取材・文・写真/大草芳江
2022年10月27日公開
同質だけでは広がりも発展もない
中鉢 良治 Ryoji Chubachi
(元ソニー社長、産業技術総合研究所最高顧問、
ゆうちょ銀行取締役、NTT取締役)
1947 年宮城県玉造郡鳴子町(現 大崎市)生まれ。工学博士。宮城県仙台第二高等学校を経て東北大学工学部へ進学。1977 年東北大学大学院工学研究科博士課程修了。同年ソニー株式会社入社、2005 年同社 取締役代表執行役社長、2009年同社 取締役代表執行役副会長。2013 年より独立行政法人(現 国立研究開発法人)産業技術総合研究所理事長に就任、2020年から現職。2018年から株式会社ゆうちょ銀行 取締役、2022年から日本電信電話株式会社 取締役も務める。
【東北大学全学校友会「宮城萩友会」コラボレーション企画 Vol.01】
東北大学の同窓生を訪ねるインタビューシリーズの第1弾は、元ソニー社長で産業技術総合研究所最高顧問の中鉢良治さんです。中鉢さんは宮城県玉造郡鳴子町(現 大崎市)のご出身で、東北大学大学院工学研究科で博士号を取得後、技術者としてソニーに入社。その後、同社を経営者として率いた後、日本最大級の国立研究機関である産業技術総合研究所の理事長として、技術と社会の橋渡し役を担ってきました。そんな中鉢さんがリアルに感じることとはそもそも何か、聞きました。
<目次>
第1部 同質と異質
◆ 高校までの絆と大学での絆は違う
◆ 大学で感じた「異質なもの」の広がり
◆ 非効率の効用
◆ 同質なものだけでは発展性がない
◆ 異質なもの同士の結合
第2部 部分最適と全体最適
◆ 個々人が考えるのは部分最適
◆ トヨタ生産方式の「横展開」を四合瓶1本で
◆ 全体最適を享受できる関係性づくりが必要
◆ 全体最適を成立させるには
第3部 違和感の大切さ
◆ 嘘も本当も皆、情報
◆ 懐疑と信念のバランス
◆ 違和感に正直であること
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第1部 同質と異質
◆ 高校までの絆と大学での絆は違う
大草(以下―) 東北大学の全学同窓会組織である「萩友会」宮城支部役員を拝命したことをきっかけに、同窓会を活性化させるにはそもそもどうすればよいかを考えてみました。周囲にもいろいろ聞いてみたのですが、まず、特に若い世代ほど、同窓会あるいは大学そのものに対して、そもそも親近感を覚えていない現状があるようです。どのような時に人は親近感が湧くのでしょう。それは、人が一番「面白い」と思っていることに自分も共感できた時ではないかと思います。そこで、同窓生の皆さんが何にリアリティを感じていらっしゃるのか、直接伺いに行くことにしました。その第一弾として取材をお願いしたのが、中鉢良治さんです。本日は、中鉢さんが何を一番面白いと思っているのか、つまり、何に一番リアリティを感じているのかを伺いたいと思います。
社会とは、そこに住んでいる人の生活と、その連続性、歴史性が基本だと思うのです。ですから地域で何かをやる時、連続性や歴史性というものを共有できなかったり、一緒に住んでいる土着感がなかったりすると、人はなかなか結びつきづらいものだと思います。
―「土着感」というものを感じている人と感じていない人がいますよね。もともとその土地にずっと住んでいる人は「土着感」が強いと思いますが、例えば、他所から来た人で人生の大半をその土地で過ごしていても「未だ地元と感じられない」という話も耳にします。中鉢さんは、宮城県鳴子温泉川渡のご出身で、進学のために、高校から仙台にいらっしゃいましたね。
地元で生まれ育った幼友達は、ものすごく一体感が強いですよね。大体は同じ小学校に通い、中学校に通い、同じ土地の高校に通います。地元を離れることは、人生の一貫性を崩していくような気がするわけです。
それまでは半径2kmくらいの地域で生活していたのが、新幹線や飛行機に乗って、物理的にその土地から離れる、それは、自分の社会が広がっていくことになります。そして、同時に、その土地に根ざしている連続性、歴史性とも、離れることになるわけです。
大学になると、いわば全国区になります。
全国から集まった学生たちが、故郷を離れ、同じキャンパスで一緒に学生生活を送り、その後、専門に分かれて、それぞれの学部に散っていく。学部に行けばまた、新たな連続性と歴史性が始まるわけです。
そのような中で生まれる大学生の絆は、高校の時の絆とは、違うんじゃないかと、私は思います。
◆ 大学で感じた「異質なもの」の広がり
―小さい頃は狭い半径の社会で、友達も含めて周りの環境も同じですけど、その後は、自分も成長して変化し、物理的にも離れていき、土地に根ざした連続性や一貫性は、崩れていきます。一方で大学という新しい社会に入ります。そこでのリアリティとは何でしょうか?
高校の時とは違い、自分の成長というものを、一番感ずる年齢だと思うのです。将来のキャリアプランも含めて、大きく舵を切る年齢になっている点では、皆同じ立場なわけで、ある種の連帯感があるのではないでしょうか。
大学というのは、学ぶ学問は違っても、自分の進む道をどう見つけようかと必死に悩み、学んでいる期間のような気がします。
―アイデンティティの確立という、人生で最も重要な共通項がある時期ですね。
その面白さがありますね。それは高校時代とは異質なものではないかと思います
生まれた場所は自分で選べるわけではないですし、小・中学校もだいたい、自動的に入るわけです。「同質のものに対する憧れ」みたいなものが高校までの期間にあるとすると、大学では「異質なもの」に触れる期間だと思います。
高校生までは「仲間」でしたが、大学生になると友人が「ベンチマーク」のような存在として、お互いに影響し合い、自分も成長しようと、ものすごく意識するようになりましたね。知識に対しても、経験に対してもです。
その結果、視点が広がっていくのを感じましたし、自分が成長しているなと実感しました。
―私も、自分にない感性や知性を持つ人に寄っていこうとします。一緒にいたら、自分が成長できるんじゃないかという予感からです。それは特に18歳頃の最重要事項でした。
「この人はきっと、自分にとってプラスに違いない」という打算のようなものが無かったと言えば、嘘になりますね。
ですから、できるだけ異質なものに興味を持って、近づいていった気がします。そこには「自分を成長させるに違いない」という気持ちが、意識的、無意識的にあったのだと思います。同質なものに対しては、「もう卒業した」と言う感覚でしょうか。
―中鉢さんの中で、これまで一番「異質だったもの」は何でしょうか?
高校でも文系・理系はいますが、文系・理系と立場をはっきりさせて議論したことはありません。ところが大学になると、自分をプロフェッショナルとして十分意識していますから、ポジションが明確になり、話が面白いんです。
理系の立場なら、理系をベースに知識や経験を得て職業人になろうという気持ちがあります。同じようなプロセスを文系の人たちはどう考えているのだろう、ということに興味がわいてきたりするわけです。
自分は東北の高校出身だけれど、他の地域では、どのような教育が行われていたのだろうとか、どんな本を読んでいたのだろうとか、興味を持ちます。友達の下宿に遊びに行って本棚を見ると、その人の頭の中を想像できますよね。逆に自分の本棚を見られると、頭の中身を見られているような気がしたのですが。
―中鉢さんは、どんな本を読んでいらしたのでしょうか?
僕は、いわゆる純文学が多かったですね。そういう世界に、ものすごく憧れていたんです。今でも、そのようなところがあります。
―文系の人への興味は、それに近いところにあったりしたのでしょうか?
そうですね。未熟なところもあるけどマセた人は、僕の興味の対象でした。
◆ 非効率の効用
―中鉢さんのお話と今の現役の大学生は、だいぶ違う世界にいるように感じます。私、すごく衝撃を受けたのですが、知り合いの工学部3年生の学生さんが、コロナの年に入学して2年生までずっとオンライン授業で、3年生になってやっと対面授業が始まったそうなんですが、「まだ友達がいない」と話していたんです。「対面が始まったのに、なぜ?」と聞くと、「今まで2年間ずっと話しかけたことがなかったのに、今更、声をかけられない」って。唯一、サークルの友達はいるそうですが、それ以外の人とは話す機会がないらしいのです。ですから、中鉢さんの今のお話と、ものすごく対極の世界だと思ったんです。コロナ禍とITの発展で、友達との相互作用の中で「異質」を感じる機会が、自らのアイデンティティに向き合う18歳から20歳の間にほとんどないまま、次のステージに行ってしまうのかなと。そのことが、その人にとっても社会にとっても今後どのように影響するのだろう、って。
それは可愛そうですね。互いに気が合う、というのが友達形成の最初ですよね。すると、「僕の友達に面白い人がいるんだよ、次回から彼も仲間に入れないか」という話に発展していきます。
でも、成功確率はあまり高くなくて、僕は友達Aとは気が合うけど、友達Aの友達Bとはなかなか友達になれないケースも結構ありました。中には友達Bが面白くて、AよりもBと仲良くなるケースもあったりしました。
それでも自分の意志で選ぶより、確率的な広がりを持てたような気がします。それまでは、なんとなく「友達の友達は、他人だ」と思っていた世界が、「友達の友達も、友達だ」に広がったんですね。
―高校までは「同質」と感じていた友達との関係性が、大学以降は「異質」同士ですから、友達Aの紹介で友達Bとなれば、自分との1対1よりも、異質同士の組み合わせの方が、バリエーションはかなり増えるイメージですね。
そちらの方が、自分の夢、自分の知りたいことに、早く近づくのではないか、という気がします。
ネットは本来、そのような可能性を結びつけるものだと思いきや、むしろ今、分断されているような気がするのです。そこを補うようなことをしないと、今あなたが言われたように、若い世代の人たちが物足りなさや限界を感じる環境になってしまうと思いますね。
―得たいものを効率的に得ようとして、逆に本質的なものを失うことは、よくありますよね。むしろ一見、非効率に見えるやり方の方が、むしろ自分の夢に近づくのではないか、というのは、私も肌身で感じます。それにネットは本来、広くて多様な世界と思っていたのですが、案外、異質同士でなく、同質なもの同士を結びつける世界かもしれませんね。
ネットで検索するという行為は、便利ですが、時につまらない感じがします。底が浅いような気がするのです。ところが、友達を通じて得る情報は、一見非効率的に思えることでも、なにか夢があって、そこに辿り着いた時に、膨らみがあるのですね。
―私も、本当に知りたい情報は、ネット等で事前に調べることは我慢して、まず直接その人に聞きに行くようにしています。
先生のところへ尋ねに行ったり、友達の話を聞いたり、そういったベーシックな営みが、どういう風に作用するのか、興味がありますね。
◆ 同質なものだけでは発展性がない
―同窓会も、人と人のつながりをベースとした関係性に興味がなくなっていることと、今のお話の背景はつながるような気もするのですが、如何でしょうか。
今、大学自体も非常に変わってきていますし、一方で、自分自身も年を取っていくと、「同質なもの」と「異質なもの」のバランスを取らないと、ものすごくつまらないことに気がつきます。同質なものだと緊張感がないし、異質なものだと、ものすごくストレスが溜まるわけです。
―確かに、それはそうですね。
だいたい同窓会の場では、自分と同じ世代とは多く会話をするけど、そうでない世代とはあまり会話をしないのが一般的ですよね。僕はおじいちゃん世代ですが、孫が同じ同窓会に入っていたとして、孫と同窓会で話すとは思えないんです。しかし、かといって、同質なものだけでやっていくと、やはり発展性がないように思います。
それを打ち破るのは、異なる世代でも、やはり「友達の友達は、友達だ」。そういった視点を加えないと、閉鎖的になっていくのではないでしょうか。何か新しい力が必要な気がしますね。
―そのためには、具体的にどんなことが必要だと思われますか?
例えば、ですよ。おじいちゃんの同窓会に、孫が東北大ではないけれど、「見てみたい」と参加してくれれば、今度はお互いの孫同士で同じ同窓会を軸にして、「友達の友達は、友達だ」の関係ができるのではないかと思います。
―「おじいちゃん」という共通項を基軸にして、異質を入れていく場の設定が必要、ということですね。
そうしないと、世代を超えて、発展しません。おじいちゃんがなぜ同窓会に行くかは、また別のテーマですけどね。
つまり、「同質なもの」には、やはり限界があります。大学になると、自分の成長、キャリアをつくろうとする人たちで満ち満ちているわけですから、その活力があるわけです。
いずれにしても、友達を1対1で自分が恣意的に選ぼうとすると限界がある、ということです。それを打ち破る力は「友達の友達は、友達だ」であったりする、ということです。
◆ 異質なもの同士の結合
―同質なものに異質を入れるという点では、例えば、現役の学生さんと卒業生とのつながりができると、やっぱり違いますよね。
いいことですね。でも、いきなり集めても、なかなか成立しないのではないでしょうか。それなりの場の設定が必要ですね。
―確かに、何らかの場の設定がなければ、共通の知り合いから紹介でもしてもらわない限り、先程のお話の通り、つい知り合いや同世代と話してしまいますものね。
我々の世代では「ワクチン何回打った」とか「あそこの医者はいいぞ」とかが話題となりますが、若い人は「メタバースが面白い」「AIの可能性は?」とかに関心がある、そんな両者の話が噛み合うわけないじゃないですか(笑)。いくら「異質なものが大事だ」と言っても、そこに何か両者を結びつける"演算子"が必要な気がします。そのためには、まず「あなたはなぜ萩友会にいるのですか?萩友会に何を期待しますか?」を調べることも大事だと思います。
第2部 部分最適と全体最適
◆ 個々人が考えるのは部分最適
―それでは、中鉢さんご自身は、同窓会の存在意義は何だと思われますか?
大学卒業後に大学を意識する時は、いつだろう?と考えると、私個人を説明する時、出身大学が、私という人間のクオリティを、ある程度保証してくれる"保証書"のような役割を果たしてくれる気がするのです。
「ああ、東北大学出身ね」という、社会の"一般的な"認識がありますから、その名を借りて、大雑把に説明をしてくれるものだと思います。
それと、同窓会の絆にはどんな実利があるかということです。あれば、それを得たいと思います。要するに、コネクションですね。これから何かをやろうとする時、新しい関係を築く場として役に立つのではないか、という期待もあるわけです。
名刺を交わし、二言三言の会話だけれども、「こういうことをしている先輩もいるんだ」と知ることは、その人に近づいていけるきっかけを得るようなものです。これは非常に実利的なものだと思います。
ただし、その反作用もあって、同窓を利用しようという気持ちが強過ぎると、相手は警戒するだろうし、その一方で同窓であるが故に、なんとなく、助けてあげたくなる気持ちもある。この辺りの兼ね合いが大切なのではないでしょうか。
◆ トヨタ生産方式の「横展開」を四合瓶1本で
―私も、役員を仰せつかったことをきっかけに、同窓会の存在意義を考えました。同世代にも色々聞いてみたのですが、特に若い世代ほど同窓会に入るメリットがわからないので、そもそも興味自体が湧いていないのが現状だと思います。ですから、まずは同窓会のメリットの見える化が必要と考えました。そこで考えたのが、ジャストアイデアですが、「①萩友会プレミアム会員に入る(年会費を払う)と、仮想通貨100コインをプレゼント。②誰が何をできるか、得意技をリスト化(こんな相談や依頼に◯◯コインで乗れます)。③こんなことを相談したい投稿欄(相談に乗ってくれたら、お礼に◯◯コインあげます)。④貢献具合の可視化(仮想通貨ポイント獲得ライキング)。⑤専用Webは会員のみ閲覧可(一般公開OKも選択可)。」みたいな形で、同窓生の皆さんにそれぞれ得意技を挙げてもらって誰が何をできるかを可視化しておいて。次に、例えば、人生で何か困ったことがあった時、こんな人にこんな相談をしたい、それで助けてもらったら、「ありがとう」の感謝の気持ちを仮想通貨みたいな形で可視化しておく。そのポイントが貯まっていくと、今度はそのポイントで誰かに何かお願いできる。みたいな仕組みを、総合大学の強みを活かして、萩友会でつくったら面白くないですか?という話を、同窓会の役員会で提案しました。
それ、僕が20年くらい前に考えたことに似てる(笑)。
何かイノベーティブなことを横展開したい、というのは、言ってみれば、上に立つ者のエゴなんです。当事者にとってみれば、「自分が努力して得たものを簡単にタダであげるものか」となる。その時、横展開のルールづくりを考えたんですよ。それは、企業(ソニー)の時もやったし、産総研(産業技術総合研究所)の時も、同じことをやりました。
―どんなことをされたのでしょう?
僕はね、四合瓶1本の感謝。
―四合瓶1本ですか(笑)
四合瓶1本でいい。それ以上は必要ない。その感謝の気持ちを、口だけではなく、四合瓶1本で表す。四合瓶1本の感謝は必要な気がします。
事業所ごとに生産性を上げるのに行うトヨタ生産方式の「横展開」は、自分たちの中で行う時はよいけれど、ほかの事業所に移すとなると作業や現場の教育が必要なわけです。その時、横展開に尽力してくれた仲間たちに四合瓶1本の感謝をしなさい、ということです。
横展開の場ではないのですが、産総研の時も、全国に研究所があるので、皆が一堂に会した時は、自分の土地のお酒を、自分が飲む分、つまり四合瓶1本ずつ持ち寄ろう、というルールを作りました。そして懇親会の席上で、自分の持ってきた酒を自慢しながら飲み合うわけです。
僕も参加する時は、自分が飲む分の四合瓶1本を持っていくわけです。僕はだいたい樽酒を持っていきました。樽酒は香りがするので、人気がありましたね。
―お酒の金額が問題ではなくて、その人の貢献をきちんと理解して感謝しています、という意思表示が大事なのですね。それを四合瓶1本で可視化したわけですか。
四合瓶1本、2本は要らないというルール、これは結構受けましたね。ただね、自分のすべきことをしない人には、特例を課すわけです。「君は自分がやらなければならないことを怠った、だから四合瓶1本ではない、一升瓶を持って来なさい」とね。「一升瓶1本で勘弁してもらえるんですか?」「勘弁する」(笑)。その一升瓶を皆で飲むわけです。
―それで皆も、笑って受け入れたという意思表示になりますものね。
そうそう、皆も笑って過ごせるじゃないですか、仲間としてね。
◆ 全体最適を享受できる関係性づくりが必要
―そういうところまでトップが考えないと、やはり組織全体としては維持・発展していかないですよね。
同じ会社だからと言ったって、ライバル意識もあれば、足の引っ張り合いもあるわけです。
それは、部分最適と全体最適なんですよ。「東北大出身者が皆、力を合わせてやっていけ」と言ったとしても、恐らく「何のために力を合わせる?」となる。なかなか実感が持てない。個々人は部分最適を考えていると思うのです。そこに全体最適があるのか、ということなのです。
全体最適とは、先程の「同窓生である」という保証書の価値が上がることなのです。東北大学の価値が上がる。皆で価値を上げよう、上がれば、自分も配当を得られる、そのような関係に持っていかないと、なかなか実感がないですね。
何もしないと、全体最適の視点を持つのは、同窓会の会長や理事だけ、ということになってしまう。そうではなく、あまねく会員メンバーも、全体最適というものが享受できるような関係性をつくらないといけないんじゃないですか。
◆ 全体最適を成立させるには
―「部分最適と全体最適」は、私にとっても起業した学生当時からずっと重大なテーマです。中鉢さんは、どのようにお考えでしょう?
「全体最適」とは、損得で言えば、自分が損することを是とする考えで、「利他の心」と言ってもよいでしょう。それがないと、全体最適は成立しないと思います。「共通善」のような考え方をしないと、全体最適の実現は難しいでしょうね。
第3部 違和感の大切さ
◆ 嘘も本当も皆、情報
私が浪人の時、東京の大学にストレートで入学した高校の同級生が、夏休みに仙台に帰ってきて、「マクルーハンを知っているか」と言うのです。
マーシャル・マクルーハン(1911年~80年、カナダ出身の英文学者、文明批評家)は、要するに、メディアが伝えることもまた、ひとつの情報になると論じた学者です。それが今のプロパガンダにもつながっているわけですね。
ですから、本当の情報とは?と言うと、嘘も本当も皆、情報なんですよ。それを見極める目をどう教育するかは、難しいですね。
僕は、「私は客観的に伝えることを旨としている」という人間は何か信用できないと感じます。ですから僕は周囲の人に、「自分は世界一の嘘つきだ。筋金入りの嘘つきだから、覚えておくように」と言っているのですよ。言われた方も困るでしょうが...。(笑)
―それは、「自分の頭できちんと判断しろ」って、逆に言ってもらっているわけですよね。そう言ってくれる方が、親切だと思います。
◆ 懐疑と信念のバランス
―別に外国のことをよく知っているわけではないですけど、特に日本人って、まず先生とか絶対的に上の立場の人がいて、「その人の言うことは全部、客観的に正しい」という意識が強過ぎるから、それを前提とせずに、自分の頭で考える思考の訓練を全然やったことがない、というのはすごく感じますね。
どうすればいいと思いますか?
―それは中鉢さんも仰っていたように、客観的に正しいものが、ひとつひとつ、そこに絶対的に存在しているわけではない、という前提を認識することが必要だと思います。あくまで、ある人間が対象を切り取った認識の結果でしか無い、という。例えば、日常でも、たとえ同じ言葉であっても、どの前提かによって意味が全く変わるという前提を認識した上で、物事を判断する必要があると思います。
それでは、随分、懐疑的になって、何も信じられなくなってしまうのではないでしょうか。皆疑うと懐疑的になって、皆信じると狂信的になる。懐疑と信念、そのバランスの上に立って判断しないと、物事がわからないと思います。
これは恐らく、哲学の世界の「疑っているのは自分だ、それだけは疑うな」みたいなもので、疑っている自分自身まで疑うと、わけがわからなくなります。
―「我思う故に我あり」ですね。
そう、我思う故に我あり、なんですよ。それ以外は無いんです。でも日常、そういうことを考えて生活することはできないですよね。
―今はあまり日常的には考えなくなりましたけど、冒頭で話題になった18歳の頃は、そういうことばかり考えていました。自分はどうしてこう考えるのだろうとか、それは本当に正しいことだろうかとか、自分は何を信じられるのかとか。その自分が思うこと、「考えよう」と思う動機そのもの、「自分の意思」と思っていることは、そもそも一体どこから来ているのだろう?とか。そういうことが18歳当時は一番重大なテーマでしたし、別に何か目的があって考えていたわけではなかったのですが、今になって思えば、そういうところが自分の基盤になっているのだと感じます。
僕も考えていました。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」的にね。
会社だと最近は「パーパス」(会社の最も根本的な存在意義や究極的な目的、全体の指針)と言いますね。存在意義なんです。あなたは何者だ?What are you? その後にメッセージがある。そのために、あなたは何をやるのか。最後はビジョン、あなたはどこへ行くのか。
それは法人であれ、個人であれ、問われるわけです。
◆ 違和感に正直であること
―中鉢さんはずっと、ご自身や他人、物事に対して真摯に向き合っていらっしゃったのだなと、改めて感じました。
疑いっぽいだけですよ、僕は。「なんか変だな、しっくりこないな」というこの違和感ね。第六感みたいな。ここに一番、いろいろなヒントがある気がするんです。
その違和感を、「自分の性格だから」とそのままにしておくと、後で"しっぺ返し"が来る感じがしているのです。必ず、その違和感は顕在化してきます。
私は、その違和感を覚えながらもスルーすることは、生き方として誤魔化しだと思います。「ジャマイカ」の世界。考えてもキリが無いから、「じゃー、ま、いいか」(笑)。でも必ずどこかで、つけが来るんです。
商品開発をする時も、「100点ではないけど、ま、これが問題になることはないだろうな」みたいなところが、その後に問題になったりする。これは、やっている人でないとわからない。
―だいたい問題が起こるのって、その違和感のところですものね。中鉢さんは、違和感をセンサーとしてずっと大切にされてきたのですね。
己の違和感に対して正直でありたいと思うわけです。
それで、その違和感を共有し合えば、リアリティが出て、話が面白くなる気がするのです。話してみると、私だけでなく、他の人も結構思っていたんだな、ということを感ずるわけです。
―いつも中鉢さんのことを密かに「切り込み隊長」と心の中で呼んでいるのです(笑)。自ら最初にやってみせるので、他の人も「あ、本当のことを言ってよかったんだ」と、安心して遠慮なく発言できるのだなと、いつも見ていて思います。
柵を超えて見せないと、皆、柵を超えないわけです。ただ、「あなた、若い時にそういうことをやれましたか?」というと、そうではないわけです。自分には、この違和感は、きっと他の方にもあるに違いないという計算が、ある程度あります。
―クリティカル・シンキングだけでなく、コモンセンスも同時に必要ということですね。
心の底のまた底みたいなところを共有し合わないと、本当の絆ってないな、って感じがするのです。そういうものが、世代も超えた、これからのテーマのような気がします。
―今回、具体的なテーマとしては「同窓会」が切り口でしたが、中鉢さんが人そして社会に対して何にリアリティを感じているかを改めて伺いました。「己の違和感に正直でありたい」という芯をずっと持ち続けることと、他人と「本当の絆」を構築していくこと。いずれも、人生の主軸となる大切なものですが、それを両立させることは、決して簡単なことではないと思います。そのバランスを取りながら、実践されてきたプロセスが、中鉢さんという方を形づくっているのだと改めて感じました。「同窓会」の今後あるべき姿に対しても、多くのヒントをいただけたと思います。中鉢さん、本日はどうもありがとうございました。