭実行委員会から、
「宮城の新聞」への取材依頼が今年も舞い込んだ。
各校で開催する文化祭の宣伝合戦をしたいのだと言う。

文化祭は、生徒達が日頃の学習成果を総合的に生かす場であり、
校風を肌身で感じたり、今後の方向性を垣間見ることができる好機でもある。

古くより良きライバルとして切磋琢磨してきた両校。
そもそも高校生の彼らは一体何にリアリティを感じて活動しているのだろうか。

彼らの原動力やスタンスなどのインタビュー取材を通じて、
文化祭の舞台裏から見える、仙台一高生・仙台二高生の「今」を探った。

【リンク】
仙台一高「壱高祭」(9月1日~3日)
仙台二高「北陵祭」(8月31日~9月2日)

【関連記事】
特集:文化祭から見える高校の「今」(2008年:宮城二女、仙台一高、仙台二高、宮城一高)


仙台一高「壱高祭」・仙台二高「北陵祭」実行委員会の皆さんに聞く


■仙台二高「北陵祭」実行委員会(左側、手前から):
・実行委員長の針生明日可くん(3年生)
・企画局長の本橋優香さん(3年生)
・広報局長(記念品製作部長)の遠藤夏実さん(3年生)
・会場局長(施設警備部長)の阿部紘平くん(3年生)
・事務局長(庶務部)の加々美望くん(3年生)
●仙台一高「壱高祭」実行委員会(右側、手前から):
・実行委員長の後藤颯太くん(3年生)
・宣伝広報部長の松川咲子さん(2年生)


私が文化祭実行委員である理由

―まず、なぜ皆さんは文化祭実行委員になろうと思ったのですか?
 きっかけや、続けているモチベーションについてお話ください。
 では、最初に取材依頼をしていただいた、仙台二高さんから。

■実行委員長の針生くん(二高):
 「楽しみながらやる雰囲気に惹かれて」


きっかけは、北実(北陵祭実行委員)の先輩たちの宣伝や勧誘です。
1年生の時、北実の先輩たちの雰囲気が良く、楽しそうと思ったので、
2年生でも本部員になりました。そして、いつの間にか委員長に(笑)

先生方からは「文化祭も授業の一環だからな」と釘を刺されますが(笑)、
節度を守りつつ、皆でわいわいと楽しみながらやっていきたいですね。


■企画局長の本橋さん(二高):
 「自分の納得がいくものをつくりたい」


私は2年生の時の北陵祭が自分の納得できるものではありませんでした。
「これじゃあ駄目だ。もう一年頑張ろう」と思い、今年も続けています。

北陵祭をどのようにしていくのか、自分は何のために仕事をやるのか。
そういったこともきちんと考え、北陵祭の雰囲気づくりに貢献したいです。


■広報局長の遠藤さん(二高):
 「先輩たちを超えるものをつくりたい」


オープンスクールの説明会で、北実の先輩たちの思いや考えを聞きました。
自分が二高に入れたら、絶対に先輩たちを超えるようなものをつくりたい。
そう思って、二高に入ろうと決めたのです。

1年生で北実に入れるのは、クラスで5人だけ。倍率は約3倍でしたが、
じゃんけんで勝って入れました。2年に上がる時は有志なので残りました。
先輩たちができなかったことを超えられるように、やっていきたいです。


■会場局長の阿部くん(二高):
 「皆で一つのことをつくるのが楽しい」


北祭の先輩たちの勧誘で、単純に「おもしろそう」と思ったことと、
昔から、裏方の仕事に興味があったことが、最初のきっかけです。
その後、続けている理由は、自分でもよくわかりません。

でも、皆で一つのものをつくっていくことが単純に楽しいから、
これまで続けてきたのかなと思います。


■事務局長の加々美くん(二高):
 「やり遂げる達成感を味わいたい」


最初のきっかけは、応援団委員に入るのが嫌だったので(笑)、
実行委員に入ったという、ちょっとマイナスな理由でした。
2年生でも続けて達成感を味わい、3年生で事務局長になりました。

事務局長の仕事は、お金を管理することです。
それが、びっくりするくらい大きなお金なので、
しっかりと管理して、やり遂げたいですね。

―それでは次に、仙台一高さん、お願いします。

●実行委員長の後藤くん(一高):
 「一生の仲間と社会に通じる力を培う」


壱高祭実行委員会は完全有志です。4月末の説明会に誘われて行って、
「楽しそう」と思って入りました。最初は些細なきっかけだったのです。

二高さんの場合は、3年生が中心になって仕事をするようですが、
一高の場合、2年生が中心となって、ほとんどの仕事をします。
その下に1年生がいて、3年生は「アドバイザー」の立場です。

1年生の時、仕事を通じて、中学校の文化祭との違いを感じました。
まず仕事量が全然違います。でも2年生の先輩たちは、仕事がすごく
大変な中で雰囲気がとても良く、自分もやりがいを感じました。

2年生になって、「自分はなぜこんなことをしているのだろう?」と
思うくらい大変な仕事をしました。遅い時は夜8時まで仕事をしたり。
それが、4月から8月までずっと続きます。

そんな一杯一杯な状況の中、チームワークを発揮して仕事をやり遂げ、
大きな達成感を味わいました。一生離れない友達ができたと思えました。

また、実行委員の仕事は、例えば今回のように新聞取材を受けることも、
先生を通さず、生徒だけですべてやります。これは社会にも通じること。
その積み重ねにより、社会に通じるものが培われていくと思います。

つまり、仲間といった熱い感情的な面もあれば、
社会に役立つ力といった実用的な面も、身に付けることができます。

3年生では、「壱高祭を見届けたい。そのために委員長になろう」と
思って残りました。委員長には、実務的な仕事がほとんどありません。

実行委員全員が集まる会で、俺は委員長として、どんな委員会をつくり、
どんな文化祭にしたいのか。委員長としての考えを反映させる仕事です。

それを絶対にやってやる、去年を超えてやる。そう思って今に至ります。


●宣伝広報部長の松川さん(一高):
 「先輩たちの本気に触れて」


1年生の時は「楽しそう」と思って入りましたが、
去年は1年生だけで60人近い委員がいたこともあって、
それほど仕事をできた実感がなく、自分自身に反省点も多くありました。

ところが、いざ壱高祭を迎えると、先輩たちの本気度が全然違うのです。
最終日直後に全員で話し合った時、先輩たちの思いを聞いているうちに、
「私も先輩たちのようにつくってみたい。先輩たちができなかったことを、
できるようにしたい」と強く思いました。それを今も続けています。

何より達成感があって、それが心地良かったのです。
その達成感を味わいたい気持ちもあって、今も続けていると思います。


「壱高祭」と「北陵祭」

―皆さんが、文化祭実行委員のどのようなところに価値を見出して、
 何を原動力にしているか、それぞれ伝わってきた感じがしました。
 では次に、今年の文化祭のテーマについて、教えてください。

●宣伝広報部長の松川さん(一高):
 「非日常への誘い」

今年の壱高祭テーマは「非日常への誘い」

今年の壱高祭テーマは、「非日常への誘い」です。

昔から「一高の常識は世間の非常識」と言われますが(笑)
ディズニーランドが入った瞬間から「夢の国」であるように、
壱高祭も入った瞬間から日常を忘れて楽しんでもらえる、
テーマパークのようなお祭りにしたいと考えています。

それも、お客さんに来てもらわないことには始まりません。
いろいろな人に、壱高祭の存在や、その良さを知ってもらい、
たくさんのお客さんに楽しんでもらいたいと考えています。


■事務局長の加々美くん(二高):
 「REVOLUTION 北陵ノ変 2012」

今年の北陵祭テーマは「REVOLUTION 北陵ノ変 2012」

今年の北陵祭テーマは、「REVOLUTION 北陵ノ変 2012」。
二高から革命の意識を発信していこうと提案したものです。

実行委員会の中では、前年の反省を革新していこう、
という共通意識があります。

また社会に対しては、東日本大震災の復興にむかって前に進む
すべての人を応援したい、という思いも込めています。

―では次に、それぞれお互いに自分の高校が独自だと思う取組みや、
 逆に、他校ではどうしているのか、質問したいことはありますか?
 それを通して、各校の文化祭の特徴を知りたいと思います。

■事務局長の加々美くん(二高):

二高では、記念品グッズ販売のほか、チャリティーバザーも行います。
グッズ販売以外に、実行委員会主催でやっているお店はありますか?


●広報宣伝部長の松川さん(一高):

バザーはないですが、去年から新企画「茶畑大抽選会」があります。

一高では、部活動ごとに出店しています。
そこで50円購入ごとにもらえる赤いシールを
10個ためると、くじ引きで景品がもらえます。

どんな景品かは当日のお楽しみ。秘密グッズもあります。
去年なかなか好評でした。

一高では、壱高祭開催後に「活性化委員会」をつくり、
来年にむけて、実行委員が一人ひとつ以上、企画を練ります。

茶畑大抽選会も、その一つとして先輩が出した案。
提案した企画はアドバイサーの先輩に見てもらい、
承認いただいたら、壱高祭の企画として実施されます。

壱高祭名物・水泳部によるウォーターボーイズ(写真は2008年取材時

ですから実行委員会の企画はステージと夜祭と福引。
ほかは、有志による企画で、各団体に任せています。

その中で最も有名なのが水泳部の「ウォーターボーイズ」。
今年は水泳部の大会と重なり、3日目限定となりますが、
逆に言えば、3日目は必見です!(笑)


■実行委員長の針生くん(二高):

二高では、実行委員会による企画は、バザーと講堂で行う夜祭です。
新企画にビンゴ形式のスタンプラリー「ウォークラリー」もあります。

ほかは、各部活に任せて展示をやってもらいます。
基本的に自由ですね。

例えば、かき氷や綿飴など、お祭り的な要素もあれば、
化学部・物理部・地学部・生物部の理科棟連合によるピタゴラスイッチ、
地学部によるプラネタリウムなど、二高ならではの文化的な出店もあります。

●実行委員長の後藤くん(一高):

一高でも、物理部がロケットを校庭で飛ばします。
「今からロケットを飛ばします」と校内放送がありますよ。

一高の夜祭は、1日目が「初夜祭」。
一高生の持つポテンシャルすべてを出して、下ネタなし(笑)。

2日目の「中夜祭」は、ちょっとアダルティな内容を(笑)、
初夜祭とは違った内容でやります。

すべて一高生が出演者。他の展示もなく夜祭に集中するので、
お客さんも生徒も夜祭を全部、見ることができます。


■会場局長の阿部くん(二高):

二高では、モニュメントの題材を決めて、
木材を発注してつくるまで全部、生徒側でやります。

今年のモニュメントは、テーマ「REVOLUTION~北陵ノ変」
に沿って、改革の思いを込め、ナポレオンにします。

一高にもモニュメント的なものはありますか?


●実行委員長の後藤くん(一高):

一高では、テーマに沿って、デザインを施した、
木製のゲートをつくります。

ほかに見世物としては、HR(ホームルーム)ごとに壁画を
つくって展示します。ですから、一般生徒の参加は、
HRの壁画と、部活としての出店です。

北陵祭はクラス出店が多いんですよね?


■実行委員長の針生くん(二高):

二高ではクラス出店が多く、1年生はほとんどのクラスが出店します。
部活でも出店するので、ローテンションを組んで部活と両立しています。

文化祭実行委員会がそれぞれのクラスへ説明に行くと、
クラスの中心的な人が出て、「やるぞ」となる場合が多いですね。

食べ物関係が多いですが、射的やミニゲーム、お化け屋敷など。
フィーリングカップル的なものとか。お祭り的要素が多いですね。


●実行委員長の後藤くん(一高):

お化け屋敷は、一高も凄いですよ。
「女子とカップルのみ入場可」みたいな(笑)
あとは、人間もぐらたたきとか、パイ投げとか。


■実行委員長の針生くん(二高):

パイ投げは、二高では今年、却下されましたね(笑)


●実行委員長の後藤くん(一高):

新しく出た企画は審査がありますし、
食品関係は検便の義務がありますが、
伝統的にやっているものは多めに見ていますね。
男子校時代からずっとあるものなので。


■実行委員長の針生くん(二高):

二高では、企画が毎年どんどん変わるので、毎年審査をします。
危険なもの以外はだいたいOKですが、「ちょっと際どい...」ものは、
参加団体受付部長が、文化祭顧問と協議して審査します。

●実行委員長の後藤くん(一高):

一高よりも二高の方が、部局が細かく分かれているみたいですね。
そのメリットとデメリットは何ですか?
細部に分かれていると、当日困ったりはしませんか?
お客さんに質問された時の対応とかは?


■実行委員長の針生くん(二高):

メリットは、仕事が具体化しているので、
本部員の負担が少ない点ですね。

まとまって全体を動かそうとすると負担が大きいですが、
一般部員には明確な仕事があるので、それぞれ割り振った仕事を
着実にしてくれれば、本部員の負担が少なくなります。

一般部員には本部員が研修会で「こんな時はこうして」と説明します。
当日、判断できない場合は「トランシーバーで本部にすぐに連絡しろ」と言います。

一方、デメリットとしては、もし当日に来ない一般部員がいると、
仕事がエキスパート化されているので、そのカバーが大変ですね。


●実行委員長の後藤くん(一高):

そういう意味では、一高には、逆のメリット・デメリットがあるかも。

一高には5部署しかないので、部署内の仕事は全員わかっている状態です。
2年生は他の部署の仕事もよくわかっていて、当日も柔軟に対応できます。

でも逆に言えば、部署あたりの負担も大きいというデメリットもあるかな。


文化祭の「舞台裏」にあるもの

―実行委員会の体制に、学校のスタンスが現れているようで、大変興味深いですね。
 そのような文化祭ができる「裏舞台」には、皆さんがそれぞれ役目役割を果たしつつ、
 主体的に活動する原動力や意思があって、一つの文化祭ができるのだと思います。
 それぞれの立場で、最も力を注いだ点や、苦労した点は何ですか?

■企画局長の本橋さん(二高):
 「珠玉混合の案を柔軟に取り入れるのに苦心」


企画局は、如何に企画でお客さんを楽しませることができるかに
かかっています。ですから、そこを一番の目標にしています。
そのためには、お客さんに参加してもらうことが一番と考えました。

そこで今年は、「BAD LUCK~不幸を祈る~」を新しく企画しました。
いくつかの運試しをしながら、一番運のない一人を決めるものです。

不運と言っても悪いわけでなく、笑いありスリルありで盛り上げます。
まさに、お客さんを楽しませることだけを目的に考えた企画ですので、
ぜひ多くの方にご参加いただきたいです。

また今年は、北陵祭をより楽しんでいただくために、
ビンゴ形式のスタンプラリーをパンフレットに載せました。

ビンゴがそろうと、景品と引き換えができますので、
ぜひ、いろいろな出店をまわってみてください。

―そのような企画をつくる中でどんな点に苦労しましたか?
 また、その苦労をどのようにして克服しましたか?

我々企画局が企画に最も詳しいことや、過去の前例にとらわれずに、
企画局以外の本部員の案も、柔軟に取り入れていくことが難しかったです。
どんな企画にも、良い点と悪い点があるのは、付物ですからね。

そこで私が重視したのは、歴代の引継資料です。
引継資料を読み漁り、去年までの良かった点・反省点を参考にしながら、
アイディアを判断していきました。

けれども、昨年は「前例」が良くない方向に働いて、
「前例があるからいいじゃん」と考えも凝り固まっていました。
だからこそ今年は、企画局だけでなく本部員のアイディアも広く
柔軟に取り入れ、より良い企画をつくっていこうと思ったのです。

■広報局長の遠藤さん(二高):
 「企業広告を1から全部考えた」

今年の広報局長の仕事は、主に企業広告でしたが、
大変苦労しました。二高では、企業広告を5年前から
去年まで行なっていなかったので、5年前の資料も
ほぼ残っておらず、1から考える必要がありました。

まず自分たちで企画書をつくった後、いろいろな人の意見を聞きました。
企業広告を行う他校からも話を聞き、参考にしながら組み立てました。

企業に電話をかけても、断られることや、キツいことも言われました。
30件中2件しか取れなくて、「目標に届かないかも」と焦りました。

でも、やっているうちに、不足点などにも気づくようになり、
少しずつ、柔軟に対応できるようになっていきました。

新しいことを始めることは、いつもより道のりが長いと感じましたが、
結果的には目標を超す数が集まり、自分は強くなったと感じています。

記念品製作部長としては、制作物にミスがないよう気をつけつつ、日々、
締切日に追わました。ミスもありましたが、過ぎたことは仕方ないです。

逆に、自分のミスを後輩たちに上手く引き継ぐことで、後輩たちには、
新しいミスはあっても、同じミスは繰り返して欲しくないですね。


■会場局長の阿部くん(二高):
 「安全のために常識から考える」


会場局では、安全面やスムーズな入退場を心がけています。

「北陵祭」カウントダウンボード

会場局は、校舎内の装飾を行う「装飾整備部」と、
校舎内の警備・巡回を行う「施設警備部」、
モニュメントの設置をする「モニュメント部」。
この3つに分かれます。

装飾整備部は、人がひっかかって転んだりしないよう、
安全面を考慮しつつ、同時に、最大限の華やかさを
出していくことが大変だと感じています。

モニュメントは、高さ4メートルもあります。
建築のノウハウも無い中、技師さん2人と「こう組めば安全で強度が出る」
「こんな装飾をしたいが大丈夫か」と、何度も話し合いながら製作中です。
完成までこぎつけるのが、大変なところです。

施設警備部の仕事は、警備とゴミの管理です。
ゴミが溢れたりしていないか、問題が起こってないか、巡回します。

会場は混雑しているので、参加者同士で問題が起こらないよう、
駐輪場の設置場所や誘導方法などをどうすべきか、頭を悩ませます。

―「こうすれば安全」という基準をつくること自体が簡単ではない、
 と思いますが、それはどのようにしてつくっているのですか?

僕達が一番大事にしているのは、常識から見ていくことです。

プロの警備会社なら、予め視点が用意されていると思いますが、
それがない僕達は、当前のことが当前に行われているかどうか?
という視点が、安全に運営する上で大切なことだと思います。

例えば、駐輪場で自転車が通るには60cm幅がなければ通れません。
ですから、出店団体が60cm幅を空けずに宣伝していないか?
などを巡回で見ています。

ただ、いくら頭で考えていても、予想しない事態は起こるものです。
でも予め頭で考えていなければ、想定外のことが起っても動けません。

ですから「こんな場所なら、こんな問題が起こるだろう」と
様々なパターンを考えて、さらに資料に残したりしています。


■事務局長の加々美くん(二高):
 「お金の管理はシンプルだけど重要」


お金の管理が、主な仕事です。その仕事内容はシンプルですが、
北陵祭にとって重要なことであることは、常に意識しています。
予算と支出・収入が合わなかったりすると、破綻しますから。

ただ、急に買い足す必要がある時など、最初の予算金額が変わって
混乱することもあるので、出納帳に詳細に書くよう心がけています。

また、企業広告については、今までのノウハウがなかったので、
いろいろ失敗したこともありました。
だからこそ、来年の後輩につなげようという意識を持っています。

―続いて、仙台一高さん、お願いします。

●宣伝広報部長の松川さん(一高):
 「『高校生だから』は通用しない」

他の部長が来れなかったので、私から説明しますね。
一高の場合は、総務部・会場部・夜祭部・ステージ部
・宣伝広報部の5部署があります。

夜祭部・ステージ部は、一つのエンターテインメントとして、
舞台を如何に盛り上げ、お客さんに楽しんでいただけるか
を目指し、下準備やリハーサルを重ねて頑張っています。

会場部は、いろいろな装飾をつくりつつ、
当日の実行委員の流れを考えて人を配置する部署です。

特に今年は去年より実行委員の人数が少ない中、如何にスムーズな流れを
つくり、お客さんに不便を感じさせず楽しんでもらえるか、考えています。

そして、私がいる宣伝広報部は、ポスターやパンフレットの作成のほか、
広告取りやメディアへのアポイントなどが主な仕事です。

今年新たな試みとして、開催2週間前からJR仙台駅のエレベーターで
壱高祭のアドビジョン広告を出します。皆さん、ぜひ見てください!

1万人来場を目指して、いろいろな人に知ってもらうためには
どうすればいいかを考えることが、大変でもあり、楽しいことです。

―宣伝広報部としての苦労や、力を入れている点は何ですか?

宣伝広報部は、企業や社会人の方とも関わる仕事です。
そこが、やっぱり中学校とは全然違います。

自分と全くつながりのない方にお願いする仕事ですから、
失礼のないようにすることが大事で、社会で通用する力が必要です。

「高校生だから、しょうがないね」というのは、嫌なんです。
お金をもらう仕事ですから、社会に出ているのと同じ。
「高校生だから」という言い訳は、通用しません。

少しずつではありますが、
社会で通用する力を身につけられているのかな、と思っています。


●実行委員長の後藤くん(一高):
 「事務的な仕事が無ければ、壱高祭が開催できない」


2年生の時、僕は総務部にいたので、僕から総務部について説明します。

総務部の仕事は主に事務的なことですが、逆に言えば、
総務部の仕事が無ければ、壱高祭自体が開催できません。

例えば、先生方の会議で壱高祭の方針や報告を伝える資料を作成したり、
グッズデザイン、ファイヤーストームの管理なども総務部が行います。
先生方の協力も不可欠ですから、先生方との協議も、総務部が行います。

許可や承認を得るための申請資料も、すべて総務部が作成しますが、
一つでもミスがあれば、実行委員会が動けなくなってしまいます。
その責任の重さが、肉体的にも精神的にも大変でした。

このように総務部の仕事をこなすことが、壱高祭をスムーズに
開催できることにつながることを、常に心がけていました。


●宣伝広報部長の松川さん(一高):
 「女子生徒の活動も見て欲しい」

「壱高祭」カウントダウンボード

そして一高は今年、創立120周年、壱高祭は55回目、
男女共学化完全完了という一つの節目を迎えます。

「男子校時代の方が良かった」という意見もきっとあるでしょう。
それも、一つの考えとして受け入れるのが、一高生です。

けれども「女子が入って壱高祭がおもしろくなくなった」とは、
絶対に言われたくない。ずっと私はそう思っていました。

男子校独自の雰囲気がなくなるのは事実なので仕方がありません。
けれども、男女共学になったからこその魅力もあると思うのです。

今の一高は半数以上が女子で、男女の仲が悪いわけでもありません。
皆一緒に頑張っています。そんな女子の姿もぜひ見てもらいたいです。


実行委員長としての思い

―それでは、実行委員長のお二人は、それぞれ実行委員長として、
 どのようなことに力を注ぎ、そして苦労していますか?

●実行委員長の後藤くん(一高):
 「自分の意志で仕事をしてほしい」


俺が直接、実行委員に指示を出したり概念を言える集会の時、
その場で皆に何を話すか、いつも考えています。

そこで意識しているのは、全員が楽しんで仕事ができる流れにすること。
何より、自分の意志を持って仕事をすることを最重視して、強調します。

自分の意思で考えて、自分がやりたいことを突き通す実行力と、
なおかつ楽しんでやれるシステムを、ぜひ整えて欲しいのです。

気持ちを伝えることが、委員長の一番の仕事だと考えています。
けれども、その概念をわかってもらうことが、一番大変ですね。

言葉を試行錯誤したり、自分の行動として見せたりしながら、
概念の伝え方を、日々考えています。

―「自分の意志を持って仕事をすることを最重視」するのはなぜですか?

アドバイザーがいるので、聞けばわかります。
けれども、そうやって機械的に仕事をするのでは、
自分の経験上、達成感は得られないと考えるからです。

一高には5部署しかないので、ある程度、自由な考えが認められています。
逆に言えば、休もうと思えば休めるし、強制もされません。

だからこそ自分の意志で関わっていかないと、
「全然仕事しないで終わったな」と、何となくで終わってしまう。
そんな後悔は残してほしくないのです。

だから2年生には、「自分の意思を仕事に反映させて、
自ら積極的に関わって欲しい」と、いつも話をしています。

けれども、押し付けがましいのは駄目。
先生と後輩の意見も踏まえて、委員長としての公的な発言をする。
そのような姿勢に、だんだん今まで変わっていきました。

■実行委員長の針生くん(二高):
 「伝統的に積み重ねていく組織」


委員長としての仕事は、具体的な業務があるわけではなく、
全体の仕事を把握して、各委員に指示を出すことです。
僕は、そのための雰囲気づくりを心がけています。

自分の中では、「楽しくやろう」というのがあります。
文化祭を実行する側が楽しまないと良いものにならないので、
実行委員も楽しくやれる雰囲気をつくろうとしています。

けれども、実行委員会だけの自己満足だけで終わらず、
まわりも楽しませていくことを大切にしたいです。

そのためには、一高さんとは違って、僕は集会の時、
自分からはあまり話さずに、2年生に話をさせます。

それぞれの実行委員がどんな意見を持っているか、
全体にわからせることをやっているのです。

その前提として、自分がつくる雰囲気に自分の考えを反映させれば、
一人ひとりにあえて言う必要はない、と考えています。
個々人のモチベーションや意識は本部員が集まる中で高めていきます。

二高は組織化されて機械的な動きをする委員会ですが、
その中でも、個を重視しているのです。
個々人が改善したいことを見つけられる雰囲気をつくりたいと思っています。

北陵祭実行委員は、伝統的にOBの雰囲気が受け継がれています。
一高さんでは、一代ごとに変わるかもしれませんが、
二高は、一回ごとに切り替えていく組織ではなく、
積み重ねていく組織なのです。

ですから、より良いものをつくるために、引継を重視します。
3年生引退後も、2年生にきちんと残してやりたい。

引き継ぐ中でも、我々3年生の姿を見て、後輩たちが
考えたことや感じたことを、ぜひ引き継いでもらいたい。

また、自分も企業広告のために企業まわりを手伝いましたが、
「高校生だから」という扱いはされなくて、むしろ企業側から、
「自分たちにどんなメリットがあるか説明せよ」と言われました。

集団の中の利害関係のつながりが見え、我々も例外ではないのだな、
と感じられました。そのようなことも社会で役立つと感じています。

―両校それぞれのスタンスが伝わってくる、大変興味深いお話でした。
 スタンスや方法論はそれぞれ異なりますが、より良いものを目指していこう、
 という思いは共通だと感じられました。では最後に、両校の実行委員長から、
 来場者にむけてメッセージをお願いします。

●実行委員長の後藤くん(一高):

壱高祭に来てもらった方には、
ぜひ一高独特のユニークな雰囲気を感じてもらいたいですね。

そのために壱高祭では、一高でしかやれないことを心がけて、
一つひとつやっています。

一高にしかないものを見て、一高の性格を知ってもらいたい。
そして、皆さんに楽しんで帰ってもらいたいです。


■実行委員長の針生くん(二高):

二高・一高と言うと、イコール「頭が良い」イメージだけで
終わってしまうけど、勉強だけじゃないんです。

楽しむところは楽しむし、社会に出た時に役立つ高校だと知ってもらいたい。
ぜひ多くの方に来てもらって、楽しんでもらいたいです。

―皆さん、本日は長い時間、ありがとうございました。


座談会後の一コマ。お互いの活動に興味津々なようで、その後も意見交換されていた実行委員会の皆さん。
「スタンスは違えど、お互い認め合っているんです」とお話されていたことが印象的でした。

「日高見」平孝酒造社長の平井孝浩さんインタビュー/酒造り体験レポート

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「日高見」醸造元・平孝酒造社長の平井孝浩さんに聞く:「日本酒は自分を育てた師匠」 取材・写真・文/大草芳江

2012年8月22日公開

日本酒は自分を育ててくれた師匠

平井 孝浩 Takahiro HIRAI
(株式会社平孝酒造 取締役社長)


宮城県石巻市清水町の地で1861年(文久元年)に創業した平孝酒造。

今でこそ「日高見」の銘柄で全国的に知られる蔵元だが、
取締役社長の平井孝浩さんが5代目として継いだ当時は廃業寸前だった。

そこからどのようにして「日高見」は生まれたのか。

「人は仕事を通して成長する。自分の場合、それが日本酒だった」
と語る平井孝浩さんに、そのプロセスを聞いた。

<目次>

■平孝酒造・社長の平井孝浩さんインタビュー:「日本酒は自分を育ててくれた師匠」
場面さえ変えれば、俺だってできるはずなんだ
こんなことをするために戻ったんじゃない
自分もこういう市場で戦いたい
売れない恐怖心を酒に教えられる
「日高見」はすぐにできたわけでない
このままでは化けの皮が剥がれてしまう
自分に人生を教えてくれた師匠

■平孝酒造・酒造り体験レポート:「良い酒は人の和が醸し出す」
酒造りの基本は「人の和」
ゴミが散らかっていても平気な人は酒造りができない
和醸良酒


場面さえ変えれば、俺だってできるはずなんだ

―平井さんがリアルに感じる日本酒ってそもそも何ですか?

 日本酒は自分自身を育ててくれている師匠だと思っています。どんな職種でも人は仕事を通して成長していくと思いますが、私の場合、それが日本酒だったのです。

 私は、東北学院大学経済学部の出身ですが、不経済な学生でしてね(笑)。無気力・無関心・無感動な学生でね。特に目的意識もなく、ただ漠然と、東京の会社に就職しました。

 そこで初めて社会の厳しさを突き付けられました。皆、ピラミッド型社会の中で、上を目指して本気で頑張っているんだな、と。

 きっと「いずれ自分は(家に)戻るだろう」という甘さも、自分にはあったのでしょう。学生時代から本気で頑張っている人たちとの実力は、雲泥の差でした。皆、まわりは早慶出身ばかりで、格好良いし。

 「お前とは違うんだ」という現実を見せつけられた感じがして。だから、何かそうじゃないことをぶつける何かが欲しい気持ちが、潜在意識にはあったんだと思うのです。

 自分の実力を痛感しつつも、社会人生活にも慣れ、2年が経過した頃のことでした。突然、東京に親父がやって来て、「蔵を閉じる」と言い出したのです。

 社会人になってから、自分の家業を考えるようになってきた時期でもあり、また、門前の小僧ではありませんが、物づくりの魅力を感ずるようになっていた頃でもありました。「家業も捨てたものではない」と考えるようになっていたので、これには大変驚きました。

 でも、23、4歳の若造でしょう?もう勢いだけで、あるのは気持ちだけ。「なぜ急に辞めると言い出すんだ?親父にはできなくても、俺ならできるはずだ」と反発して。

 「じゃあ、どんな方針で経営を立て直すんだ?お前に何ができるんだ、できるわけないだろう」と親父から言われて、「だったら、俺がやってやる」と。若気の至りでしたね(笑)

 そうやって、社会人になって感じた社会の厳しさ、そして会社の同期の連中のやる気を、蔵に戻って自分自身で実践しようと思ったのです。


こんなことをするために戻ったんじゃない

 その当時は、今のように酒の味を比べて楽しむような時代では、全くなかったのですよ。等級制度がまだ存在していた時代で、「1級だ、2級だ。この蔵は2級が旨いんだよね」。そんな程度しかなかったのです。

 焼酎ブームで、社会人はカルピス割とか烏龍ハイとかそういうものばかり飲んでいて。また、アサヒスーパードライのブームが起こった時代でもありました。

 どちらかと言うと日本酒は、「10本買えば1本おまけ」のような条件戦争にさらされ、企業の体力自体が弱り、いろいろな蔵元がたくさん廃業し始めた時代でもあったのです。

 「こんなにひどいんだ・・・」と、自分も帰って来てから現実に直面するわけでしょう。けれども、自分には何の方針もないわけだし。できることはもうトラックに酒を満載にして売り歩くしかない状況。ドサ回りみたいに、酒屋さんまわりをしていました。

 「そんな酒、いらねえよ」と酒屋さんには断られて、俺は「置いてくれるまで帰らない」と押売して、「しつこいな。じゃあ10本置いていけ、でも1本つけろよ」、そんな感じ。

 でも一度、自分は東京にいたものだから、「俺は、こんなことをするために帰ってきたんじゃない。俺は何をしに帰ってきたんだよ?」と思うわけですよ。

 すると、だんだん情けなくなってきて。売れないし、つくった酒も残っているし、社員のお給料だって払えなくなってくるし。本当に廃業寸前だったんです。「やばい、どうするかな」と常に恐怖でした。

 昭和60年台は、オイルショックも終わってバブルな雰囲気。流通もだいぶ整備されて、お酒だって、ライフサイクルもほとんど今と変わりがない。酒屋さんに行けば、日本酒だけじゃなく、ビールも焼酎もワインも何でもあった時代でした。

 だから当然、日本酒の消費量は落ちてくるんです。特に石巻のような地方都市では、「CMに出るような酒が良い」と消費者の人たちから言われて。当時、うちの酒は、「新関(しんぜき)」という名前だったのだけど、「地元の酒は駄目だ」という雰囲気があったのね。

 今までやってきた結果として、親父が辞めたくなる気持ちもわかるよな、と思いました。けれども、俺は帰って来た以上は、やるのだ。とにかくこのままじゃダメだ。どうしたらいい?その時、いろいろ必死になって考えたわけです。


自分もこういう市場で戦いたい

 自分が東京の会社にいた時、焼酎ブームの一方で、「地方の酒でも良い酒がある」という地酒ブームも起こっていました。

 宮城で言うと、浦霞さんの「禅」や一ノ蔵さんの「無監査」、山形では「出羽桜」さん、新潟のお酒では「越乃~」が付けば何でも売れたみたいな雰囲気があって。そんな華やかな市場があったんです。

 自分も家に戻る時は、そんな市場で戦いたい、という気持ちがありました。けれども、東京で「うちの『新関』を知ってる?」と聞くと、「『大関』のパクリ?」とか言われて、もう悔しかったですね。

 「自分も戻る時は、こういう市場で戦ってみたい、皆が知っている、宮城のお酒になりたい」、そんなおぼろげなイメージだけはあって、帰ってきたんです。

 ところが実際に帰ってみると、それどころじゃない。経営はアップアップの状態で、酒は押売みたいな感じで売るしかない状況。全く、そんな東京でどうこうできるほど、現実は甘くない。

 その時、働く時の厳しさであったりを、まず最初に酒から学びました。もっと小学校の頃から俺に教えてくれよ、って感じ(笑)

 当時、地方の市場では、まだまだ良い酒が飲まれる時代ではありませんでした。とにかく、このままでは駄目だ。やっぱり石巻の市場だけでなく、まずは大都市圏から、消費のアプローチをしなければいけない。そこで生まれたのが、「日高見」なんです。

 いろいろ名前を考えたのですが、24歳くらいの若造が考えることだから、一生懸命考えても、良い発想なんて生まれてこないでしょう?くだらない名前しか出てこない。思いついても、既にほとんどが商法登録でとられている。駄目だ、ちくしょう。

 すると、たまたま廃盤商品に「日高見」を見つけたんです。「日を高く見る」、いいねぇ。調べてみると、この地域との深い関わりがありました。すごく良い名前だ、これで行こう。

 そこで、それまではいろいろな名前の商品を出していたんですが、「日高見」に一本化していったんです。それが、平成2年のことでした。


売れない恐怖心を酒に教えられる

 そして仙台や東京、それ以外のいろいろなところに、「日高見」という商品があることをアプローチしきました。

 あの当時も、本当に少なかったけど、酒屋さん主催の酒を楽しむ会が、あったのです。そこに参加させてもらって、ゆっくり、自分のお酒をアプローチしていきました。

 何か動かないと、何もならないでしょう?そういうところにプローチすることで、販路を広げていく。良い意味で、地元からもう少し広い視野を持たないと駄目だと、まずは考えたのです。

 ところが、酒の会に自分の酒を持って行っても、「美味しい」と言ってもらえないんです。お客さんに「まぁ、こんなもんだろうね。いくらすんの?え、三千円もするの?こっちの酒、飲んでみなよ。千円でこんなに美味いよ。どっちがうまい?」とか言われて、悔しい思いで「こっちですね」と(別の酒の方を)答えたり。

 今の酒質では駄目だ。酒質を鍛えていくしか無いな。ただ、経営的にはいつも切羽詰まった状態でしたから、今みたいにオーナー杜氏(オーナーである蔵元が、職人責任者である杜氏を兼務すること)はなかなか現実的ではなかったんです。だって、売る人がいないと、すぐにお金を替えないと、すぐに潰れる状態でしたから。

 やっぱり理想を追い求めるためには、商売の順番ってあると思うんですよね。財務体制がしっかりした上で、オーナーが酒を作るのはいいけれど、財務体制がしっかりしないまま、いくらオーナーが酒をつくっても、自分で広報できないのでは駄目なんです。

 当時は、そんな経営状態ではなかったので、もしあの時、自分がオーナー杜氏として蔵に入っていたら、すぐ潰れていたでしょうね。結局ものを売ってお金に変えないと、やりたいことはできないんです。生活すら、できない。廃業するかもしれないという危機感。

 いろいろな壁はあったのですが、やっぱり自分はここに戻ってきた以上、サラリーマン時代ではできなかった戦いをやってみよう。その時、酒から学んだことは、ものが売れない時の恐怖心。酒に勉強させてもらいました。

 その当時、宮城には酒蔵が45社程ありましたが、今では25社程度しか残っていません。ふるいにかけられて20社以上なくなっているから。その意味では、ふるいに残った蔵は、それなりに頑張ってきた蔵です。

 今はまた時代が変わって、いろいろな蔵のお酒を比較して楽しむ時代になっています。すると、オーナー杜氏みたいに、自分でつくることが、自分のつくりたいお酒と直結するからそれは良いのですが。自分が戻ってきた当時は、時代背景と経営体制で、それはできなかったということです。


「日高見」はすぐにできたわけでない

 「日高見」はすぐにできたわけでないんです。まず、酒質を強くして、こだわるための準備に約10年の歳月を費やしました。昭和62年に戻ってきて、「日高見」という商品を世に出したのは平成2年のこと。

 あの時、長期経営計画を考えていたんです。「日高見」に絞ろう。でも、どんな商品に育てるんだよ?自問自答していました。浦霞や一ノ蔵、出羽桜のようなマーケットで戦って、「美味しい」と言ってもらえるような酒になりたい。ならば今の蔵の中で何ができるんだ?

 当時、「吟醸」という名前自体は通っていました。よし、吟醸で行こう。吟醸というわかりやすい名前と、わかりやすい値段で出そう。日高見=吟醸=良い酒、というイメージを一般市場に浸透させる。かつ、手が届くようなリーズナブルな価格帯で出す。

 その後、ちょうど級別廃止の流れがありました。平成元年に廃止、平成4年から法律に組み込まれる。法改定まであと2年。これからは級別でなく、特定名称酒の肩書きで酒を選べるようになる。では、まず吟醸でイメージを定着させた後、純米、本醸造で行こう。

 つまり、「日高見」に絞って売る時、大事なことは、商品価値をつけていくことなんです。ラベルもあれば中身もある。そして、どうやって売っていくかの販売作戦もいろいろある。そういうことも酒から学びました。

 そうやって、いろいろ試して「日高見」に統一して、吟醸酒でスタートしたんです。市場も、仙台に行ったり東京に行ったりして、首都圏で自分のお酒を知らしめる工夫をしました。それでもお酒が売れていないので、ドサまわりで酒を売って凌いでいました。


このままでは化けの皮が剥がれてしまう

 自分が戻ってきてから約10年。そうこうしている間に事態はどんどん変わって、よい風も吹いてくるようになりました。酒屋さんが「これまでのやり方じゃ駄目だ。地酒を一生懸命売らないといけない」という時代に変わってきたんです。

 たまたまNHK大河ドラマ「炎立つ」に関連して、河北新報で「日高見の時代」という連載が始まりました。連載で「酒にも日高見がある」と紹介され、仙台からの問合が増え、石巻出身の飲食店からも「地元で一緒に頑張ろう」という協力者が現れました。

 酒はできても、商品だけでは売れない。人との出会いで仙台から発信されました。とりあえず潰れずに、何とかこれでやっていけそうだ。やっと明るい兆しが見えてきたのです。

 ところが反面、昔のように地元で「買ってくれ」と押売するようなやり方はもう通用しなくなっていました。東京で人を通して自分の酒を買ってもらうには、「このお酒は他と何が違う?どんな米でどんな酵母を使って...」等々の質問に答えられなければなりません。

 今でこそ嬉しい質問なんですが、当時の自分は、全く答えられなかったんですよ。酒の中身を知らずに、単に「吟醸、精米歩合○%」といった初歩的なことだけで打っていて。でも、そんなハッタリじゃ、これからは通らないよな。営業するにも、技術営業じゃないと駄目だ。

 単に酒を売るのではなく、「宮城といえば、日高見」と言ってもらえる酒にするには、人前できちんと説明できなければいけないんです。これじゃあ、やばい、化けの皮が剥がれてしまう、と思ってね。よっぽど地元で押売する方が、楽ですよ。

 普通の蔵元は、農大や醸造研究所で勉強した後、蔵に戻ってくるのが一般的なスタイルなんですが、自分は学院の経済学部出身だから、酒のことが全然わからない。酒の本を読めば良いレベルじゃないし。今からでも醸造研究所に行って勉強したいけど、もう戻ってから10年も経っているから、やっぱり、それは許されない状況でした。

 もっと突っ込んで何をしたらいいか、わかりませんでした。つくって欲しい酒は、飲んで判断するしかないですし。例えば杜氏さんから「この酒どう?」と聞かれても「こんな酒じゃ駄目だ」としか言えず。「絶対だめ?じゃあ、どんな酒をつくりたいの?」と聞かれても、飲食店さんに杜氏を連れて行き「こういう酒をつくりたい」としか言えない状態。「なんでこんな酒なんだべな?」と杜氏さんに言われて。このままじゃ、やばい。またもや、現実を突き付けられたのです。

 そんな中、人生の転機が訪れました。たまたま税務署から「県内蔵元で醸造研究所に行っていないの、あなたくらいだよ。せっかくこれまで企業体質を変えてきたのだから、行って勉強してきたら?」と推薦があったんです。これはラッキーだと思い、背中を押されるまま醸造研究所で勉強することになりました。

 そうしたら、もう目から鱗でしたね。これまで点だったものが線につながった。すると、例えば貯蔵にしても、もっと気を使わなければいけない、そのためには設備をつくらなければいけない、と気づくようになったんです。


自分に人生を教えてくれた師匠

 いろいろな経験を社会人の皆さんが仕事を通して学ぶように、自分は酒を通して、いろいろなことを経験させてもらいました。それは、人間関係だったり、経営方針だったり、酒質だったり。

 簡単に言うと、それは挨拶から始まりました。礼節を重んずる商売ですから、人に信用してもらうためには、礼節が大事。酒を通してお客さんからそれを教えられました。その上で、「他とは違う何か」とは何なのか。

 ただ単に「売れれば良い」だけなら、それでも良いと思ったのですが、「こういう風に売りたい」というイメージが、日高見のお酒と付き合いながら、次第に鮮明になっていったんです。

 「魚でやるなら日高見だっちゃ」。酒を通して映像化されていきました。商品ひとつ一つのストーリーも、そうした経験値の中から生まれてきました。

 人生勉強だよね。もし諦めていたら、この蔵は潰れていました。諦めたら駄目だということも、やっぱり酒が教えてくれたんです。

 自分の好きなことで飯を食っていることは、幸せなことです。何から何まで全てを自分でつくるから、酒は、ものづくりの楽しさも教えてくれました。

 これから海外に行けば、日本の歴史も勉強しなければいけないですね。寿司や魚の勉強もしなければいけないです。そういう意味でも酒に勉強させられ、酒に育てられているんです。

 魚でやるなら日高見だっちゃ。世界三大漁場の一つである石巻のお魚とうちの酒「日高見」の組み合わせを、季節に合わせながら、ぜひ楽しんで。お酒を通して食生活を楽しんでもらいたいですね。

 太陽の恵みを受ける日高見国、太陽の恵みを受ける酒って、かっこいいよね。そういうのが自分とリンクしていたのかもしれないですね。皆に楽しい気分になってもらう酒。

 まだまだ全国の皆様に楽しんで欲しいと思っています。宮城県の誇りであるような蔵元になりたいです。

 そして、自分に人生というものを教えてくれた師匠には、他のどの師匠にも負けないよう、光り輝いてもらいたいです。

―平井さん、ありがとうございました



平孝酒造:酒造り体験レポート:「良い酒は人の和が醸し出す」

【写真1】平孝酒造(宮城県石巻市)外観

 「日高見」醸造元の平孝酒造(宮城県石巻市)で今年1月、蔵に泊まり込みで、酒造りを体験取材させていただいた。

 伝統的な酒造りを行う蔵では、自然な低温環境である冬を利用して日本酒を仕込む「寒造り」が行われている。日本酒を造る蔵人たちとその長である杜氏が、冬の期間中、蔵に泊まり込み、朝食前の仕込みから夕食まで共同生活をしながら酒を醸す。

 それに比べれば1泊2日は短い時間であるものの、本取材では酒造りはもちろん、朝食・昼食・夕食、そしてお昼寝まで、蔵人たちの共同生活を体験させていただいた。美味しい日本酒はどのようにして生まれるのだろう。そのプロセスを現場取材した。


酒造りの基本は「人の和」

【写真2】夕食のようす

 その日の仕込みが一段落した後、夕食の席にお邪魔したときのこと。蔵人たちはその日絞ったばかりの日本酒で晩酌しながら、和気あいあいと食卓を囲んでいた。最年少20代、最年長70代。その年齢差を感じさせない親しげな会話は、まるで仲の良い大家族のようだ。

 驚いたことに、テレビ音に紛れてほとんど著者には聞こえない小さな声も、蔵人たちはお互いの声をよく聞き取っていた。その会話によく耳を澄ませてみると、冗談と冗談の間に「ちょっと辛すぎるな」「サバケ(米の散り具合)が少し良すぎたから(米の)吸水時間を少しあれしてくれ」などと、どうやら酒造りの情報交換がなされているようである。

 酒造りで一番大切にしていることは何か。そう尋ねると、蔵人たちは異口同音に「人の和が一番の基本」と答えた。杜氏の吉田啓一さんは「酒は一人で造るものではない。皆が意見を持ち合って、話の中から良い酒に向けていく。だから、話をせずにというのでなく、普段から和気あいあいとしていなければね」と言う。

 日本酒は、製造過程毎に役割を分担して造られる。洗米・給水・蒸しを担当する「蒸番」、麹(こうじ)米をつくる「麹師」、醪(もろみ)を管理する「醪係」、しぼり担当の「槽(ふな)頭」、現場をまとめる「頭」、総指揮をとる杜氏。

 蔵人たちの連携プレーで、1ヶ月以上かけて1本の日本酒は造られる。だからこそ、「人の和」が基本というわけだ。

【写真3~8】(上段:左上から順に)洗米・給水、蒸し、麹米づくり、(下段:左上から順に)醪の櫂入れ、発酵する醪、しぼり機


ゴミが散らかっていても平気な人は酒造りができない

【写真9】落ちた米粒を掃除する吉田杜氏さん

 そんな酒造りのシビアさを感じさせるエピソードがあった。麹米を麹室から醪発酵室へ運ぶ時に落ちた、わずか数粒の米。その米粒を直ぐ掃除する吉田さんの姿を見つけ、思わずその意味を尋ねた。すると吉田さんは「ゴミが散らかっていても平気な人は、酒造りができない」と言う。

 「日本酒造りは、酵母が働きやすい環境をつくる手助けをするだけの話。だから、それぞれの酵母に合う好環境を如何につくってやるかを常に考えながら酒を造ることと、ゴミが落ちていることに気がつくことは、どこかでつながっている」と吉田さんは語る。

 そもそも日本酒は、米を発酵させて造られる。発酵とは、「酵母」という微生物の働きによって、アルコールと二酸化炭素が生成される自然現象だ。しかし米には糖分がないため、そのままでは発酵しない。そのため日本酒は、まず米を麹の力で糖分に変え、そこに酵母を加えて発酵させるという、極めて複雑でデリケートな仕組みによって造られる。

 「教科書通りにいくら(最終工程の)醪の温度だけ厳密にコントロールしたとしても、醪の中に入っている(その前工程の)ものがいい加減なら駄目なんだな。途中でまずい点があれば、酒に必ず現れる。

 だから、普段から各部でお互いに気兼ねなく意見を言える雰囲気が必要なんだ。1~2タンク造るだけなら良いけど、約半年間かけて120タンクも造る長丁場だから、やっぱりお互いに相手を思いやりながらやっていかないとね。ある意味では、家族以上の生活をしている」と吉田さんは話している。


和醸良酒

【写真10】お茶飲み部屋で休憩する蔵人たち

 昨年の東日本大震災では津波被害もあった同蔵。設備等を再建しながら、今年も酒造りを行った。震災で仕事を失い、同社に新規雇用された20代の若者2名に蔵の印象を聞くと、「ここは人も良いし、楽しい。皆、冗談ばかり言う」「ファミリーだからね」と笑う。

 それを聞いた麹師の小鹿泰弘さんが「和醸良酒」という言葉を教えてくれた。「良い酒は人の和が醸し出す」という意味で、昔から酒造りで大切な基本と言われているそうだ。

 取材の最後に、休憩中のお茶飲み部屋で、杜氏の吉田さんに日高見のこれからについて聞いた。「良い酒を目指す人達ばかりだから、これからも日高見は伸びていくと思う。俺は今年で引退だけど、宮城県で一番になれるかな?あれ、それは言い過ぎか(笑)」

 その瞬間、一緒に居合わせた蔵人たちから大爆笑が起こった。なんだ、皆テレビの相撲観戦に集中していたのかと思いきや、実は、ちゃんと、吉田さんの声が皆の耳には届いているのだ。

 25年間、平孝酒造で杜氏を務めた吉田さんの引退後は、新杜氏となる小鹿さんを筆頭に30代若手にバトンタッチされる。「皆さんの期待を裏切らないよう造っていくので、これからもどうぞ日高見を応援してください」。そう語る吉田さんと蔵人たちの笑顔が、「和醸良酒」の意味を何よりも物語っているように感じた。



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高橋隆さん(東北大教授:物理学者)に聞く:科学って、そもそもなんだろう?

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高橋隆さん(東北大学原子分子材料科学高等研究機構教授)に聞く:科学って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2012年8月28日公開

人間は、「なぜ?」と思うものに対してわかりたいと思う、
非常に単純で基本的な欲求を持っている。

高橋 隆  Takashi TAKAHASHI
(東北大学原子分子材料科学高等研究機構教授
 /東北大学大学院理学研究科物理学専攻教授)

1951年新潟県生まれ。物性物理学、光電子分光が専門。1974年東京大学理学部卒業。1974-1977年会社勤務。1977年東京大学大学院理学系研究科入学、1981年中途退学(1982年理学博士)。1981年東北大学理学部助手、1994年助教授、2001年大学院理学研究科教授を経て、2007年から東北大学原子分子材料科学高等研究機構主任研究員(教授)(理学研究科教授兼任)。2005年文部科学大臣表彰(科学技術賞)。

一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。 
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が
それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


黒板の色はなぜ黒いのか?銅線が電気を流しやすいのはなぜか?
実は、物質の性質のほとんどすべてが、電子の性質で決まっている。

その電子の状態を、直接的・単純に見てやろうという実験手法が、
「光電子分光(こうでんしぶんこう)」だ。

世界一の分解能を誇る、高橋隆研究室の光電子分光装置には、
世界でここにしかない分解能を求めて、世界中から試料が集まる。

研究室の壁面にズラリと貼られた英国科学誌「Nature」が、
ここで、次々と新しい発見が生まれていることを物語る。

どのようにして世界最高性能の光電子分光装置は生まれたのか。
高橋さんに、そのプロセスを聞いた。


<目次>

■高橋隆さんインタビュー
こんな簡単な実験手段が世の中にあるのか!
これまでの研究は全部やめて、これからは高温超伝導だけで行く
なぜ世界一の分解能を達成する装置はできたのか
なぜ超伝導は起こるのか
世界最高の性能を誇るスピン分解光電子分光装置を開発
強力なモチベーションがなければ研究は飛躍しない
宇宙の中で知っているのは僕だけかもしれない
「何になれるか?」ではなく「何になりたいか?」
文章を書くことと実験から新しい発見を導くことは同じ

■学生インタビュー(東北大学大学院理学研究科物理学専攻 光電子固体物性研究室)
装置開発から測定まで
世界最先端で戦うこと
物理に対するシビアさ
後輩へのメッセージ


東北大学原子分子材料科学高等研究機構教授の高橋隆さんに聞く



こんな簡単な実験手段が世の中にあるのか!

―どんな研究をしているのですか?その研究をなぜやろうと思ったのか、何をおもしろいと思っているかを中心にお話ください。

 一言で言えば、「光電子分光(こうでんしぶんこう)」という実験手段で、物質の電子状態を調べることによって、その物質がなぜその物質であるのか?その理由を明らかにしようという研究をしています。

 物質には、いろいろな性質があります。例えば、黒板の色はなぜ黒いのか?銅線が電気を流しやすいのはなぜか?実は、その性質のほとんどすべてが、電子の性質で決まっているのです。

 ですから、電子の性質を調べることができれば、その物質がなぜその物質であるか?がわかるわけです。電子の性質を調べる方法はいろいろありますが、ある意味で光電子分光は一番、直接的で単純な実験手法なのです。そこに一番の動機があります。

―「光電子分光」は「電子の性質を調べることができる、直接的で単純な実験手段」ということですが、どのようにして電子の性質を調べるのですか?

 光電子分光は、一般の人にはあまり馴染みのない言葉かもしれません。光は波であると同時に粒であるわけですが、光電子分光は、1905年にアインシュタインが提案した「光量子仮説」に基づいた実験手法です。

 物質に光を当てると、光は反射や回折をしますが、それは光の「波」の性質によるものです。けれども、「光は粒」と考えますと、粒が物質に当たった時、その光が物質中の電子にエネルギーを与えて電子を外に叩き出すのです。すると、もともと物質の中にいた電子が物質の外に出てきます。

 僕らは、電子がその物質の中でどういった状態にあるのかを一番知りたいわけです。そのためには、物質の中にいる電子そのものを調べるよりも、物質から電子を外に引っ張り出してやれば、いろいろなことが直接調べやすいのです。

―他の実験手段との大きな違いは何ですか?

 ほとんどの実験手段は、電子を物質の中に置いたままで、外から叩いたり熱したり電流を流したりいろいろなことをして、その反応を見ているわけです。だから、あくまで間接的なんです。靴の裏から足を掻くみたいなところがあって。

 けれども、光電子分光は電子そのものを引っ張り出して見る手法なので、「こんな簡単な実験手段が世の中にあるのか!」と、初めて知った時は大きなショックを受けました。

―具体的には、光電子分光で、電子のどんな性質が調べられるのですか?

 一度外へ電子を出してしまえば、あとは電子のエネルギーや運動量など、いろいろな性質を調べることができます。そして、調べた電子の性質を物質の中に戻してやると、その物質の中での電子の状態がわかります。

 すると先ほどもお話した通り、物質の電子状態がわかれば、物質がなぜ金属になっているのか?物質がなぜ青い色をしているのか?といったことが、わかるわけです。

 このように光電子分光は、光を当てて出てきた電子を調べるという非常に単純な実験手段ですが、そこから得られる物理的な情報は直接的で、電子そのものの性質が見えるため、非常に魅力的に思えたのです。それが光電子分光の研究を始めたきっかけです。

―光電子分光にはどのようにして出会ったのですか?

 実は私、当時は大学を出て会社で働いていました。会社で仕事の合間にいろいろな論文を読んで勉強している時、たまたま光電子分光を知りました。それで「こんな簡単な実験手段が世の中にあるんだ!じゃあ、もっと勉強したいな」と思って、大学に戻ったのです。

―それくらい光電子分光に惹かれたのですね。それ以来ずっと光電子分光一筋ですか。

 ええ、そうです。ずっと、それ一本。本当に、光電子分光しかやっていないんです。

―「光電子分光」は、当時どれくらい確立された実験手段だったのですか?

 光電子分光そのものは比較的新しい実験手段ですが、理論的な基礎は、先ほど少し触れたように、約100年前のアインシュタインの仮説に基づいています。

 それが実験手段として1950年頃からぼちぼちと出始め、1960年頃から実験法の体(てい)を成してきました。私が参入したのは1980年頃ですので、光電子分光は実験手段として、あったことにはあったのです。

 けれども、私が研究を始める前までの光電子分光は、エネルギーの分解能が非常に悪く、電子の性質は見えるけど、ぼんやりとしか見えませんでした。当時はそれで良かったかもしれませんが、電子の性質をちゃんと調べようと思ったら、もっと詳しく調べたいわけです。

 細かい構造を調べることができれば、それだけより正確なことがいろいろわかります。そのため私自身が光電子分光を始めてから、特に集中的に努力したことは、エネルギーの分解能をどんどん上げることでした。


これまでの研究は全部やめて、これからは高温超伝導だけで行く

―そこまで詳しく「電子の性質を見たい」と思った動機は具体的に何かあったのですか?他の人もそうは思わなかったのですか?

 そこには、実際にモチベーションがありました。自分自身でも分解能を上げようという気持ちが当然あったわけですが、一番大きなモチベーションは、1986年、いわゆる「高温超伝導体」が発見されたことです。

 「超伝導」とは、電子が電気抵抗0で流れるという非常に不思議な現象で、物理学でも大変難しいテーマの一つです。なぜ超伝導になるか?は、まだはっきりとはわかっていません。

 高温超伝導が発見される前の「超伝導」は、マイナス270~マイナス260℃といった非常に低い温度、いわゆる「極低温(きょくていおん)」の世界でした。

 それが「高温」の世界に、(と言っても、マイナス170~160℃くらいなので、僕らの住む世界ではそれでも低いのですが)、従来と比べれば100℃くらい、ぽーんと(超伝導になる温度が)上がってしまったのです。これは大変な発見です。

 ひょっとしたら室温で超伝導になる物質が発見されるかもしれません。室温で超伝導になれば、例えば家庭への送電線など、全てのものが超伝導になるため、エネルギーロスが0になります。

 現在は、山奥で発電して街まで送電線で送る際の送電ロスが約10%と言われていますから、それが完全にゼロになるわけですね。10%のエネルギー節約はたいへん大きくて、エネルギーの節約にも大きく貢献します。

 物理学的にも、それまでは極低温でしか超伝導にならなかったものが、一気に100℃くらい上がったものですから、それはなぜかを調べようと、全世界の研究者が皆、高温超伝導にのめり込んだのです。それが今から25年くらい前のことですね。

 その時、「超伝導になった電子を見たい」と皆が思ったわけです。思ったのですけど、直接、超伝導になる電子を見てその性質を調べることが、なかなかできませんでした。

 超伝導になる電子を見てその性質を調べてやれば、なぜ超伝導になるかがわかります。それに、場合によっては、もっと高い温度で超伝導になる物質を探すことも可能になります。

 ですから、超伝導電子を見ようという努力は、いろいろな研究分野で行われました。光電子分光の研究分野においても、光電子分光は電子を直接見る実験手段なので、一番大きな期待がかかったのです。

 ところが、それまでの光電子分光の分解能では、とても超伝導の電子を見ることはできませんでした。しかし、「超伝導の電子を見るには、光電子分光しかない!」ということで、世界中の光電子分光の研究者が、分解能を上げる競争を行ったのです。

―それくらい「高温超伝導体」の発見はセンセーショナルな出来事だったのですね。

 そうですね。いかに高温超伝導がすごいかと言いますと、私自身の話ですが、「高温超伝導、発見!」というニュースが耳に入った瞬間、私はそれまでの研究を全部やめて、「これからは高温超伝導だけで行く」と決意しました。

 それはちょうど11月頃、修士論文や卒業論文の季節だったと思うのですが、研究室の学生を集めて「これまでの研究は全部やめる。これからは光電子分光の分解能を上げて、高温超伝導1本でやる」と宣言しました。なかなか学生さんも大変だったと思います。

―これまでの研究を急にやめることは、なかなか勇気のいることではありませんでしたか?

 もともと超伝導には興味があったのですが、光電子分光では難しいかな、という気持ちがあったのです。理由は簡単で、それまでの超伝導は極低温でしか出なかったため、低い温度での光電子分光実験が難しかったのです。ところが、100℃くらい(超伝導になる)温度が上がってしまえば、測定が比較的容易になってきます。

 なおかつ、超伝導になる温度が全く不連続的に、一気にぽーんと約100℃も上がってしまうことは、言ってみれば、物理学における大革命なんです。もう100年、200年に1回くらいしかない大革命なんです。これは素晴らしい、すごいことが起きた!それまでの研究に比べれば当然、やる価値が全然違っている、ということです。

 ですから、何の躊躇もなく高温超伝導の方に乗り移りました。それくらい、世界中の研究者が高温超伝導を研究し始めたのです。今でも超伝導は続けていますから、あれから25年以上も研究を続けていることになります。


なぜ世界一の分解能を達成する装置はできたのか

―それだけ世界的に大きなインパクトがあるということは、それだけ競争が激しいということですね。

 全くそのとおりですね。

―高橋さんの「光電子分光」の装置は世界一の分解能を誇り、ここにしかないものだから、世界中からサンプルが集まってくると聞きました。その競争の中で、どうやって世界一になったのですか?

 今では確かに世界一の分解能を達成する装置を完成させることができましたが、当時はそこまで行っていませんでした。高温超伝導が発見されたばかりの約25年前の段階では、私の持つ装置は素晴らしくも何とも無く、世界中に何台もある装置の一つでした。

 けれども、やはり「世界に先駆けて何としても装置を高分解能化し、世界のトップに行かなければいけない」と思ったものですから、寝る間も惜しんで実験を続けました。

 測定できる場所があれば外国でも何処へでも行って実験しました。新しい高温超伝導体の試料も、私は専門家ではありませんでしたが、高温超伝導体の単結晶を自分で作ったりもしました。他人に頼む時間ももったいなかったものですから。

 あの頃は、本当に忙しかったですね。それを数年間続けました。その過程で、研究費をあちこちに申請してお金を少しずつ工面して、高分解能装置の建設を続けて現在に至っています。

 ですから現在の装置は1日にしてできたわけではなく、約25年の歴史を持っているのですよ。

―世界中の研究者も皆頑張った中で、なぜ高橋さんの装置が世界一になったのでしょう?

 なぜ自分の装置が一番か?は、それは自分でもわからないと言った方が正しいですが、モチベーションだけは世界一強かったと自負しています。もう何が何でも装置の高分解能化を早くやらなければいけない。それだけが常に頭の中にありました。

 それに、装置を高分解能化するためのいろいろな原理・原則があるわけですが、それ自体は非常に単純で、それほど難しいことではありませんでした。光電子分光の原理・原則に忠実に従って実験装置を設計して開発すれば、エネルギー分解能は出るものなのです。

 ですから別に特別なマジックを使ったわけでも何でもなくて(笑)、非常に基本的な原理に忠実に従って装置をつくったということです。では他のグループはそれをやらなかったのか?については、単にスピードだけの問題かもしれません。

 また原理・原則に従って装置をつくっても、その装置の精度が結構影響します。ですから同じ装置でも、ある人がつくれば高い分解能が出たり、ある人がつくれば出なかったり。そこも自分なりに手抜きをせずに(笑)やったと自分では思っています。


なぜ超伝導は起こるのか

◇高温超伝導を引き起こしている力は電子の「スピン」

―それでは、光電子分光という実験手段を用いて、高温超伝導の電子状態を調べた結果、どんなことがわかったのですか?

 低温で超伝導になると、それまで1個ずつバラバラだった電子が突然ぱっと2個でペアを組む、いわゆる「超伝導ペア」になります。その超伝導ペアになった電子に、光を当ててやり、電子を物質の外に引っ張り出して、電子のいろいろな性質を調べるわけです。

 まず一番最初に調べたのは、「超伝導ギャップ」というものです。超伝導になると、電子のエネルギー状態に電子が存在できない状態ができます。これを超伝導ギャップと言います。そのギャップの大きさを測ってやると、超伝導になっている理由がある程度わかります。それはエネルギー分解能を上げることで見えてくるので、エネルギー分解能を上げた装置で測定できたわけです。

 そして、超伝導ペアの電子には、「対称性」という性質があります。超伝導電子には、丸とか四角とか、いろいろな対称性がありますが、すべての方向に対して区別のない、まん丸い対称性を「s対称性」と言います。sの他に、p、dといったいろんな対称性があります。

 僕らが光電子分光で超伝導ペアの電子の対称性を調べてやると、「d対称性」であることがわかりました。dの対称性とは、四つ葉のクローバーのような対称性です。ある方向では超伝導が非常に強いけれども、それから45度傾いた方向では超伝導が弱くなるという対称性です。それが光電子分光でわかりました。

―超伝導ペアになった電子の対称性がわかると何がわかるのですか?

 電子は超伝導になる力をどこかからもらってペアをつくるわけですが、対称性がわかれば、電子と電子をくっつける力は何かがわかります。

 高温超伝導発見前までの超伝導体は、すべてs対称性でした。結晶の格子にある原子核の運動エネルギーをもらって電子が超伝導ペアをつくると、sの対称性になります。

 ところが、今回の高温超伝導体は、「どうもs対称性ではないのでは?」と当初から言われていました。それを実際に光電子分光で調べてやると、dの対称性であることが明らかになったのです。超伝導を引き起こしている力が、結晶の格子ではなく、電子の持っている磁石の性質である「スピン」が関与してくると、dという対称性を持ちます。

 つまり、光電子分光を用いて、高温超伝導を引き起こしている力が電子のスピンであることがわかってきました。ですから、スピンをうまく調整することができれば、もっと高い温度で超伝導になる物質ができるだろう、と実験的に明らかにしたわけです。

 そのような研究を15年くらい、ずっとやってきました。その間、エネルギー分解能をどんどん上げながら進めてきました。

◇鉄系の超伝導も研究

―では、ここ10年の研究についてはいかがですか?

 我々の光電子分光装置の分解能がだいぶ上がってきましたので、超伝導ギャップや超伝導の対称性なども、かなりはっきり見えるようになりました。

 高温超伝導体の発見以降も、いろいろな超伝導体が発見されました。最近は、2008年に東工大の細野秀雄先生が発見された、鉄系の超伝導体について研究しています。

―鉄系の超伝導体は、どんなところがおもしろいのですか?

 超伝導は普通、磁石(「磁性」と言います)とは敵対するもので、磁石があると超伝導が壊れてしまいます。鉄は磁石の代表みたいなものですね。それなのに鉄が入っているにもかかわらず、なぜ超伝導になるんだ?非常に不思議だ!それでいて超伝導になる温度が結構高いものですから、大きな注目を浴びたのです。

 結論を言いますと、光電子分光で見た結果、鉄系の超伝導体では鉄の磁石の性質が消えていることがわかりました。その一方、超伝導になるメカニズムに関しては、鉄の持っている電子のスピンが関与しているのではないか、ということまで分かってきました。

―電子のスピンと言えば、先ほどの高温超伝導のお話とも似ていますね。

 そうですね。高い温度での超伝導には、電子のスピンが関係している事を示しているのかもしれません。

 最近は、超伝導からちょっと離れて、電子のスピンそのものに注目した研究を始めました。


世界最高の性能を誇るスピン分解光電子分光装置を開発

―なぜ最近は「電子のスピンに注目」しているのですか?スピンの説明も含めて、詳しくお願いします。

 電子は、3つの基本的性質を持っています。まず、エネルギーと運動量。この2つについては、これまでの高分解能光電子分光装置で、かなり精度よく測定できました。そういった装置を使って、高温超伝導体や鉄系超伝導体を研究してきました。

 電子にはもう一つ重要な性質があります。それがスピンです。簡単に言いますと、電子の磁石の性質です。電子はぐるぐると自転して回っていますから、地球が回ることで北極と南極ができるのと同じように、電子も磁石を持っています。電子の磁石は2種類しかなくて、上向きと下向きしかありません。

 ですから電子の性質としては、エネルギーと運動量、そしてスピン、この3つです。この3つを決めてやれば、すべてが決まってしまうのです。ところが、これまでの光電子分光は、エネルギーと運動量まではかなり精度よく決めることができましたが、スピンは決まりませんでした。

 私自身もずっとそれを考えていて、何とかスピンを測る光電子分光装置をつくれないかと、ここ7~8年くらい前から、スピンを検出する装置を光電子分光につけよう、と開発を進めてきました。

 JST(独立行政法人科学技術振興機構)から研究費支援を受けて、スピンを検出できる光電子分光装置を立ち上げました。試行錯誤を繰り返して、完成まで5年ほどかかりました。

―電子のエネルギーと運動量の他に、スピンも決めてやれば、電子の性質はすべて決まるとのことですが、スピンに注目する理由は、他にもありますか?

 なぜスピンか?というと、特に最近、いろいろな意味で、スピンを使ったデバイスや材料が注目され始めています。スピンは先ほどもお話した通り、上向きと下向きしかないので、0と1に使えます。そういう意味で未来のコンピュータに使えると期待されます。

 普通の電子回路では、電子の流れ、つまり電流を利用して回路を動作させていますが、そのエネルギーはエレクトロンボルトであるに対して、スピンのエネルギーはミリエレクトロンボルトですから、エネルギーが2~3桁も小さくなります。すると、そこで消費されるエネルギーも格段に小さくなりますから、省エネルギーのデバイス素子に使えると、注目を浴びています。

 ですから電子のスピンをちゃんと測って、電子のスピンが物質の中でどちらを向いているか?どっちの向きに流れているか?などを皆知りたいわけです。

 それを見てやろうということで、スピン分解能のある光電子分光装置をつくりました。それが現在、東北大学片平キャンパス(WPI-AIMR)にある装置です。世界最高の分解能を達成している装置です。

―電子の性質を決めるエネルギー・運動量・スピンの3つすべてを決めることができるようになったことで、物質の性質にぐんと迫ることができるようになったわけですね。

 そうです。今回我々が開発した装置は、電子の持つ基本的な3つの物理量である、エネルギー・運動量・スピンを全部決めることができます。

 これから分解能はまだまだ向上させる必要がありますし、世界中に競争相手がたくさんいますが、現状に満足しないで、より高分解能な装置の建設を目指しています。


強力なモチベーションがなければ研究は飛躍しない

―これまで約25年間の研究開発の中で、一気にひらけた瞬間はありましたか?それとも、なだらかに積み上がった感覚でしたか?

 なだらかではなかったと思います。例えば、装置の開発に関しては、意外と初期段階で上手くいったんじゃないかな、と思っています。先ほども少し触れたように、エネルギー分解能を上げるための基本的な原理は、教科書にちゃんと書いてあるのです。

―具体的には、どうやったのですか?

 なるべくエネルギー分析器を大きくして、エネルギー分析器に入ってくる電子のスリット(孔)の大きさを小さくする。こうすれば原理的には分解能が上がります。それをそのまま信じて、その通りにやったんですね(笑)。最初は「こんなのでうまくいくのかな?」と思っていたのですが、これが結構うまくいったのです。

 それは自分でも、ちょっと驚きました。それくらい簡単に分解能が上がった、というのもありますけど。逆に言えば、それまでの人は一体なんでこういうことに気づかなかったのだろう?と。

―なぜ他の人は気づかなかったのでしょうか?

 他の人がやらなかった理由は分かりません。それだけの分解能は必要ないと思っていたのか。あるいは、もっと分解能を上げて、例えば「超伝導電子を見よう」という動機がなかったのか。

 強いて言えば、大きな電子分析器を精度良くつくる技術が、以前はなかったのかもしれません。高精度の大きなエネルギー分析器をつくるには、その表面を非常に平坦に研磨する必要があるのですが、ちょうど私の頃に加工精度が上がってきて、要求通りのものができたのかもしれないですね。

 私の場合、超伝導電子を見たい、そのためにはどうすればいいかを考えた結果、教科書通りの基本に立ち返って装置をつくった、ということです。

 やはり、研究に対する強いモチベーションが、一番の駆動力じゃないでしょうか。「何が何でもわかりたい」「これがわからなければ研究は進まない」と思えば、それを測るためにはどうすればいいか?を真剣に考えます。逆に「今見えているもので十分だ」と満足すれば、装置の改良はしませんから。

 何かをしなければいけないという研究上の強力なモチベーションがないと、研究はジャンプしないです。研究における発展というのは、そんなものだと思います。


宇宙の中で知っているのは僕だけかもしれない

―それでは、高橋さんの個人的なモチベーションは、どこからやってきたものだと思いますか?

 それはなぜ研究者になろうと思ったか?にも関係しているかもしれません。僕たちは、ものごとに対して、「なぜ?」と常に考えますよね。例えば、超伝導体を見たときに、なぜ超伝導になっているのか?、それを何とかして解き明かしたい気持ちが湧いてきます。その辺じゃないかと思いますね。

―研究している雰囲気もそんな感じですか?

 そうですね。私が大学院生の頃は、研究室にそれほど学生がいなかったので、一人で装置を作ったり実験をしていました。1年とか2年とかかけて装置を作りますが、作った装置が動作して実験データを出し始めた時が一番ワクワクドキドキしましたね。また、夜中に徹夜で実験をしていて、しーんとした実験室(実際は装置の音が結構うるさいのですが)で、実験結果がプロッターで出てくる。そこに今まで見たことのないスペクトルが出ることが、たまにあるのです。

 今まで見たことのないスペクトル(間違っている可能性もないわけではないですが、そこは後で考えるとして)、ひょっとしたら、このスペクトル、世界中で知っているのは、僕だけだ!と思っちゃうわけです。そうすると、思わず大きな声で笑ったり、歌を歌いたくなってしまいます(笑)。

 今までと何も変わらない結果が出た時は、そんなにワクワクしないですが、今まで見えていなかったものが見えていたり、今までとは全く違う結果が出た時は、やっぱり本当に飛び上がるくらい、嬉しいですよ。やった!と言う気持ちで、自然に笑い出してしまいます、夜中の実験室に響き渡るくらい(笑)。

 自分の作った装置で、自分で測って、世界中の誰も知らないことを今、自分が一番最初に知っている。これは、なかなかすごいインパクトだと思います。もし自分がこれをやらなければ、世界中の誰も知ることがないかもしれないと。


 そういう喜び(?)があるから、研究者は普段は地味で泥臭い実験装置作りなんかをやっているんだと思います。あまり目立たないですけども。でも本当に、何年かに一回かもしれませんけど、非常に誇らしい瞬間があるんじゃないですかね。ぽっ、とね。研究を続けてきたのは、そういう経験があったからだと思います。

―今まで、そのようなことは何回、どんな時にありましたか?

 大学院生の頃は、1~2回あって、それで論文を書きました。もう一つは、高温超伝導の時ですね。

 高温超伝導が発見された時、世界中の偉い理論家の先生たちが「これまでの超伝導と違って、超伝導ギャップが開くところにもともと電子はいない」と提案して、ほとんどの研究者がそれに従い、それが常識だと思われていました。けれども僕が光電子分光の実験をしたら、超伝導ギャップが開くところにちゃんと電子がいるんです。光電子分光で、高温超伝導になる電子を見つけたんです。

 僕自身は、自分の実験結果が正しいと確信していたので、すぐに論文を書きました。それが、私が一番最初に書いた「Nature」(英国科学誌)で、一晩で書き上げました。

―それは、すごいインパクトだったのでは?

 それは、ものすごいインパクトでした。Nature本社(ロンドン)が世界中にそのニュースを配信した途端、世界中の新聞社や日本のいろいろな国の大使館から、私のところへ問い合わせが来ました。私はたまたまその時、東京で会議をしていたのですが、会議中に新聞記者が来て、いろいろ聞かれたり、写真を取られたりして。驚きましたね、あの時は。

 そういう経験を、研究室の学生さんたちにもしてもらいたいと思っています。君のやっていることは世界最先端の研究で、これをもし君がやらなければ、誰もやれないとね。

―一番ベースにある原動力は、人間のシンプルな欲求なのですね。

 そうですね。子どもを見るとよく分かりますが、人間は、「なぜ?」と思うものに対してわかりたいと思う、非常に単純で基本的な欲求を持っていますよね。

 わからないことを何とかわかりたいという欲求を、自分の中で熟成させて、それを物理学の分野で、高温超伝導をやったり、いろいろな研究をしているということかなと思います。

 自分のやっていることは他の人は誰もやっていない、場合によっては自分しか知らなくて、今まさに自分がそれを解き明かそうとしているわけです。それがわかった時の喜びは、非常に大きいと思うのです。ドキドキワクワクするような気持ちです。

 そういうものを解き明かしたことによって、人間の知的欲求に対する達成感のようなものが、人間には備わっていると思うんです。そうでなければ、なかなかこんなに難しい実験装置をつくって、なおかつ、それで一生懸命測るようなことはできないですね(笑)。


「何になれるか?」ではなく「何になりたいか?」

―今までのお話を踏まえて、中高生も含めた読者に、メッセージをお願いします。

 自分のやりたいことは、そう簡単には諦めないことです。実は私、小学校の卒業文集に、「将来、研究者になりたい」と書いてしまったんですね(笑)。大学などに入っても、なれるかどうかわからない状態でしたが、今から思えば、紆余曲折しつつも、やっぱり研究者になりたい気持ちを諦めなかったんじゃないかな、と思っているのです。

 中高生や大学に入学したばかりの若い人たちは、自分が将来どういったものになりたいか?を考える時、場合によっては、小学生の頃に思っていたことも、短い間では揺らぐかもしれない。しかし、それをいつまでも持ち続けていけば、いつか必ず実現するのではないかと私は思っています。

 若い人たちを見て感じるのは、「自分は何になれるか?」と考えている人がたまにいるのですね。けれども、「何になれるか?」ではなく「何になりたいか?」ではないか、と思うのです。

 「自分が何に向いているか」や「自分の能力はどういう方向に向いているか」と考えることもあるでしょう。それはそれで良いかもしれませんが、自分自身が何になりたいのか、自分自身の気持ちをはっきりと持つことが大切と思っています。


文章を書くことと実験から新しい発見を導くことは同じ

 また、中高生には本をたくさん読んでもらいたいですね。本と言っても、しっかりとした文章で書かれた本です。きちんと論理的にものごとを考えて書いてある文章を何回も読んでいると、ものごとを論理的に考える習慣がつきます。私自身は、理系・文系問わず、いわゆる国語が一番重要だと思っています。要するに、文章力ですね。それをしっかりと身につけるべきだと思っています。

 理系・文系問わず、ものごとを論理的に考えて、人に説明する時は、自分の頭の中で文章を組み立てますね。その時に、いろいろな本を読んで、論理的な思考回路を学習していると、人に伝える時もわかりやすい説明になります。それは大人になっても、いろいろな場面で、とても大事なことです。

 まさにそれはサイエンスも同じなのです。実験をして、いろいろある実験データの中から、それを論理的に組み立てて、そこからいろいろな結論を引き出し、新しい発見を導くことは、文章を書くことと全く同じ論理回路になっていると思います。文章も同じで、単語がたくさんあって、それを論理的に組み合わせてつなぎ合わせ、相手に説明した時に、それが伝わるということですから。

 そのような意味で、相手に正しく理解してもらえる、論理的な説明や文章を書く力を付ける。そのためには、文学にしても評論にしても、しっかりとした著者の文章を読んでおくことが大切だと思います。

―高橋さん、本日はありがとうございました。

「お気に入りの場所の前で撮りましょう」との提案に「本が好きなので、では本の前で」と高橋さん。「本を読むことが大好きで本を沢山読んでいます。評論や歴史的なものも。それが結構おもしろくて、役立っていますね」とお話されていました。


学生インタビュー(東北大学理学研究科物理学専攻 光電子固体物性研究室)


装置開発から測定まで

―まずは、それぞれの研究についてご紹介ください。

高山あかりさん(博士課程後期3年):
 高橋研究室は、いろいろな物質の中の電子を見るという研究室です。電子の何を見るかというと、電子がどの方向に動いているか(これを「運動量」と言います)、どれくらいのエネルギーを持っているか。それに加えて、スピン(自転の向き)、この3つを電子は持っています。

 これまで高橋研究室では、エネルギーと運動量に関しては、世界最高レベルの装置を持ち、たくさんの結果を出してきました。けれどもスピンは検出するのが難しかったため、スピンを高分解能で観測できる装置をつくろうと、私もその建設にずっと携わって、今年で5年目になりました。ようやく建設した装置が世界1位の性能を出すようになって、現在はその装置を使って、スピンを示す性質をいろいろ測っています。

田中祐輔さん(博士課程前期2年):
 僕の実験は、エネルギーと運動量を測定できる、角度分解光電子分光装置を使って、新機能性物質である「トポロジカル絶縁体」という物質について研究しています。そもそもトポロジカル絶縁体とは、とにかくスピン偏極している物質でして...難しいですか?

―ではトポロジカル絶縁体から説明をお願いします。

高山さん:
 数年前、トポロジカル絶縁体という新しい物質が見つかりました。普通の結晶で考えたとき、「トポロジカル絶縁体」は基本的には絶縁体です。プラスチックや木などといったものと一緒の扱いですね。けれども、中身は絶縁体なのですが、一番外側の表面のところだけ金属の働きをするんです。一つの物質なのに、金属と絶縁体の両方が存在しているという不思議な物質です。

 それに加えて、金属の性質を示す表面では、スピンの向きも特殊です。普通の金属では、スピンは360度ぐるぐるまわって、自由な方向に向いていますが、トポロジカル絶縁体の場合、スピンがある一定の方向しか持てないという、変わった性質があります。

田中くん:
 僕が今研究している物質は、トポロジカル絶縁体の絶縁体部分が超伝導を示す「トポロジカル超伝導体」です。トポロジカル超伝導体は、中身が絶縁体ではなく超伝導体で、表面に金属的な状態があるという、これまでにないすごく特殊な状態です。

高山さん:
 イメージ的には揚げ豆腐かな。中身の豆腐が絶縁体、もしくは田中くんが最先端でやっている超伝導体。まわりの衣の部分が金属。あんなイメージです。

田中さん:
 まさに、揚げ豆腐な感じです。そもそも「トポロジカル超伝導体」という物質自体、理論的にはあると予測されていますが、まだ見つかっていないので、それを発見すること自体に意義があると思っています。


世界最先端で戦うこと

―次に、研究生活の中で、特に印象に残っていることは何ですか?

高山さん:
 一番は、世界最高分解能の装置ができた瞬間です。高橋研究室に来て1年くらいの時に、一番良い分解能が出た瞬間が、やっぱり一番インパクトが大きかったですね。

 それから、私の場合は自分で試料をつくってから装置で測るので、その試料の出来具合です。ちょうど昨日も失敗して、今朝できたものを「やったー!」と思って測ったら、違うものができていたので残念でした。

 やっては駄目を繰り返して、試行錯誤して良い試料ができる。なおかつそれを分解能の良い装置で測って、すごく綺麗なデータが出た時、やってよかったなと思います。がっかりも多いですけどね。今回もいっぱい失敗しました(笑)

―そんな中、研究で心がけていることは何ですか?

 他の人より高品質な試料をつくりたい、という気持ちが一番あります。そして、効率良くやることを心がけて頑張っています。世界中で同じような物質を研究している競争社会なので、あまりゆっくりやっていると、競争に負けてしまうこともあるからです。

 同じことを研究して、同じ結果が出た他のグループに、先に成果を出されてしまうと、私が1年くらいかけた研究が全て無駄になるので、それは悲しいですよね。

 ですから、着目点が大切だと思います。他のグループではあまりやらないけど、おもしろくて、なおかつ試料をつくるのが難しいものを、できるだけ早くつくれるようになりたいと思っています。

田中さん:
 自分は、学部卒業研究の時に、「鉄系超伝導体」という鉄を使った超伝導の研究をさせてもらいました。鉄系超伝導体が、なぜ超伝導になるのか?そのメカニズムを知るためには、超伝導ギャップというものを測る必要がありました。

 それを測るためには、私たちの研究室にあるような世界最高水準のエネルギー分解能を持つ装置でなければ測れません。超伝導状態の試料の超伝導ギャップを測ることに成功したときに、やっぱり世界最高の装置があるのは凄いことだ!と実感しました。

―そのような世界最先端に立つ気持ちは、どんな気持ちですか?

高山さん:
 普段はあまり最先端という実感はないのですが、高橋先生はじめスタッフの人たちが、世界第一線で活躍している人たちなので、そのような研究者を間近で見て、一緒に実験することで、「良い結果を出すためには何が必要で、どんな手順を踏んで、こういうことが見たい」というモチベーションで実験することが最先端の研究には重要だと教えられました。

手取り足取り全てのことをスタッフから教えてもらっていることが、一番良い勉強になっていますね。

田中さん:
 世界最高の装置なので、とにかく自分が壊さないように(笑)...常に気をつけています。やっぱり壊してしまうと、数日間、作業が遅れてしまうので。世界で過酷な競争が行われているので慎重に作業しています。

高山さん:
 壊したことで覚えることもあるから、それも大事だと私は思うけどね。私の最近の仕事は、装置修理が多いんですよ(笑)。でも、自分達で装置を組立てているから、何かトラブルが起きたとしても、自分達で対処できるんです。外から買ってきただけの装置では、自分達で直せないとか、どうしようもない、となるんですけどね。


物理に対するシビアさ

―では研究室の雰囲気について伺います。一言でこの高橋研究室をあらわすと?

高山さん:
 団結力が強いと思います。大きなプロジェクトが走って、「これはどうしても絶対に測らなければいけない」となった時は、研究室総出で測るのですが、その時の団結力がすごく強いと思いますね。例えば、鉄系超伝導やトポロジカル絶縁体といった流行物質があらわれた時、それを測る時の団結力は怖いくらいです(笑)

田中さん:
 新しい物質が現れると、それにむかって、がんと集中しますよね。

高山さん:
 新しい物質が(世界最高水準の装置を求めて)来る確率が高いからね、うちの研究室は。

田中さん:
 僕は、とてもあたたかみのある研究室だと思います。例えば、何か興味があることや質問したいことがあると、助教の相馬さんや准教授の佐藤さんのところに気軽に訪ねて、1を聞けば10を答えてくれます。そういう雰囲気を僕は気に入っていますね。

―では、高橋先生はどんな先生だと思いますか?

田中さん・高山さん:
 それは難しい質問ですね(笑)。厳しい方だと思います。

―どのようなところが厳しいのですか?

高山さん:
 研究に対して、すごく厳しいです。単に「実験をやってみたい」だけでなく、「こういう結果が出そうだから、やってみたい」と見通してから実験をしなければ駄目なんです。

田中さん:
 実験屋さんとして、物理的描像をすごく大切にされると、一番最初に思いました。「式でこうなるからこうなる」みたいな理解では駄目で、「そこにこういう物理があるから、こうなる」という説明を、いつも求められる気がします。学会発表や卒論発表などで適当な答えをすると、そのたびに修正されて、すごく厳しい方だと思います。

―学生さんにもお話を伺えて良かったと思います。先ほど、高橋先生にもインタビューさせていただいたのですが、皆さんからお話いただいた「厳しい」側面より、むしろ「なぜ?を解き明かしたい」という知的好奇心でずっとやってきたとお話されていました。「物理に対する厳しさ」はそこから生まれる結果でしょうが、まわりから見るとそれがシビアさとして映るのですね。それを学生さんの立場からお話していただけて、良かったと思います。

高山さん・田中さん:
 それは、良かったです(笑)


後輩へのメッセージ

―最後に、今までのお話を踏まえて、中高生も含めた読者にメッセージをお願いします。ご自身が大切だと思うことを、メッセージにかえてください。

高山さん:
 高橋先生も仰るように、「なぜ?」と思う気持ちが大切だと思っています。最近読んだ本によると、理系の人は、何か不思議に思ったことを自分で調べ始める存在なのだそうです。「へ~」と思うだけで終わらず、「なぜ?」というところまで自分で調べるそうですよ。

 文系・理系に限らず、普通に生活していると、不思議なことはいっぱいあると思います。ですから「不思議だな」と思ったところで「まぁ、いいか」じゃなく、そこから先に一歩進むだけで、たぶん見え方が変わるのかなぁ、と自分の生活を通して思います。

 それから、高橋先生は「見通しを持ってやれ」と仰っていますが、時には「まずやってみる」のも大事かな、と。私はどちらかと言うと、見切り発車型なので(笑)。思わぬ発見があるかもしれないので、時には冒険も大切!と思って勉強や部活を頑張ってください。

田中さん:
 中高生にメッセージを言える身分ではとてもないですけど(笑)。中高生と言えば、受験などがあるでしょうね。その中で、苦手科目や興味のない分野もあると思います。けれども「興味ない」と言った瞬間、そこで全ての思考が止まってしまいます。

 ですから「興味ない」という発想は捨てて、「全て吸収してやるぞ!」という意欲的な姿勢でもって、興味の芽はつまないでほしいですね。それが今度は、例えば自分の得意科目など、どこかでつながるかもしれないし、新しい世界が拓けると思います。

―高山さん、田中さん、本日はありがとうございました。

日本アンドロイドの会、ICTによる復興支援イベントを10月に仙台で開催

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日本アンドロイドの会、ICTによる復興支援イベントを10月に仙台で開催

2012年8月29日公開

 情報通信技術(ICT)を活用して震災復興を支援しようと、「ICT ERA + ABC 2012 東北」が10月20日、東北大学川内萩ホール(仙台市)で開催される。グーグルの携帯電話むけ基本ソフト(OS)「アンドロイド」の普及啓蒙を目指す「日本アンドロイドの会」の主催。同会が半年に1度開催するイベント「Android Bazaar and Conference(ABC)」の拡大版で、首都圏以外では初の開催となる。

「ICT ERA + ABC 2012 東北」プレイベントのようす=8月27日、仙台国際センター

◆8月27日に仙台でプレイベント開催

 開催に先立ち、プレイベントが27日、仙台国際センター(仙台市)で開かれた。プレイベントでは、まず同会の丸山不二夫会長が「ICTの力で震災復興し、新しい時代を拓こう。また、全国のIT技術者に被災地の現状を知ってもらう場にしたい」と挨拶。「ICTの新しい時代の担い手である、若い世代にもぜひ多く参加してもらいたい」と呼びかけた。

グーグル日本法人元社長・前名誉会長の村上憲郎さんによる記念講演

◆グーグル日本法人元社長の村上さん記念講演

 続いて、グーグル日本法人元社長・前名誉会長の村上憲郎さんによる記念講演「ICTで切り拓こう新生スマートニッポン」があった。村上さんは「現在、電力網に接続している物はすべて、将来インターネットに接続される。インターネットは人と人だけでなく、人と物、物と物とのコミュニケーションツールになる」と、インターネットの最前線として「Internet of Things(物)」の側面を強調。国内外の事例や課題を紹介し「日本は遅れを取ることのない一層の努力が必要。日本の若い世代のアイディアを期待する」と話した。

アンドロイドの会・会長の丸山不二夫さんによる講演

◆グーグルの新しい検索技術を紹介

 次いで行われたプレセミナーでは、丸山会長が「グーグルの新しい検索技術--KnowledgeGraphについて」と題して講演。グーグルの新しい検索技術と課題を解説しながら「人間の言葉を、単なる文字列ではなく、意味として機械に理解してもらいたい。そんな欲求が高まって今、イノベーションが起こりつつある」と、検索技術に大きな変化が起きていることを紹介した。

東日本大震災復興支援活動「ITで日本を元気に!」について講演する佐々木賢一さん

◆地元IT企業らによる震災復興支援活動

 また、地元IT企業の経営者らによる東日本大震災復興支援活動「ITで日本を元気に!」を紹介する講演が佐々木賢一さん(トライポッドワークス社長)からあった。佐々木さんは被災経験から感じたITの課題や、PC提供やSNSミニ講習会など被災者のニーズに合わせた支援活動を紹介。「IT企業が力を発揮できることはまだまだある。復興は長く続くので地道に活動を続けたい」と話していた。

 「ICT ERA + ABC 2012 東北」は、IT業界の社会人に限らず、学生の参加も歓迎している。参加は無料。9月には、学生向けのプレイベントも仙台市内で開催される予定。くわしくは「ICT ERA + ABC 2012 東北」のホームページを。


インタビュー(中高生の読者へメッセージ)

◆理科や物理の勉強はこれから生きる上で大事
/丸山不二夫さん(日本アンドロイドの会・会長)

―そもそもアンドロイドの会とは?

丸山不二夫さん(日本アンドロイドの会・会長)

 日本アンドロイドの会は、「アンドロイド」というスマートフォンのデバイスを日本で普及させようと、自主的・自発的に集まった人たちの集まり。監督者は誰もいない、自分たちで自律的に組織を維持する集まりを「コミュニティ」と言う。そういった人達が全国に約2万人いて、30以上の支部がある。非常に活発に活動しているコミュニティ。

 あとは「オープンソース」と言って、皆が情報を共有しようというムーブメントの一つでもある。オープンソースとは、例えば数学なら、公理や定理は証明したら、誰も「自分のものだ」とは言わないね。数学は昔から、オープンソース。物理も同じで、物理法則も発見したら名誉になるけど、お金に直接はならないわけ。そういう風に情報を共有しようという流れが、オープンソース。

 つまり、日本アンドロイドの会は、オープンソースの情報共有をベースにした、自主的・自律的なコミュニティという特徴がある。ちょっと難しいかもしれないけど、そういうものもあるんだ、と覚えてもらえたら。そのオープンソースで携帯をつくろうとしたのがアンドロイド。要するにキーワードは、オープンなコミュニティが支える、デバイスだということ。

―では講演内容をふまえて、中高生を含めた読者にメッセージを。

 今、受験や学校の勉強で、悩むことや意味がわからないこともあるかもしれない。でも、ずっと勉強することは大事なこと。今は、その意味がわからなくても必ずわかるし、今の中でも、好きになればわかることは、たくさんあるはずだと僕は思っている。

 そういう意味では、むしろ理科や数学の勉強は、これから生きていく上でも大事だと思って欲しい。数学や物理は、これからの社会や人間を理解する上でも非常に大事なことだし、そこを避けては、わからないことが、むしろ広がるだけだと思う。科学的・合理的に自分の力を拡大して解決する世界観をきちんと持って欲しい。

 日本では、数学や物理が良くできる子を皆よってたかって医者にする。でも、そういう日本の社会は間違っていると僕は思っている。それは受験対策や進路とかは全然関係なしに、それ自身でおもしろいし、それ自身で意味があると思ってもらえたら嬉しい。ぜひ、ちゃんと数学や物理を勉強してください。


◆「Internet of Things」時代で活躍する人間に
/村上憲郎さん(グーグル日本法人元社長・前名誉会長)

村上憲郎さん(グーグル日本法人元社長・前名誉会長)

 中高生の皆さんも、インターネットはすでに使っていると思う。これからは、人と人のインターネットだけでなく、人と物、物と物とが通信し合うインターネットの時代が始まる。その次代はもう君たち中高生の時代。今からでも十分間に合うので、インターネットの世界をもっと勉強して。そして「Internet of Things」時代に活躍する人間に、君たちの何人かがなってくれたらありがたい。


◆困った人たちを助けられるICTを一緒につくろう
/佐々木賢一さん(トライポッドワークス代表取締役社長)

佐々木賢一さん(トライポッドワークス代表取締役社長)

 東日本大震災では、残念ながら、ICTが役立たなかった点もあった。でも逆に言えば、ICTは何ができなかったのかがはっきりした。次はICTが役立てるよう、皆さんもいろいろ勉強して、災害で困った人たちを助けられるICTをぜひつくってもらいたい。震災の復興は未来をつくること。中高生の皆さんが成長した時、幸せな暮らしができる東北にむけて、大人も子どもも一致団結して頑張ろう。


大雨による災害から身を守って/雨量計づくりや土石流再現実験なども

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大雨による災害から身を守って/雨量計づくりや土石流再現実験なども

2012年9月3日公開

 大雨による自然災害から身を守ってもらおうと、「夏休みお天気講座」が先月、仙台市シルバーセンター(仙台市青葉区)で開かれ、親子連れら約20人が参加した。日本技術士会東北本部応用理学部会の主催、NPO法人防災・減災サポートセンターの共催で、仙台管区気象台などが協力した。


◆夏、こんな天気には要注意!

8月18日に開催された「夏休みお天気講座」のようす=仙台市シルバーセンター(仙台市青葉区)

 まずは、「夏、こんな天気には要注意!-局地的大雨の怖さ-」と題して、日本気象予報士会東北支部長の杉山公利さんによる講演があった。

 近年多発している、ごく狭い範囲に短時間で降る強い雨「局地的大雨」。その特徴や注意点について、杉山さんは映像やクイズを交えながら解説。

 天気予報で特に最近よく耳にする「大気の状態が不安定」とは、そもそも地上付近に暖かい空気があり、上空に冷たい空気がある状態を指す。

 暖かい空気は冷たい空気よりも軽いため、不安定になってひっくり返ろうとする。この時、地上付近にある暖かい空気は上昇気流になる。そこで積乱雲が発生し、局地的な大雨や雷をもたらすことがある。

 杉山さんは「大気の状態が不安定な時は、急な雨や雷に注意して。川の水も周囲からの水が集まって急に増えるので、川や山に行くのをできるだけ避けて」と注意喚起。

 「もし川で遊んでいる時、頭上で雨が降っていなくても、真っ黒な雲(積乱雲)や川の変化、サイレンといった兆候に気づいたら、すぐ逃げる勇気が大切」と呼びかけていた。


◆ペットボトルで雨量計づくり/実物の雨量計も紹介

ペットボトルで雨量計をつくる参加者ら

 次いで、ペットボトルでつくれる簡易雨量計の工作教室が開かれた。

 子どもたちは、まずペットボトルの上部をはさみで切断。怪我をしないよう切断面をビニルテープでカバーした後、口のある方を逆さにし、テープで固定。スケールを取りつけて、簡易雨量計の完成だ。

 講師を務めた同会の今野隆彦さんは「家の庭やベランダで、1時間ごとに記録してもいいし1日ごとでもいい。平坦地では大雨警報が3時間で80mm、大雨注意報が3時間で50mmなので参考にして」とアドバイスした。

実際に仙台管区気象台で使っている雨量計を紹介

 また、気象台で実際に使われている雨量計も紹介された。気象台の雨量計は、0.5mmの雨水が溜まると、シーソーのようにカタンと傾いて排水し、もう片方に雨水が流れ込むしくみになっているという。

 「雨水を捨てる手間がかからず、傾いた回数をカウントすれば雨量がわかる」と仙台管区気象台の高橋恵美子さんによる解説に、子どもたちは「ししおどしと同じ原理だ!」と興味津々。雨量計がカタン、カタンと傾く様子を、興味深そうに眺めていた。


◆土石流を実験で再現

土石流を再現した実験に興味津々な面持ちの子どもたち

 最後に、局地的大雨によって起こる土石流について、パネルや実験による紹介があった。大雨によって水と石が一緒に流れる様子を再現した実験では、子どもたちは「わぁ」と声をあげながら、何度も土石流の動きを確かめていた。

 次いで、砂防ダムや河川改修に見立てた模型を入れることで、土石流の勢いが弱まることが説明された。今野さんは「雨の強さを身近に感じてもらい、どこが安全なのか逃げ方も考えながら、身の守り方を考えてもらいたい」と話した。

 仙台市内から参加した小学6年生の男子児童は「おもしろかった。自分でつくった雨量計で早く測ってみたい」と嬉しそうに話していた。


滝田良基さん(日本技術士会東北本部応用理学部会長)の話

滝田良基さん(日本技術士会東北本部応用理学部会長)

 最近は、異常気象による自然災害が増えたと感じることが多くなった。特に、1時間雨量50㎜や100㎜を超える局地的大雨が多発し、浸水やがけ崩れなどの自然災害が増えている。

 それに関連するお話をしてもらいたいと思い、「サイエンスデイAWARD2011」副賞として、仙台管区気象台にご協力いただき、今回講演していただくことになった。

 我々が開催するこの「技術サロン」は、普段は技術士や一般市民の大人を対象としているが、今回は夏休みなので、子どもを対象にわかりやすく解説してもらった。

 子どもたちも、雨量計などを自分でつくって実際に何度か測ってみると、雨の降り方に対しても実感が湧き、テレビの天気予報にも興味を持ってもらえるのでは。

 これからも防災・減災のために地形地質の経験を伝えることで、自然災害による被災者ゼロを目指していきたい。


歴史的発明から先端技術まで体験 東北大学通研で一般公開 10月6・7日

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歴史的発明から先端技術まで体験 東北大学通研で一般公開2012 10月6・7日

2012年9月12日公開

今年の東北大学通研一般公開は、10月6、7日に行われる

 東北大学の電気通信研究所(仙台市青葉区片平2-1-1)は10月6、7の両日、研究施設や研究成果を一般公開する。午前10時から午後5時まで。入場無料。小中学生から大人まで楽しめる。

 現在も電子レンジに必ず使われているマグネトロンや、テレビやラジオの受信に欠かせないアンテナ、ビデオテープやハードディスクの開発につながった世界初の磁気記録方式、光通信や半導体素子など、数々の歴史的発明品を世に送り出してきた同研究所。

 一般公開では、これら歴史的発明品の展示とともに、高速光通信やインタラクティブコンテンツなどの最先端技術を体験できる公開実験も行われる。

 約30ある研究室・施設も公開され、小中学生でも理解できるよう、研究者や学生が最先端研究をわかりやすく紹介する。

 工作教室では、毎年好評の電池不要のラジオのほか、太陽電池で動くソーラーカー、光を感じて音が出るオルゴール、七色に光る万華鏡の作製がある。

 詳しくは、東北大学通研一般公開ホームページを。

発明当時のマグネトロンの試作品

日本初の磁気記録研究に使われた録音機の再現装置

仮想世界でインタラクションできる映像コンテンツを体験

電池不要のラジオをつくる工作教室のようす


【関連記事】
歴史的発明から最先端研究まで体験 東北大通研で一般公開(2010年度・取材レポート)

仙台城南高、ユニークな入試制度導入/入試を通して学んで

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仙台城南高、ユニークな入試制度導入/入試を通して学んで

2012年10月20日公開

 来春から宮城県の高校入試制度が大きく変わる。公立高校では推薦入試が廃止され、各高校が定めた出願条件を満たす生徒が出願できる「前期選抜」と、前年度の一般入試に相当する「後期選抜」に再編されるのが大きな特徴だ。

制服も一新され、BEAMS designR プロデュースによるKANKOブランドに変わる。

 そんな中、来年度から「仙台城南高校」に生まれ変わる東北工業大学高校(久力誠校長)は、ユニークな入試制度を導入する。「入試は各高校の選抜のためだけの道具ではない」と強調する久力校長は「25年度は、戦後初となる教育基本法の改定が初めて高校教育に反映される年。新しい高校教育に対応できる生徒を共に育てていくための入試でありたい」とその思いを語る。

仙台城南の学びを意識した入試制度とは

 仙台城南の学びを意識した入試制度とは何か。後藤登入試広報室室長に聞いた。

◆頼りになる入試

Q.仙台城南の入試制度の特徴は?

後藤登入試広報室室長

 公立高校の前期選抜には様々な制限があります。市内の普通科の場合、事実上、評定平均値3.8以上の生徒しか受験できない状況です。さらに入試日程も1月28日から2月1日の5日間で計3回の入試(私立のA日程とB日程、公立の前期選抜)が1日おきに実施されるため受験生の負担が増えています。そこで本校は受験生や中学校の負担をできるだけ軽減し力を十分発揮できるよう体制を整えました。

 まずは生徒のみなさん方の不安を和らげることを考え、推薦制度を充実させました。特にユニークな制度は「入試を通して学んでほしい」と昨年から始めた自己推薦奨学生入試です。さらに今年の目玉として単願推薦入試(自己推薦)を導入しました。


◆力試しで受験

Q.自己推薦奨学生入試とは?

 公立・私立問わず併願が可能で、模試感覚で受験できる人気の制度です。対象は特進科で、適性検査( 国数英 )は公立トップ校を狙う受験生の本番模擬テストとして機能するよう挑戦しがいのある問題に設定しています。受験の参考になるよう、得点データや詳細な解答解説も受験生全員に送付します。

 昨年は55名が受験し10名が合格。アンケートでは「難しかったが、やりがいがあった」という声が多数ありました。検定料は四千円。合格者は奨学生の資格を得ます。


◆公立併願OKの単願

Q.今年目玉の単願推薦入試とは?

 単願推薦は自己推薦形式の入試です。公立を目指す生徒向けで、公立を併願できるのが特徴です。ただし、私立は本校のみ。合格を早期に確保し、安心して公立受験に臨むことができます。他にも専願推薦(自己推薦)や特待生など従来の形式も採用しています。このような制度の活用で厳しい入試日程の負担を若干なりとも軽減できると考えています。


◆B日程は理社のみ

Q.一般入試については?

 前期一般入試はA日程とB日程で試験科目を変えました。A日程(1月28日)は国数英の3科目で基礎力を重視。難易度は公立入試と同程度です。特徴的なのがB日程(1月30日)。理社の2科目のみで応用力重視。理科や社会の分野ごとの力を問うだけでなく、分野を超えた総合的な力を試す問題も出題します。

Q.なぜB日程は理社のみ?

 私たちは社会現象・自然現象の中で生きています。これらに関する情報や課題に対する興味関心は、「生きる力」に直結します。一方、学習レベルでは、社会・理科は頑張れば短期間で結果を出すことができます。社会や理科で「得意」感覚を持てたら、それを力に自分の壁を破ることができるでしょう。

 これは探究学習を教科学習の意欲に結びつけようとする仙台城南の考え方と同じです。高まる競争・評価の中で自分の力を信じられなくなっている生徒が増えています。どんなことでも自分の自信につなげる人材を育成することが、学校の大切な役目だと考えています。

<本記事の問合先>
仙台城南高等学校 〒982-0836 仙台市太白区八木山松波町5-1
 TEL: 022-305-2111  FAX: 022-305-2114


入学相談会(個別) のご案内

学科や入試、奨学生制度などについて、どんなことでもご相談ください(予約不要)
【開催日】11月3(土)、9(金)、17(土)、23(金)、12月1(土)、8(土)
【場所】本校
【開催時間】10~12時 *11月9日(金)は18~ 20時(要予約)

生の進学情報、正確に知って/仙台で合同受験相談会 【インタビュー:各私学・高専の入試制度はどう変わる?】

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生の進学情報、正確に知って/仙台で合同受験相談会 【インタビュー:各私学・高専の入試制度はどう変わる?】

2012年11月22日公開

今月11日に開催された進学イベント「進学情報フェスティバルCan」のようす=アエル(仙台市青葉区)

 生の進学情報を受験生や保護者に伝えようと、合同相談会「進学情報フェスティバルCan」が11日、アエル(仙台市青葉区)で開催され、私立・公立高校や国立高専など約30校が参加し、受験生・保護者らの相談に面談形式で応じた。

 本イベントは、全国学習塾協会が毎年開催しているもので、今年で24回目。学習塾による学習相談会や入試対策講座なども行われ、受験生らは志望校選択や学習方法などについてアドバイスを受けていた。

同イベント実行委員長の小野寺和行さん

 受験について様々な情報が飛び交う中、受験生と保護者に、生の情報を正確に伝えたい。その思いひとつで24年前から同イベントを開催してきたと話す小野寺和行さん(実行委員長)は「高校の先生から生の声や意気込みを聞くことで、子どもたちも前向きになる」と効果を語っている。


【各校担当者インタビュー】
「公立高校の入試制度改革を受けて、各私学・高専は変わるのか?」

 宮城県では平成25年春から公立高校入試が新しい制度に変わる。公立高校では推薦入試が廃止され、各高校が定めた出願条件を満たす生徒が出願できる「前期選抜」と、前年度の一般入試に相当する「後期選抜」に再編されるのが大きな特徴だ。

 ところが学習塾関係者によれば、新制度に対して「不安を感じる生徒や保護者も少なくない」「私立高校の新たな制度もうまく活用したいが把握しきれない」現状があるという。

 そこで本稿では、同イベントに参加した私立高校・国立高専の担当者に、インタビュー取材を実施。今回の公立高校の入試制度改革を受けて、各校の入試制度は変わるのか?それとも変わらないのか?入試から見える各校の特色について聞いた。


■従来通りに実施する。国公立大学合格実績に自信。
/古川学園高等学校(進学指導部長 成本豊さん)

 公立高校入試の新制度が導入されたことで、本校が大きく変わったことはない。従来どおり学業特待生入試(1月16日)を実施し、宮城県共通の一般入試(A・B日程)を行う。今年から一般入試(A・B日程)が全県同一になったことに対応する。
 私学は全て特色のある学校だが、国公立大学合格を希望する生徒は、ぜひ本校を受験していただきたい。本校の特色は、どこよりもそのノウハウを持っていることだ。


■金銭的な入試特典を増やす。「美術・デザイン科」新設。
/東北生活文化大学高等学校(入試広報部 部長 小野安史さん)

 普通科にあった「美術コース」が、来年度から「美術・デザイン科」として独立し、3学科(普通科、商業科、美術・デザイン科)体制になる。どの学科も、A・B日程とも自由に受験可。
 金銭面に関する入試特典を増やした。一般入試は、一回分の検定料で、A・B日程の2回分を受験できる。また推薦入試については、もし不合格の場合でも、一般入試(A・B日程)を希望する場合、一般入試の検定料を徴収しないため、推薦入試の検定料分のみで最大3回受験できる。このほか、専願や推薦入試の合格者は、入学金(5万円)を全員免除する。
 「一人ひとりが輝く学校」―生徒の才能を見つけて伸ばすのが本校の特徴。各校とも特色があるが、自分の進路に合わせてよく先生と相談し、自分に合った学校を受験して欲しい。


■特別進学コースのみA日程限定。スカラー選抜入試の敷居下げた。
/仙台白百合学園中学・高等学校(生徒募集担当 大枝直美さん)

 A・B日程で異なる入試問題を出すため、合格基準に不公平が起こらないよう配慮し、LSコース(特別進学コース)のみ受験可能日をA日程のみに限定した。
 また本校の特徴として、入試時の点数によって奨学金を与える「スカラー選抜入試」がある。公立高校第一志望でも、スカラー選抜入試を選択する敷居を下げるため、合格後スカラーの資格を保持するためにかかる経費を一時金(入学金)のみに減額した。
 本校はコース制を取り入れているが、安易に偏差値のみで考えるのではなく、事前に各コースの特徴を勉強し、自分のやりたいことに最も合ったコースを選んでぜひ出願して欲しい。


■従来通りに実施する。東北学院はA日程、榴ケ岡はB日程のみ。
/東北学院中学校・高等学校(副校長 大友正昭さん)

 一般入試は同法人である榴ケ岡高校(男女共学)と東北学院高校(男子校)で日程が重ならないよう、東北学院はA日程のみ実施、榴ケ岡はB日程のみ実施する。受験に関しては推薦も一般入試も大きな変化はないため、逆に受験生にとっては受験しやすいのでは。
 将来どんな仕事をしたいのか、その夢を実現するためにはどんな進路選択をすればよいか、よく考えて学校を選択して欲しい。本校生徒はほぼ100%大学受験を希望する。本人の夢を実現できる指導体制をとっている。
 世のため人のために貢献できる人材育成が、本校の建学の精神。人のために能力を発揮して頑張りたい熱意を持つ生徒に、ぜひ来て欲しい。一度しかない大事な人生、よく考えて、一生懸命頑張って欲しい。


■記述式からマークシート形式へ変更。一般推薦・特別推薦、専願入試あり。
/宮城学院高等学校(教頭 後藤文男さん)

 一般入試A・B日程はどちらも受験可能。いずれの日程も条件は同じ。回答方式を従来の記述式からマークシート形式へ変更した。
 本校が第一志望の場合、推薦入試(一般推薦と特別推薦の2種類)あり。一般推薦は「アドバンストコース」で評定平均値4.4以上、「クリエイティブコース」で評定平均値4.0以上が必要。一方、特別推薦(「クリエティブコース」のみ)では評定平均値3.5以上が必要だが、学内外問わず部活動やボランティア活動で特記すべき活動がある場合に受験可。また本校を第一希望とする場合、受験後は必ず本校に入学することが条件で、専願入試もある。
 受験については、過去問対策をしっかりと行うことが大切。そして健康第一に、しっかりと健康管理し受験に臨んでもらいたい。


■B日程は高得点の2教科のみで合否判定。公立高校志望者むけに「公立併願」「学業奨学生」あり。「看護・医療進学系」新設。
/聖和学園高等学校(募集対策推進部 部長 鈴木光紀さん)

 A日程は従来通り実施するが、B日程は受験した3教科(国・数・英)のうち、高得点だった2教科のみを合否判定に使用する新しい制度を導入する。また、公立高校と併願可能な「公立併願」は、私立高校の中で本校を第一志望とすることを条件に、専願に順する形で優遇させていただく。
 このほか「学業奨学生」は、私立高校の中で本校を第一志望とすることを条件に、公立高校との併願も可能。公立高校の滑り止めとして、公立高校後期入試の結果が出るまで本校への「学業奨学生」としての入学の権利が留保される。
 また、震災後、看護師を希望する生徒が増加したことに対応し、「特別進学文理コース」に「看護・医療進学系」を新設する。看護学部や看護学校への進学指導が主だが、2年生次から基礎看護を週2時間実施し、看護の知識や技術、心構えを2年間学ぶことができる。地元に貢献できる人材を育成したい。
 聖和学園としてメリットある入試制度をつくった。授業料などでメリットがあることを知らないまま入学する生徒もいて勿体ないと感じている。いろいろ自分で調べて、入試制度を理解した上で、有効に活用して出願していただきたい。


■併願可能な「専願特約」で入学時お祝い金支給
/常盤木学園高等学校(教諭 佐久間隆男さん)

 一般入試に「専願特約」を設けた。公立高校・他の私立高校と併願し、公立高校入試で不合格となった場合、本校へ入学する生徒に対して、入学時お祝い金(5万円)を支給する。ぜひ併願校として利用してもらいたい。
 学力のみを問うのではなく、本校の創立の精神である「自由と芸術」について、きちんと理解して、実行できる人材を求めている。様々なコースを用意しているので、ぜひ本校にチャレンジして欲しい。


■公立併願可能な「自己推薦奨学生入試」。奨学生制度を充実化。コース再編。
/聖ドミニコ学院中学校高等学校(入試広報部 部長 梛野祐二さん)

 今年から公立高校併願可能な「自己推薦奨学生入試」を実施。この奨学生の権利は、公立高校入試の後期選抜の翌々日まで保持することができる。奨学生制度は、評定平均値(中学校2・3年生時の5教科)に応じて4段階(A~D)あり、全コースに対して設置している。一般推薦入試(専願)についても特典は同じ。また、一般入試の高得点者についても、奨学生の資格を得ることができる。
 このほか「特別進学コース」を再編し、「α系」は勉強中心、「β系」は部活等と両立可能なコースとした。本校は伝統を生かしつつ、コースの再編などを含めて生徒の希望進路すべてに対応できるよう学習環境を整えている。ぜひ受験を検討していただきたい。


■敢えて今年は「例年通りの募集」。4年生大学への進学者70%。系列大学あり。
 /尚絅学院中学校・高等学校(教頭 竹内紀幸さん)

 保護者や先生方を考えた時、公立高校の新入試制度への対応に苦慮するだろうと想定して、敢えて今年は「例年通りの募集」で変更しない方針を立てた。入試問題についても、例年通り、公立高校の形式に近いものを実施する。
 本校は、国公立も含めた4年生大学への進学者が70%の進学校。尚絅学院大学は系列校。進学校として入学した生徒の皆さんの進路については保証する。皆さんの持っている力を十分発揮してもらえる学校なので、ぜひ入学してもらいたい。


■平成25年度「仙台城南高校」誕生。B日程は理社のみ。「自己推薦入試」や公立併願可の「単願」あり。
/東北工業大学高等学校(教頭 安久津 徹さん)

 平成25年度から本校は「仙台城南高校」として生まれ変わる。名前を変えることが目的ではなく、新学習指導要領に示される内容を如何に具現化するかを念頭に置き、「探究科」「特進科」「科学技術科」を新たに設置。「生きる力」を実現するための学科構成として、探究科に大きな特色を示しながら、新しい教育活動を展開する。
 入試に関しては、試験科目がA・B日程で異なるのが、本校の大きな特徴。A日程は国数英の3教科だが、B日程は理社の2教科のみ。探究科における「探究活動」とは、我々が生きていくために必要な情報を、問題意識を持って収集したり、まとめていく活動をいう。これを支えるため、自然科学的・社会科学的な現象に興味・関心を持つ生徒を受け入れたいという観点から、B日程は理社のみという試験科目を用意した。
 このほか、中学校の推薦書なしでも自分自身を推薦できる「自己推薦入試」を用意。また、公立高校とならば併願可能な「単願」も新しく導入した。このような制度をうまく利用して、本校をぜひ受験し、入学してもらいたい。


■高校とは異なる高等教育機関。将来エンジニアを目指す人に最適な進路形成。
/国立仙台高等専門学校(副校長 佐藤公男さん、石山純一さん)

 高等教育機関である高専は、高等学校とは異なるため、入試制度は基本的には変わらない。高専の5年間で、高校3年分と大学4年分を圧縮し実学的な部分を学ぶ。始めからエンジニアを目指して実力をつけることができる。
 卒業後は、25%が専攻科に進学し(工学士を取得可能)、25%が主だった国公立大学3年次に編入し、50%が就職する(就職率ほぼ100%)。多様なキャリア進路形成が可能だ。
 高専に入ってから、将来の方向性を考えるのは間違い。将来自分はものづくりをやりたい、エンジニアになりたいと、しっかり目標を持った上で、高専を受験してもらいたい。


■多様なニーズに対応。「公務員養成系」「スポーツ健康系」新設。バス路線も新設。
/東北高等学校(教育推進室 室長 阿部二三男さん)

 本校では「面倒見のよい教育」をキャッチフレーズに、生徒の多様なニーズに応えられるコース制を設けている。来年度からの高校入試改革を受け、大学進学・就職・公務員・資格進学を目指す「文教コース」に新たに「公務員養成系」「スポーツ健康系」を設置。進学コースは従来通り「創進コース」と「文理コース」の2種類ある。
 泉キャンパスには「スポーツコース」がある。ここでは宮崎愛やダルビッシュ有ら世界に羽ばたく選手を育てている。また、真面目に努力しているけども学力がなかなか伸びない生徒を対象にした「総合コース」を昨年度から設置し、英数国については3人の教師で授業を実施。痒いところに手が届くコースとなっている。
 また昨今、父親が職を失うなどして途中で学校で行けなくなる生徒も増えている。そんな生徒たちのために、「総合学習センター」を小松島キャンパスに設置。学校に行けなくなった子どもたちが、無理のない学習形態で単位を取れるよう支援している。
 このように多様なニーズに応えられるコースを設け、多種多様な能力を育成する環境を整えている。また、平成25年度の全県一区化をにらんで、バス路線を南に新設。すでに今年から多賀城方面にもバス路線を新設している。
 皆さんは今、どちらかを選ばなければいけない人生の岐路に立っているが、自分の特性を見据え、夢が叶う選択肢を選んでほしい。それは勉強でもスポーツでも良いし、学校に入ってから考えても良いが、自分の夢を叶えるため、自分に合った学校を自分で納得した上で選んでほしい。きっと自分の目指す学校が必ずあると思う。


■宮城野校舎を再建。フレックスコースを充実化させ、就職に力を入れる。
/仙台育英学園高等学校(教頭 澤田敏明さん)

 東日本大震災の影響で全面建替中の宮城野校舎が、来年3月に完成する。建替中、生徒たちには多賀城校舎で勉強してもらったが、来年度からは、「特別進学コース」と「英進進学コースⅡ類」が宮城野校舎で、「外国語コース」と「英進Ⅱ類」と「フレックスコースⅠ類・Ⅱ類」が多賀城校舎で勉強することになる。
 これまで宮城野と多賀城に分かれていたフレックスコースを、土地の広い多賀城校舎にまとめた。フレックスコースでは専門学校や就職を希望する生徒が多いため、学習拠点を変えることで、就職に有利な講座を充実化させ、生徒のニーズに応えたい。
 私学の役割は、生徒の魅力を引き出し、光らせることだと考えている。公立高校の入試制度が変わり、不安も抱いていると思うが、私立高校でも皆さんのニーズに応えられる指導をしていきたいと考えている。最後まで諦めずにぜひ頑張って欲しい。

光の実験に児童ら興味津々/仙台高専リカレンジャー出動

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光の実験に児童ら興味津々/仙台高専リカレンジャー

2012年12月7日公開

仙台高専「リカレンジャー」による移動理科実験教室のようす=仙台市立上杉山通小学校

 国立仙台高専「リカレンジャー」による移動理科実験教室が先月、仙台市立上杉山通小学校の5・6年生320名と保護者50名を対象に行われ、武田光博さん(材料工学科准教授)と学生ら約20人が、光をテーマにした様々な実験を披露した。同小校長の菅野正彦さんは「実験をよく見て、理科を好きになって」と挨拶した。

光とは何?

 まず武田さんは「光とは何?」「体のどこで光を感じる?」と児童に問いかけ、光は波の性質を持つことを説明した。「波が目に入ると、目が刺激を感じて、明るく見えたり色が見えたりする。人間の目は、波長が長すぎる波も短すぎる波も、感じない」などと話した。

色とは何?

パソコンの液晶ディスプレイの表面を拡大。

 次に「人間の目は、いくつの色を感じられる?」と質問し、「人間の目には、赤・緑・青の3色のセンサーしかない」と解説。実際にパソコンの液晶ディスプレイの表面を拡大して見せ、赤・緑・青の自ら発光するドットの組合せで、様々な色が表現されている様子を演示。赤・緑・青の3色の光を混ぜると、白になることも確かめた。

光を分ける

カドミウムランプや水銀ランプなどの光を、自作の分光器でのぞく。

 続いて「太陽の光は何色でできているか見てみよう。光の色を分ける装置をつくろう」と分光器を手作り。厚紙を型通りに切り取り、特殊なフィルムを貼って、分光器の完成だ。LEDや太陽光など様々な光を、自分で手作りした分光器でのぞきながら、児童らは「きれいだね」「光が分かれて見えた」と歓声をあげていた。

光には振動の方向がある

偏光板を用いた実験のようす

 さらに光の持つ波の性質を伝えようと、偏光板が登場。2枚の偏光板を重ねると、角度によって光が通ったり・通らなかったりする様子に、児童らは興味津々。偏光板は特定の方向に振動している光だけを通過させる性質を持っている。この原理を利用して、携帯電話やノートパソコンなど身の回りの家電や情報機器の多くに、偏光板が使われていることも紹介された。

なぜ夕焼けは赤い?

朝焼けと夕焼けが赤い理由を確かめる実験のようす

 最後に「なぜ朝焼けと夕焼けは赤い?」をテーマにした実験が行われた。水を入れた円柱の水槽の下から光を当て、中にワックスを入れると、光の色が赤へ変化していく様子に、児童らは「夕焼けになった!」と驚いた様子だった。
 武田さんは「朝と夕方は光が空気を通る距離が長くなる。青色など波長の短い光は空気分子とぶつかりやすいので、空気中を進む間にほとんど届かなくなる。その結果、赤色の光ばかりが届く」と解説した。


授業を終えて

 授業後は、児童から「蛍光灯の光は眩しく感じないが、太陽光は眩しく感じる。光には強さがあるの?」「肉眼で見える光は、赤・青・緑と話していたが、肉眼で見えない光はいくつあるの?」などの質問があった。

 参加した児童らは「分光器を使って、色は光が集まってできていることがわかった」「偏光板で色が変わるのが不思議で、面白かった」と感想を述べていた。

武田光博さん(材料工学科准教授)

 講師を務めた武田さんは「科学に興味を持ってもらえたら、という思いで準備した。科学に限らず、自分が興味を持ったことに対して、貪欲に挑戦して欲しい」と話している。


【ロシア訪問記】ロシア極東タイガの森を行く ~森の民ウデへ族を訪ねて~

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【ロシア訪問記】ロシア極東タイガの森を行く ~森の民ウデへ族を訪ねて~ 取材・写真・文/大草芳江

2012年12月17日公開


日本のすぐ隣に「極東のアマゾン」

 ロシア極東ビキン川流域に広がる原生の森、通称「極東のアマゾン」を、東北大学生態適応グローバルCOE国際フィールド実習のレポーターの仕事で、9月下旬に訪れた。

【図】ロシア極東ビキン川中上流域に位置するクラスニヤール村(資料提供:タイガの森フォーラム

 隣国でありながら、つながりを実感しにくい、「近くて遠い国」ロシア。しかし、日本海を挟んで日本列島のすぐ対岸を流れるアムール川の支流・ビキン川流域には、針葉樹と広葉樹が混交する「ウスリータイガ」と呼ばれる貴重な原生の森が広がり、後述するように日本とも関係があるという。

 さらに、この森の恵みはビキン川からアムール川へ流れ、アムール川はオホーツク海に注ぎ、親潮の生産性にも深く関係することが、近年明らかになってきた。つまり三陸沖の漁場の豊かさとも、タイガの森はつながっているのだ。

 その森は、絶滅危惧種アムールトラを頂点とした生物多様性の宝庫であると同時に、自然の恵みを巧みに利用してきたウデへら、少数先住民族たちの生活の場でもある。今なお伝統的な狩猟採集生活を営むという、「森の民」ウデへ最大の集落・クラスニヤール(Krasny Yar)村を訪れた。

 ※公式レポートは、東北大学生態適応GCOEの報告ページをご覧ください。


クラスニヤール村にあるものとないもの

【写真1】クラスニヤール村

 ビキン川中流域に位置するクラスニヤール村へは、ハバロフスク経由で行く。成田からわずか約2時間のフライトでヨーロッパ風な街並み広がるハバロフスクに到着。そしてハバロフスクから南へ約210km、凸凹の悪路を車で行くこと約8時間で、人里離れたクラスニヤール村に到着した。

 クラスニヤール村の人口は700人弱。その大半がウデヘだ。他にナナイ、ウリチなどのツングース系民族や、ロシア系も住む多民族村だが、母国語をロシア語とし、民族間の混血も多く見られる。学校や売店、病院や郵便局はあるが、警察はない。

【写真2】ホームステイ先の食卓

 ホームステイ先の食卓には、タイガで獲れたシカやイノシシの肉、キノコや薬草、ビキン川で釣れたサケやイトウなどの魚のほか、庭の畑で穫れたジャガイモやトマトなどの野菜がバラエティ豊かに並ぶ。香草の効かせ方も巧く、素材の旨みが際立ち、実に美味い。

 風呂はないが、ロシア式スチームサウナ「バーニャ」で汚れと疲れを落とす。上水道はないので、井戸水を使い、薪で湯を沸かす。未舗装の道路は凸凹だが、牛がのんびりと歩き、すれちがう村人たちが「ズドラーストヴィチェ!(こんにちは)」と手を振る。村に3つしかないディーゼル発電機による電力供給は不安定だが、次第に暗さと不便さに慣れていった。

【写真3】バースデーパーティーのようす

 ある日、ホームステイ先のお母さんが朝からお洒落に着飾っていた。辞書片手に理由を尋ねると、今日はお母さんの誕生日らしい。ハンターのお父さんが獲ったアカシカが解体され、肉が団子やスープに変わっていく。今日はご馳走だ。その様子を犬が物欲しそうに眺めていた。

 日が落ちる頃、村中から親戚や友人たちが、村では手に入らないであろう酒片手にぞくぞくと集まった。ウォッカやシャンパンで乾杯し、ご馳走を囲み、お母さんは皆にハグされながら祝福されていく。最後は、灯篭に火をつけて、空へ飛ばす風習があるようだ。満天の星空も祝福しているような、そんな幸せに満ちた時間がゆっくりと流れていた。

【写真4】街のあちこちで遭遇するゴミの山

 一方で、急激な近代化に伴い発生する公害問題が、この村でも例外なく起こっていた。プラスチックやビニールゴミが急増したが、人々は生ゴミを捨てていた昔と同じ感覚で無造作に廃棄するため、村のあちこちでゴミの山に遭遇した。バーニャでそのまま垂れ流すシャンプーや洗剤も、自然の自浄作用を超える量ではないかと懸念された。

 また、「伝統的な狩猟採集生活を営む少数先住民族」と聞いて勝手に抱いていたイメージとは裏腹に、テレビや冷蔵庫、電子レンジなどの家電製品の普及も想像以上に進んでいた。自称「ゲーマー」でプレステを所有するというハンターの子どもにも出会った。

 近代化によって、少数先住民族と自然との関係性は、希薄化してはいないのだろうか。もしそうならば、この貴重な森も、いずれは消えてしまうのではなかろうか。実は個人的にそんな疑いを持ちながら、ハンターたちと一緒に、ハンティングテリトリー内のタイガへ入ったのである。


ハンターたちと一緒にタイガの森へ

【写真5】ビキン川を原動付小舟で遡る

 ハンターたちの猟師小屋があるウリマ山基地までは、村からおよそ60km。ビキン川を原動付小舟で約4時間かけて遡って行く。道中「神様の山」で船を止める。森や川に宿る霊魂たちに狩りの安全と成功を祈願するためだ。自然界の霊魂と人間界をつなぐ、ここは、シャーマニズム発祥の地でもある。ただ近年は、神様の山で止まらずに、ウリマ山へ直接むかうハンターが大半という。

 秋めき始めたウリマ山が見えた。ここビキン川流域には、針葉樹と落葉広葉樹が混交する手付かずの森が広がり、アカシカやイノシシ、アムールトラのほか、ユーラシアカワウソやシマフクロウなどが生息している。

【写真6】ハンティングテリトリーのウリマ山をハンターの案内で歩く

 タイガをハンターの案内で歩いた。この森で獲れるクロテンなどの毛皮獣は、今なお村の主力産品だ。クロテンを傷つけずに捕るための伝統的な罠猟をいくつか教えてもらった。獣に勘付かれぬよう罠を仕掛けた丸太橋に苔を生やすなど、他にも様々な工夫があるそうで、技術のバラエティ豊かさに伝統の重みを感じる。

 16世紀、ロシア人が広大なシベリアへの領土拡張を始めた大きな誘因となったのは、当時、ロシアの貴重な外貨獲得手段であったクロテンなど高級毛皮の獲得だった。狩りの技術に優れていた先住民族ウデへの人々にとっては、このクロテンの毛皮がお金にもなり、税金にもなり、供物にもなった。

 ソ連時代は、国営狩猟組合へ毛皮を売って生活した。そして社会主義体制崩壊後の今、旧ソ連時代は国家によって確保されていた販売ルートが閉ざされ、自力販売が求められるようになっている。

【写真7】チョウセンゴヨウ

 森では今や希少種というチョウセンゴヨウ(マツの一種)を幾つも見た。ウデへの人々は、生活の基盤としてチョウセンゴヨウを残そうとしているという。その実を食物とするリスなどの草食動物、その草食動物を捕食するクロテンやアカシカなどの数に影響するためだ。

 一方、チョウセンゴヨウは木材としての価値も高い樹木である。そのためロシア沿海地方のチョウセンゴヨウは、日本を始めとする周辺国に輸出するために旧ソ連によって伐採され、20世紀後半の50年間で約50%減少したという。戦後から日本の多くの木材需要は、このロシア極東の森に支えられてきたのだ。

【写真8】猟師小屋でアカシカを調理するウデへの人

 このほかアカシカやイノシシは食用に、チョウセンニンジンやエゾウコギは薬剤原料になる。ヌタ場や水場に来るアカシカを待ち伏せする猟や、森に生える薬草の効能など、森の民・ウデへのハンターから次々と森と生きる術が披露された。

 若手ハンターのワーニャさん(29)は、11歳の頃、たった一人で200kg級のシカを仕留め、一人前のハンターになったそうだ。「タイガの森とは、あなたにとって何か」、そう尋ねると、「タイガは肉と魚を与えてくれ、いずれは自分の子どもも食わせてくれる。崇拝する対象だ」。いつも冗談ばかり言うワーニャさんが、この時だけは、そう真顔で語った。


タイガがなくなることは、私たちがなくなること。

 ロシアでは土地や森林は国のものであり、地方政府が大手企業に長期伐採権を供与するケースが、ここビキン川流域でも毎年のように起こっている。そのたびにこの村の人々は立ち上がり、伐採業者らと戦い続けてきた。一方、旧ソ連崩壊で生活が苦しくなる中、やむを得ず、森林伐採を受け入れた先住民族のケースも少なくない。

【写真9】元村長のアレクセイ・ウザさん=村役場の前で

 この村の生活が楽というわけでもないようだ。元村長のアレクセイ・ウザさんは、「道路が舗装されていないせいで、輸送コストが余計にかかる。だから品物は何でも高い。けれども道路を舗装するお金がない」と嘆く。隣町からの送電用ケーブルも整備したいし、ゴミ処理場や下水処理場もつくりたい。「お金さえあれば、問題は解決できるのに」と、ウザさんは繰り返す。

 「お金を稼ぐ最も手っ取り早い方法は、木の伐採だ。木を切らないので、村にはお金がない」。そう語るウザさんに、ではそもそも木を切らないのはなぜか、と敢えて尋ねた。するとウザさんは「タイガがなくなることは、私たちがなくなること。1950年代、タイガを伐採したウデへは、森もウデへもなくなった」と答えた。

 ウデへの人々はいま、タイガの森をなくさないために、世界遺産登録を目指して活動を進めている。

中高生が先生役/科学館で青陵科学部が科学工作教室

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中高生が先生役/科学館で青陵科学部が科学工作教室

2012年12月20日公開

【写真1】15日に開催された「作って遊ぼう with 青陵科学部」のようす=仙台市科学館(仙台市青葉区)

 中高生が先生役となる科学工作教室が15日、仙台市科学館で開催された。仙台青陵中等教育学校の科学部員ら10人が、蒸気の力で動く「ポンポン船」の作り方と原理を、親子連れらにわかりやすく教えた。

 教室では、まず司会役の科学部員がポンポン船を見せながら「さて、この船はどうやって動くでしょう?ヒントは、炎と水。水を温めると何になるかな?」と質問。児童が「湯気!」と答えると、「台所でも鍋から湯気が出て蓋がカタカタするね。水が炎で蒸気になって、パイプの水を押し出す。押し出した反動で船が進むよ」と説明した。

【写真2】参加者に指導する青陵科学部員ら

 続いて、直径2mmのアルミパイプ、ろうそく、ウレタンシートなど身近な素材を使って、全長約10センチのポンポン船を製作。水を入れたパイプをろうそくの火で熱すると、パイプから噴き出す蒸気の力で、船がポッポッとリズムよく進んだ。子どもたちは「進んだ!」と歓声をあげながら、興味深そうに船の動きを観察していた。

 「思ったより進むと思った方もいるかもしれません。それが蒸気の力です。熱エネルギーが運動エネルギーに変換されたわけです。水は出たら入ってを繰り返すので、ろうそくの火がつく限り、船はずっと進みます」と科学部員が解説。市内から参加した小学4年生の児童は「自分で船を作って、ポッポと進んだことがおもしろかった」と話していた。

【写真3】自分でつくったポンポン船を実際に試してみる参加者ら

 司会役を務めた川島弘之介さん(4年生)は、「幼い子どもを教えるのは想像以上に大変だったが、自分たちも一段階成長できた。お互いに楽しみながら、物だけでなく知識も持ち帰ってもらえるような教室を今後も開きたい」と意気込んでいた。

 同部顧問の塗田永美さんは、「大勢の前で発表することで、生徒たちが失敗しながらも成長する機会となった」と手応えを語った。

 本イベントを企画した仙台市科学館は、「今日は大成功で良かった。生徒はいつも教わる側だが、教える側の難しさを体験できたと思う。これからも科学好きな子どもたちの意欲や活動をサポートしていきたい」と話している。

農家による民間放射線測定施設、立ち上げから1周年

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農家による民間放射線測定施設、立ち上げから1周年

2012年12月25日公開


みんなの放射線測定室「てとてと」外観

 東京電力・福島第一原発事故をうけて、県南で有機農業に取り組む農家などが中心となり立ち上げた、民間の放射線測定施設「てとてと」(柴田郡大河原町)が、11月23日でオープン1周年を迎えた。初代代表の三田常義さん(三田農園)は、東北大学で博士(理学)号を取得後、東京大学助手を経て、農家に転身した経歴の持ち主だ。三田さんに立ち上げの経緯や活動から感じることについて聞いた。


◆みんなの放射線測定室「てとてと」昨年オープン

―自己紹介も兼ねて、活動についてご紹介をお願いします。


三田常義さん(三田農園)

 私は30歳過ぎで物理を辞めました。その後の約30年間、有機農業をやってきました。当時は若気の至りで、物理の研究者という道は自分の一生の仕事ではないと思い込み、求めた道は自然と仲良くなれる仕事、「農業」でした。30年たった今でも、人智の及ばない自然界の奥深さを感じつつ、挑戦を続けているところでした。

 「安全」と言われている農薬も、本当に安全かという議論はいつもあります。そんな中で化学農薬に頼らず、自然に従って作物を育てようという、「有機農業」の気運が高まりました。私も有機農業の道を選び、野菜を生産し産直販売をしてきました。

 ところが、今回の原発事故です。放射能汚染の中で、自分の作った野菜は本当に安全なのだろうか、と自問しました。安全性を確かめられないものは、消費者の方に販売することはできません。そこで、同じ疑問を持つ県南の仲間で集まり、善後策を話し合いました。

 2011年4月半ば頃、県や東電に対して「食品の放射能を測定してほしい」と要望を出しましたが、その当時は、全く取り合ってもらえませんでした。食品の放射能測定をする会社などはありましたが、1検体の測定に1万円くらいかかってしまいます。とても無理な金額です。

 でも何としても測定をし、真実に向き合わなくてはいけない。必死に試行錯誤をするなかで、一般人向けの測定機器も市販されていることがわかりました。

 この機器を購入して「農家と市民のためのみんなの放射線測定室」を作ろうと計画を立て、カンパ集めを始めました。最初は不安なスタートでした。でも結果的には、全国の皆様からたくさんのあたたかいご支援をいただき、去年の11月23日、みんなの放射線測定室「てとてと」がオープンしたのです。

―実際に活動されてみていかがでしたか?

 今でこそ自治体の測定器などで無料ですぐに測定できるようになりましたが、当時はそのような場所は全くありませんでした。オープン当初は予約が殺到し、年内は予約でいっぱい。皆様の放射能に対する不安、真実を知りたいという願いがひしひしと感じられました。行政の対応が遅れた中、先駆けてオープンできたことで、その時期に求められた使命が果たせたと感じました。

 放射線の測定には、時間がかかります。長い時間をとるほど正確になりますが、一方で数をこなせないため、「てとてと」では1検体30分で測定することに決めました。それでも一日に10数検体くらいしかできません。

 2~3月になると、真冬の作物のとれない時期でもあり、測定依頼はずっと少なくなりましたが、春になると測定依頼が増え第2のピークを迎えました。国の規制基準が1kgあたり500ベクレルから100ベクレルになったのを機に、宮城でもキノコや山菜から基準越えのものが多数検出されるようになったため、宮城の汚染をさほど感じてなかった人々も、汚染が身近なものになったという印象がありました。

 その後測定依頼は漸減し、皆様の測定意欲も落ちてきたような感触をもってます。放射能という重荷はあるのでしょうが、時間とともに「心配すること」に疲れてしまったような感があります。「放射能はあるようだけど、たいしたことにはならないに違いない。そういうことにしておこう」という心理があるように思います。けれども、宮城県も決して安全な場所ではないと思います。ずっとその意識を持ち続けることが必要です。


◆放射能問題は一種の公害

―どのような問題点を感じますか?


みんなの放射線測定室「てとてと」の測定器

 セシウム-137の半減期は30年です。100年たっても1割は残ってます。影響は子々孫々続きます。それを取り除くこともほぼ不可能です。放射線汚染地帯となると、そこにいること自体が危険になりますから、どんなに復興、発展しようとも、そこには放射能があるということで、すべての活動から生気が奪われ、やる気は失せてしまいます。復興といっても根本のところで、どうしようもなくなる。普通の災害とは本質的に異なります。

 そうしたことが原因になり、住んでいる人が放射能のことを口に出せなくなります。そこに住む人間の心理的なものが複雑に絡みあってくるので、この問題は非常に厄介です。線量の高そうな地域になる程、余計ナーバスになります。空間線量などを測る時も、おおっぴらに測って歩くのも気まずい雰囲気になってくる。それが未だに続いています。

 これだけ広い地域が汚染されたことは事実です。それなのに行政は、「それほど大したことはない、全てにわたって普通の生活をしても大丈夫」ということを強調し、現実の汚染状況と真摯に向き合うことを避けているように感じます。原発再稼働にしても、そもそも原発事故がどれだけの環境破壊をもたらし、どれだけの災害を日本にもたらしたかという事実の検証さえ、まだ終わっていないのが現状です。

 実際にいろいろ測ってみると、雨などで流されて雨樋や道路脇の土などの集積物に非常に高い線量のものが検出されます。事故後のわたしたちの日常は、そういうものに取り囲まれているという印象です。事故前だったら「放射性物質が漏れた」といって大騒ぎしたような、高濃度の放射性物質に取り囲まれた生活を送らざるをえなくなってしまいました。

 仙台の看板、定禅寺通のケヤキにしても、枝から放射能が流れ落ち、樹の真下の線量はかなり高い状態です。木に寄りかかれば、当然身体に多少とも付着します。通学路のガードレールなどでも、不用意に手をかざしたら手にくっつきます。ところが、誰もそれを気にしません。そこに放射能がかなりあることに、なかなか気が付かないからです。

 舗装面から雨で流され集積した土や、そこに生えるコケ、或いは雨どいの下などでは、10万ベクレル/kgレベルのものもあります。計算すれば直ちには影響が出る量では無いかも知れませんが、放射能にはできるだけ触りたくないものです。

 行政は問題が起きてから動くのではなく、きちんと検証して事実を把握し、それを皆に知らせる必要があります。その上で取り除くなり、危険を知らせ避ける手立てをする必要があります。そうでなければ思わぬ被ばくをしてしまう。単に「安全」と言うだけでは駄目です。

 一方で、検査をして確認されたものは安全です。食品に関しては、野菜類からはほとんど検出されません。穀類も大半が安全ですが、注意の必要なものもあります。強く出る物が多いのはキノコや山菜類です。魚は川、海とも要注意。クマ、イノシシ、シカなど自然界の動物はかなり汚染されている状況です。果樹類は野菜類に比べて多少出るものが多いですが、昨年に比べ数分の1に減っている傾向があります。

 安全といわれる野菜でも、たまに強く検出されるることがあります。たとえば春先に保温するビニール資材が汚染されていて、その水滴が落ちて野菜が汚染されるといった突発的ケースがあったりします。ですから、ほとんど検出されない野菜類も測り続けていくしかないと考えています。

 コンクリート、アスファルトに囲まれた街中は、雨で流されることが多いですが、山や自然は流されずにとどまり循環してます。だから汚染はなくなりません。木やキノコは高汚染ですし、薪を燃やすのは危ないです。場合によっては山に入ること自体覚悟がいることですし、木に触るときも要注意です。ところが、こうした現状への認識が、社会としてあまりないことを危惧しています。

 現実に、10万人以上の人が住めなくなり、町や村がなくなってしまった。そんな現実が起きた認識を、もう少し皆で持たなければいけません。我々のような測定所としても、事故の影響が及ぼす現実の姿を、測定を通して示していく必要があると思います。


◆街の人のことしか考えていない


 私は自然が好きで、自然に根ざした生活をしたいと願い、農業をやってきました。事故の起こる前までは、山に根ざした循環型の生活を夢見て暮らしていました。生き物のベースは自然なのです。

 しかし今、自然に近いものほど、危険になってしまいました。あの頃、夢に描いてこころの拠り所が、ダメになってしまいました。こういう感覚を持つ人は、今は少なくなっているのかもしれません。都会生活が基本になっている人が多くなっていますから。そういう人にとっては、余り感じないことかもしれません。

 国は安全基準を0.23μシーベルト/時(空間線量)、それ以上の場合は除染と定めました。県南は該当地域が多いです。単純に計算すると0.23μシーベルト/時の場合、年間の被ばく線量は2mシーベルトになります。一方、一般の人の限度は1mシーベルトです。

 国の計算では、外にいる時間はオフィスや家に居る分を引くので、それほど浴びないと計算されます。それで0.23μシーベルト/時でも、年間1mシーベルト以内に収まるわけです。

 ところが、我々農家はずっと外にいて、さらに土を触ります。この計算は、我々にはあてはまらないのです。つまり、自然に根ざした生活をしている人は、考慮してもらってないわけです。施策は、街の生活が基本なんだな、街の人のことしか考えていないのだなと感じます。

 福島県の浜通りは、気候も良く自然環境もよく桃源郷のようなところが多いです。その風土に惹かれて有機農業をやっている人も多かったのですが、大量の人々が移住せざるを得なくなりました。あんなに良いところが住めなくなってしまった。こんな嘆かわしいことはありません。


◆思わぬところで物理学と関係

―物理学と現活動との関係はありますか?


農作物を測定する三田さん

 もう物理とは縁がないと思っていましたが、思わぬところで関係することになってしまいました。もともと光物性が専門で、当時は光の領域のスペクトルとにらめっこでしたが、今はγ線領域のスペクトルとにらめっこしています。奇妙な縁ですが、昔取った杵柄が多少は役に立つことになりました。とはいえ放射能は専門外でわからないことだらけです。

 専門家でない一般の人にとって、放射能は本当に難しくて良くわからないはずです。各市町村に測定器は数台配置されましたが、それを扱う専門家はほとんどいないのが現状です。民間の市民測定所でも、なかなか詳しいところまで知識のある人材は少なく、素人が悪戦苦闘しながらやってます。

 物理屋さんは少なくとも放射能の基礎はしっかりおさえているので、今回の放射能問題に対し出る幕が無限にあります。原発を直接推進してきたかかどうかに関わらず、物理学が社会に応用される最たるものが原子力です。そんな意味でも、物理屋さんの社会的責任として、今回の事故に振り回されているおびただしい数の人々への一助になるべく、関わっていただきたいものだと思います。

―最後に、中高生も含めた若い世代にメッセージをお願いします。

 今度の事故を受けて文科省は小、中、高校生向けに放射線副読本をつくり、学校教育に放射線教育を加えたようです。ところが、この副読本の内容をみると、放射能がレントゲン、CTを始めとしていかに人類に貢献し役立つものであるかという事ばかりが強調され、今回の事故がもたらしたことが、まったく見えてきません。

 中高生のみなさんは、まずこの事故がもたらした国土の汚染について、さまざまな情報がでてますから、どのような生活をすればより安全に暮らせるか、自分自身の手でしっかり勉強してください。 事故の影響を最も強くうけざるを得ないのは子供世代です。これは自分の身を守るための勉強でもあります。

 いろいろなことをお話しましたが、なんといっても動かしがたい不幸は、私自身がこれまで求め続けてきた「豊かな自然と一体となって生活、成長するための自然」が、もう無いということです。もちろん放射能に汚染された自然はあります。しかし、その中に仲良く入っていけるような自然ではありません。用心しておそるおそる付き合うしかない自然です。このことが、ほんとうに残念です。

―本日はありがとうございました。

学校教育実践の発表会、小中学生による自由研究発表も/仙台市教委

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学校教育実践の研究発表会、小中学生の自由研究も

2013年1月6日公開

 学校現場における取組みの発表を通して教育課題の解決に役立てようと、第38回仙台市教育課題研究発表会が26日、仙台市教育センターや東二番丁小学校を会場に開催された。教科内外における実践や学校経営、防災教育など、様々なテーマの分科会が設けられ、教職員らが日頃の実践の成果を発表した。また、今年初の試みとして、児童生徒による夏休みの自由研究の成果発表会もあった。

今年度導入「たくましく生きる力育成プログラム」実践発表


【写真】仙台市教育課題研究発表会のようす=26日、仙台市教育センター(仙台市宮城野区)

 このうち、今年度から市立小中学校で導入された「たくましく生きる力育成プログラム」の分科会では5校から実践報告があった。本プログラムは、変化の激しい社会をたくましく生き抜く上で必要な「知恵や態度」を義務教育で養おうと、市教育委が09年度から経営者や学識経験者などと開発を進めたもの。

 昨年度からモデル校として本プログラムを導入中の吉成小学校は、「近年、児童の学力は高いが、学習が受け身で失敗を恐れる傾向があり、心の乱れが著しい。表面上のコミュニケーションスキルでは補えない、根源的な人間形成に取組む必要がある」と導入の背景を説明。あたたかく関わり合える子どもを育成しようと、本プログラムを活用した。

 同小では、各学級の児童にどんな力が不足しているかを検討後、年間授業計画を作成。人間関係や自己理解・他者理解などを学ぶ授業を年間4回実施した結果、「自分の気持ちを伝えられて気持ちがすっきりした」「普段の言い方を改めた」など児童たちの自己肯定感や人間関係に変化が見られたという。

 一方、教師が授業のねらいを強く意識しなければ、「楽しかった」だけで学びなく終わる恐れも課題として指摘された。会場からは「本プログラム導入の具体的なイメージができた」という声があったほか、本プログラムを学校全体として共有化・系統化する手立てなどに関心が集まっていた。

 吉成小の研究主任を務めた長島多香教諭は「学年と児童の実態に合わせ、教師自身が実践しながら、プログラムを工夫し続ける姿勢が大切。今回、何よりの成果は、教師自身がそれを意識して取組めたことだ」と話していた。

◇「たくましく生きる力育成」に取組む理由――吉成小学校教諭の長島多香さんの話


長島多香さん(吉成小学校教諭)

 あたたかくかかわり合える力は、どんな学力にもまして、人としての財産であり、生きる力になる。一方、今の子どもたちは、勉強はできるが、人間関係で小さなトラブルが多く見られる。そんな子どもたちを変えたい気持ちが先生たちに共通してあり、皆で一生懸命取組む力になっている。私たち教師は社会や家庭の領域には入れないが、「たくましく生きる力育成プログラム」は、学校で行える教育を実現化するための手立てになると思う。

◇「たくましく生きる力育成」に取組む理由――吉成小学校校長の菊地博さんの話


菊地博さん(吉成小学校校長)

 「たくましく生きる力育成プログラム」導入の理由は複数ある。1点目は子どもの実態。今まで3年間かけて、コミュニケーション能力を向上させる学び合いの授業研究を進めてきた。ところが高学年になるにつれ、自分の考えを表現できなかったり、友達とかかわり合いができない様子が見られた。その根底には、人間関係の弱さ、自己肯定感がもてない実態が潜んでいることを学校全体で共有した。
 そんな中、たまたま昨年度は中島先生が本プログラムを試行実施し、4回目の授業で子どもたちの本音が出てきた。その変化を見て、子どもたちが本音を出せる関係づくり、異なる考え方や価値観を持ちつつ他人との違いも認められる人間形成の必要性を感じ、本プログラムが一つの突破口になると考えた。
 2点目は、本校は小中連携指定校であり、小中連携の柱となる共通部分が仙台市では「自分づくり教育」のため、その中でコアとなる本プログラムが良いと考えた。3点目は、新しく来た若手の力が伸び、ベテランも挑戦できる、一緒に取組める新しい何かで、かつ負担にならないものが欲しいと考えていた。
 とはいえ、一番のきっかけは、昨年度に中島先生が本プログラムを実践したことと、本プログラム開発に携わった菅原教頭先生が理論的な裏付けを持っている安心感が大きい。条件の良さもあったと思う。
 もともと私は中学校で生徒指導をしていたので、本プログラムの必要性を感じるし、実践によって先生方の負担感や苦労も減ると思う。その状態で中学校にお渡ししたいし、中学校でも効果があると思うので、ぜひ実践してもらいたい。


子どもたちが夏休み自由研究の成果をプレゼン


【写真】「仙台市児童・生徒理科作品展」で優秀な成績を収めた児童生徒による発表のようす=東二番丁小学校(仙台市青葉区)

 このほか今年初の試みとして、「仙台市児童・生徒理科作品展」で優秀な成績を収めた児童生徒の発表の場も設けられた。雲と天気の関係を観測的に調べた研究や、10円玉と1円玉でボルタ電池を作る研究など、児童生徒らはパワーポイントやデモストレーションで工夫しながら研究成果を発表していた。

 このうち、「魚の心臓の大きさは、生活の仕方でどのようなちがいが出るか」をテーマに研究した瀬田陸斗君(荒町小学校5年生)は、魚の体重に対する心臓の割合は、体の大きさに関係するのか、それとも生活の仕方に関連するのか確かめたいと思い、様々な魚を解剖し、体と心臓の重さを測って調べた。

 その結果、魚の体重に対する心臓の割合は、生活の仕方に関連していたことを、グラフでわかりやすく示しながら解説。瀬田君は「じっとしている魚に比べて、いつも泳いでいる魚は、魚の体重に占める心房の割合が5倍もあったので驚いた。心臓が大きいからたくさん泳げたのか、その逆かがわからないので、次は調べたい」と好奇心をふくらませていた。

◇自由研究発表会を企画した理由――仙台市科学館館長の石井鉄雄さんの話


石井鉄雄さん(仙台市科学館館長)

 自ら疑問を持ち解決できる素晴らしい子どもたちだと感心した。優秀な研究の発表の場を用意することで、受賞した子どもの励みになると同時に、全体の底上げにつながると考えている。科学の芽は疑問に思うこと。失敗して次を考えるプロセスをどんどん身につけてもらいたい。



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地質学者の蟹澤聰史さんに聞く:科学って、そもそもなんだろう?

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地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)に聞く:科学って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2013年1月15日公開

好奇心と想像力は人間の特権

蟹澤 聰史 Satoshi Kanisawa
(東北大学名誉教授)

1936年(昭和11年)信州伊那谷生まれ。高校時代までは中央アルプスと南アルプスをみながら育つ。東北大学理学部に入学以来、仙台が第二のふるさと。地質学に興味を持ち、北上山地や阿武隈山地をフィールドとし、なかでも、岩石や鉱物の化学組成を調べることに熱中してきた。そのうちに、日本列島のような島弧と、古い大陸地域の花崗岩類との比較に興味を持ち、北米、北欧や中国大陸の岩石にも出逢った。長年教養部で指導したため、一つの専門に拘らずに、様々な異分野の先生と交流してきた。それが考え方を柔軟にするのに役立ち、定年後の執筆活動の宝となった。この数年、地学の面白さを伝えようと、『文学を旅する地質学』『石と人間の歴史』『おくのほそ道を科学する』などを上梓している。

一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。 
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が
それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


「好奇心と想像力は人間の特性」と語る地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)は、
好奇心のおもむくままに、想像をたくましくして、定年退官後の現在も、
50年以上専門にしてきた地質学と、昔好きだった文学とのつながりを探して、本にしている。

地学のスケールで見れば、何気ない足元の石からも、ダイナミックな地球が見えてくる。
一方で、地球のスケールで見るからこそ、「不易流行も無用之用も俳諧のみならず」と、
現状への憂いを語る。そんな蟹澤さんがリアルに感じる科学とはそもそも何かを聞いた。


<目次>
好奇心のおもむくままに
自由に自分のしたいことをさせてくれた
地学大好きでまっしぐら、というわけではない
不易流行も無用之用も俳諧のみならず
もし1億年後の生物が地層を見たら
昔の人の想像力を見習う
あてがいぶちで、創意工夫は生まれない
科学とは人間の本性
好奇心と想像力は人間の特権


地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)に聞く



好奇心のおもむくままに

―蟹澤さんがリアルに感じる科学って、そもそも何ですか?

 うーん、難しい質問ですが、科学は、"好奇心"ではないですかね。小さな子どもは何でも興味を持ちます。「三つ子の魂百まで」と言うけれど、やっぱり好奇心が大事だと思うのです。

 幼い頃、ネジを巻いて動く、ゼンマイ仕掛けのおもちゃがありました。それを動かして遊ぶだけでは飽き足らず、「どうして動くのだろう?」って、いくつも壊したなぁ。お土産におもちゃをもらっても、全部バラバラにしていましたね。

 僕の田舎は長野県でね。昼間は電気が来なかったなぁ。だからかな、蓄電池がいっぱいありました。蓄電池でラジオを聞くような、ちょっとモダンっぽい生活をしてたようです。そういうガラクタが、いっぱいありました。それを片っ端から壊した記憶があります。

 田舎ですから、鯉を飼ったりする溜池がありました。池の底に溜まったメタンガスがプクプク泡だっているのですよ。おもしろいなと思っていたら、どうも「メタンガスは燃える」らしいと、『子どもの科学』か何かで覚えたのかもしれません。じゃあ、本当に燃えるのかな?と思いまして。やっぱり自分でやってみないとね。

 「上方置換」って、化学で勉強するでしょう?自分で、そういうのに気づいたのかなぁ。家にあった一升瓶を逆さにして水を入れて、醤油などを入れ替えるための漏斗(じょうご)を使ってそこにブクブク泡を入れ、火をつけたら、本当にぼうぼうと燃えたのですよ。池の底からプクプク出てきたものが燃えるとは。あれは本当におもしろかったですね。でも、大人になってから考えたら、もし「爆鳴気」の割合で空気が混ざってしまったら大けがをしたかもしれないと、何もなくて良かったです。

 あとは、まだ僕が小学校に入る前の頃かな。父親から、軍隊で使う大きな双眼鏡で、お月様を見せてもらったことがあるんですよ。月はボツボツでね、すごく大きく見えたの、よく覚えています。そして大きくなってから、今度は「望遠鏡をつくってみたいなぁ」という気になりました。あまり良いレンズではありませんでしたが、金星が三日月になるとか、木星の衛星が4つなのも見えましたし、土星の輪もなんとなく見えて。そんなことばっかり、やっていましたね。


自由に自分のしたいことをさせてくれた

 僕が小学校に入ったのは昭和18年、戦争中でした。小学校(当時は「国民学校」といった)3年生の時、戦争が終わりました。終戦後のどさくさに育った私ですが、それにしては先生方に恵まれていたと思います。ただ戦時教育は別でね、「君たちは天皇陛下のために死ね」とか「欲しがりません、勝つまでは」とかでした。終戦後は、教育方針がまるっきし変わったのです。その時は、大人の変わり身の早いのにびっくりしました。8月15日を境にして、価値観が180度変わってしまったのですからね。

  小学校5・6年生の担任は理科好きな先生でした。先生は古い『子どもの科学』を山ほど教室に持ち込んで、「自由に家に持って帰って読んでよい」と言ってくれました。音楽と体操は苦手でいつも下ばかり向いていた私ですが、それからですよ、いろいろなことを知り始めたのは。

 田舎の小学校・中学校でしたが、どういうわけか、ものすごくたくさんの理科の実験機器がありました。今からみれば、古典的なライデン瓶とかウィムズ・ハーストの起電機、それにいろんな試薬などです。信州の田舎でしたが、私の育った村は幕府の直轄地(天領)だったせいか、田舎にしては学者の多い村だったようです。だから小学校に先輩方がいろんな器具を寄付したのではないかと、想像しています。

 それらを先生方がフルに利用させて、自由に使わせてくれたこともありました。起電機に電気を溜め込んでから、クラス全員に手をつながせて、ビリッと感電させたり、フェノルフタレインをアンモニア水に垂らして、水を真っ赤にさせたり、まるで手品をみているようにおもしろかったです。

 もう一つ、私の父親は、長男が早世したため、末子だったのに家業の地主を継がなければならなくなり、学問をやりたかったのに、大学まで行ってから家に戻ったこともあって、「子どもたちには自由に自分のしたいことをさせなさい」との遺言を残して、レイテ島で戦死しました。母は忠実にこれを守って、好きなようにさせてくれたのです。

【写真1】中学校卒業式。中央が蟹澤さん。後方が理科の畑作造先生。

 中学校にも、理科と数学が得意な、物理学校出身の畑作造先生がいました。先生は、いろいろなおもしろいことを教えてくれました。例えば、蚕の繭をとった後、さなぎが残るでしょう?その頃は、どこの家でも蚕を飼っていました。「お蚕さま」と敬称を付けて呼んでいましたよ。蚕のさなぎは、うんと油が強いのです。その油を絞って苛性ソーダを入れて、先生は石鹸を作ってね。それを日常的に理科の実験や手洗いに使ったり。そんなことばかりやっていたのです。「ピタゴラスの定理」の証明など、まるで芸術作品を観ているような気がしていましたね。

 1949年、僕が中学校1年生の時、湯川秀樹先生が日本人初のノーベル賞を受賞されたことは、大きなインパクトでした。僕も、物理でも何でもいいから、とにかく理科をやってみたいなぁ、という気がどんどん強くなってきました。。

 振り返ってみれば、小学校に入る前後から「どうして動くんだろう?」と好奇心でやり始め、理科好きな先生方にも恵まれました。ですから「大きくなったら、人のために役に立つ仕事をしたい」とか、そういうことではなかったのですよね。科学って、そのようなものかなぁ、と思います。


地学大好きでまっしぐら、というわけではない

 最初は天文学に興味がありました。中学校の時に買った天文学の本、今でも大事に取ってあります。ところが大学に入ると、天文学には数学が必要と聞きました。高校までは数学が大好きでしたが、大学の数学はえらい抽象的な話でさっぱりわからなくて。

 昔から地学は嫌いではありませんでしたが、「地球の歴史をやってもいいな」と少しずつ傾いてきたのでしょう。最初から地学大好きでまっしぐらに突進、というわけではなかったのです。

 同じ高校の先輩に、東北大学の八木健三先生(故人)がおられました。高校2年生の時、八木先生が文化祭に来て講演されました。確か「地学と人生」だったかな、それがものすごく印象的で、東北大学に行っても良いかな、という気持ちも多少あったのです。

 その前は湯川先生のノーベル賞もあるし、京都大学もいいなと思っていました。ただ京大は入試科目に社会が2科目必要で、東北大は1科目で良かったので、京大はちょっと手強いから、浪人したら京大も良いかなと。でも、東北大に受かったものだから、八木先生のところに挨拶に行って、当時は保証人が必要でしたから、「保証人になってください」と頼み込みました。

【写真2】1957年、大学3年の進級論文でのスナップ。岩手県宮古市豊間根川の林道で。地下足袋姿が蟹澤さん。

 当時の東北大学の教養部は、富沢(三神峯)にありました。現在は東北大学電子光理学研究センター(原子核理学研究施設)がある場所です。今も当時の木造建物が残っていますよ。そこに第一教養部がありました。ちなみに、第二教養部は桜小路(片平)にありました。現在の東北大学通信研究所がある場所です。

 工学部以外の学生は、第一教養部のある富沢に通って、そこで2年間学びました。地学実験を選択した人は、物理や化学に比べると少なかったですが、竜の口や太白山などがフィールドで、ハイキングみたいな実験でおもしろかったですよ。それでやっぱり、地学がおもしろそうだなと思って、地学を専門にして、もう50年以上になりました。


不易流行も無用之用も俳諧のみならず

 高校時代、僕の担任は国語の先生でね。旧制一高(現・東京大学)から東大文学部を出た後、戦争中だから兵隊に取られて、シベリアに抑留されて、終戦後3年たってから日本に戻ってこられた方です。僕たちの学年だけ、3年間クラス替えがなく、先生もクラスメートもずっと一緒でした。そのため、結束が強く、今でもクラス会を毎年やっています。

 うんと苦労された先生だけど、熱血漢のとても良い先生でね。「僕も国語をやってもいいな」とも思っていました。「お前さんは理学部より文学部に行ったほうがよい」と言われたこともあったのです。

 今でも持っている吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選(とうしせん)』。これは高校3年生の時に買ったもの。ボロボロだけど、今でも捨てられないですね。国語も好きでした。だから今、『おくのほそ道』や石と人間の歴史に興味があるのも、そんな流れがあるのでしょうね。

 現役時代は研究を一生懸命して、好きな事だけやるわけにもいきませんが、定年になって、さて何しようか。昔の好きだった文学と専門にしてきた地質学と、くっつけて何かやれないかなと思いました。

 ですから、真理の探求とか、人のために役立てようとか、そんな立派な心構えでやったわけでないのです。好奇心のおもむくまま。ある意味では、幸せな人生かもしれないですよ。

 今の大学の先生方は、大変でしょう。僕は2000年に東北大学を退官したけど、その後に大学が独立行政法人化して、研究費を集めるのにも苦労するし、外にアピールしなければいけないこともあるけど、本当に気の毒だなと思います。最近の著書にも、僕が言いたいことを書いたのだけれども、これが今の心境です。

 不易流行(※1)も無用の用(※2)も俳諧のみならず、現在の私たちの生活全般や人間形成に当てはまる、重要な一面ではなかろうか。昨今の今すぐ役に立つ知識、技術がもてはやされ、基礎科学が疎かになる風潮は、その典型であり、今すぐ役に立っても来年には反故になってしまうこともある。自動車のハンドルやブレーキには必ず遊びがある。これがなければ危険極まりない。あくせくせずに人生を楽しみ、芭蕉のたどった道を、ゆっくり追いかけてみるのも良いのではなかろうか。

※1【不易流行】(ふえきりゅうこう):
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つ。解釈には諸説ある。▽「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。
※2【無用之用】(むようのよう):
《「荘子」人間世から》一見、何の役にも立たないようにみえるものが、かえって大切な役割を果たしていること。
(出典:三省堂)

 子どもが小さい時は「なんで?」と必ず聞くのです。やはり好奇心は大事にしないといかんと思います。数日前のニュースで、世界中の学力テストの結果で日本は少し良くなったと書いてありました。けれども好きなら、どんどんそっちの方に行くと思うのだけど。「今すぐ役に立つ」「受験に関係ないからやらない方がいい」という雰囲気は困ったものだなぁ、と思うのです。


もし1億年後の生物が地層を見たら

 地球の半径は約6,370km。そのうち地球の表面はほんのわずかです。海の平均的な深さは約3,800m。陸地の平均的な高さは約800m。一番高いところはヒマラヤ・エベレストで約8,800m。一方、人が住んでいるのは、せいぜい0m~1km(数km)です。ほんのわずかなところにひしめいているわけです。

 地球が誕生して46億年。そのうち石油・石炭が一番賦存するのは3~4億年前。せいぜい数億年ですが、でも数億年かかってつくられる石油・石炭を、ここ200~300年間でどんどん使って、今枯渇寸前と言っています。今の我々が生きている50年・100年・1000年の単位で考えてもよいものか。もっと長い目で見たほうがよいのではと、いつも考えてしまいます。

 地球の歴史を見ると、生物が発展の極に達すると突然絶滅することが、何回も繰り返されています。その原因は火山活動だったり、隕石の衝突だったりしますが、今まで陽の目を見てこなかった生物がかろうじて生き延びて、次の時代を担うことになるのかなぁ、人間もそうなるのかなぁ、という気がいつもするのです。

 今から1億年後の生物が地層を見たら、その頃に地質学者がいるかはわかりませんが(笑)、「1億年前の地層には、随分たくさんコンクリートジャングルや鉄の建物の跡があったり、放射能で汚染された地層があったり、一体どんな生物がいたんだろう」と思うのではないかな。そう考えると、何となく恥ずかしくなってしまいませんか?

 今でも太平洋プレートは1年間に数cmずつ動いています。ですから1億年たてば、今と全く違う大陸と海洋の分布になるだろうし、アメリカ大陸は3つくらいに分かれて、日本列島もどうなっているでしょう。火山活動も、我々の歴史時代以降、地球全体を覆いつくす巨大噴火はありません。けれども少し遡れば、何回も繰り返されているわけです。それが起こったら、一体どうなるだろう。

 今の人たちは、人間が自然を征服したような気になっているけど、地球の歴史を見れば、もっと謙虚になる必要があるのではないでしょうか。

 そう考えると、自然にないものをつくりだしたことは良いのか・悪いのか。放射性廃棄物も「地中に埋めればよい」と言いますが、地球の歴史を見れば、地下300mに入れても、いつ天変地異が起こるかわかりません。特に日本列島のようなところでは、火山活動や地震など、しょっちゅう変化が起こっているわけです。

 50年・100年の単位では起こらないかもしれませんが、それもわかりません。ですから、「自分たちの世の中には関係ない話だ」と言って、答えを出さないでもいいのでしょうか。いや、そうはいかないだろうと思うのです。

 地球は生きているし、人間だけが地球上に生きている生物ではありません。将来を考えれば、どんなことをやるべきか、どんなことをやってはいけないか。

 自分でも答えが出ないことを、若い人たちに押し付けるのも、少し気が引けるのですが、50年・100年というスケールではなくて、もっと長いスケールで地球の歴史や未来を考えた時、どうしたらよいかを考えなおす。その機会が今ではないか、と思います。


昔の人の想像力を見習う

 昔の人は、ものすごく想像力がたくましかったと思うのです。芭蕉だって、李白や杜甫の詩を引用し、中国のことについていろいろ書いています。芭蕉の時代は、中国に行った人なんて、ほんの数える程しかいなかったのに。おそらく中国の詩を何度も何度も読んで、想像したのでしょう。

 西行が亡くなって500年目、西行が歩いた奥州を訪ねて、芭蕉は「おくのほそ道」へと旅立ちました。芭蕉が生きていた頃より500年前の人の思いを胸に抱き想像しながら、芭蕉は歩いたと思うのです。想像力をかきたてる、それは非常に大事なことだと思います。

 昔の人が書いた文章を読むと、昔の人は大変少ない資料でもって、うんと夢を膨らませ、いろいろなことを書いています。それが今でも残っている。それは、すごいことだと思います。一方で今の人は「これからすぐ役立たないと、もうそれは科学ではない」とか。そういうのはちょっとつまらない気がします。

 湯川先生が中間子を発見したことだって、小柴先生が神岡でニュートリノを一生懸命観測したことだって、それは明日すぐ役立つとは限らないわけです。地震予知や天気予報は役立つかもしれないけど、地震予知だってなかなか思う通りにはいきません。

 最近になって、ギリシャ神話にも興味が湧き、いろいろ読んでいます。僕は哲学のことをあまりよく知らないけど、ギリシャ神話にしても、それ以降の哲学にしても、今の人たちの生き方に何か欠乏しているような気がして仕方ないです。

 人の心が豊かにならないと、いろいろなことが進んでいかない気がします。人はゆとりがあると、いろいろなことを考えます。それは別に大きなことを考えなくても、いいと思うのです。池内了さんの本『科学の限界』(ちくま新書)を読んでいたら、彼は「等身大の科学」と言っていました。

 寺田寅彦だって、身のまわりのちょっとしたことに、うんと興味をもって、そこからいろいろ考えていきました。寺田寅彦は、あの時代に、地震のことをずいぶん考えていますしね。「プレート」という言葉は使っていませんが、大陸が動いていると考えています。身のまわりのことからいろいろ考えていくことが必要だと思うし、昔の人の想像力を見習うべきだという気もします。

 一方で、今は情報が非常に発達しているから、知ろうと思えば何でもわかります。わかりすぎて、わかった気になるけども、でも、本当にわかったのかどうだか。ブレーキでもハンドルでも、遊びがあります。遊びがなければ、危なくて仕方ない。それは今の人間に通じるところがあると思うのです。

 最近、僕も科学史に興味が湧いてきました。なぜ昔の人が自然に興味をもって、今よりも情報が発達する前、知り得た知識だけで、自分の頭だけで、いろいろな現象をどうやって解決していったのだろう。そういうことに、うんと興味があります。

 時々、小学校の子どもたちを、近所の竜の口や八木山南にある治山の森に連れて行くことがあります。そこで貝の化石が出ます。「なぜここで貝が出るのだろうねぇ」と僕が言うと、「ここは昔、海だった」と子どもたちは言います。地層の中に入っている軽石を見て「この軽石はどこから来たんだろうねぇ」と僕が言うと、「火山活動でできた」と子どもたちは言います。

 そういう情報はいっぱい子どもたちも持っているのですよ。そういう知識はよく知っているのだけど、けれども、それだけで終わってしまっている。

 じゃあ、「なぜ恐竜は死んでしまったのに、ほかの動物は今でも生き残っているのだろう?新しく生まれてきたのかな?」とか、「昔この辺が海だったなら、なぜこんな高いところに海があったのだろう?」とか、そこから先まで本当は行ってくれるとよいのですが。

 もっと素朴な疑問を持って欲しいなぁ、という気がします。


あてがいぶちで、創意工夫は生まれない

 僕は田舎に住んでいましたが、今の田舎とはまた全然違うのです。池はどぶ池で、川はコンクリートじゃなくて、普通の小川だしね。自然のありのままの生態系で動いていました。冬になれば寒いし、夏になれば暑い。裸足で毎日歩いていたしね。それがずっと、昭和30年代くらいまで続いていました。自然との接し方は、全く自然のままでしたね。

 田舎でも道路がコンクリートなりアスファルトなりで舗装されたのは、昭和30年台の終わりか40年代になってからかな。それまでは雨が降れば道路は泥々になるし、自動車が通ればわだちができる。さらにその前は、牛や馬にひかせて荷物を運んだ時代でした。

 そんな生活でしたから、春夏秋冬はそのまま。春になればワラビやふきのとう、夏になればトマトやとうもろこし、秋になれば稲が実るし山ではキノコや栗が採れる、冬になれば夏秋に採ったものを土に埋めて少しずつ食べました。でも今はトマトは夏にとれるものだっていうことが、わからない。季節感も何もなくなっていますから、そういう生活の違いは大きいと思います。

 うちの子ども達もそんな時代に生まれて、孫なんて、もっとひどいですよね。でも子どもはやっぱり泥んこ遊び、うんと喜ぶみたいです。1日中、泥んこ遊びをしている。子どもたちに自然に接しさせる。多少は危険でも、良いと思います。小さい頃に痛い思いをしながら経験しないと、「教科書やマニュアルがなければわからない」人間になる。やってみたらよいのに、やらないでね。

 昔は「ガキ大将」がいて、喧嘩の仕方を教えました。ここまでは良いけれど、その先は止める、という手加減を自ずと会得したのに、今はそれがないから、いきなり大けがや殺人事件にまで発展してしまう。「ガキ大将」の役割は大きかったと思います。私はいつも虐められる方でしたが。

 この間テレビを見ていたら、お母さんたちがティシュペーパーの箱で手を切ったとか、そんなことが問題視されているようですね。今はいろいろなものに「怪我をします」「熱くなるとやけどをします」とメーカーがくどくどと書いているでしょう?いちいちそんなことまで書かないといけないのか、と。

 聞けば、お母さんたちがすぐメーカーに投書するらしいです。でも、そんなことは自分たちが経験しながら体得することでしょう。今は自分たちで経験しながら覚えていくことをしないで、皆メーカーや学校に責任を押し付けていく。それは間違いだと思います。

 僕らが石を区別する時は、よく「振ってみろ」とか「舐めてみろ」と言います。比重の重い石は振ってみた時、やっぱり感触が違いますし、珪藻土は吸水性があるから、ちょっと舐めたら舌にぺたっとくっつく。そういうことを体験するのが大事だと思います。

 やり方はいろいろあると思いますが、まずは食べられるか・食べられないか。舐めて苦かったら、これは食べない方がよいだろう。まぁキノコなんかは下手に食べると命に関わりますが。昔の人はそうやって「これは毒、これは食べられる」と区別してきました。

 それから昔は「肥後守」という殿様みたいな名前の切出ナイフを、みんな持っていました。鉛筆はそれで削ったのです。でも今は、危ないから禁止なんだそうです。以前、学生に「りんごを自分で剥いて食べてちょうだい」と言ったら、「どうやって剥くんですか、やったことありません」と言われましたね。マッチで火を付けたこともないという。

 けれども、痛いとか熱いとか、自分の肌で感じて体験をしなければ、わからないですよ。それはやっぱり、まずいです。僕らの時代は、それができた時代でした。今の子ども達は、そういう意味では、気の毒だなという気がします。

 そういう体験をするうちに、「自然ってそういうものだ」と思うかもしれません。ではなぜこうしたらマッチで火がつくのだろう?とか、ちょっとしたことで疑問も出るだろうし、工夫も出るだろうし。

 すべて準備されたもの、あてがいぶち(出来合い)で生活しているのでは、やっぱり何も創意工夫が出てこないだろうと思います。逆にすべてが揃っていて「じゃあ、これでやってください」なら、何も進歩がないわけですよね。「困ったな、どうしよう。じゃあ、今ある条件で、自分たちで何ができるか?」。好奇心も、そことつながっていくと思うのです。

 僕は、好奇心がいろいろなところでつながる気がするのです。そこでいろいろやってみると、何もないところから何かを生み出す、新しいものづくりに発展するような気がします。


科学とは人間の本性

 だから僕のやっている科学とはなんだろう?とは、明日すぐ役立つとか真理を解明するとか、そういうものではなくて、人間の本性みたいなもの。どうしてだろう?そう思うのが人間。そこから先はわからないけども、想像力をたくましくて、いろいろ考えてみる。

 今年ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生だって、すべて最初から「役立つものをすぐにやる」わけではなかったと思うのです。「これからは苦しんでいる人のために役立つ」、それは非常に大切なことですが、その素地を育てるのは、やっぱり好奇心や想像力。それで一生懸命やったら、役立つところまでいったのだと思います。

 湯川秀樹先生だって、中国の漢詩がものすごく好きだったんですよね。要するに、中間子だけに力を注いだわけではなく、あちこちに寄り道していた。朝永振一郎さんという、湯川さんのお友達だって、そうです。

 僕、朝永先生と湯川先生のお話、お二人とも聞いたの。おもしろかったですよ。朝永先生の話はまるで落語を聞いているみたいだし、湯川先生は生真面目だけど漢詩の素養があって、中間子を探すまでの経緯や、小さい頃にどんな興味があったかを話してくれました。

 湯川先生のお父さん・小川琢治先生は、地質学がご専門でした。日本列島がどうやってできたかを、最初の頃に論文にされた先生なんですよね。湯川先生は6人姉弟で、冶金の先生と中国文学の先生、湯川先生とおられたしね。

【写真3】2004年12月。中国山東半島での巡検風景、この付近は大陸が衝突して出来た超高圧変成帯に属するところ。

僕がなぜ地質学をやってきたかと言えば、やっぱり「北上はなぜ北上山地なんだろう?」「中国や北ヨーロッパの古い石がどうしてそこにあるのだろう?」といった興味です。それが資源探索に役立ったこともあるし、あまり役立たなかったこともあります。どちらかというと、役立たなかったことが圧倒的に多かったです。

 化学も好きだったので、いろんな地域の石を集めて化学的に比較するために、分析したり顕微鏡をのぞいたりしました。いちばん印象に残っているのは、阿武隈山地で日本では珍しい十字石を発見したこと、それから、あまり人のやっていなかった鉱物中のフッ素(ハロゲン元素の一つ)を分析し、その地球化学に力を注いだことです。

 今は建設屋さんから「福島県の地質概説を書いてくれ」と頼まれています。どこに化石が出て、どこから北上山地はやってきたか、基礎的なことが建設に役立つかと聞かれれば、あまり役立たないと思います。でも建設屋さんとしては、そういうこともどこか頭の隅に置いておいた方が良いと思うし、トンネルを掘る時に何かの役立つかもしれません。

 定年後、僕が執筆を始めたのは、スタインベックの『怒りの葡萄』を読んで、こんな見方があるんだなと思ったのがきっかけです。1930年代、大恐慌の最中アメリカで大干ばつで砂嵐(ダスト・ボウル)が起こり、オクラホマに住んでいたジョード一家が苦労してカリフォルニアを目指し、家族を連れて移動する話です。これは環境問題に関係あるなと思ったことから始めたのが、一つのきっかけです。私が1970年代に調査したルートが、この小説の舞台と重なっていたことも幸運でした。

 環境問題ばかりではなく、ギリシャ神話やゲーテの『イタリア紀行』など、文学と地質学、一見関わりのないものを、いくつか探し出してみたの。そしたら本ができました。それも好奇心といったらよいのかな。一見なんの関係ないものを結びつける糸が、どこかにあるんじゃないかなと思ってね。探してみたら、結構あるんです。

 宮沢賢治も、ものすごく好奇心が強い人でね。花巻から仙台の丸善まで、本を買うために何度も来たとかね。鉱物学や地質学にも、法華経にも興味を持っていたわけでしょう。岩手県は昔から干ばつや冷害に見舞われ、農民がしょっちゅう苦しんでいるのを見て、「自分に何ができるだろう」と想像力を働かせて、いろいろな小説や童話を書いたと思います。

 魯迅も、仙台に来る前は、地質学をやっていたのです。魯迅は地質学の論文や中国の地質の概説書、地質学の啓蒙書も書いているしね。

 ゲーテにしても宮沢賢治にしても魯迅にしても、やはり好奇心と想像力を持っているような気がするのです。


好奇心と想像力は人間の特権

 誰でも好奇心は残っているとは思うのですよ、人間だからね。でも、子どもが大きくなるに従って、生活面で失せていくのかなぁ。外的な要因でね。

 だから教育が大事でね。「どうして?」と子どもは必ず聞くんですよね。「どうして?」という素朴な疑問が、子どもを育てる時にうんと大事なことだと思うのです。「どうして?」と聞かれて、「そんなこと俺は知らん」「これは受験に関係ないから」ではなく、「これはこうだから」とか「今はわからないけど、あんた考えてごらん」としていかなければなりません。

 「どうして?」と疑問に思うことは、人間以外の生物にない、人間の特権ではないかと思うのです。それが人間を取り巻く環境でなかなか生かされない、むしろどんどん、あっちの方へやられてしまっているのが問題です。

 想像力を働かせる前に、「やる必要があるのか」、あるいは自分で想像しないで、他所から情報を取り入れて、わかった気になっている。もしかすると僕の考えは間違っているのかもしれないけど、僕自身はそんな気がするんです。

 好奇心と想像力。これは人間の持つ特権、特性じゃないかと思うのです。その結果として、好奇心と想像力が役立つことは十分あるわけで、それはもちろんよいことだと思います。役立つものばかりでないけれども、好奇心と想像力は重要なもの。人間の本性として持っているもの。

 私自身、「好奇心のおもむくままに、想像をたくましくして」とまでは行きませんでしたが、子どもたちには、そうあって欲しいと願うこの頃です。

―蟹澤さん、ありがとうございました。

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【写真4】モンゴル国バヤンホンゴル県における調査の一コマ。写真右が蟹澤さん。
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