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みやぎ工業会会長の竹渕裕樹さん(東京エレクトロン宮城会長)に聞く:社会って、そもそもなんだろう?

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みやぎ工業会会長の竹渕裕樹さん(東京エレクトロン宮城会長)に聞く:社会って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2013年4月17日公開

絶えず変化するものに、
とらわれていては、おもしろくない

竹渕 裕樹 Hiroki Takebuchi
(みやぎ工業会会長、東京エレクトロン宮城会長)

群馬県出身、東京都立大(現首都大学東京)卒。1978年に東京エレクトロンに入社し常務執行役員を経て、2010年7月から東京エレクトロン宮城会長。2012年6月からみやぎ工業会会長。

 「社会って、そもそもなんだろう?」を探るべく、【社会】に関する様々な「人」をインタビュー。
その人となりをまるごと伝えることで、その「人」から見える「社会とはそもそも何か」を伝えます。


みやぎ工業会会長の竹渕裕樹さん(東京エレクトロン宮城会長)は、
「社会とは絶えず変化するものだからこそ、とらわれて、
とどまってしまえば、変化していく中に、生きてはいけない。
その変化をどう認識し、どう受け入れ、そこに存在していくかが大切だ」と語る。

社会は変化するものだから、そこにずっと生きていけるよう、自分も努力していく必要がある。
その時に大切なことは「とらわれのない」心であると、竹渕さんは繰り返し強調する。
とらわれてしまっては、変化についていけず、とどまってしまうからだ。

それでは、そもそも「とらわれのない」心とは、努力の為所とは何なのか。
「絶えず変化するものに、とらわれていては、おもしろくない」と語る、
竹渕さんという"人"から見える社会、そして生き方の筋とは何かを探った。

<目次>
存在し続けるためには、変化しないことを願って生きても仕方がない
社会に流される生き方だけじゃなく、社会にいた証明を示したい
好奇心があったから、生き残れた
小さい企業が成長していくプロセスにいたことがラッキーだった
おもしろいことは、そこら辺に転がっている
とらわれのない心でいるが故に恐怖がなくなる
情報化社会による「個人の覚醒」、そして本当の民主主義へ
うまく乗り切れば、日本は非常に高い生産性を維持し再生できる
好奇心を持って、絶望しないで生きて欲しい


みやぎ工業会会長、東京エレクトロン宮城会長の竹渕裕樹さんに聞く


存在し続けるためには、変化しないことを願って生きても仕方がない

―竹渕さんがリアルに感じる社会って、そもそも何ですか?

 非常に難しい質問ですね。よく考えたことはないですが、社会とは、自分が存在している環境そのものではないでしょうか。結局、自分が接するものは、自分の外のものであり、それが絶えず変化している。それが社会なのだろうなぁ、と思います。

 社会とは一人でつくられていないもので、いろいろな相互作用が起こり得るところ。人に限らず、そこにある自然や生物も、社会を構成していますが、刺激という意味で一番多いのは、人だと思います。こうやって宮城に来れば、また同じでなく違う社会です。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と鴨長明が『方丈記』で言ったように、全く同じに見えても同じでない。1分後は現在ではなく、全て過去になる。絶えず変化している状態が、むしろ普通で、つまり、変化の中にいるわけです。ですから、社会も変わっていくものと捉えておいた方が良いと思います。

―「社会は変わっていくものと捉えておいた方が良い」とは、見方によっては、そう捉えられたり・捉えられなかったりする、という意味ですか?

 僕の場合、「変わっていくことが当たり前だ」と思っていますが、中には「そうではない」「とどまっていたい」と思う人たちもいるかもしれません。

 しかしながら、それはできない現実を直視しなければいけません。自分が社会に"いる"存在である限りはね。存在がなくなれば、とどまっている状態になります。けれども社会にいる存在である限りは、変化の中にいる前提を認識した方が生きやすいと思います。

 僕は、とらわれるのは好きではないのです。「ずっと、こうでなくてはいけない」とか「こういうものだ」とか。それは必ずしも、変化ある時、ずっと通用するものではないでしょう?とらわれてしまっては、変化についていけず、とどまってしまう気がします。

 つまり、社会は変化するものだから、そこにずっと生きていけるように、自分も努力していく必要がある、という気がしますよね。もちろん健全なこだわりは別の話で、プロフェッショナルになろうと高めていく部分は大切だと思います。

―自分と接する外のものは常に変化する存在だからこそ、自分がとどまってしまえば、生きてはいけない、ということですか?

 変わっていく中に、生きてはいけない。ですから、変化する中に"いたい"と言うより、"いなければいけない"。その変化をどう認識し、どう受け入れ、そこに存在していくかが、とても大切なことだと思うのです。

 とどまってしまうと、「社会が悪い」と感じてしまったり、「こんなところにいたくない」と絶望してしまう人もいるかもしれない。自分の思い通りにはならないからです。

 しかし、自分がやろうと思ってできる領域も存在はするものの、全てを自分の思い通りに持っていくことは不可能です。ですから、変化していくことを受け入れておけば、諦めではないですが、達観できる気がするのですよ。絶望せずにね。

 絶望的なことが今、多いじゃないですか。けれども、そう考える必要はないと思うのです。これから先どんなことが起こり得るかもわからないのが、現実です。ですから、変化しないことを願って生きていても仕方がない。存在し続けるためにはね。

 口には出さないけれども、僕はそんなことを感じていると思うのです。


社会に流される生き方だけじゃなく、社会にいた証明を示したい

―昔から自然にそう感じていましたか?それとも、そう感じた転換点がありましたか?

 社会に出て、気がつけば、そう感じていました。では、社会に出るタイミングとはいつか。一つは会社に入ること。いわゆる、自分の選択だけでは生きられないところに入ること。

 学生は、ある程度、自分の選択が自由ですね。けれども会社に入ると、自分の思いや何かだけでは、生きていけない。すごく変化が求められる。いろいろな変化に追従していかなければダメです。そこで「とらわれていても仕方ない」と徐々に思ったのでしょう。

 けれども、社会に流される生き方だけじゃなく、社会の中で自分の存在証明を、アイデンティティを示したい。それは、特別な能力や才能というものではなくともね。せっかく生まれて、せっかく生きているのだから。

 「どうせ人間死んでしまうのだから、別に何もしなくて良いや」では最悪じゃないですか。そんな思いにとらわれてしまってはね。とにかく僕、楽観的に見ることが好きなのです。あまり悲観的に見ても、仕方がないから。とらわれると、止まってしまうから。

 それぞれ自分のやりたいことなり目指したいことなりに、それ自体は変化しても良いけれども、一生懸命取り組んでみる。そういう一種の「こだわり」はやはり必要で、社会にいた証明を示したい。それを持つことが大切だろうと思います。

 でも僕なんかは、何をどう目指せば良いかなんて、中高生の頃は一切考えたことがありませんでした。中高生は思い悩むことがいっぱい。楽しいことをずっと続けていくことが難しかったり。本当に自分のやりたいことで身の立つ人の方が、一般には稀でしょう?

 ただ、どこかのタイミングで気づいて、自然に取り組んでいくようなものができてくるんです。ですから気づけばこうなっていた、というのが僕の経験ですね。

―「気づけば」とはいえ、それは無意識ですか、それとも何かを大切にしてきた結果ですか?

 子どもの頃から一人でいるのが好きだったんです。「仲間がたくさん欲しい」と思ったこともなくて、人と争うことも嫌いでした。孤独になる寂しさは感じたことが少なかったな。男三人兄弟の末っ子で、知らず頼ることもあったけど、割りと独立していました。

 基本的に、疲れることは嫌なんです。疲れるような、無駄なことはしたくない。「それをやったら何かあるの?」と、思っちゃう。楽しいことは好き。楽しくないことは嫌い。ですから、仕事も楽しいと思って、取り組んできました。そんな考え方です。

 ですから自分は、地位や名誉が欲しいと思ったことが、一度もないのです。それが良いか悪いかは、外から見たら、わからないですけれどもね。

―ボキャブラリー不足で恐縮ですが、普通は大人になるにつれ削られるところが、小さな頃から削れていないのが不思議ですね。

 ラッキーだったと思います。もちろん、生きていく中でいろいろなことがありました。企業人としては「甘い」と思われるかもしれません。

 子どもの頃から、「死ぬ」ということがよくわかりませんでした。死んでから魂はどうなるかとか、生まれ変わるのだろうかとか。そんな一種の哲学に、影響を受けているのかもしれません。

 僕は、『般若心経』が好きなんですよ。僅か300字足らずの短いお経で、どの仏教でも読まれているものです。「色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)」(※1)を聞いたことはありませんか?観音菩薩(お釈迦様の修行中の姿)(※2)が悟りを開く過程で、世の中をどう感じていたかを書いたものらしいです。

※1:「色」とは、宇宙のすべての形ある物質のこと。「空」とは、実体がなく空虚であるということ。「即是」とは、二つのものが全く一体不二であること。すべてのものは、永劫不変の実体ではないという、仏教の根本教理で『般若心経』にある言葉。
※2:「如来」とは悟りをひらいた仏様。「菩薩」とは如来になるための修行中の仏様。

 要するに、世の中は絶えず変わっていくし、捉えどころがあるようで、捉えられない。そんな風に書いてあるのです。『般若心経』を見ると、何となく生き方が楽になると言うかね。ボキャブラリーは僕も足りないですが(笑)。感覚で生きていますからね。


好奇心があったから、生き残れた

 自分の人生において、偶然が多いのです。やはり世の中は変化しているから。自分の思うような方向には行かずに、偶然の出来事を繰り返して、今ここにいます。もちろん遡れば「あの時、あれがあったから」というものはありますがね。

 だから、変わってしまうものに対して、柔軟に対応せずに一々とらわれても、その先おもしろくないんじゃないかなぁ?と思うようにしているですよ。

 例えば「宮城なんか行きたくないなぁ」「なんで俺が宮城なんだ?」と思っちゃったら、宮城に来ても、おもしろくないでしょう?(笑)。そうじゃなく、「全然知らないところに行って、おもしろいかもしれないぞ」と思う。人生おもしろいと思って生きた方が、良いじゃない。僕はずっとそんな感じで生きていると、自分では思っています。

 だから、「何も考えなくていいよ」と言われる環境にいたら、何も考えないかもしれないですね。仕事でも、考えなければいけない・やらなければいけない環境がある時は、一生懸命なのだろうけど。やらなくていい時は、やらない。そういう人間なんだね。

 つまり、他人ができることはやらないで、僕がやらないといけないことだけをやる主義。人ができることをやることは、人の仕事を奪うことになるから。自分がやらなきゃいけないことをやらないのでは、単なる給料泥棒だから。

 仕事を変わるのも、極端にこだわって「嫌だ」と思うことは、無かったですね。逆に言えば、3年くらい経つと、飽きちゃうから。「そろそろ変わりたいな」とか「変わったほうがいいな」と思う。

 仕事が来るということは、僕がやった方が良いということだから、それに一生懸命取組む。あとは「ここはこう変えた方が良いな」というところは、そうなるように努力します。

―「たまたま偶然の出来事」に対して「自分にしかやれないことをやる主義」と仰っていました。会社からすると、竹渕さんにしかお願いできないからお願いしていると思うのですが、そこには何があるのでしょうか?

 それが、たまたま転がってきたら、一生懸命やる。やるなら、徹底的にやる。逃げ出すのは、好きじゃないのです。そこは、求めてきました。「今までやってきたこの方法で、本当にいいのか」という疑問は常に持っていました。

 それは好奇心、疑問ですよね。一つのことをそのまま見るのではない。それがあったから生き残れたのかもしれません。それもなく単に流されて来ていたら、ふらふらした単なるおじさんで、こうやってインタビューを受ける立場にもならなかったでしょう。

 つまり、理不尽だと思うことは嫌なのです。自分の関わることでね。自分の関わっていないことは、どうでもいいのです。そこまで突っ込む気持ちはありません。

 ただ、自分の関わることで理不尽だと思うこと、変えた方が良いものは、変えた方が良いなと思う。そんなに大それたことはないのです。あまり大きく考えちゃうと、「あぁ無理だな」と、今度はやらない方が良いと思っちゃうじゃないですか。それは嫌だね。

 なるべく他人に迷惑かけないで生きて行きたいしね。僕を「わがままだ」と言う人はいるけど(笑)。でも他人に迷惑をかけるような生き方ではないと思っています。それだけは、心がけたいな。実は、迷惑をかけているのかもしれないけど(笑)。


小さい企業が成長していくプロセスにいたことがラッキーだった

―「自分の選択だけでは生きられないところに入る」のに、心は死なずに、かつ社会に存在し続ける筋があるのですね。

 僕は自分で「これやらなやきゃ」と思った瞬間がなくてね。ただ、好奇心はあるのですよ。この会社では、好奇心を発揮できる環境が常に用意されていた。と言うより、そんな環境しか無かったのかもしれない。だから、僕は生き長らえてきたのかもしれないね。

 当時、東京エレクトロンという会社はまだ300人くらいの小さな会社で、上場もしていない、いわゆる中堅企業的な感じでした。会社もちょうど変わっていくタイミングだったのだろうけど、社会の変化がすごく速いところで、絶えず会社も変化したのです。

 だから、自分が興味を持つチャンスが、いっぱいあった。やりながら、その中で"遊べていた"わけね。そういう捉え方をすると、これは「おもしろい」となる。もちろん苦しいこともあるよ。でも、そういうチャンスもあったわけです。だから僕も生き残ってこれたんじゃないかな。好奇心はあったからね。

 もし好奇心がなかったら、動物園の餌をもらって生きているだけかもしれない。でも、そういう会社じゃなかったから、結果的に、その変化に対応してきたのだろうね。自分では、そんなに一生懸命やった感じはないのだけど。

―逆にいえば、好奇心を発揮できるチャンスのある環境を、選んだということですか?

 自分で選んではいないのです。ある出会いがあって、たまたま紹介されて、あとで調べたら、「この会社、おもしろそうじゃん」と思って、入ったのです。

―けれども、「おもしろい」と思ったから、入ったわけですよね?

 おもしろくなきゃ、働く気がしないじゃない?本当に最後の最後まで、就職が決まらなかったしね。「一応教授が言うから」とか、「やっぱり就職しなきゃ」と思って試験を受けたこともあるけど。でも、何かがおもしろくない。この会社は拾ってくれたから、有り難かったね。

 なんで皆、そんなに大企業に行きたがるのか、僕にはわからないね。もし僕が大きな会社に行ったら、死んでいたかもしれないね。「何?仕事もできないのに云々」とか言われちゃって。けれども当時は小さな企業で、やらざるを得ない状況だったから。

 繰り返すけど、ラッキーだったんですね、この会社で働いてきたことが。小さい企業が今くらいの規模の企業グループになった過程にいたことが。やっぱり、おもしろいじゃない。

 全く同じことをこれからの人が経験できるかと言えば、そうじゃないかもしれない。だから誰にも通用しないし、そのタイミングにたまたま自分がいた。それが、こんな考え方になったのでしょう。もし違うところにいたら、違ったでしょうね。そういう風に思えるようになるくらい、良い場所だったのではないかな。

 けれども誰にでも、同じようなところがあると思います。個人だからね。自分が少なからず選択しているだろうから。自分の人生は最後、自分で総括するのが大切だという気がするね。他人に総括されるのではなく、自分で総括する。

 他人の評価って、気にはなるけど、そんなのにとらわれる生き方は、僕は好きじゃないから。だから、評価を受けたくて、こうしてきたのではなく、その時々、そういう役割がたまたまあって、ラッキーだった。逆に、単純だったら、辞めていたかもしれないね。

―他人から位置づけられるのでなく、自分でどう位置づけるか、ということですか。

 人間って、自分でどう思うか、だからね。自分の人生を、やっぱり自分で良かったと思って終わりたいものね。それは、自分だけで選択できなかったことも、いっぱいあるだろうから。

 でも、やっぱり運が良かったというのは、いいね。肩の力を抜いて生きていけるような気がする。最後に「こんな人生だったら良かったのになぁ」と思わないで生きたいのよ。ま、そんなところかな。


おもしろいことは、そこら辺に転がっている

 今の社会って、何が起こるかわからないから、おもしろいじゃないですか。絶対に起こらないと思ったことが、いとも簡単に、当然のように起こっているわけです。

 この先、過去の歴史にあったことが繰り返し起こることを、どのように捉えるか。恐怖にとらわれて、活動を止めてしまっても仕方ないじゃないか。つまり地球も宇宙も、生き物だから変わっていく。その中にある社会も当然、変わっていく。

 だからこそ、自分で自分の身は守るくらいの教育をしてあげた方が良いのではないかと思います。今はあまりにも、過保護に守ろう・守ろうという方向に、なり過ぎていると感じます。

―これまで自分が受けてきた教育は、あたかも「変化しないこと」が前提だった印象がありました。けれども実際に、何か自分の前提でやろうとすると、こんなにも社会とは動きがあって柔らかいものだったのかと、最初は大きなギャップに大変驚きました。そこまで前提が違うのなら、それまでの生き方も全然違ったんじゃないかと、ショックを受けたくらいです。だからこそ『宮城の新聞』では、その柔らかさ・多様性を可視化したいと思っています。

 疑問に思わず従順な人間をつくりだそうと、ずっと長い間、教育でやってきたんじゃないかな、という気がしますよね。画一的に、どんどんなっていく。

 でも、僕なんか、すごくそれが嫌いだったからね。なぜ僕がそんなことをやらないといけないんだ、なぜそんなこと言われるんだ、って。だから先生に嫌われました。ただ単にそれが嫌いと言っているのではなく、理由がわからないのが、一番嫌だったのです。

 それでも、おもしろい先生がいましたよ。高校1年生の生物の先生です。いきなり、RNA・DNAとか、僕ら全然知らないわけなのに、自分が興味のある「人間は・・・」と熱心に話す先生、すごいと思いましたね。でも今は、そういう先生がいないでしょう?だって、受験のための勉強なんでしょう?

 社会ってそもそも何だろう?ということを、本当は一番勉強した方が良いのかもしれないね。なぜ勉強するんだろうね、って。非常に哲学的になるかもしれないけど、それをきちんと小学生の頃からディスカッションするような教育が必要ではないでしょうか。

 すると、自分の意見を言える人間をつくることができるのでは、と思います。単なる自己主張の塊のような人じゃなくて。そうじゃないと、つまらないと思うのだけど。

 教育システムを大きく変えた方が、良いのでしょうね。興味を持てば、自然に勉強って、やるじゃない。その必要に迫られるのは、やっぱり自分で大きな体験なり刺激を受けることでしょうね。

―竹渕さんは、小さな頃、どんな体験や刺激がありましたか?

 僕は大学では物理学を専攻しました。なぜ物理学を志したかと言うと、ちょうど僕らが小中学校の頃は、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功したという華々しい時代。とても興味を持ったので、随分、勉強しましたね。

 アポロ11号を飛ばしたロケットの高さ、わかりますか?高さ110メートルもあるんですよ。なぜかと言うと、何十トンもある宇宙船を月に飛ばすため、ほぼ燃料だけのロケット一段目をつくらなければ、地球の引力から離脱して飛び出せないから。それくらい、重力の力ってすごいんだ、と興味を持ったら、体系的ではないけど、勉強するわけです。

 ですから、本当は巨大なチャレンジが必要なんですよね。お金は誰が負担するかの問題はありますが。はやく火星に人類が行って、帰って来て欲しいですね。それくらいのことをしないと、おもしろくないじゃない。今、世の中が停滞しているのは、あまりにも安全を優先し過ぎるあまり、無謀とも言えるチャレンジが少なくなったからではないでしょうか。

 そうやって学者にまでなった人は、本当に偉いなと思います。僕も中学校の頃までは科学に興味があったけど、高校で音楽と出会い、科学への興味はなくなっちゃった。ギターをかき鳴らして歌うことを、高校3年間ずっとやっていました。

 つまり、おもしろいことって、そこら辺に転がっているものですね。それに思い切って自分でチャレンジして、おもしろかった、という感覚が大切なのでしょうね。


とらわれのない心でいるが故に恐怖がなくなる

 僕は、あまり過去にとらわれないようにしているんです。とらわれるのが、嫌いだから。戻れないじゃないですか、過去なんかに。後悔しても仕方ない。ここから先、生きていく上で、反省した方が良いことはあるかもしれないけど。終わったことにはとらわれない、と思うようにしているんです。

―そう意識している、ということですか?

 意識しなきゃいけないことって、あるじゃない。自分で「こうじゃなかったな」と思うタイミングに接することも、あるじゃない。けれどもその時、「そうじゃない、終わったことだ」とすることが、経験として大切だと思うのです。

 もちろん、その先、生きていく上で役立つことはあるかもしれないから、全て捨て去ることはしなくとも良いけれども。ただ、それにとらわれて、うじうじ、そこにとどまることは、したくないなぁ。

 つまり、面倒くさいことが嫌なんですよ。子どもの頃からそうなんです。うじうじ考えて、腹立って云々考えるのが、面倒くさい。だから自然と、こんな人間になったのかな。やらなきゃいけなくなったら、やりますよ、ちゃんと。やらなくて良かったら、やらないですよ。

 たまたまこうなったし、この先、どうなるかもわからないけど。あえて自分で自分の話をしたら、そんなにとらわれてきてないし、とらわれないようにはしよう、としていました。

 とらわれのない心は、先ほどお話した『般若心経』にも「心無罣礙(しんむけいげ)」とあります。「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげこ むうくふ)」。けいげ(とらわれること)無き心故に、恐怖というものもない。とらわれていると、恐怖になるが、とらわれない心でいるが故に、恐怖がなくなる。そういうことなんですよね。

―自分は起業してからしか社会を意識していないのですが、その7年だけ見ても、社会は「とらわれる」方にバイアスがかかっている感じがします。

 インターネットが普及し始めたのは、ここ10年でしょう。情報過多なんですよね。人間の弱い部分として、他の誰かが言ったことに影響を受ける傾向が、少なからずあるじゃないですか。自分の中で判断できるフィルターがなければ全て信じてしまい、とらわれてしまう。それで、戸惑っているんじゃないか、という気がします。

 それに、希望がない報道が多過ぎますよね。「この会社がダメになった」とか。でも仕事って、いっぱいあるんです。ただ、「この大きな会社じゃなきゃダメだ」と考えているから、何となく絶望して、怖いと思っちゃうところがあるのでしょうね。

 けれども、そんなことはなく、怖いのは昔から変わらないわけです。自然災害も破壊的な戦争も昔からあったわけで、この先もないとは限らない。だから、そんなことにとらわれて、怖がっていても仕方ない。なるようにしかならない。それが大事じゃないかな。


情報化社会による「個人の覚醒」、そして本当の民主主義へ

 価値観の多様性を認めないと言うよりも、見せていないのが悪いよね。「こうでなくてはいけない」となっている。多様な生き方がとりあげられる必要があるでしょう。

 逆に言えば、これからの情報化社会、10年20年たてば、自分で判断できる人間が生まれてくるでしょう。それを「個人の覚醒」と言います。インターネットによって、現在は個人が混乱しているかもしれないが、独立した個人が生まれてくる。そんなネクスト・ジェネレーションが来るでしょう。

 そうなると、世の中は、また違った動きになります。政治も大きく変わるだろうし、政治が変われば、社会も大きく変わる。だから今、問題になっていることは、覚醒した個人が増えることで、問題がなくなるかもしれません。

 今はまだ自分の言葉で喋る人が少ないですが、覚醒した個人が増えれば、ジャーナリズムも変わるでしょう。そのうち、署名入りで発言をしていく。その重さは、大きいですよね。すると世の中、変わると思います。今はその過渡期ですね。

 そのような意味では、これから世の中、もっとおもしろいと思いますよ。「こんな社会にしていこう」、そんな動きを、自分たちでつくっていくのです。

 今は、「つくってもらいたい」と思っている人が多いでしょう?だから今、不満に思っている人たちは、そういう社会のつくられ方を容認していることと同じだから、それが嫌なら、自ら立ち上がらなければいけない。

 今までは、ただ単に、皆の中に入って流されながらという人が多かったけど、やっぱり自分の言葉で発信する人が増えている感じがするものね。

 そんな動きを持つ人たちが中心になって、政治のリーダーシップを持つようになれば、変わると思います。だって、今からインターネットを止めるなんて、できないもん。進化こそすれ、戻ることはない。独裁的に何かをやっていく人は、出にくいでしょう。

 民主主義最大の欠点は、インフォメーション・ディバイド(Information Divide:情報格差)でつくられていました。自分で参画しようと思えばできるのに行けない。でも今は情報化社会によって簡単に行けるようになっています。すると個人が覚醒するチャンスも増えてくるからね。

 本当の意味での民主主義ですね。本当にこれが必要なのか、こう言われているけど本当にいいのか、そんなことを考える人が増えてくるかもしれない。

 ただ、そこで注意しなければいけないのが、アジテート(agitate:扇動すること)して、誘導するものが生まれやすくなります。けれども一方で、それを冷静に見る人も出てくるから、そうなると、やっぱり本当の民主主義なんでしょうね。

 その代わり、自分で選択したことに対する責任をどうとるかは、また別の難しさがあります。そこにとどまることがあると、また、問題ですが。


うまく乗り切れば、日本は非常に高い生産性を維持し再生できる

 それで、あなたは、将来どうなると思うの?

―情報社会のおかげで、これから本当の民主主義に近づいていくと自分も思っています。けれども逆に言えば、今まで以上に、主体的にやれるかどうかで、人間として、ものすごい格差が生まれる時代になると思います。どんどん人間らしさが問われてくるのでは。

 僕は、むしろ格差が無くなるんじゃないかと思っているのですよ。少子高齢化は、全人類が歩んでいく最後の道筋だから。それが、日本は最初に来ているだけであってね。

 食料を確保するために、生きていくために、労働力が必要だから、子どもをつくる。けれども、だんだん生産性が上がり、豊かさがある水準を超えると、子どもが必要なくなって、老人社会になる。だから、だんだん人間の数が少なくなる。そんな現象です。

 昔、『スタートレック』というSFがありました。僕が小中学校の頃の米国のSFで、映画にもなっています。成熟化した星が舞台で、究極的には人間、食べることに困らなくなれば、争い事もなくなり、少ない人間で生活している、という話。

 情報と教育の質が上がれば、ある程度、同じような情報や能力を持った人間の集団になっていく。すると少ないエネルギーで長生きでき、人間は少なくても良い、あとは全部、機械にやってもらう。そんなSF的な世界に、将来なっていくんだろうと思いますね。

 それは今の日本がつくれる世界かもしれないですよ。今の日本は少子高齢化で、経済が発展しない状況にあります。じゃあ、人間を労働力として捉えるのか。あるいは機械でそれを補うのか。もしくは高齢者をもう少し効率的に働かせる形をとるのか。そうやって、生産性を落とさずにいければ、ある程度、経済は発展していくことができます。

 例えば農業だって、今は生産性が低いですが、少ない人数でもって、それを上げるようなことをしていく。そういうモデルをつくれれば、地球がその方向に向かっていく中で、先取りができます。

 人口ピラミッドの形も、あと30年くらいで我々・団塊の世代が死んでしまえば、一気にあの山が消え、真っ直ぐな形になります。間違いなく、いなくなるわけですから。これを乗り切ると、後はすごく楽で、多少は人が関わることが少なくなるかもしれないけど、一人あたりの生産性は上がる社会になると思います。

 ですから、いたずらに移民を増やし、今の人口構造を維持しようとすることが本当に良いかは、議論の余地があるでしょう。現在、ヨーロッパで起こっている問題は、多分そうではないですか。移民をたくさん入れたけど、思ったより生産性が上がっていない。一方、移民をあまり入れていないベルギーでは、一人当たりのGDPが世界最高クラスです。その代わり、国の単位で見ると、規模は小さいです。

 ですから日本は、生産性を上げ、そこをなんとかうまく乗り切ると、非常に高い生産性を維持した形で、再生できると思うのです。そこで培った技術を、今度は他の国々に売る。日本は、住んでもらわなくてもいいけど、遊びに来てね、という国にする。

 また全然別の話になっちゃったけど、そういうことは、若い人たちに聞いてみたり、話をさせてみて、想像させてみるのが良いかもしれないね。僕らの時代、情報が少なかったから、なんとなく夢があったけれど、今は超現実しか言わないから。やっぱり夢を大きく語ると言うか、見せていく。新しいもの、難しいものに、チャレンジしないと、社会の進歩がないからね。


好奇心を持ち、将来は明るいと考えて生きて欲しい

―最後に、今までのお話を踏まえて中高生へのメッセージをお願いします。

 やっぱり、好奇心だよね。自分の身のまわりにあることでも、世の中のことでも良い。自分の興味のあることに「なんでだろう?」と思う好奇心を持って欲しいですね。そして、将来は明るいと考えて生きて欲しいです。だから、絶望する必要はない。

 「夢を持ちなさい」と言うと、僕、不遜だからね。自分で持ったことも、無いしさ(笑)。皆、一応言わないといけないから、言うけれども。でも僕は、あなたに言われる筋合いは無いよな、と思うのよ。

 ただ、絶望しないで欲しい。世の中、色々なことが起こって、大変なことばかりのような気もするかもしれないけど、そんなことは決してなくてね。そもそも色々なことが起こって、変わっていくものだから、希望を捨てることもない。

 自分が生きていく人生、歩んでいくところが素晴らしいところだと、思い続けて欲しいです。

―竹渕さん、本日は長い時間、どうもありがとうございました。


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