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KDDI会長の小野寺正さんに聞く:社会って、そもそもなんだろう?

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KDDI代表取締役会長の小野寺正さんに聞く:社会って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2013年3月26日公開

どれだけ「共同体」に重層的に関われるか。
それによって、人間としての視野は決まる。

小野寺 正  Tadashi Onodera
(KDDI株式会社 代表取締役会長)

1948年、宮城県生まれ。幼稚園から中学校まで東北大学付属校(現・宮城教育大学付属)、宮城県仙台第二高等学校を経て、1970年、東北大学工学部電気工学科を卒業後、旧日本電信電話公社(現NTT)に入社。電電公社時代は、主に無線技術者として働く。1984年、後のDDIの母体となる第二電電企画に転じる。1997年、DDI副社長。2000年にDDI、KDD(旧国際電信電話)、IDO(旧日本移動通信)三社が合併し、現在のKDDIが発足、株式会社ディディーアイに社名変更。代表取締役副社長に就任。2001年、KDDI株式会社に社名変更、6月に同社代表取締役社長に就任。2005年、代表取締役社長兼会長。2010年、代表取締役会長(現在に至る)。

 「社会って、そもそもなんだろう?」を探るべく、【社会】に関する様々な「人」をインタビュー。
その人となりをまるごと伝えることで、その「人」から見える「社会とはそもそも何か」を伝えます。


宮城県出身でKDDI株式会社代表取締役会長の小野寺正さんは、
社会とは「人の共同体」であり、生まれてから重層的に広がる
共同体にどう関わるかで、その人間の「視野」は決まる、と話す。

「一番最初の小さな共同体から徐々に広げて考えなくてはならないのに、
社会がどんどん大きくなり、広い社会で考えざるを得なくなってる。
しかし実は、狭い範囲を蔑ろにして、広げ過ぎているのではないか」

そう問題点を語る小野寺さんに、共同体の形が歴史的に変化する中、
共同体としてやらざるを得ないこと、中高生のうちにやるべきこと、
そして、これからの社会はどうなるかについて、幅広く聞いた。


<目次>
【そもそも社会って、なんだろう?】
社会とは「人の共同体」
共同体は重層的に広がる
大人になるということ
【そもそも教育って、なんだろう?】
教育の基本は小さなコミュニティから
親に対する教育にならざるを得ない
初等教育に力を入れるフィンランド
家庭教育が疎かになる中、初等教育が重要に
狭いところで考えれば良いことを広げ過ぎている
与え過ぎは、むしろ子どもに混乱を起こさせる
【中高生のうちに見つけておくべきこと】
「自分は何が好きなんだろう?」と考えてみて
自律的に考える―これを如何につくるか
好きなことがあること自体、幸せなこと
最後は「考え方」の問題
【これからの社会はどうなる?】
情報社会・最大の特徴は「情報発信」
「情報を握る人が勝つ」社会構造そのものが変わる
何を自分の価値として付加できるか
情報発信できる・できないで、格差が生まれる時代
次のステップへ行くには


KDDI代表取締役会長の小野寺正さんに聞く


社会とは「人の共同体」

―小野寺さんがリアルに感じる社会って、そもそもなんですか?

 「社会って、なんだろう?」と言えば、それこそ「人間社会」という言葉があるように人間の社会とも捉えられるし、「動物社会」のように動物の社会とも捉えられますね。また、環境問題を考えれば、自然との関わりも社会と捉えることができます。「社会」という概念の捉え方は、非常に幅広いものです。

 しかし僕は今、社会を中高生にわかってもらうとすれば、社会は「人の共同体」と捉える方が、わかりやすいと思うのです。そして社会を「人の共同体」と捉えれば、共同体の形が、少なくとも歴史的に変化していることが一番大きいのではないでしょうか。それがいろいろな意味で、ご質問の問題に関わってくると思います。

 大昔の原始時代を考えれば、最初の共同体が家族であることは、おそらく間違いないでしょう。その家族がもう少し広く集まって、村のような、最初の共同体ができた。この共同体自体が、ある目的を持った共同体だったと思います。農業社会では、例えば田植えや稲刈りの農繁期に、一家族ではできないことも、皆で一緒に共同すればできる。そんなことから「共同体」は始まったのでしょう。

 それが今、家族という共同体から、地域社会という共同体のように、どんどん大きくなっています。会社も、一つの共同体ですね。それこそ国連だって、共同体の一つであり、「国際的な共同体」という言い方もできるでしょう。


共同体は重層的に広がる

 ただ、社会は重層的にできています。一人の人が一つの共同体だけに入るわけでなく、あちこちの共同体に重層的に入っています。ですから、大人になってからだって、会社に入ってからだって、必ずしも会社だけが一つの共同体ではなく、自分の住む地域社会がありますし、人によって異なりますが、例えば、学会も一つの共同体なわけです。

 最初に入る共同体は、まさしく赤ちゃんが生まれた時の家族のみです。それが保育園、幼稚園、小学校と進むにつれ、徐々に共同体が広がっていきます。小学校までなら、クラス替はあるにせよ、6年生まで同じ集団が続きますね。それが中学校になると、複数の小学校が集まって一つの中学校になるでしょうから、今までと違う人たちに出会うわけです。それがまた新しい共同体になります。

 では、小学校の時の共同体が分解されるかといえば、そうではない。同窓会や何らかの形で同学年でもって集まるコミュニティは、ちゃんと存在するわけです。ですからコミュニティは、重層的にどんどん広がっていくわけですね。


大人になるということ

 ただ、その時に一番重要なことは、どんどん広がりを持っていく共同体の中で、「自分の位置づけがどこにあるか」です。それを見失ってしまうことが、個人にとっては一番大きな問題だと僕は思うのです。

 「社会から阻害される」という言い方をする人もいますが、社会から阻害されるのは、個人側の問題と社会側の問題、両側に問題があると思いますね。そのような意味で「社会」を捉えていくと、少しはわかりやすいと、僕は見ています。

 子どもから大人になるにつれ自分が関わる社会はどんどん広がっていきます。ここで問題なのは、社会が広がっていく時、自分から積極的に関わるか、それとも受け身で関わるかです。

 その関わり方は人それぞれですが、それによって、ある意味で「自分の視野」が決まるでしょう。つまり、共同体に重層的に関わることが、大人になることだと、僕は見ています。


そもそも教育って、なんだろう?

教育の基本は小さなコミュニティから

―もともと社会がどう生まれてきたか、歴史的な必然性と同じように、今、私たちが生きている社会も、ある目的をもった共同体であり、重層的に広がっていく共同体に主体的に関わることで、社会はリアルに感じられるわけですね。けれども逆に言えば、社会が大きくなって複雑化・細分化するほど、その必然性が感じづらくなるので、社会に積極的に関わるか・受け身になるかと言えば、できない人が増えると思うのですが、それについてはどのようにお考えですか?

 僕は、そこに教育が関係してくると考えています。

 昔は、それこそ家族の中で子どもを教育する、もしくは地域コミュニティの中で指導するという、非常に狭い範囲での教育でした。教える人も、両親や親類であり兄弟であり。そこから地域社会のおじさん・おばさんへと広がったのでしょう。

 その中で、地域社会で過ごすための最低限のルールやノウハウが伝承されたと思うのです。例えば農業であれば、「こんな時期に籾蒔き(もみまき)や田植えをして」「田植えの方法はこんな方法でやって」というように。

 それが社会がどんどん広がり、共同体がどんどん大きくなると、子どもの数も増えるでしょうから、ある共同体単位で何らかの形で組織的に伝承する必要性が出てきます。それで寺小屋のようなものができたり。そうやって、どんどん広がっていったのでしょう。

 今でもそうですが、小学校の学区は非常に狭いものですし、中学校で少し広がって、高校でさらに広がり、大学では基本的に学区は無しです。そのような広がりを持った中での教育だと思うのです。

 つまり、教育の基本は、小さなコミュニティから広がります。その最初のコミュニティである家族の中での教育が絶対に必要です。大都会の場合は難しい問題かもしれないですが、地域のコミュニティもなくてはならないものです。

 ところが今、大きく勘違いされていると思うのが、どうやら「教育とは与えられるものだ」と思われているのではないか?そう僕は見ているわけです。

 教育は、与えられるものではありません。与える側とは、一体誰なのか?いわゆる公教育の先生方だけが、教育を与える人なのか?そこが間違いの大きな要素だと思うのです。

 親が子どもをしつけること。これもあきらかに教育です。ところが、家族でやるべき教育が無しのまま、例えば保育園や幼稚園などのある集団に入ってしまったら、そのお子さんは一体どんな行動をとるか。非常に大きな問題だと思いますね。


親に対する教育にならざるを得ない

―小野寺さんが仰ったように、どんどん広がる共同体の中で自分の位置づけを見失い、あたかも自分の役割ではないと錯覚するのでしょうね。これも社会が複雑化・細分化するほど起こりやすくなる問題だと思いますが、そのような現状に対してどのように立ち向かえば良いとお考えですか?

 一つは大人の責任だと思います。少なくとも親になった時、親としての責任とは何か、家族というコミュニティとは一体何なのか、やはり親が考えないのが問題だと思います。

 自分のお子さんに何も指導しないことは無いとは思いますが、親御さんがきちんと教育したところのお子さんは、親になってもきちんと教育はできるだろうと思います。問題はそれがうまくいっていない時、一体どうすれば良いのか、という話ですね。

 そのような意味で言えば、幼稚園や小学校で教えるべき相手は、残念ながら、本当は子供だけではないのかもしれません。もともとコミュニティとしてやるべきことを全くやっていないのであれば、それをやらざるを得ないですから。

 ただ、それを例えば幼稚園や小学校の先生方だけに押し付けること自体も問題です。当然ながら、先生になったばかりの段階では、まだ先生方も親を経験していないわけです。

 先生方が子どもの時に親から言われたことは、基本路線は一緒でしょう。それが家庭ごとに言われ方が異なっていたり、いろいろな教えられ方がなされるわけですね。その教えられ方を集大成した、共通のものが、「教育」だろうと思うのです。

 そのような意味で言うと、小学校・幼稚園は、非常に重要な教育の場です。それが今の時代、子どもだけではなく、親に対する教育の場にならざるを得なくなっている。そう僕は思っています。


初等教育に力を入れるフィンランド

 本来であれば、小学校の先生は大変重要な役割を担っています。昨年、フィンランドの首相が当社に来られました。フィンランドはご存知の通り、教育水準の大変高い国です。それと同時に、ICT(情報通信技術)の利活用も非常に進んでいます。

 せっかく首相が来られるので、僕は「フィンランドの教育は、どのような理念で、どのようにしているのですか?」と尋ねました。首相のお子さんは小学生で、公の小学校に通っているそうですが、自分の子どもを例にした方が早いだろうと仰ってね。

 なんと小学校の1クラスは23人と言ったかな。少人数クラスですよ。そこに当然、クラス担任が一人いるわけですが、このクラス担任は、基本的にマスター取得者(主に4年制大学卒業後、通常2年間の大学院修士課程を修了すること)が原則なのだそうです。

 それにも関わらず、もう一人、先生がいるそうです。その先生は「アシスタントという言い方ではない」と首相は仰っていました。その二人が、クラスの子どもたちの教育に当たる形ということです。

 フィンランドの場合もそうですが、核家族化が進行しているのは間違いありません。北欧の場合、もともと人口が少ないので、夫婦共稼ぎは当たり前の話です。

 すると、公的教育できちんと最初の教育をやらなければならない。それがフィンランドの理念ではないかと僕は思いますね。だからこそ小学校教育に、それだけのお金をかけるのでしょう。

 社会崩壊がどうこうという話は、あちこちで言われています。一方、フィンランドは、人口が少ないこともあるかもしれませんが、あまりそんな話は聞かないですね。単に知らないだけかもしれませんが、「少なくとも小学校義務教育の一番最初が重要」と考えて、社会教育も含めて力を入れているようです。


家庭教育が疎かになる中、初等教育が重要に

―コミュニティの機能が低下している以上、できるだけ共同体の最初の段階で、教育をきちんとすることが重要になるのですね。

 日本の場合、家庭教育が疎かになる中、義務教育の一番最初に子どもたちが接する先生が如何に重要かということです。もちろん、それを全部、先生に押し付けるのも問題ですが、小学校1年生の担任は、子どもにとって大変大きな影響力を持つのです。

 もし一番最初の先生が、自分のクラスをきちんとまとめられ、クラスの仲間と皆、仲良くやれるようなクラスであれば、ある意味で大変ハッピーな共同体人生の第一歩を歩み出すことができるでしょう。それが逆に、学校に行っても面白くないと思うようになると、後々問題を起こしやすくなると思います。

 日本の場合、大学・大学院などの高等教育についてはよく言われますが、初等教育にもう少し力を入れなければ、今の社会情勢では難しいのではないか、と僕は思うのです。

 本来であれば、家族が一番最初の共同体なはずですから、両親との関係性が最も重要な関係性だと思います。そこで知らず知らずに受けている、しつけなり教育が、最も重要なんだろうと思うのですよ。

 それが今、うまくいっていないのであれば、親に対する教育と同時に、そのような親のもとで育った子どもたちを、できるだけ早い時期に、共同体として、きちんと方向付けてあげなければ問題だろうと思います。


狭いところで考えれば良いことを広げ過ぎている

―私も、教育行政の外部委員を色々やらせていただいたり、教育関係者の方々にお話を伺う中で感じるのは、現状に対する危機感をお持ちだし、それに対して何とかしたい、しなければいけないという気持ちも伝わってくるのですが、実際は、どうしたらいいかわからないという印象も強く受けます。

 僕はね、そこなんだと思うんですよ。おそらく「どうしたらよいのかわからない」というのが、本当だと思うのです。

 そのような意味で言えば、教員養成大学は非常に数多くあるわけですね。ただ教員を養成する時、知識だけで養成してはいないか?ということだと思うのです。もちろん知識が、一つの重要な要素であることは事実です。

 しかしながら先生方こそ、子どもたちを指導する立場になるのだから、先生方同士のコミュニティなり、先生とその先生を教えている先生とのコミュニティなりがきちんとできていれば、動きはあるだろうと思うのです。ただ、そこも難しいかもしれないですね。

 良し・悪しは別として、ICTが広がってくると、放送も含めてですが、どこか遠隔地での出来事も皆、知ってしまうわけですね。

 極端な例を挙げれば、ラジオしか無い時代は、それこそ遠隔地のことも、ラジオでは聞くけれど、やはり目で見るのと耳にするのでは大きな差があるし、情報量としては非常に少なかったわけです。

 その時、例えば市町村単位や、それより小さな単位のコミュニティが主導的に全部やらざるを得なかったし、やれたと思うのです。ある程度「狭いところ」でやろうとすれば、そこに誰かきちんとした人が一人いれば、その人の影響で十分できる範囲でしたから。

 それが今、誰でも情報を自由に知れるようになると、そのコミュニティとは関係ない、より広いコミュニティの問題点が、どんどん浮き彫りになり、どんどん耳に入ってくるわけです。

 すると、もともとは小さな社会で考えれば良かったことが、もっと広い社会で考えざるを得なくなっていますね。もう少し言えば、例えば小学校は「狭いところ」で考えれば良いことを、実は、広げ過ぎているのではないかと僕は思うのです。

 先生方も、まわりのことを気にし過ぎる。親も、まわりのことを気にし過ぎる。けれども小学校低学年の行動範囲なんて、自分の街から出るのも親と一緒に行くだけであって、そのエリア内でしか動いていないはずです。

 そのような小さなエリア内の共同体で生活するのに必要な知識と、社会に出てから、大きなところで必要な知識は違うはずですよ。まずは「狭いところ」をきちんとやらなければ。その上である程度の立ち位置が与えられれば、その次は違うと僕は思います。


与え過ぎは、むしろ子どもに混乱を起こさせる

―実際にその子どもにとって等身大な共同体の範囲を、例えば世界の問題を考えなければいけないと、頭だけで急に広げすぎた瞬間、逆に目の前のものが疎かになってしまいがちですね。

 そうですね。例えば我々は、先日のアルジェリアの問題は、非常に気になるのです。これは我々企業の立場からすれば、やはり海外進出した時の安全を考えざるを得ないという意味で、気になるのは当前の話です。

 では、あの情報は小学校低学年の子どもたちにどれだけ必要か。僕は正直なところ、知らなくともいいのではないかと思うのです。しかし、それも知らざるを得ないのが、今の社会です。

 情報をコントロールするという意味ではありませんが、例えば小学校低学年で知るべきこと・見せるべきこと・教えるべきことと、中学校と高校では当然違うわけです。

 その時に何でもかんでも与えることが良いのかどうか。僕は、必ずしも、何でもかんでも与える必要もないし、むしろ与え過ぎて、子どもに混乱を起こさせる面もあるのではないかと思います。

―どんどん情報が簡単に取りやすくなるほど、反対に心持ちとしては、すべて受け身で取るのではなく、その中で、子ども本人は判断できないかもしれませんが、その前にいる親が「何が必要か?」に責任を持たざるを得ないということですか?

 やらざるを得ないよね。昔であれば、家族の次の小さなコミュニティがあったとして、そのコミュニティの中で生活していくためのことを勉強すればよかったことが、今はもう「世界で生活するため」みたいに、最初からなっています。

 本当は、赤ちゃんの時は家族しかいないのだから、とにかく狭い範囲から、徐々に広げていかなきゃいかんのに。狭い範囲を蔑ろ(ないがしろ)にして、ぼんと広い範囲を教えてしまったら、そりゃ、子どもは混乱しますよね。


中高生のうちに見つけておくべきこと

「自分は何が好きなんだろう?」と考えてみて

―今までのお話は、どちらかと言うと「大人の責任」ということで、大人が認識しておくべきことをお話いただいたと思うのですが、今度は、中高生の立場からすると、これからどんなことを意識すべきだと思いますか?

 これは難しい問題ですが、中高生といえども、見ている範囲はやはり狭いのですよ。ですから僕は、極端な言い方ですが、中高生はまず自分の好きなことをやれるようなしくみをつくってあげるべきではないかと思うのです。

 例えば、中学校・高校のサークル活動は、好きなことをやれるひとつのチャンスですね。けれども今、塾や何かで忙しくて、サークル活動も、ごく一部を除けば、あまり活発ではないのでしょう?僕の聞いている範囲ですが。

 けれども僕は、中高生はまず「自分は何が好きなんだろう?」と考えてみたら良いと思うのです。好きなものが自分で見つからないのであれば、やはり広く勉強する中で、好きなものを見つけるしか無いと思います。

 「好きなもの」とは、学科という意味でなくても、一向に構わないと思います。例えば、工作や美術、体育や音楽など、どんなものでも良いと思います。その好きなものに、ある一定期間打ち込めるかどうかが大事なのです。

 これは大学受験や高校受験を考えると、一見、無駄なことのように見えます。けれども意外と、その無駄が後々、人間性という意味で大きく効いてくると、僕は思うのです。


自律的に考える―これを如何につくるか

―「自分の好きなことに打ち込むことが、後々の人間性に大きく効いてくる」の意味について、もう少しご説明をお願いします。

 対象は何でも良いですが、自ら打ち込んだことに対する、本人の自信が大きいのです。自慢できるかどうかは別にして「これを自分は少なくとも人よりやってきた」という自信につながります。

 逆に、全く自信のない、自分は何だかよくわからないままで来ると、要するに、世の中に流される格好になりかねないだろうと思うのですよ。

 流されること自体、悪いことではないですよ。けれども自分が、少なくともこれについては自信があるという分野を持つ。すると、他分野も勉強しようという気になるでしょう。

 何よりも、自信を持った自分の好きなことは、人から言われてやった部分だけではないはずですね。「好きだから自分でやろう」と思っているはずなのですよ。

 すなわち「自らやろう」と思うことを見つけられたことが、一番大きいのです。それが社会に出る時、どんなことを自分がやろうかを考える一つの要素になると思います。

 つまり、自律的に考える―これを如何につくるか、なのです。人から言われたことをやるだけでは、意味がありません。やはり自ら考えられるようにするにはどうするかが、中高生にとっては最も重要だろうと思います。

 米国式にディベートをするのも一つの訓練と思いますが、訓練だけではなく、「自分が本当に好きなことは何だろう?」と思ってやることが、やはり重要な気がするのです。

 我々の世代で言うと、エレキをやれば、親から怒られるのが当たり前でしたね(笑)。けれども、打ち込めるなら、僕は打ち込ませてやった方がいいと思うのです。


好きなことがあること自体、幸せなこと

 僕は、「好きなこと」を職業にできる人が、一番ハッピーだと思います。好きなことに打ち込んで、それで生活できるのなら、これほどハッピーなことはありません。ものすごく僕はうらやましいと思いますね。そうなれる人は、全体のごく一部だと思います。

 好きなことがあること自体、その人にとってはハッピーなのかもしれません。何か困った時、好きなことに没頭できることで、逃避になるかもしれないけども、そこから得るものが必ずあるはずです。

 対象は何でも良いのですが、「好きなこと」なら、自らやるでしょう?そして次のステップに行くために、自分が何をしなければならないか、自ら調べますね。

 幸か不幸か、今はインターネットで何でも調べられるようになったから、それは過去とは随分違うだろうと思います。調べることや自分で勉強することは、昔に比べたら、大変やりやすくなりました。

 我々の業界ではセキリュティの問題もありますが、ハッカーと呼ばれる人たちは、好きで打ち込み自ら勉強して、ハッカーになった人が多いのです。日本語でハッカーと言うと全て悪人みたいに思われますが、そんなことはなく、ハッカーは本当の意味で専門家ですよ。

 では、その専門家をどう育てるかと言えば、もちろん大学で勉強したハッカーもいるでしょうが、その多くが全部自分で勉強している人たちです。

 今では中学生のハッカーもいますね。PCの中身、動作原理を知ってしまって、好きでのめり込んでしまう人が。のめり込めるものがあること自体、ものすごく幸せなことだと、僕は思うのです。


最後は「考え方」の問題

 ただし、のめり込む時、1つだけ言っておかなければいけないことがあります。

 これは稲盛和夫さん(京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者、日本航空取締役名誉会長)だけでなく、多くの方が言うことですが、稲盛さんは「人生の方程式」と言って、仕事や人生の結果は「能力」×「努力」×「考え方」、この3つの要素で決まると言っています。

 「能力」は、先天的に人に備わったものであって、数字で言えば、0から100まであります。能力0の人なんて、誰もいません。その能力をどう生かしていくかが、一つの方向性です。もう一つの「努力」は後天的なもので、その人がどこまで努力するかです。

 そして、最後の「考え方」が問題でしてね。その「能力」と「努力」を正しい方向に使えば、世の中のため人のため、本人のためになりますが、「考え方」を誤ると、マイナスの方向になる可能性があるのです。

 過去の話ですが、オウム真理教の問題がありました。当時の教団幹部は、高い「能力」を持ち、大変「努力」しました。けれども、「考え方」がマイナスの方向だったために、大問題になったわけです。

 先述のハッカーの例でも、自分の「能力」と「努力」で他人のIDとパスワードを盗み出し、お金をとってやろうとするなら、これは大問題です。「考え方」がマイナスなため、大きなマイナスになるわけですね。

 けれども、これもどこまで正しいかはわかりませんが、ハッカーが、ある会社のサイトの弱点を見つけて、「この弱点があるので、こういう攻撃ができますよ」と教える人たち(ホワイトハッカー)もいるわけです。

 つまり最後は、「考え方」の問題になるわけですね。何が正しいかという判断が大事なのです。本来であれば、コミュニティ内で、この「考え方」を身につけていれば、そう大きな過ちは犯さないのでしょう。

 その前提で、好きなことにのめり込めれば良いのですが、きちんとやるべきことがやられていないために、いろいろ大きなトラブルが起きているような気がしているのです。


これからの社会はどうなる?

情報社会・最大の特徴は「情報発信」

―そのような前提で見た時、これから社会は、どうなっていくと思いますか?

 社会は、「農業社会」から「工業社会」へ、そして「情報社会」へと進展してきていると言われます。「情報社会」最大の特徴は、誰もがインターネットを当たり前に使えるようになり、自由に「情報発信」できる点が、これまでとは大きな差だと思うのです。

 インターネットのない時代は、自ら情報発信しようと思っても、それこそ学校の中で壁新聞をつくることはできたでしょうが、発信できる先は、ごく小さなコミュニティに限られていました。それが今では、世界相手に、情報発信をいくらでもできるわけです。

 もちろんgoogleに代表される検索によって情報を簡単に得られる点も、非常に大きな進歩であり、大きな影響力を持つと思います。しかし問題は、情報発信の方が、これからの世の中にとっては、非常に大きな変化だろうと思うのです。「アラブの春」「ジャスミン革命」なども、誰かがインターネットで情報発信したものですね。

 そのような意味で言えば、ICTリテラシーは、これからのリベラルアーツではないかと僕は思うのです。そのリベラルアーツを身につけられるかどうかによって、その個人の社会との関わり合いが、非常に変わってくるような気がして仕方がないのですよ。


「情報を握る人が勝つ」社会構造そのものが変わる

―ICTリテラシーを身につけるか・そうでないかで、個人と社会との関わり合いは、どう変わるとお考えですか?

 別にネットを使わなくても生活できるのなら、それはそれで結構だと思います。ただ、ネットを使えば、もっとすごいことができるということが大きいと思うのです。

 今までの世の中、はっきり言えば、情報を握っている人が勝っているんですよ。今までは、ピラミッド構成のトップにいる人に全ての情報が集まり、下の方では自分の情報しか持てない。したがって今までの社会は、最終判断はトップしかできない仕組みでした。

 例えば、総理なら情報が全部あがってくるけれども、大臣なら自分の所管内の情報しかあがってこない。会社の社長なら、会社全体の情報をとろうと思えば全部とれる立場にあるけれど、部下なら必ずしもでそうではない。だから最終判断は社長しかできない。

 その情報発信をしている相手が、僕だけに送っているのであれば、僕だけにしか情報が入りません。ところが、ネットの世界では、意外と簡単に、そんな情報も得ようと思えば得られる時代になっています。

 それによって何が変わるか。皆が同じ情報を自分で自由にとれるようになれば、判断する人は社長である必要はないかもしれない。社会の構造そのものが変わってくると思うのです。


何を自分の価値として付加できるか

 要するに、情報は得られても、その情報は皆が知っていれば価値はないのです。その情報から自分の考え方や知恵で何かを創り出さなければ、意味がありません。その創り出したものに価値があるか・ないかという社会になってくるだろうと、僕は思うのです。

 「創り出す」とは、別に「もの」である必要性はありません。それこそ、自分の考え方をいろいろな情報を得てまとめれば、それは一つの価値なのです。

 今は大学でもコピペで卒論を書く学生がいるようですが、昔はコピペという方法ではなく、書き写した学生もいます。

 では、コピペ時代は、昔の時代と何が違うか。昔も書き写していた人たちはいくらでもいるわけなので、それが非常に簡単にできるようになっただけです。その上で何を自分の価値としてアドオンできるんだ?それが非常に重要な社会になってくると思います。

 そしてアドオンしたものが、自ら情報発信して世の中に認められれば、それはその人にとって大きな次のステップになるはずです。「認められる」とは極端な言い方ですが、例えばユーチューブに投稿し非常に多くの人に見られるのも、一つの価値でしょう。すべて勉強の世界だけではないのですよ。

 世界に自ら情報発信ができる、この情報社会・最大の特徴を、どのようにうまく使えるか。それによって、大きく違ってくるだろうと僕は思うのです。


情報発信できる・できないで、格差が生まれる時代

 過去は受け身の世界でした。報道機関が報道しない限り、誰も情報発信できなかったのです。けれども今からの世界は、誰でも情報発信ができます。これが、やはり今からの社会の一番大きな差だろうと思うのです。

 例えば選挙制度も、インターネットを使った選挙活動を認めるような話が出ていますが、あれでも随分、変わるだろうと思います。今回の震災時も、はっきり言えば、情報発信をうまくできたところには、支援物資がたくさん届きました。

 問題は、情報発信をできる人・できない人で、残念ながら大きな格差がついてしまうこと、その差がますます広がってしまう可能性があることです。

 ですから僕は、ICTリテラシーは非常に重要だと考えているのです。先述のフィンランドの話では、小学校の頃からPCを使わせるのは当たり前。PCは、新しい情報社会で生きていくための最低限の手段になりつつあるわけですから。

 よって、先ほどリベラルアールと言いましたが、そのようなICTリテラシーが非常に重要な時代になってくると思います。はっきり言えば、皆さん若い人たちは全部自分でやれる人も多いのです。問題は、それをやれない人たちに対して、どう教えていくかです。

―ICTリテラシーはもちろん、それこそ主体的にやれるか・やれないかで、大変な格差が生まれる時代になるのですね。

 そう思いますよ。それはね、良い意味でも悪い意味でも、仕方ないことです。こういう社会ですからね。


次のステップへ行くには

―最後に、今までのお話を踏まえて、中高生の読者へメッセージをお願いします。

 自分の好きなことを見つけてほしい、ぜひ好きなことに打ち込むのが必要ではないか、というのが、私の一つ目のメッセージです。それが認められるかどうかは、わからないですがね(笑)。

 もう一つは、勉強の最初は、暗記が必要なところは、やはり暗記せざるを得ないと思いますよ。最低限の知識は、やはり教育の中でつけざるを得ません。

 例えば、「計算なら、電卓を叩けばできるのだから、計算なんて手でやる必要ないじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、それは別だと思います。まずは基礎的な知識をきちんとつけた上で、次のステップがあるのです。

 要するに、自分が好きなことに打ち込んだ自信、そして、自分の中に蓄えられた知識がサマライズ(要約)されることによって、次のステップに行けるのではないでしょうか。


―小野寺さん、本日はどうもありがとうございました。
 (東京都千代田区飯田橋にあるKDDI株式会社・本社にて)


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